翌朝、は制服を着て部屋を出て、跡部邸のエントランスに向かった。
「おはようございます」
 昨日の運転手が車庫から出てくるのが見えたので。から挨拶をした。当初は彼の運転する車で通学する予定だった。もちろん帰りも彼女の下校時間に合わせて、車がまわされる。
「俺は部活でお前より早く出るし、帰りも遅くなる。新たに運転手を抱えるわけでもねえから気にするな」
 そう跡部から説得を受けたものの、級友から変に注目されたくない気持ちが強い。リムジンでの登下校は校則に反しないのか。そんな考えがちらっとの脳裏をよぎった。だが校則を理由に反論しても、リムジンで通学する人間の理解は得られない。
 はせっかく自分には健康な足があるのだから、電車で通学したいと申し出た。本件については跡部が譲歩する。ただし遅くなるときは事前に運転手に連絡を入れ、迎えにこさせるという条件付きがつけられた。
 今日の授業をすべて終えたは、まっすぐ跡部邸へ帰る。本当なら母を見舞いたかったが、今日から仕事を始める約束だ。勝手に帰宅を遅らせるわけにはいかない。どういう意図で跡部と合意したのか、それを母に一刻も早く問いただしたかった。見舞いの日程はミカエルにかけあうことに決め、揺れるつり革をつかんだ。
 が跡部邸に戻ると、若い女の使用人に出迎えられた。
「お帰りなさい。今日からよろしくね」
「はい、です。これからお願いします!」
「早速だけど、これに着替えてきてちょうだい」
 黒のワンピースと白いエプロンを差し出される。ちょうどいま女が着ているのと同じ服だった。彼女はミカエルの言いつけで、を待っていたのだ。
 は承知して、いったん部屋へ引き上げた。鞄を置き、更衣を済ませる。メモとボールペンをエプロンのポケットに忍ばせた。エントランスへ戻ると、女の姿はすでになく、代わりにミカエルがいた。から声をかける。
「おはようございます」
「おはようございます。ぼっちゃんよりお話はうかがっています」
 ミカエルは金色の眉を下げ、優しげな表情を作った。
「今日からお母様の代わりに、当屋敷で働きたいとか。大変、結構な心の持ち様です。では参りましょうか」
 歩き出しながら、数歩遅れてついてくるを振り返る。
さんの勤務時間は平日の五時から十時です」
 ミカエルはへの呼称を様からさんへ改めた。もはや彼女は客人ではない。それは彼女自身が望んだ扱われ方だ。
「勉学に差しさわりが出てはいけませんので、土日はお休みとします」
「はい」と相槌を打ちながら、は早速メモに勤務時間を書きつける。
 彼女の業務は自然と限定される。炊事は専任の料理人がおり、夕方から洗濯をする機会は少ない。従って配膳や食器の後片付け、掃除が主な仕事になった。
「あの……私の母はどんな仕事をしていたんですか?」
 はふと気になってたずねた。母からはやりがいがあり、楽しい仕事だと聞かされただけで、業務の中身をつまびらかにされたことはなかった。
「あなたのお母様は使用人頭ですから、使用人のシフト管理と教育が主なお仕事です」
 は仰天してボールペンを取り落とした。あわてて拾い上げる。
 跡部邸でのポジションを聞いたことはなかったが、家庭でののんびりとした姿から、母は一介の使用人に過ぎないと決め込んでいた。母の代わりなど務まらなくて当然だ。母の仕事は単純作業ではなく、立派なマネジメントだった。
「……でも、それじゃ、いまはだれが母の代わりをされてるんですか?」
 自分が勤めたところで、母の穴埋めはできない。それならば入院中の母に代わって、だれかがその役割を担わなければならないはずだった。
 ミカエルは困った様子で眉根を寄せた。皺の浮かぶ頬に疲労感が滲む。
「わたくしが務めております」
「……でも、それじゃ、ミカエルさん大変じゃないですか。跡部さんのお世話もあるのに」
 彼はためらいがちにうなずいた。額を伏せ、手で覆い隠す。
「私の本来の役目は、主人であるぼっちゃんのスケジュール管理と使用人頭であるあなたのお母様の監督でございます。しかし、わたくしの直属の上司である執事長が、跡部家当主に随伴したため、家財の管理をふくむ、この跡部邸の一切を取り仕切らねばならない現状でございまして……」
 は暗い気持ちに支配されて、うなじを垂らした。後悔の念がこみ上げる。
「私、結局、ミカエルさんに却ってご迷惑をおかけしているんですね。働きたいだなんてわがまま、私が言ったせいで……」
 ミカエルはあわてて顔を上げた。に歩み寄り、肩口を優しく叩く。
「それは思い違いですよ。いまの私に余裕がないのは確かですが……だからこそさんが働くことを私も承知したんです」
 はきょとんとした顔つきを浮かべた。ミカエルの言う意味がいまひとつ理解できない。
 しかし、彼は笑みを大きくして「話はこれくらいにしましょう」と話を打ち切った。質問は許されない雰囲気だった。
 も思考に整理をつけ、仕事に取りかかる。
 ミカエルがいつまでもそばにつくわけではない。彼はすぐに姿を消し、代わりの使用人が現れた。からすれば先輩にあたる人物だ。その指導を受けながら、は刻限まで汗水を流して勤労に励んだ。

「そうか、働きぶりは悪くねえか」
 ミカエルから報告を受けた跡部は、感心した様子でつぶやいた。居間のソファに長身を委ね、ミルクティーの湯気を顔に浴びる。
 ミカエルはかしこまって口を開いた。
「はい。さすがはでございます。家庭でも厳しく躾けておったのでしょう。要領がよく、順序良く仕事に取り掛かる癖がつけられております」
 ミカエルがと呼ぶのは、無論、のことではない。いまは療養中の使用人頭である彼女の母である。
「そいつは褒めすぎだろう。たった一日で何がわかる? せめて一週間は待て」
「恐れながら、それは杞憂かと存じます」
 跡部はふん、と鼻を鳴らした。熱いミルクティーを口にふくむ。アッサムの香りがたちこめた。
「杞憂かどうかはお前が判断することじゃねえ」
「はい。ぼっちゃんが判断なさることでもございませんな」
「その通りだ。使用人の人事権は、あくまで使用人頭に属する。が決めることに俺たちが口を挟む道理はねえ」

 ミカエルは今日の日中、には秘密で病院を訪れた。彼女が跡部邸で使用人を勤めたいという話を、彼女の母に相談するためだった。
「跡部家でお世話になるだけでも恐れ多いのに、これ以上ミカエルさんにご迷惑をおかけすることなんてできませんよ」
 母親は最初、あくまで母としての視点から固辞する意向を見せた。しかし、ミカエルがある計画を吐露したところ「そういう考えをミカエルさんがお持ちなのでしたら……」としぶしぶ前向きになった。
 ひそかに暖める計画に実現性の光がきざし、いまにも小躍りし出しそうなミカエルに、母は一転して厳しい声を投げた。
「しかし、条件がございます。跡部家で働く以上、いくら私の娘だからといって、人材の質を問わないわけには参りません。一週間の試用期間を設けてください。そこで使用人にふさわしくないと判断すれば、即時解雇といたします」
 長年、跡部家を運営してきた、使用人頭としての矜持が垣間見える言葉であった。これにはミカエルも同意せざるを得ない。
 だが年の割にはしっかりとした娘のようだし、何より跡部との相性も悪くなさそうだ。
 が使用人を志願した話を聞かされたとき、ミカエルの内である野望が芽生えた。それはなんとしても実現させねばならない。できないときは病人がひとり増えることになる。それは跡部家にとっても由々しき事態だった。
 それに、とミカエルは小さな悪巧みを胸裏に瞬かせた。使用人頭がの採用の可否を決めるといっても、病室からすべてを見通すことなど不可能だ。当然、働きぶりを報告するミカエルの話し方に、使用人頭の心証は大きく左右される。であれば、決定権を持つのは事実上彼自身だといっても過言ではない。

 無論、そのような考えはおくびにも出さずに、ミカエルは目の前の跡部に微笑みかけた。
 金曜日までにどうにかを半人前程度の使用人に仕立てる必要がある。でなければ肝心の計画が実行に移せない。

 ようやく一週間が終わった。土曜日の朝は、いつもより少し目覚めるのを遅らせた。彼女にとってははじめての労働で、しかも五連勤だ。勤務中は気力で身体を動かしたが、やはり休日になると緊張が途切れてしまう。
 だが一日怠惰に過ごすわけにもいかず、跡部邸にくるまで平日にしていたことを片付け始めた。
 午後になり、昼食を終えた彼女は、病院へ向かった。跡部家の車には頼らず、自分の足と電車でたどり着く。本当は学校にも自力で通いたかったが、交通の便が悪すぎた。病室を訪れると、母親が笑顔で迎えてくれた。体調がよさそうなのを見て、はほっと息をつく。
「元気そうだね」
「うん、今日はね」
 挨拶もそこそこに、彼女はずっと言いたかったことを切り出す。
「お母さん、私いま、跡部さんの家でお世話になってるんだけど」
「ええ、知ってるわよ」
 予想通りの反応だった。母は平然とうなずく。
「どうして勝手に決めちゃうの? 私は別にひとりで平気なのに」
「そう言うと思ってたから、には言わなかったのよ」
 母にはすっかり見抜かれていた。
「今回の件とは関係なく、もともと、ぼっちゃんには母子家庭なんて危ないから、跡部家にくるようにずっと誘われてたの。でも、ずっとってなるとに相談しないわけにもいかないし、公私の区別もつけたいから、お断りしてたんだけど……今回、私が倒れちゃったからね。ご厚意に甘えることにしたの」
 は仰天して、腰掛けたばかりの椅子から立ち上がった。
「え? ずっと跡部家で暮らすの!?」
 母親は目を丸くした。続けてぷっと噴きだす。堪えきれない様子で笑いだした。
「バカね、そんなこと言ってないでしょ。もちろん、私が退院するまでのあいだよ。……二ヶ月くらいかな?」
 短いようで長い時間だ。は母の不在を寂しく感じたが、病床の母に心配をかけるわけにはいかない。無理して明るい態度を装った。
「ところで」と母が改まった様子で切り出した。背筋をぴん、と伸ばす。もつられて真面目な顔つきになった。姿勢を正して、母の二の句を待つ。
、跡部家に出仕することにしたんだって?」
「もう聞いたんだ?」
 いつ伝えようかタイミングを見計らううちに、母から水を向けられてしまった。
「当たり前じゃない、私は使用人頭なんだから。月曜日にはもう聞かされたわよ」
「そう! それ! なんで仕事のこと何も教えてくれなかったの?」
 は思い出して怒り出す。母は自分のことは多くを語ろうとしない性質だった。
「使用人頭だったなんてはじめて聞いたよ」
「なんで教えないといけないのよ。家で仕事の話は極力したくないの。公私をきっぱり分けたいから、跡部家でお世話になることも断ってたんじゃない。お世話になってたらいまごろ家賃が浮いて浮いて、貯金で銀行口座があふれかえってるわよ」
 それはいくらなんでも誇張しすぎだったが、筋の通った話ではある。
 はしかたなく矛をおさめた。母親がぼそっとつぶやいて、つけくわえる。
「私の話なんかしてられないわよ。の話を聞くことのほうが、ずっと大事だもの」
 確かに自分の話はしないくせに、のことはなんでも知りたがった。学校のことや友人のこと、恋人の有無まで根掘り葉掘り聞きださそうとした。
 がうっとうしく感じることも多々あったが、それは母の愛の証だった。限られた時間を、自分の仕事の話などより、娘の現状を確かめ、大切に養育することに使いたい。そういう信念に基づいた行動だったのだと、いまさらながら思い至る。
「それで、仕事の調子はどうなの? を継続して雇うかどうかは、今日電話でミカエルさんからの勤務態度を教えてもらって、私が最終決定することになってるから」
「何それ?」
 これも初耳だった。
「私、今日でクビになるかもしれないってこと? まだ五日しか働いてないのに?」
「当然じゃない、試用期間よ」
 雇用の継続についての話を伏せられたのは、いくら親子でも心外だ。その意思をあらわにし、抗議するだったが、母にすげなくあしらわれた。
 母はふとんの上にかけてあった膝掛けを肩にまとった。枕頭台の引き出しを指差す。
「そこにの雇用契約書があるもの。私が保護者として代理でサインしたから」
 はあわてて引き出しを開けた。母の言葉どおり、一通の書類が入っていた。細かい字が大量に並んでおり、つぶさに読み込むのは時間がかかりそうだったが、最後の署名欄だけはすっと目に入ってきた。
 珍妙なことに、被雇用者と雇用主の双方の欄に母の名前がある。ただし被雇用者のほうには、母による代筆である注釈が添えられ、真下に自身の名前も記されてあった。
「当然じゃない」と母は繰り返し語る。
「使用人の人事権を持ってるのは私なんだから、私が雇用主よ。もし、試用期間が明けても跡部家に勤めることになったら、これからは母としてだけじゃなく、上司としても私を敬いなさい」
「お母さん、そんなにえらかったんだ……」
 は唖然として固まった。跡部邸に何人の使用人がいるのかは不明だが、その全員を母が統率しているとは、新聞の折り込みチラシのチェックに余念がないふだんの姿からは、およそ想像がつかなかった。
 母は得意げに胸を張った後、穏やかな目つきで娘を見た。
「何かあったら相談には乗ってあげるから。……ただ、母親に相談を求めるのか、上司に相談を求めるのかは、ちゃんと前もってはっきりさせなさいよ。それによってコメントが大幅に変わってくるからね」
 そう茶化してみせる。あくまで使用人頭として、どこか突き放した応対に終始するが、母親としては娘の活躍を祈る気持ちに偽りはない。かといって試用期間で契約を打ち切るかの判断に手心を加えるつもりもまたない。
 その期待と冷静さの相反する母の気持ちが伝わり、は緊張した面持ちを浮かべた。本意ではない形で始まった跡部邸の生活だが、使用人として働くことを選んだのは彼女自身だ。せっかくなら認められて、母の退院まではしっかり勤め上げたかった。

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