跡部の部屋の掃除も、
が受け持つことになった。
この決定は跡部邸にちょっとした波紋を引き起こした。ほかの使用人たちからすごい、すごいと口々に讃えられる。詳しく聞いてみると、いままで跡部の部屋はミカエル以外、立ち入りが許されなかったらしい。それは使用人頭の
の母でさえ例外ではなかった。
「ほら、ぼっちゃんって神経質なところ、あるでしょう? 細かいわけじゃないんだけど……なんていうのかな、必要以上に他人を近づけさせないところがあるのよ」
使用人の評には
も共感できた。跡部は無愛想な男ではけしてない。ただ自分のパーソナルエリアにたやすく他人を踏み入れさせない、一種の慎重さは感じた。ずけずけ物を言う割には繊細なのだろうか。
そう憶測をめぐらせた
は、部屋の掃除には細心の注意を払う必要があると自らを戒めた。余計なことはせず、物は極力動かさず、ただ塵埃だけを取り除くことに専念すべきだ。
こうして学校から帰宅するなり、すぐに着替えて、掃除に取り掛かるのが
の日課になった。ミカエルから聞き出した跡部情報を記したメモを広げる。彼の所属する氷帝学園テニス部の練習が六時に終わる。
彼は部長であるらしく、監督に提出する日報やデータの閲覧を終え、学園を発つのが六時半。そこから邸宅まで十分ほどかけて帰ってくるので、それまでには掃除をすっかり終えなければならない。
清潔な空間で主を迎えるのは、使用人である
の役目だ。手はじめに壁についた埃をはたきで落とす。天井付近は目立たないがかなり汚れており、はたきでなぞるたびに埃がはらはらと舞い落ちてきた。
ミカエルには他の仕事もあり、かといって跡部の居室にはほかの使用人は立ち入れない。短時間でできる範囲の清掃しか行わなかったのだろう。こまごまとしたところにまで手が届いていなかった。
倉庫から踏み台を運んできて、シャンデリアもはたきで揺する。次にキャビネットやテーブルをクロスで磨き上げてから、最後に室内用の箒で丁寧に床を掃く。掃除機はカーペットが傷むため、使ってはならないらしい。そのせいと、埃が溜まっていたせいもあり、思ったより手間取ってしまい、気がつけば時計の長針が一回転してしまった。
「まずい、跡部さんが帰ってくるまでに終わらない」
あまりに汚かったので、つい居間に熱中してしまったことを悔いる。掃除は段取りが命だ。全工程を終えるまでに必要な時間を逆算し、進めなければならない。
は足早に居間の奥へ進んだ。ドアノブに手をかける。ここから先は未知の領域だった。部屋の主である跡部と、ミカエル以外は立ち入れないエリアだ。喉を鳴らしてから、ドアノブをまわす。
ぎぃ、と重々しい音をたてながら、ドアはゆっくりと開いた。今度もまた居間だ。
はめまいを覚えた。何室居間が必要なのか。
さきほどの居間よりは幾分狭く、ひとり用のソファが二脚置かれていた。ひとつめの居間は客人と会うための部屋であり、こちらの居間はくつろぐために用意された、プライベートな空間であるらしい。
は怪訝そうに次の間へ通じるふたつのドアを見比べた。また居間があるかもしれない。警戒しながら左のドアを開くと、そこには寝室が広がっていた。天蓋付のキングサイズのベッドが、存在感たっぷりに横たわる。この部屋も骨が折れそうだ。
すっかり重くなった気分をひきずって、寝室のさらに奥へ進んだ。今度は洗面所が置かれており、左右それぞれバスルームとトイレが配置されている。床は彼女の姿が映りこむほど丹念に磨き上げられた大理石でできていた。
は焦りながらプライベートリビングへ引き返す。情勢は極めて彼女に不利だった。跡部が戻るまでに清掃が終わりそうにない。
寝室へ続くドアとは逆のドアの先へ飛び込むと、そこには壁一面が本棚になった書斎が存在した。中央にはいかにも文豪が好みそうな巨大なデスクがそびえたつ。
は途方にくれ、頭を抱え込みたい状況だったが、もはやそうしている時間さえ惜しい。一計を案じて、ひとまずプライベートリビングの清掃に時間を費やす。ミカエルが手をつけなかった部分は、おそらくそのままにしておいても気づかれないはずだ。
それを頭ではわかっているのに、ついはたきを伸ばしてしまう。長年の母子家庭暮らしによってすっかり所帯じみてしまった自分を嘆きながらも、彼女はひたすら黙々と手を動かした。
七時前になり、ついに跡部景吾が帰還する。
は神妙な態度で居間まで出迎えに向かった。
「お帰りなさいませ」
「どうした、今日は珍しく殊勝じゃねえか」
いつになく丁寧に遇されて、跡部は決まり悪そうに眉をひそめた。ブレザーを脱ぎ、ネクタイを外して、
に預ける。
彼女は恭しく受け取ってから、深々と頭を下げた。
「あの……実はお詫びしなければならないことが」
「なんだ? 花瓶でも割ったか? まあ、お前がどん臭いのは承知の上で雇ったからな、仕方ねえ」
「ちがいます!」
は思わずむっとして口元をゆがめた。あわてて気落ちした面持ちを作り直して、言葉を絞り出す。
「実は……まだお掃除が終わっていなくて……」
「なんだ、そんなことか」
跡部はソファに倒れこんだ。片腕を背もたれに乗せ、くつろいだ体勢になる。そうして首をひねり、室内をぐるりと見まわした。
「ずいぶんさっぱりしたな、壁の白さが甦ったぜ」
は弾かれたように顔を上げる。まさか気づいてくれるとは思わなかった。努力を認められた気がして、つい嬉しくなる。
跡部はそんな
の様子を微笑ましげに一瞥してから、ソファを離れた。ティーポットのあるキャビネットへ向かう。
「で? どこまで終わったんだ、掃除は」
引き出しからアールグレイの茶葉の入った缶を取り出した。
「紅茶なら私が淹れます!」
小走りでティーポットへ向かい、跡部を押しのけようとした寸前で「ああっ」と声をあげる。あわてた様子で自らの手先をながめた。塵埃の付着した手で紅茶を淹れるわけにはいかない。
ひとりで騒ぎ立てる
を横目で見やりながら、跡部は慣れた手つきで作業を進める。キャビネットの戸を開け、ペットボトルを取り出し、そこから軟水を電気ケトルに注ぎいれる。
「すぐ、すぐ戻ってきますから、待っててください!」
「それより、先に掃除を片付けろ。自分の世話くらい自分でやる」
走り出そうとした
を呼び止める。
彼女はおもむろに振り返り、反省した様子でうなだれた。
「すみません……」
自分から志願しておいて、この有り様だ。掃除すら満足にできなければ、使用人として失格だった。母に知れたら解雇されるかもしれない。それはなんとか免れたとしても、大目玉を食らうのは疑いようがなかった。
だがいつまでも油を売るわけにもいかず、とぼとぼと歩き出す。彼女のもともとの計画では、跡部に紅茶を提供し、リビングとどめておいて、そのあいだに掃除を片付けてしまう予定だった。
「おい、
」
また呼び止められる。叱責を受ける覚悟をすませてから、跡部を振り返った。予想に反して、彼の目は優しかった。黙って
を見つめたあと、ケトルから湯を注ぎ、茶葉がティーポットの中を踊るさまをながめる。
「なぜ俺様がお前なんかを専属にしたと思う?」
お前なんかという言いまわしはかなり不躾だったが、現状ではそう表現されても仕方がない。
は甘んじて受け入れた。質問には素直に「わかりません」と答える。それは正直な気持ちだった。
自分よりもっと家事が上手く、ベテランの使用人が何人もいる。何を好きこのんで自分を指名したのか、彼女には見当がつかなかった。気まぐれ、というワードが頭の中を横切る。それがいまのところいちばんありえそうな回答だった。
跡部は視線で室内を一巡する。
「明るくなったな」
掃除の成果を認められることは嬉しかった。だが、主人が在室するときに掃除をするようでは、使用人としてのレベルは半人前にも達していない。
に表情が戻らないのを見て、跡部はふう、と鼻から息を吐いた。
「それがお前を指名した理由だ」
は首を傾げる。掃除が上手そうだから指名したということか。しかし、それならもっと経験豊富な使用人を選んだほうがより道理にかなう。
跡部は忌々しげにうなじに手をまわした。
が本当に鈍いのか、それとも皆まで言わせたくてとぼけているのか、その判断は彼にもつきかねた。だが、こうして暗い顔つきで室内をうろつかれては、彼女を指名した意味がない。
やむをえず跡部は踏み込んだ物の言い方をした。
「この部屋が明るくなったのは、単に清潔感が増したからじゃねえ」
はひとまずうなずく。焦点の定まらない視線を見れば、また跡部の言いたいことが伝わっていないのは明白だった。
跡部は横を向き、舌打ちをする。所在なさげに手を動かし、自らの襟足を撫で上げた。彼女の笑顔が咲くたび、部屋の空気がやわらかくなる。そうはっきり告げることはためらわれた。口説いていると勘違いされても困る。
「とにかく、お前は笑ってろ。そんな顔をされたら辛気臭いだろうが!」
はもう一度うなずいた。奥歯に物の挟まった言い方をするので、跡部の発言の意図はさっぱり理解できなかったが、励ましたいのだという意向だけは伝わってきた。これ以上の失態を重ねるわけにはいかない。
彼女は努めて明るく微笑んだ。こめかみに手を添え、敬礼のポーズを取る。
「承知しました、ご主人様。
、超特急で掃除を終わらせて参ります」
そのしぐさを見て、不覚にも跡部は鼓動が乱れるのを許してしまう。微笑んだところまでは想定内だったが、まさかあんな反応を返してくるとは思わなかった。軽快な足取りで走り去る彼女の背中を、つい視線で追いかけてしまう。
「あんな小娘に何を動揺してるんだ、俺様は」
そう自分に言い聞かせ、平常心を取り戻そうとする。ティーポットに目を戻すと、茶葉はすでに器の底へ沈殿し、紅茶の色合いはすっかり錆びついてしまっていた。
跡部はため息をついて、ティーカップに濁った茶を注ぐ。香りはとうに弾けてしまった。紅茶はやはり自分で淹れるものではないというのが、彼の出した結論だった。
ヘッセのデミアンの原著を紐解き、味の鈍った紅茶を渋面ですすっていると、ややあって
が忍び足で戻ってきた。跡部の休息を邪魔しないように、という気遣いにちがいない。
だが惜しむらくは気配をまるで消せておらず、彼はいちいち
の一挙一動を認識せざるを得ないことだ。
彼女はキューブ型の補助ソファーを抱え込み、よろめきながら歩き去った。もちろん、跡部の読書を邪魔することなく、ミッション達成がなったと信じきっている。閉じたドアの陰でガッツポーズをする。名誉挽回だ。
一方の跡部はヘッセの織り成すシンクレールの繊細な心情描写に耽溺できずにいた。
が次に何をやらかすのか、そればかり考えてしまって気が気でない。
ソファを運んだので、模様替えをするつもりなのだろうか。それなら男手である跡部を頼りにすればよい。だが
は使用人の面子にかけて、主人である跡部を引っ張り出そうとはしないだろう。
跡部は本を閉じ、妖しく囁くデミアンをページの谷間に吸い込んだ。
「悪いが、もう少し卵の殻にとどまっていてくれ」
革の装丁が施された小説をテーブルに放り投げ、プライベートリビングへ向かった。
だがまだ入室は果たさず、ドアを少しだけ開けた。跡部邸ではどの部屋でも楽器を演奏できるよう、すべての壁に防音処置が取られている。だがこうしてほんの隙間ほどの角度でも、ドアを開けてさえしまえば、続き間の音を拾える寸法だ。
「あれ? うーん、もうちょっとなんだけどなぁ?」
跡部が読書を中断してまで、何をしでかすかやきもきしながら見守っているというのに、当の本人はやけにのんきそうな声をあげる。音声だけでは状況がはっきりしない。
跡部は思い切って、ドアの角度をもう少し開き、片目で室内をのぞきこんだ。その目は隣室から差し込むシャンデリアの光の粒をはらんで、たちまち薄青に変化する。陰にとどまる瞳との色の差異が生まれ、さながらオッドアイの様相を呈した。
変化した色合いの片目が開く視界に飛び込んだのは、
が踏み台の上にキューブソファを置き、さらにその上に彼女自身が爪先立ちになって、天井をはたきで払おうとする光景だった。
キューブは何度もぐらつき、そのたびに彼女が反対側に体重をかけ、どうにか崩壊を回避する。その一連の動作を繰り返すことで、脆弱な均衡を保っていた。そもそも、
がこうまでしなければならないのは、プライベートリビングの構造に理由があった。
この部屋には巧妙にキャビネに隠されている投影機があり、美麗な映像には欠かせぬ、三百六十度から聴こえるサウンド展開のため、スピーカーがあちこちに設置されていた。上方からの音響は臨場感の向上に必須のものだ。
そういう理由で、もともとこの部屋のみほかよりも天井が高くなるように設計されていた。だがそれに気づく
ではなかった。
彼女の頭の中では、ひとつめの居間が掃除できたんだから、ふたつめもできない道理はない。背丈が届かないなら踏み台を、踏み台が足りないならもうひとつ踏み台をという、極めてポジティブな足し算思考のもとに行動し続ける。
「あとちょっと、ほんとにちょっと……」
跡部はもどかしさでこっそりと舌打ちした。いま飛び出すのはたやすいが、
を驚かせて転倒させてしまうだろう。この距離では抱きとめてやれない。
彼は音を立てぬよう、最新の注意を払いながら、
よりも格段に上手い忍び足で距離を縮めていった。願わくは、彼女のもとへ自分が到達できるまで、いまの絶妙なバランスを保ち続けて欲しい。
「やったぁ! 大きい埃ゲット!」
ようやく目当ての大物を撃墜させた喜びではしゃぐ
を、跡部は内心苦々しい気持ちでながめた。
――まったく、いい気なもんだぜ。ひとの気も知らないで。俺にここまでさせる女はお前がはじめてだ。
だが、彼の
を見上げる瞳は、マイナスの感情だけではなかった。熱心に与えられた職務に取り組み、妥協を許さず、活気をふりまきながら走りまわる姿は、なかなかどうして爽快だった。
跡部財閥の後継者として、祖父の敷いたレールを転がるばかりの自分が、とうの昔に置き去りにした少年時代の自分に再会できたような、不思議な心地がした。
「あっ、あっちにも埃溜まってる。もう、こんな部屋でぼっちゃんを過ごさせていいんですか、ミカエルさん!」
本人がいないのをいいことに、愚痴を言いつつも、新たな目標に向かって手を突き出した、そのときだった。別の角度に腕を伸ばしたことで、持ちこたえられていた均衡が破綻し、キューブが落下しはじめた。