俺は個室トイレに飛び込むと、スマートフォンで丸井先輩を呼び出した。すぐに繋がる。
「おう、無事童貞卒業できそうか?」
 丸井先輩には今日デートすることをメッセージで伝えてあった。
「いや……それが」
「ちゃんとコンドーム用意しただろうな? おすすめは0.02mmだぜ。0.01mmより感度は劣るけど、そこはコスパ……」
 ひとの話聞いてくれよ。この人根っからのゲスだな。
「それが、今日はやめとこうかと思って」
「は? なんで?」
 丸井先輩は素っ頓狂な声を上げたあとで「あぁ、そうか」と唸った。さすが恋愛上級者、俺が怯んで逃げ出したこともお見通しなのか。
「しょうがねえだろぃ。タイミングが悪かったよ。生理じゃな」
 と思ったらぜんぜん、見通してなかった。
「違います! いや、聞いてないから知らないっすけど!」
「じゃあどうしたんだよ? まさかいまごろになってビビり出したんじゃないだろうな」
 今度は図星を突かれた。俺が押し黙ると、電話の向こうでため息が聞こえた。
「そうなるかなとは思ってたけど、まさかマジにそうなるとはな」
 あきれ果てた様子だ。
 俺は弁解しようとして、やめた。せっかく相談に乗ってもらったのに、顔向けできない。この後のプランだけ、恥を忍んで指南してもらおう。
「……それで、この後どうしたらいいっすかね?」
「あぁ? 解散すればいいんじゃねえの?」
 盛大に面倒くさそうだ。仕方ないんだけど。俺が迷惑かけたせいだから。
「それが、がもっと俺といたい……みたいな感じなんすよ」
「は?」
 丸井先輩は絶句した。
「お前さ、女に恥かかせんなよ」
 いきなり説教される。
「なんすか、藪から蛇に」
「それを言うなら藪から棒だろぃ。それはいいけど、もっといたいってのは、からのオーケーサインだろ?」
 ……え? そうなのか? いや、でもそんなはずは……に限って。
「いや、それはないっすよ。あいつの性格、丸井先輩も知ってるでしょ?」
 反論すると、丸井先輩は心底うっとうしそうな声を出した。
「あー」といらついた様子で俺の言葉を遮ってくる。
「お前なんか一生、童貞でいろ。ついでにもだれかに取られちまえ」
 通話は一方的に切られた。なんなんだよ、いったい……。
 俺は仕方なく、カラオケでも提案することに決めた。トイレを出て、の待つテーブルへ戻った。
 は食事を中断して、待ってくれていた。料理、冷めちまうじゃん、俺のバカ!
「悪ぃ、先食べててくれてよかったのに!」
 俺はあわてて椅子につき、パンをたいらげた。ウェイターを呼んで、パンを追加してもらう。間隙を縫って、豚肉のローストの皿も空にした。
 は十分、満足したらしく、パンは最初に配られた分しか食べなかった。デザートのチョコレートムースが提供される。
「かわいい、写真撮っていいのかな?」
「いいんじゃねえ?」
 がスマートフォンでチョコレートムースの入ったカップを撮影した。
 今日はもともとの目的こそ達成できなかったけど、とこういう時間を持てただけでも、きてよかったよな。そう自分に言い聞かせながら、ムースにスプーンを差し込んだ。これふた口で食べ終わるな。
、このあとだけどさ」
 は表情を止め、眼底に緊張の火花を走らせた。凍りついて動かない。ムースをすくったスプーンを口へ運ばずに、俺の次の言葉を待つ。
 様子が変だな。俺のほうでも注意深くを観察しだした。は俺の目を見ているようで、その実は見ていない。そういえば、さっきから何度か妙な空気が流れた。話の流れを思い出す。
 がこんなふうに迷ったのは、俺が門限を聞いたときと、のほうから何時までいたらいいのか聞いてきたときだ。
――お前さ、女に恥かかせんなよ。
 丸井先輩の声が脳内で再生される。
――もっといたいってのは、からのオーケーサインだろ?
 俺はを凝視した。のほうでも少しためらった末に、おずおずと俺を見返してくる。頬が赤いのは、キャンドルライトの炎が揺れるせいではなかった。カラオケでも行かねえか、と提案しようとして、いま一度先輩の叱責がリフレインする。
――もだれかに取られちまえ。
 それは、いやだ。それだけはいやだ。は俺のもんだ。
「……俺のうち、泊まらねえ?」
 おそるおそる、短い言葉で問いかけた。沈黙が生まれた。ストレスで禿げそうなほど、長い沈黙だった。何度も唾を飲み込んだ。ジンジャエールを飲み干す。
 は長い間、スプーンですくったままだったムースを口に運んだ。続けて手を動かし、カップを空にする。食べ終えると、ナプキンで口を押さえた。目を伏せる。表情の下半分をナプキンで隠した。首が、小さく動く。がうなずいたのだと理解するまで、しばらくかかった。
 は耳の端まで真っ赤だった。
 椅子の音がガタガタと鳴る。俺がよろめきながら立ち上がったせいだ。
「じゃ、じゃあ、帰ろうか」
 ウェイターが歩み寄ってきた。
「お会計を」とテーブルに伝票とカルトンを置く。
 俺は諭吉さんと一葉さんを預けた。つり銭を受け取るや否や、歩き出す。
「本当に、俺んちきてくれんの?」
 は無言で再びうなずいた。
 レストランを出ると、俺は舞い上がって、の手を取った。冬の風の冷たさは、まったく気にならなかった。指先に触れる、の体温ばかりが気になった。
 ときおり、潤んだ瞳で俺を見つめてくる。そのくせ、俺が見返すと、あわてて視線を外してしまう。
 俺たちは連れ立ってホテルを抜け、駅へ向かい、電車へ乗った。道中、の皮膚が冷えてきたので、スヌードをつけてやった。もされるがままになったあとで、小さく「ありがとう」とつぶやいた。家の最寄り駅に着く。ちらっとコンビニが目に留まる。
――ちゃんとコンドーム用意しただろうな?
 また丸井先輩の残した助言が甦る。まずい! さっきは諦めてたから聞き逃したけど、俺、コンドーム用意してない。0.02mm、0.02mmと口内で繰り返しつぶやく。
、コンビニ寄ってもいいか?」
「あ……じゃあ、私、家に電話するね」
 の目を盗んでコンドームをレジへ運ぶミッションは、こうして簡単に達成された。
 は友達の家に泊まると伝えたらしく、俺と違って日ごろの行いがいいので、すぐに親から了解をもらえた。
 俺がコンビニを出ると、入れ替わりでが店内へ入った。
「替えの下着買ってくるから、待ってて……」
 当日いきなり誘ったせいだ。俺が金を払うべきなのか、でも男が下着代を出すのって、却ってデリカシーに欠ける行為なのか……とぐるぐる考えをめぐらせてるうちに、いつのまにか小さな紙袋を抱えたが戻ってきた。
 俺はまたの手をつかんで、家を目指す。ともすればスキップしそうになるのをこらえて、懸命に歩調をに合わせた。本当は走り出したい。でもそうするとを引きずってしまうので、何度も後ろを振り返って、無理をさせていないか確認した。
 肩越しに見やるたびに、がとっさにうつむいてしまうのが、たまらなく愛らしかった。
 やりたい。すんげーやりたい。それは事実だ。否定のしようはない。
 でも、いま俺の胸を膨らませるのは、下心だけが理由ではなかった。に決心してもらえたこと。が俺ならと委ねてくれること。俺を信じて、家をたずねてくれること。それがたまらなく嬉しかった。

 自宅へ到着すると、俺はドアを開けて、今度は順番を間違えなかった。
「どうぞ」と声をかけ、を先に進ませる。レディファーストだ。
「……お邪魔します」
 俺も後に続いて、電灯を点けた。を部屋へ招き入れる。
 は所在なさげにたたずんだ。
 俺はのアウターを預かり、ハンガーにかけてやった。スヌードも返してもらう。
「えっと……適当に座れよ、クッションに」
 だが、クッションはひとつしかない。
 俺はデスクの椅子に座ればいいのか、と考えたが、それだと距離がありすぎる。下心を見ぬかれやしないか、心臓をばくばくさせつつ、をこわごわながら一瞥した。
「クッションはひとつしかないから、ベッドに座ろうぜ」
 しかし、は腰を下ろさない。警戒してるのか、と考え、ひとまず椅子に座ろうとしたら、のほうから口を切った。落ち着かない様子で、首を撫でつけるしぐさをする。
「あの、シャワー借りてもいい?」
 ベッドに座ったら、そのままスタートするのを危惧したらしかった。
 俺はただ語らいたかっただけなんだけど、のほうがそこまで覚悟を決めてくれてるなら、据え膳食わぬは恥というやつだ。でも、を先に入れて、湯冷めさせたらまずいよな……冬だし。
「俺が先に浴びてくる。は待ってて」
 がうなずくのを見届けてから、部屋を出た。緊張のあまり、口から心臓が飛び出しそうだった。
 外は寒かったから、は湯船につかりたいかもしれない。念のため、湯を張るようセットした。いつもより熱いシャワーを浴び、身体を隅々まで洗う。肝心なところは特に念入りに……。
 泡を洗い流しながら、俺は風呂を出たあとの流れを思い描こうと必死になった。電気は点けたままだとよくない。でも俺の部屋は光量の調整なんか出来ない。真っ暗だと何もできなくなってしまう。
 悩むべきはそこだけじゃない。音楽か何かかけたほうがいいのか。ムードを演出できる曲なんか、俺のスマートフォンに入ってたか?
 俺はタイルの壁に額を押し付けた。これまでスマートフォンのAVで蓄えた知識が、すべてシャワーの湯とともに洗い流された気がした。頭の中が真っ白だ。
 だが、不安がってばかりもいられない。のほうが俺の何倍、何十倍、いや何百倍も不安にちがいない。それでも俺を信頼して、ここまでついてきてくれた以上、裏切ることは出来なかった。
 俺は覚悟を決めて、浴室を出た。手早く水滴を拭い去り、服を着て、のもとへ戻った。
「お待たせ。……次、、浴びる?」
 はクッションの上にうずくまっていた。おもむろに顔を上げる。困ったように眉根を寄せたが、何も言わなかった。立ち上がり、俺の部屋を出ようとする。
 俺は思わず、すれ違いざまに、の腕をつかんだ。
「……赤也くん?」
「いやなら、やめとこうぜ。俺は、やりたいけど……」
 末尾は恥ずかしくて、さすがに声をひそめた。
「けど、無理強いはしたくねえ。が嫌なら、今日はただ寝るだけにしよう」
 は黙り込まなかった。決然と俺の視線を受け止める。
「嫌じゃないよ、そんなわけない。私は、赤也くんが好きなんだから」
「俺も好きだよ」
 すかさず伝える。は少し笑った。
「ありがとう。ただ、卒倒しそうなほど、緊張してて……」
 緊張しているのは、俺だけじゃなかった。
 俺はの手を取り、そっと自分の胸にあてた。心音が伝わるように。
「聞こえる?」とささやいた。心臓は早鐘を打ちっぱなしだ。オーバーヒートして、いまにも絶命しそうだった。
 はてのひらに感じた鼓動が予想外だったのか、首を傾げた。頬は強張ったままだが、口元には笑みがある。
「うん。……私だけじゃ、ないんだね」
「そういうこと」
「それじゃあ、シャワー借りるね」
「湯船にお湯張ったから、ゆっくりしてこいよ」
 俺はTシャツとスウェットを渡して、を見送る。もうすぐ、念願の彼シャツを着たを目の当たりに出来る。
 俺は喜びの絶頂を迎えた。しかし、浮ついてばかりもいられない。電気を切って、デスクとベッドサイドの灯りだけを灯す。これで薄暗さは完成した。音楽は、俺のスマートフォンにはうるせえやつしか入っていないので、断念した。
 調達してきたコンドームを箱から出し、つけるのに失敗したときのために、二個箱から取り出して、枕の下へ忍ばせる。
 これで準備万端だ。あとは流れを考えよう。まさか直前に丸井先輩に連絡して、指南を乞うわけにはいかない。
 ベッドに腹ばいになり、スマートフォンでそれらしい情報を検索する。
 まず、を優しく抱き寄せ、不安をほぐすように愛の言葉を囁き……愛の言葉? どんなこと言えばいいんだ!
 やばい、昨日寝てないから、眠くなってきた。頭をフル回転させ、眠気に抵抗する。
 、きっとふだんの何倍もかわいいだろうな、想像が追いつかないぜ。まず、キスをして、落ち着かせて……服に、手を……。

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