ボーイ・ミーツ・ガール

 そろそろいいんじゃないだろうか。最近、日課になったランニングの道中、俺はちらっとそんなことを考えた。
 熱い衝動を持ち余して、スピードを上げた。速く、もっと速くと四肢が躍動する。全身で心音を感じた。たちまち汗が噴き出し、熱した皮膚を冷やした。このままどこまでも走り抜けて、ぶっ倒れてしまいたかった。
 それくらいしないと、とてもこの下腹の黒い淀みは払えない。
 だが体力を使い果たして、気絶しても、心が晴れるのはそのあいだだけだ。体力が甦るのと同時に、もやもやもまた濃霧のように漂い始める。
 スニーカーがアスファルトを擦るたび、キュ、と音を立てた。
 俺は公園にたどりついて、一度足を止めた。折り返し地点と決めた歩道橋はとうに過ぎていた。ぜえぜえと肩を使って息をした。首にかけたタオルを汗に押し当てた後、口元に巻きつけた。ひっそりと思いの丈を口走る。
「やりてぇ……」

「赤也くん」
 やりたい。それは男として当然の欲求だ。だれに咎められることもないはず。山吹の千石みたいにだれかれ構わずってわけではもちろんない。俺にはこの夏から付き合いだした彼女が……目の前のがいる。
「赤也くん、聞いてないでしょ?」
 もう付き合いだしてから……俺は指折り数えた。もう三ヶ月が経とうとしている。
「あ、これ絶対聞いてないね」
 たまに雑誌のそういう特集を見るけど、だいたい付き合ってから一ヶ月以内にはみんなやっている。年齢的に早過ぎるなんてことはない。中学生、早熟なら小学生で経験済みのやつだっている。それはさすがに特殊な例だと思うけど。
 いずれにせよ、そろそろ、そろそろいいんじゃねえの!? いいよな!?
 俺はだれに問うわけでもなく、いきり立った。
「なんか忙しそうだね。きょうは友達とご飯食べるね」
 しかし、と俺は考えを止めた。いちばんの問題は、俺に経験がないということだ。どうやってに迫ればいいのかも見当がつかない。やっぱり女子はムードとか大切にするんだよな……。自慢じゃないが、空気を読めない自信がある。
 俺は深く考え入る。こういうときは逆転の発想だ。まず、ムードを高めてみよう。やる、やらないはそのあとだ。いや、やりたいんだけど。そこでまた考えが途絶する。
 ムードを高める? どうやって? っていまは目の前にいるに集中しないと……。
「あれ? ?」
 我に返って顔を上げたときには、もうはいなくなっていた。スマホにメッセージが入る。からだ。
 液晶画面をタッチすると「忙しそうだから、今日は別にご飯食べよう」とのメッセージが浮かび上がった。
 やばい。こんなことじゃやるどころじゃなく、振られる……。本末転倒だ。早めに本懐を遂げないと、との関係にもヒビが入りかねない。

「丸井先輩、ちょっといいっすか?」
「うぉ!? 赤也。どうした?」
 一向に名案が思い浮かばないのに痺れを切らした俺は、練習後に丸井先輩を待ち伏せした。やっぱりこの手の相談はこの人でしょ! 社交的でノリも軽いから、経験豊富そうだし、面倒見もそんなに悪くないから、いいアドバイスをくれる気がした。
「実は、相談したいことがあって」
 丸井先輩は「ふうん」と風船ガムを弾けさせた。
「今日ならいいよ」
 オーケーしてくれた後、歩き出す。俺はあわてて追いかけた。
「何系の相談? テニスじゃねえだろ」
 そう指摘してから「テニスの相談なら、俺より柳のが適任だしなぁ」と続ける。鋭い考察だった。俺が言い方に迷っていると、丸井先輩のほうから切り出してくれた。
「ってことは関連か」
 口を斜めにして、肩越しに振り返ってくる。すっかりばれてる。
「はは、そんな感じっすね」
 この場でやりとりできる話題じゃない。俺は適当にごまかして「バーガー食いに行きましょ」とファーストフード店への立ち寄りを提案した。丸井先輩も「おう、いいぜ」と同意する。
「言っとくけど、お前のオゴリだからな」
「げっ、マジっすか」
 部活で疲れてるところにお願いしたわけだから、場所代は俺が支払って当然だ。理屈はわかるんだけど、丸井先輩、底なしの爆食だからなぁ。ファーストフード店は却って高くつきそうだ。
「当たり前だろぃ、相談料だ」
 予想通りの指摘を受けた。オゴリに不満があるわけじゃないんだけど……。
「奢りますよ。奢りますけど、五百円……いや、千円以内にしてくださいね!」
 丸井先輩は鼻で笑った。
「しけてんなぁ。まぁ、その辺は加減してやるから、安心しろぃ」
 あんまり安心できない。それを口に出せないまま、俺たちは連れ立ってファーストフード店へ向かった。
 丸井先輩はダブルハンバーガー三つとコーラを頼む。芋より肉だよな。そのチョイスは納得できるので、俺も同じものを注文した。会計ちょうど二千円だ……。この人、上限ぎりぎりになるように注文したな。
 俺のジト目に気づいたのか定かではないが、いずれにせよそれに頓着する様子を見せず、丸井先輩は先にテーブルに着いた。
 運動部の帰宅はだいたいこの時刻だ。店内には立海の生徒と思しき客がちらほらいた。それを気遣ってか、先輩は人気の少ない奥のテーブルに陣取ってくれた。こういうところがモテるのか……。
「どうぞ、先輩」
 できたてのハンバーガーが山盛りになったトレーをテーブルに置く。
「おう。サンキュ。ま、話は食ってからだな!」
 丸井先輩が早速ハンバーガーにかぶりついた。せっかちな気性がうかがえる食べ方だ。ろくに噛まずにコーラで流し込んでゆく。
 味わって食うようなもんでもないし、俺も早食いだから人のことは言えないんだけど。胃袋が満たせて、たんぱく質が補給できて、あとはまずくなけりゃなんでもいい。質より量を優先するのが体育会系だ。
 丸井先輩はほどなくコーラまでふくめてきれいに完食した。
「で、何? 話って」
 ハンバーガーの包み紙をひとつに丸めながら問いかけてくる。
 俺はまだハンバーガーひとつ食いかけのが残ってたので、ひとまずそれを置いて、話を切り出した。
「それが……ムード? 的なやつをどうやったら作れるのか、教えてほしくて」
 指南を乞う端から、こっぱずかしさがこみ上げる。もっと別の言い回しはなかったのか、と悔いるが、俺の頭じゃ、表現を変えたところで似たり寄ったりだ。案の定、丸井先輩は目を白黒させたあと、笑いを噛み殺した。
「ム……ムードって。どうした、赤也」
 俺に似つかわしくないワードが出たのに驚き半分、からかい半分、とった反応だった。そりゃ、そうなるよな。俺だって自分がらしくないこと言ってる自覚はある。
「真剣に聞いてくださいよ!」
 俺の抗議に、丸井先輩はひとしきり笑ってから「悪い、悪い」と形だけの謝罪を述べた。
 まったく悪びれない様子で「あー、面白かった」とご丁寧に付け足す。俺が視線を険しくしたので、それ以上茶化してくることはなかった。
 先輩は肘をつき、手の甲にあごを乗せた姿勢を取り、目で話の続きを促した。一応、食った分は働いてくれるようだ。
 俺は安心して話を本筋に戻した。
「なんていうか、とぜんぜん、そういう色っぽい感じにならないんすよ!」
「改まって言うから、もっとドロドロした話かと思ったじゃねえか」
 ドロドロした話って、どんなだ。想像もつかない。韓流ドラマみたいな感じか。俺とが兄妹だったとか?
「色っぽい、ねえ……。お前ら、仲いいじゃん。そっから発展させたらいいんじゃねえの」
 発展しないからこうなってます。
 そう俺が口にするより早く、丸井先輩は「ま、口で言うのは簡単だよな」と答えを出した。腕を組み、何やら考え込むしぐさを見せる。
 丸井先輩にいいアイデアが浮かぶのを期待して、俺は残りのハンバーガーを片付けにかかった。
「でも、その感じだと、まさかお前らまだやってねえの?」
「……はい?」
 俺は聞こえないふりをした。なんつーこと聞いてくるんだ、この先輩。
「だから、お前ら、まだやってないの?」
「何をですか?」
 今度はわからないふりをした。察しろよ。
「だーかーら、セックスしてないのかって聞いてんだろぃ」
「なっ……」
 言外の要求はまったく通じず、丸井先輩は面倒くさくなった様子で、ついにはっきりしたワードを口にした。
 俺は絶句する。
 そんなの認めたら、童貞ですって宣言するとの同義だろ。プライド粉砕ものだ。断固、認めない方針を打ち出した。
「いやぁ、そこはまあ、ご想像にお任せする感じで……」
 どうにか茶を濁そうとする。
「へえ、そうか。お前ら結構長いのになぁ。まだやってないのか」
 聞いちゃいねえ。
 丸井先輩はにやにやしながら追い詰めてくる。これは絶対当分遊べるなって思いついた顔だ!
「ってことは、お前まだ童貞なんだな」
 ついに、決定的な一言が放たれた。それだけは、それだけは言わないのが情けってもんじゃないんすか、先輩。アンタ、人として間違ってるよ!
 俺は揶揄をふくんだ視線をかわそうと、斜めを向いた。
「先輩、ポテト食いたくないっすか」
 突然、話題を変える。あからさまな取引のもちかけだ。丸井先輩も俺が言わんとするところを察して、背もたれに身体を倒す。腕を上げ、筋肉を伸ばしながら「んー」と悩むふりをした。
「でももうドリンクないからぁ。ポテトはドリンクなしじゃきついだろぃ」
「コーラでいいっすか?」
「おう、両方Lな!」
 くそっ。俺は口止め料代わりの食料を調達しに、カウンターへ戻った。
 五分後、待ちかねた様子で、丸井先輩は上げたてのポテトを食べ始める。
「食うなよ」と釘を刺された。一本くらい寄越せよ、金払ったの俺だぜ。
「で、ムードを作る方法だよな。俺は別に意識しないからなぁ、難しいぜ」
 ポテトが見る間になくなってゆく。
 先輩は指についた塩を舐めて「んー」とうなった。
「逆に聞きたいんだけどさ、なんでそういうムードにならねえの?」
 話の角度を変えてきた。俺が返答に迷っていると、追加で質問される。
「だってさ、部屋に連れ込むか、女の部屋に行って、しばらく過ごせば、やること一個しかないじゃん。お前、ふたりきりになったときどうしてんの?」
 何気にゲスい発言だ……。丸井先輩の背後に、いままで食い散らかされたモトカノの山が見えるぜ。
「お互いの家は行き来しているんですけど、親がいるし」
「そんなの部屋に鍵かけてやっちゃえばいいじゃん」
 この人、本物のゲスだ!
「いや、やっぱり、声……とか、漏れちゃうもんじゃないっすか」
「は?」と丸井先輩は空になったポテトの箱を潰しながら吐き捨てた。
「お前、AVの見すぎ。現実の女はあんなに声出さねえよ」
「とことんゲスいな」
 やべっ、つい声に出して言っちゃった!
「あ? だれがゲスだって?」
「いやいや……ポテトうまかったっすか?」
 あわてて取り繕う。
 丸井先輩は「おう、ごちそうさん」と満足した様子で礼を言った。小遣いはたいたんだから、実現性のあるアドバイスしっかり出してくれよ。
 そんな俺のプレッシャーを感じ取ったのか、丸井先輩は眉根を寄せ、考え続ける。しばらくすると、荷物を拾い上げて立ち上がった。
「ダメだ。いますぐ思いつかねえや。今日中になんか考えてあとで送るわ」
 ここで額を突き合わせていても仕方ない。それは同感だった。
 了解して俺も立ち上がる。
 互いの椅子を引きずる音がうるさかった。
「じゃ、俺こっちだから」
「うっす」
「あ、これ渡しとく」
 先輩は千円札二枚押し付けてきた。
「だいたいそんなもんだろぃ」と付け加える。丸井先輩が食べた分の代金だ。
「いや、いいっす、いいっす! 部活の後で疲れてるところに相談に乗ってもらったんすから」
 俺がすっかり恐縮し、あわてて金を返そうとするのを、丸井先輩は手を広げて遮った。
「お前な、理由はどうあれ、後輩に奢られるわけにいかねえだろ」
「そういうことなら。なんかすんません」とありがたく受け取った。こういうことをさらっとできるのが、その背負ったモトカノの山の所以なのだろうか。

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