瞼を開くと、天井が見えた。電気を切ったはずなのに、明るい。が点けたのか。
 俺はゆっくりと起き上がった。
 遮光カーテンの端から、光が漏れている。……って、光!?
 俺はベッドから跳ね上がった。その振動でを目覚めさせてしまう。
 彼女は目をこすりながら、上体を起こした。
「おはよう、赤也くん。……今日は部活のない日曜でよかったね。ふたりして寝坊しちゃった」
 時計は十一時を指している。
「あ、ああ……第一と第三日曜は休みだからな」
 動転しながらも、とりあえず相槌を打つ。
 何が起こってるんだ? 一瞬で時間が過ぎている。
 俺、緊張が沸点に達したせいで、記憶喪失になったのか?
 きょろきょろとあたりを見回す俺に、は「ふふ」と笑った。その表情はどこか晴れやかだった。
「昨日はなんだか拍子抜けしちゃった。……お風呂から上がってきたら、赤也くん寝ちゃってるんだもん」
 腕を前に突き出し、背筋をほぐしたあと、は立ち上がった。俺のTシャツが大きすぎるのか、上しか着ていない。かろうじて下着が見えない丈だった。彼シャツ姿ゲット。って、そうじゃない!
「マジで!? マジで俺、寝ちゃってたの!?」
「うん」
 はあっさりうなずいた。丈を気にするそぶりを見せる。
 うっかりかわいい! と叫びそうになるのを、俺はかろうじて踏みとどまった。
「なんで起こしてくれなかったんだよ!」
「……起こしたよ。でも、起きなかった」
 の反論に、俺は言葉を失う。いったい、なんだったんだ。千載一遇のチャンスを……むざむざ寝過ごすなんて。
 打ちひしがれる俺に、は無情な言葉を浴びせてくる。
「赤也くん、部屋出てくれない? 着替えたいから」
 ええー……。っていうか、きょう俺もも休みなんだから! 一縷の望みを見出し、ベッドに飛び乗った。もうこの際、見苦しくたって、体面なんか気にしてる場合じゃない。
 やりたい!! 神様を崇めるみたいに、俺は恭しく土下座した。
「いまからお願いします!」
「無理だよ」
 即答だった。
「だって、さっき夢うつつに聞こえたもん」と続ける。
 何が? と聞き返すより先に、ドアをノックする音がした。
 俺は顔面蒼白になる。十一時……ということは。
「赤也ー、母ちゃんには黙っといてやるから、みっともない真似やめな。丸聞こえだよ」
 ……姉貴だ。
 俺は脱力してベッドに顔を突っ伏した。終わった。すべて終わった。くずおれる俺の背中を、がつんつんと指先で突いてくる。わかってるよ、出て行くよ……。
 どうにも塞ぎこむ気分を晴らす方法を見つけられないまま、俺はおぼつかない足取りで立ち上がった。よろめきつつ、手をついて、壁伝いに移動する。ドアを抜ける間際に、が背後でこっそりとささやいた。
「そんなに落ち込まないで。私、待てるから」
 ドアが閉ざされる。
 いまの一言は、嬉しくないわけがない。飛び上がるくらい、本来なら嬉しい。でも、逃した魚は大きすぎる。というか……本当ならもう胃の中に魚、すっぽり納まってるはずなのに……。寝こけてるあいだに大海に逃げられた……。
 案の定、俺の部屋の前には悪魔が待ち構えていた。悪魔は口を斜めにして、この世のものとは思えぬ、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「残念だったねえ、赤也。せっかくお泊り成功したのにねえ?」
 笑いを噛み殺しながら、歩き去る。当面のあいだ、このネタで俺をこき使い続けるつもりだ。
 くそ、やらかした、大失敗だ! 頭を抱え込む俺に、姉貴は場違いなほど優しい声をかけてくる。
「お土産買ってきたから。ちゃん着替え終わったら、三人で食べようか」
 そんな気遣い出来るなら、夜まで出かけてくれよ!
 その叫びを口から出す勇気は当然のことながら持てず、俺は壁を背にしてうずくまった。こうして、俺は童貞のまま夜を越したのだった。

 翌日になっても、俺の気力は回復しなかった。
 もう死にたい。通学の道中、自殺する方法をつい検索してしまうくらい、この世に別れを告げたかった。童貞を捨てられなかったことが響いているわけではない。それもなくはないけど。
 昨日の昼、を見送ってから、部屋に戻ったら、デスクにコンドームがふたつ、整列させられていた。……おそらく、俺が寝入ったときに枕をずらしてしまい、発見したがデスクに置いてくれたんだろう。全裸を見られるより恥ずかしい……。
 いちばんデリケートな部分を覗き見された気分だ。エロ動画視聴が親に見つかる恥ずかしさに等しい。朝練を適当にこなし、部室へ戻る。
「お疲れっす」といつものように挨拶しようとした。しかし、それはかなわなかった。クラッカーの爆音にかき消された。
「赤也、脱童貞おめでとうー!」
 続けざまに、丸井先輩が満面の笑みで祝福してくる。……当然、ほかの先輩や、部員のいる前で。
 しかもよく見れば、クラッカーを手にしているのは、丸井先輩だけではなかった。ジャッカル先輩に、仁王先輩も握っている。
 ……なんで話が伝わってるんだよ。俺は首がきしむほど強く、丸井先輩を振り向いた。そのまま詰め寄る。
「なんで言っちゃうんすか!」
 丸井先輩はわざとらしく口笛を吹きながら、俺をあっさりと交わした。
 仁王先輩にジャッカル先輩をはじめ、先輩たちがわらわらと俺のまわりを取り巻く。
 その人垣を同級生や下級生も、好奇心に満ちた目でのぞきこんできた。なんの辱めだよ!
「いやぁ、これからは赤也先生と呼ばんといけんのぉ」
「赤也、初体験はどうだった? 教えてやった動画に立ったか?」
 先陣を切ったのは、案の定、仁王先輩とジャッカル先輩だった。このふたりには事前に話が伝わってたみたいだ。いつ話したんだろう……いまとなってはいつでもいいけど。
「意外だな、赤也まだだったんだ。モテそうなのにね」
 神の子、意外とこういう話に乗ってくるな。俺をからかえればなんでもいいのか。
「朝から下ネタなど、たるんどるぞ! せめて放課後にせんか!」
 そういう問題かよ……。
「ふむ。お前がそのときを迎えるのは、俺のデータではもう少し先のはずだったが」
 俺の下半身事情をデータ化するのやめてくれないっすかねえ! しかも当たってるし!
 レギュラー陣以外の先輩からも、さんざん冷やかされた。唯一、柳生先輩だけが眼鏡の上の眉をひそめた。
「あまりこういう話題は感心しませんね。切原くんのことはさておき、お相手のいる問題ですから」
 テニス部の最後の良心。もっと言ってやってください! 俺のこともさておかずにかばって。
「ほら、ほら、お前ら。そんな口々にわめくんじゃねえよ」
 諸悪の根源が、したり顔で集団の先頭に踊り出る。潰す。いつか絶対潰してやる。俺が内心毒づくのを知ってか知らずか、丸井先輩は華麗な身のこなしでターンを決めた。振り向きざまに、空のクラッカーを俺に突きつけてくる。マイクのつもりか。
「はい、では無事童貞というイモ連帯を抜け出し、大人への第一歩を踏み出した赤也パイセンに突撃インタビュー! ずばり、はじめての夜のご感想は!?」
 ……なんて言ってもからかわれる。おちょくられる。それなら、一握の誠実さを発揮しておこう。せめてに迷惑がかからないように。
 俺は蚊の鳴くような声を絞り出した。
「まだ、やってないっす……」
 一瞬遅れて、丸井先輩の絶叫が響き渡った。俺の襟をつかみ、ぶんぶんと揺さぶってくる。
「なんで!? え、なんで!? お前昨日、のこと家に泊めたんだろ!? なんで?」
 後ろで「やはりな」と柳先輩がつぶやき、真田副部長が「ガセネタか。丸井はグラウンド百周だ」と怒気をはらむ。
 幸村部長はもう興味が失せたらしく、騒動のうちにひとり着替えて、さっさと部室を出て行った。
「つい、寝ちゃったんすよ! 朝まで」
 丸井先輩は絶句した。口をあんぐりとバカみたいに開けたまま。空のクラッカーが床に落ちる。周りの連中も、先輩に似たり寄ったりの表情だ。
 俺は自棄になって、丸井先輩にガンを飛ばした。
「なんでばらしちゃったんすか? なんでなんすかねえ、アンタって人は!」
 やや遅れて、丸井先輩は冷笑を浮かべた。瞼を半分下ろし、その下から鋭い眼光を迸らせる。
「あん? だって俺、ゲスだからさ」
 ……それを、根に持ってたのか。だったらそんときにぶっ飛ばしてくれよ!
「それに」と丸井先輩はポロシャツを脱いだ。制服のシャツの腕を通しながら、俺を斜めに見据えてくる。
「俺、黙っとくなんて約束してねえもん」
 空とぼける丸井先輩に、俺は堪忍袋の緒が切れて、掴みかかりそうになる。
「何をいまさら! だって口止め料……」
 言いかけて口をつぐむ。そういえば、あのとき。丸井先輩は口を斜めにした。ブレザーを羽織り、ロッカーのドアを突き飛ばして閉める。悠然とした足取りできびすを返した。
「そ。もらってねえだろぃ」
 確かにあのとき、丸井先輩は金を返してきた。ということは、あのときからすでに、言いふらす気満々だったんだ。くそ、バッグに突っ込んででも、口止め料渡しとくんだった! と後悔しても、いまさらどうにもならない。
 俺は始業時間ぎりぎりまで、連中のおもちゃにされた。そしてそれはこれから当分のあいだ、ほかのだれかが何かやらかすまで続くんだろう。どうせからかわれるなら、せめて、せめて……やりたかった。

4・終
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