は病院の帰りにスーパーへ寄り、買い物をし、夜は自室で自炊をした。醤油を入れすぎたかもしれない、と後悔しながら食べ終える。
料理人が作るまかないもあったが、休みの日は自分で料理をすることに決めたのは、彼女自身だった。平日は勤務が明けるのが十時と遅いため、ありがたくまかないの提供を受けた。
食事を終え、後片付けをするところへ、ドアの呼び出し音が鳴った。
はスリッパの音をたてながら、応対に向かう。たずねてきたのはミカエルだった。
「お休みの日に申し訳ございません。お話がございますので、ぼっちゃんの部屋まできていただけますか」
用件は明らかだった。本採用についてだろう。
は表情を引き締めた。ドアの施錠を済ませ、ミカエルについてゆく。一歩踏み出すたびに心音が大きくなる気がした。もし試用期間で解雇になってしまったら、跡部邸にはいづらくなる。
かといって、使用人になれないなら出て行くと言い出せば、跡部はきっとSPを配備するだろう。なんとしても合格したかった。
跡部は初対面のときとまったく同じ体勢だった。ソファに腰掛け、優雅に足を組んでいる。コーヒーカップが手にある点まで同じだった。
「ぼっちゃん、お連れいたしました。もう、
さんにもお話ししてよろしゅうございますな?」
跡部は返事をしなかった。黙ってカップをソーサーへ置く。ミカエルを見ようともしない。明らかに機嫌が悪そうだった。
の胸中に不安が到来する。自分の仕事ぶりを認めてもらえなかったのではと危惧した。
ミカエルは苦笑いする。
「ぼっちゃん、そのようにご機嫌を損ねられては困りますぞ。このミカエルと話し合って決めたことではございませんか」
「わかってる、文句はねえよ。粛々と話を進めろ」
「はい、ではそのように」
跡部の指示を受けて、ミカエルは頭を低くした。
を振り返る。
「
さん、お母様から試用期間の件はお聞きになったことと存じますが」
「はい!」
食い気味に返事をする。はやる気持ちをどうにも抑えられない。
跡部が仏頂面を作るのをつい忘れて、笑いを噛み殺した。
「ぜひ、月曜日からも当屋敷で働いていただければと存じます」
の表情がぱっと明るくなった。口を挟まず、様子をうかがう跡部はひそかに感心する。彼女が笑うだけで、部屋を模様替えしたかと紛うほど、雰囲気が様変わりする。けして高級品ではないが、質のよいキャンドルライトに火が灯されたかのようだった。
「こちらこそよろしくお願いします!」
は腰が折れそうなほど深々と頭を下げた。
あんなにここに住むことに難色を示した女の行動とはにわかには信じがたい。跡部はコーヒーを飲むふりをして、カップでこみあげる笑みを隠した。
「それで……ですね」
ミカエルが不安そうに眉を垂らす。
跡部をちらっと一瞥したので、彼はあわてて不満げな表情を取り繕った。ひとり話の見えない
が、心配そうに瞳を揺らす。
ころころと変わる表情がおかしくて、跡部はまた笑顔になった。今度は機嫌が悪いふりをして、横を向いてごまかした。
「
さんには今後、ぼっちゃんの身のまわりのお世話をお願いできればと」
「……はい!?」
寝耳に水とはこのことだ。
は驚愕して、ソファから立ち上がった。ぶふっと跡部が噴きだす。
とミカエルが振り返ったので、跡部はあわてて澄ました顔を浮かべたが、見つめられるうちに頬がこわばってくる。ついには我慢できず、堂々と笑い声をたてた。
「お前は本当に行動がワンパターンだな」
ははっと夕食を共にしたときのことを思い出す。あのときも感情がたかぶった拍子に立ち上がってしまった。穴があったら入りたい心地を感じて、すごすごとソファに収まりなおす。
一方のミカエルはふたりのやりとりを見て、確信を覚えた。
なら跡部とも上手く付き合っていけるだろうと。あとは彼女の同意を取り付けるだけだ。
「実は……先日もお話しましたが、
さんのお母様の入院により、私の業務が増大いたしまして、そろそろ抱えきれなくなってまいりました」
やにわに胸に手をあて、心労をこらえきれない様子を見せた。隠してきた心情を吐露するふりを演ずる。
ミカエルの計算よりも早く、
は両目に同情心をのぞかせた。
対照的に跡部はまたつまらなさそうに眉をひそめた。
「そもそも、ぼっちゃんの身のまわりのお世話は私の本来の仕事ではないのです」
突然の暴露に、
は目を丸くした。
ミカエルはずっと跡部に付き従っていた。だからこそそれがもともとの業務なのだと、彼女も認識していたのだ。
ミカエルは「これもお話したことですが」と話を続ける。
「あくまで私が跡部家に雇われておりますのは、主人であるぼっちゃんのスケジュール管理と執事長の補佐、そして使用人頭の監督のため。もちろん、まったくお世話をしなくてよいわけではございませんが、こまごまとしたことは、本来は使用人の仕事なのです。私がご幼少のころからお世話をし、ぼっちゃんも私をご信頼くだすって、頼ってくださるのは大変嬉しいことなのですが……使用人頭の代理も兼務するとなれば、話はまた別でございます」
ミカエルは遠慮なく明言した。
はいまの話をなるほどと納得しながら耳にした。
つまり、本来であれば跡部が長じるに従って、ミカエルは本来の役割に専念するはずだった。しかし、ほかの人間に自分の身辺を預けることを、跡部は嫌ったのだろう。この用心深い性格と、高潔な気性を考えれば、自然ななりゆきだといえる。
「だれでもよいというわけではないのです。しかし、ぼっちゃんも信を置く使用人頭を母上に持つ
さん、あなたであればきっと上手く事は運ぶに相違ないと私は考えております。どうぞ、私を助けると思って、ご承知いただけませんか」
は即答できない。ミカエルを助けたい気持ちは働いたが、跡部の意向が優先される案件だからだ。それに彼女は跡部家の使用人だ。仕える主人を彼女の一存で選ぶわけにはいかない。彼女に出せる答えはひとつしかなかった。
「それは跡部さん次第です」
ミカエルは深くうなずいた。彼女の言い分はもっともだ。次に跡部を見やる。
「構いませんな?」
跡部は空になったカップをソーサーへ置いた。かちゃり、と陶器の重なる音がした。
「それは
次第だ」
とまったく同じ言いまわしだった。ミカエルは意地を張る主君をほほえましげにながめたあとで、視線を
へ移した。
「では、現時刻をもって
さん、あなたはぼっちゃん付きとなります。新しい契約書はすでにお母様からサインをいただいております。土日はお休みの予定でございましたが、ぼっちゃん付ともなれば、なかなか固定のお休みは難しゅうございます。ですのでお休みは都度ご相談させていただくこととし、基本的には変則的かつ臨機応変な総労働時間制度を採用することとなります」
は小首を傾げた。ミカエルの説明がいまいち理解できなかったが、とりあえず「はい!」と元気よく返事をした。詳しいことは母に聞けばよいだろう、と安易に考えてしまった。
ミカエルは心底、安心した様子で部屋を立ち去る。
も続いてドアをくぐろうとするが、跡部に呼び止められた。
「
、コーヒーを淹れてくれ」
カップを持ち上げ、傾けて、中身が空だと訴えられる。
は「いまは勤務時間じゃありませんよ」と不満を述べた上で、テーブルに近づいた。言うことをきかないつもりはなかったが、釘を刺しておかなければ、際限なしに付き合わされそうだったからだ。
跡部は「あん?」と軽く
をにらんだ。
「お前、さっきのミカエルの話に同意しただろう。まさか、意味もわからずに請け負ったのか?」
「……そ、そんなわけないじゃないですか」
視線が泳いだのを、跡部は見逃さない。
「なら、なんの問題もねえな。お前は二十四時間、この俺様の専用メイドだ。呼んだらいつでも駆けつけろよ」
「……はい!? 二十四時間!?」
「変則的かつ臨機応変な総労働時間制度っていうのはそういうことだ、覚えておくんだな」
は顔面から血が引くのを感じた。くちびるがわななく。とんでもない労働条件を呑んでしまった。頭を抱えても、まさに後の祭りだ。彼女が後悔に苛まれる様子を見て、跡部は白い歯を見せた。意地悪な口調でつぶやく。
「もっとも、お前の同意は関係ねえがな。すでに
が契約書にサインしちまってるんだから」
そういえばそうだ、と
はすばやく顔を上げた。なんという契約書にサインをしてくれたのか。いま母が目の前に現れたら、衝動的に面罵し、呪いの言葉を投げつけたにちがいない。
苦悩で身もだえする
に、跡部は無遠慮な態度でコーヒーカップを突き出してくる。
彼女は無言でソーサーごとひったくった。
かなり無礼な態度だが、そんなことで目くじらをたてるほど、跡部は器の小さい男ではない。ただ澄ました様子で追撃をしかけてくる。
「サイフォンはそこだ」
広大な居間の端にキャビネットがあり、サイフォンと手動のコーヒーミルが置かれている。
はぎこちない首の動作で、ゆっくりと振り返った。ぜんまいの切れたからくり人形のような動きだ。
跡部はまたちょっと笑った。
がなんと言うか、手に取るようにわかる。
「……使い方を教えてください」
「まったく。手間のかかるメイドだぜ」
そうぼやきながらも、跡部の声はけっして不機嫌そうでなかった。嫌味なほどスマートな物腰で立ち上がる。このメイドに彼の口に合うコーヒーの淹れ方を仕込むのは、なかなか骨が折れそうだった。
こうして跡部専任の使用人になった
には、仕事用のスマートフォンが貸与され、それを通じて昼夜の別なく呼び出された。もちろん深夜や未明に呼び出されることはなかったが、本当にちょっとしたことで呼び出される。
あるときは「コーヒーを淹れてくれ」と求められ、またあるときは愛犬のマルガレーテの餌を手作りしろと求められる。
日に何度も呼びつけられるので、
は青筋を立てながら、カップをサイフォンへ運んだ。
「ついさっきも淹れたと思うんですが……カフェインの摂り過ぎは身体に毒ですよ」
跡部はドイツ語で書かれた書籍を開きながら、こめかみに指先を押し当てた。
「カフェインは脳を冴えさせる。読書には欠かせねえ」
「そうですか」
は取り合わずに、豆挽きをまわした。電動の豆挽きが欲しかったが、きっとそれでは跡部の納得は得られないだろう。彼の舌は本物と偽物を峻別する。きっと騙し果せない。
はサイフォンから濃褐色のしずくが垂れるのを見守るかたわら、こっそりと跡部の姿をうかがった。伏せた目で文章を追う。淡い陰の差す眼窩に知性が滲む。年齢よりずっと大人びた面差しに、思わず
は見とれた。
「なんの用だ?」
出し抜けにたずねられて、
はあわててサイフォンに向き直った。ちょうど抽出が終わったところだ。
「何がですか?」ととぼけながら、カップをソーサーへ置く。跡部の待つテーブルへ戻った。
「用がないなら見るんじゃねえ、気が散るだろうが」
「……今日はあと何杯コーヒーを淹れにきたらいいのかな、って考えただけです」
正直に答えるのは憚られた。適当にまぜ返す。跡部もさらに追及してこなかった。ただふん、と鼻を鳴らして、コーヒーを口に含んだ。ほどよい苦みに舌を打つ。
自分の淹れたコーヒーの味を跡部が気に入った様子を見抜いて、
は嬉しそうに声を弾ませた。
「お味はいかがですか?」とわざとらしく首を傾いでたずねる。
「最高級の豆だ。不味く淹れられるほうがどうかしてるだろう」
「そうですか、ではこれで失礼します」
せっかく褒められると期待したのに、当てが外れてしまい、
は落胆した。それを表に出さぬように、あえて無関心そうに振る舞ってから、自分の部屋へ戻ろうとした。
「また飲みたくなる程度には悪くない味だ」
跡部がカップをソーサーに置く音がした。
素直じゃないんだから、と
は笑いを噛み殺す。表情を悟られないために、振り返らずに歩き去る。