のために跡部邸に用意されたのは、立派な居室だった。彼女の住処であるアパートよりずっと豪華だ。マンションの一室かとみまがうほどだった。
は愕然として部屋を見回した。オフホワイトを基調としたインテリアで構成された、ゆったりとした空気の流れる空間だった。居心地はすこぶるいい。
ただ
には長居をするつもりはなかった。荷解きはあえておこなわず、ドアの横にスーツケースを置いた。
住むつもりはないが、好奇心は掻きたてられた。彼女は室内を探検し始める。居間の右手と奥にドアがある。右手のドアを開けると、水まわりとトイレが存在した。しかも風呂とトイレはセパレートされている。居間に引き返し、奥のドアの先へ立ち入った。今度は寝室だ。日々の暮らしに必要なものはなんでも見つけられた。
は跡部邸の豪奢さに舌を巻いた。てっきり学生寮の一室のような、手狭なワンルームをイメージしていた。食料と消耗品さえ供給されれば、この空間だけで一生を過ごせそうだった。
「
様、まもなくお食事でございます」
ドアをノックされ、対応に出ると、ミカエルが再び姿を見せた。
「まだお荷物は片付いていないと存じますが、冷めてしまうといけませんので、ぜひ先にお召し上がりください」
「わかりました。ご馳走になります」
は了解した。抵抗しても仕方がない。ミカエルの言うぼっちゃんが満足するまで付き合うことに決める。
ドアを閉め、事前に預かったカードキーで施錠をする。まるでホテルのような設備だ。
跡部家は広大で、食堂までしばらく歩かされた。どこをどう歩いたのか、
にはさっぱりだ。ひとりで部屋に戻れといわれても、きっとできない。
両開きのドアの先に足を踏み入れると、披露宴会場かと突っ込みたくなる、巨大なホールが眼前に広がった。天井からはシャンデリアの光が、雨となって降り注ぐ。
面食らって足を止めてしまった
に、ミカエルは振り返って説明を与えた。
「ここは晩餐会に使われる大ホールでございます」
晩餐会?
は首を傾げた。無論、言葉の意味はわかる。理解が追いつかないだけだ。跡部邸にとっての当たり前が、彼女にとっては現実感を伴わないことばかりで、当惑せずにはいられなかった。
「ぼっちゃんはあちらでございます」
ミカエルが案内したのは、大ホールの右手にあるひとつめのドアだった。大ホールにはほかにもいくつもドアがあったが、
にはとっさに数えられなかった。
連れられた先にはレストランの個室ほどの広さの部屋があり、その中央に置かれた円卓の前に跡部景吾が腰掛けていた。
「苦労をかけたな、ミカエル。あとの給仕はほかにやらせる。下がっていいぞ」
跡部は
に声をかけるより先に、ミカエルをねぎらった。
ミカエルはかしこまり、姿を消した。部屋の奥から数人の使用人が現れ、そのうちのひとりが円卓の椅子を引いた。
を見上げる。
「どうぞおかけくださいませ」
「あっ、はい、すみません!」
はあわてて席につく。ひとに椅子を引かれ、座らされるのは、生まれてはじめてのことだった。レストランといえば、彼女の中ではファミリーレストランが真っ先に思い浮かぶ。高級店で食事をした経験などない。
円卓はふたりがけだった。食事のあいだはふたりになるのだろう。
は食欲が減退するのを感じた。テーブルの真ん中に備えられた白薔薇に気づいて凝視する。もちろん造花などではなく、生花だ。
「部屋はどうだ?」
がおびただしいほどの場違い感に襲われるのをよそに、跡部は平然と問いかけた。
「足りないものがあれば、ミカエルに言え。大抵のものはすぐに用意できる」
「いえ……大丈夫です」
本当は結構ですと言いたいところだった。使用人が淡々と食事の用意を進める。
が入室してきたドアとはまた別のドアがあり、厨房へ繋がっているのだろう。そこからまず飲料とグラスが運び込まれた。
「炭酸水でございますが、よろしゅうございますか?」
「は……はい、もう、なんでも」
は緊張のあまり、どもりながら同意した。何もかもがふだんの生活とかけ離れている。神経が焼き切れそうだった。
瓶から炭酸水が垂らされ、グラスへ注がれる。跡部がグラスに口をつけるのを待ってから、
も炭酸水を飲んだ。舌の中で泡が弾ける。
喉が潤ったところで、彼女は背筋を伸ばした。跡部に話を切り出そうとする。
「あの」
「前菜でございます」
使用人が皿を置いたので、話の腰が折られた。跡部にも
の声は届かなかったようだ。ひとまず、目の前の広い皿をながめる。パイ生地に黒い何かの欠片が散らされている。
「パイのトリュフ添えでございます」
使用人が説明を述べ、円卓を離れた。跡部は器用にナイフでパイを二等分にし、口へ運んだ。
も見よう見まねで手を動かすが、がちゃがちゃと食器が音をたてるばかりだった。パイ生地になかなか刃が入らない。
彼女は顔から火が出そうになった。さぞ呆れられたにちがいない。そう確信して跡部の様子をうかがうと、彼は目をつむって息を漏らした。見たくもない無様な光景ということだろうか。
は気落ちしてまつげを伏せる。
「フォークでちゃんと押さえろ。力任せに割ろうとするな」
アドバイスをくれたのだと気づくまでに、彼女は少しの時間を要した。あわててフォークを持ち直し、言われた通りにする。しかし、パイは皿の上を跳ねるばかりで、なかなかふたつに分かれてくれない。見かねた跡部は立ち上がった。円卓をまわり、
の背後に立ち、唐突に両手を重ねた。
骨ばったてのひらの感触と、はじめて接する男の体温に、彼女は激しく動揺した。本来なら手を跳ね除けるところだ。だがそれすら忘れてしまうほどに、跡部の所作はスマートだった。
「ナイフをもっと前後に動かせ。……こういうふうにだ。慣れたらここまでオーバーにしなくてもいい」
語りかけてくる声を聞くうちに、パイ生地はすっかり二等分されていた。跡部に触れられたのはほんの束の間だった。
彼はすぐに自分の席へ戻った。彼にとってはなんでもないことなのだ。意識するほうが却って恥ずかしい。
そう自らに言い聞かせ、
も早速、パイを拾い上げた。くちびるの奥へ放り込む。パイ生地の層が歯にあたるたび、口内でさくさくと軽やかな音が響く。
「美味いか?」
跡部はグラスを傾けながらたずねた。
はパイが口の中にあるため、とっさに答えられない。ぶんぶんと大きく縦に首を振った。彼女がうなずくのを見て、跡部も満足そうに瞼を下ろした。パイで口が塞がっているため、口がきけず、
はなんとはなしに室内に目を巡らせた。天井には大ホールのものよりも小ぶりなシャンデリアがあり、壁には絵画がかけられている。
使用人がスプーンに盛られたスープを運んでくる。
はここでの暮らしに思いを馳せた。ふだんの生活とは天と地ほどの差がある。食事ひとつにしてもそうだ。調理も配膳も自分たちで行う。だがその優雅な暮らしぶりを、羨ましいとは感じなかった。こんな生活に身を置けば、自分で何もできなくなりそうで、怖かった。
それに、と彼女は思案をめぐらせながら、改めて円卓を見まわした。跡部の家族がこの席にいないのが気にかかった。スプーンを飲み込んでから、意を決してたずねる。
「ご家族はまだ帰ってないんですか?」
「ああ」
跡部はうなずいた。跡部財閥の人間ともなれば、皆なんらかの予定や仕事が詰まっていて、遅くまで帰らないのだろう。
はそう予想したが、実際はちがった。
「祖父も、父も母も、それぞれ別の国に滞在している。次の帰国は未定だ」
跡部の淡々としたくちぶりに、
は衝撃を受けた。跡部家のスケールの大きさにももちろん驚かされた。だがそれ以上に、家族の不在をこともなげに語る跡部に、彼女は強いショックを感じたのだった。
その一方で、彼が使用人を家族と呼ぶのは、本当の家族と触れ合う機会が少ないためではないか、との考えを脳裏によぎらせる。本題を言い出せないまま、食事は華やかに進行してゆく。魚料理が届き、それが消えるとソルベが訪れ、肉料理が続く。
「あの、お話があるんですけど」
デザートが並べられたときになって、
はようやく本題を切り出す決意を固めた。
彼女が姿勢を正すのを見て、跡部もフォークを置いた。
「なんだ?」
「母がいない間、ここで暮らすというお話なんですけど」
「ああ」
「やっぱり、自分の家で暮らしたいな……と思いまして」
跡部は息をついた。再びフォークを手に取り、デザートを食べ終える。炭酸水を口にふくんだ。
にも視線でデザートに手をつけるよう促す。彼女が食べ終えるのを待ってから、おかしそうに笑みを浮かべた。
「お前はなかなか曲げねえな。……わかった」
ようやく納得してくれたのか。彼女はそう考えて安堵した。しかしそれは早合点だった。
「お前の家にSPを配備する」
「そ、そんなの困ります!」
話が予想だにしない展開になってしまった。あわてふためいて立ち上がる。椅子が床に擦れる音が響き、使用人がやってきた。
跡部は「なんでもねえ」と使用人に告げ、厨房に引き上げさせる。またふたりきりになった。
跡部は目じりに笑みをふくんで、
を見上げた。
「お前は何かあるとすぐ立ち上がるな。落ち着きのねえ女だ」
夕食前に、ソファから立ち上がったことを指して言ったのだろう。
狼狽する
とは正反対に、跡部は背もたれに身を委ね、すっかりリラックスした様子を見せた。使用人が頃合いを見計らい、食後のコーヒーとチョコレートを運んでくる。砂糖とミルクは
の目の前にのみ並べられた。
跡部はといえば、当然のようにブラックのままカップを傾け、豆本来の酸味と香りを楽しんだ。
その悠然とした態度を見て、
は急にひとりで騒ぐのが恥ずかしく感じられた。いったん腰を下ろす。
跡部はほほえましげに歯を見せた。
「素直なやつだな」
が大人しく席に戻ったことを褒める。ともすればバカにしたとも思われかねない言い回しだったが、不思議と彼女には不快に聞こえなかった。跡部の育ちのよさがそうさせるのだろう。
彼はコーヒーをソーサーへ戻し、話を続けた。
「だいたい、お前の母親からもよろしく頼むと言われちまってるし、お前が駄々をこねるからといって、はいそうですかと放り出すわけにもいかねえ」
は首を傾げた。聞き捨てならない話を耳にした気がする。あまりに意外なワードだったので、反応が遅れてしまう。卓上に両手をついて、大声で聞き返した。
「え? お母さんこの話知ってるんですか?」
「あん? 当たり前だろ」
「そんなことはじめて聞きました! なぜ言ってくれなかったんですか?」
入院中の母を電話で呼びつけるのは憚られたので、次に見舞ったときに話そうと考えていた。ついなじる口調になった
に、跡部は気を悪く様子も見せずに反論した。
「お前も聞かなかっただろうが。とっくに母親から聞いてると思ったんだよ」
は言い返す言葉を見つけられず、黙り込んだ。彼女が母と話していないのは、あくまで彼女の問題だ。跡部には関係がなかった。
「それで、どうするんだ。ここに住むか、マンションで暮らすか、家に戻ってSPをつけるか」
そう決断を迫った後で「選択肢が三つもあるんだ、十分だろ」と跡部はうそぶいてみせた。
はどれも選ばないと宣言しようとして、跡部にまなこを据えた。彼のほうでも見返してくる。そのサファイアのきらめきが、彼女の判断を鈍らせた。しばしの沈黙が流れる。
跡部も答えを急かしはしなかった。腕を組み、
の発言をじっと待つ。
彼女が口を押し開く寸前に、さきほどの大ホールが唐突に浮かび上がった。巨大な空白を抱えた無尽の光景が、跡部の内にも広がっているのかもしれない。手の甲にさきほど触れられたときの体温が、いまだ残っている気がした。
「……ここでお世話になります」
気がつけばそう口にしていた。自分を家族と呼んだ跡部を、徹頭徹尾拒絶することはできなかった。
彼は「そうか」とだけうなずいたが、心なしか嬉しそうに見えた。そのまま立ち上がる気配を見せたので、
はあわてて引き止めた。
「待って。条件……というか、ここで住むにあたって、お願いがあります」
「交渉には応じる、と言ったからな。聞いてやろう」
跡部はまたうなずいて、話に耳を傾けた。
「私を母の代わりに、ここで働かせてください」
「……は?」
急な申し出に、彼ははじめて超然たる態度を崩した。突然の事態に言葉が浮かばない様子だった。
はひとしれずほくそえむ。跡部の仮面を割り、素顔を暴いた気になって、小気味よかった。跡部を見下ろしたい気持ちが働き、立ち上がった。今度は椅子の音は立てなかった。
「私は根っからの庶民だから、毎日こんな生活は出来ないです。でもお母さんも心配するし」
あなたが家族と私を呼んでくれたから。その言葉は省略した。気恥ずかしくてとても言えない。跡部のような強靭な精神は到底彼女には持ち得なかった。
「何より、お母さんの入院でご迷惑をかけていると思いますので、私が代わりに働きます!」
が宣言を終えるころには、跡部も平常心を取り戻した。醜態を挽回するかのように、眉を上げ、気取った表情を浮かべる。
「お前が使用人になるだと? お前に何が出来るんだ?」
「毎日、母の手伝いをしてました。炊事、洗濯、掃除、どれも出来ます」
跡部はしばし黙り込み、深く考え込んだ。
は注意深く目を凝らし、彼の様子をうかがったが、青い瞳からはどんな感情も見出せなかった。ただ意志の強さを思わせる、鋭い光がちらつくのだけが見える。
跡部はふいに笑い出した。うなじを反らし、喉をあらわにして、手を打つ。
「面白れえ。お前みたいな物怖じしない女は嫌いじゃない」
跡部は流れるような動作で立ち上がった。ポケットに手を入れ、あごを上向けると、急にいかめしい顔つきを浮かべて、
を凝然と見下ろした。シャンデリアから光を浴び、陰が浮かび上がって、彼の隆起した形のよい鼻や、日本人離れした顔立ちがいっそう強調される。
「ただし、母親の代わりをするなんざ、二度と口にするな。ウン十年早いんだよ。お前の母親はこの家に長年勤めてきたベテランだ。炊事洗濯掃除だけが母親の仕事じゃだと思ってんじゃねえぞ、アーン?」
叱責に近い台詞だったが、口調は穏やかだった。
正論を浴びせられて、
はとっさにうつむく。母の仕事はそんなに易しいものではない。思い上がりを指摘された気分だった。
「お前はお前の仕事をすりゃそれでいい。ミカエルには話を通しておく」
跡部は「働くのは明日からだ」とつけくわえ、
の隣りを横切った。大ホールへ出てゆく。
およそ学生らしからぬ振る舞いに圧倒されるばかりで、礼を言い忘れたのに
が気づいたのは、跡部の姿が見えなくなったあとのことだった。