たとえばぼくが死んだら
幸村が倒れた。その一報は
に強い衝撃を与えた。
前兆はあった。部長に就任した直後から、彼はしばしば手足を軽くひねる仕草をした。部活仲間には、いつもの抑揚のないくちぶりで「柔軟体操だよ」と応じた。
にも笑うだけで多くを語らなかった。
は心配して食い下がる。そうすると、困って眉根を寄せた。
「手足がときどき痺れるんだ。大したことはないと思うんだけど」
そのとき病魔はすでに幸村の肢体に巣食い、根を広げていた。
は息を切らして、全力でペダルを踏みこんだ。車輪がまわるのが遅くて、もどかしかった。
「来てくれたんだ、
」
病室へ駆けつけた
を迎えたのは、ふだんと変わらぬ幸村の笑顔だった。薄緑の寝間着をまとい、枕を腰の後ろへ挟んで、ベッドの上で上体を起こしている。
彼女は幸村の名を呼びかけながら、足早に近づいた。
「具合、どうなの?」
「いま、母が医師の説明を受けてる。いまのところなんともないよ。……手足が動かないほかはね」
幸村はまた平坦な語調で返した。テニスを愛してやまない彼からすれば、絶望的な事態だ。だがそれを感じさせない態度だった。ベッドサイドの鏡をのぞきこんで、髪の乱れがないか確認する。
「
が来てくれるって知ってたら、身だしなみを整えておいたのに。どこか変じゃないか?」
緩いウェーブのかかった、いつも通りの髪型だ。何もかもがふだん通りに見えた。違うのは、ここが病室で、彼は病人であるということだけだった。
は泣き笑いの表情を浮かべた。
「何を泣いてるんだい?」
そう問いかけてから、ベッドの横の丸椅子に腰かけるよう促す。
「椅子を引いてあげられなくて、ごめん」
「そんなこと、謝らないでよ」
は鼻をすすりながら座った。鞄のポケットからハンカチを取り出し、濡れた目元を押さえる。
幸村は愉快そうに「鼻、赤くなってる」と指摘した。
は笑い返そうとして失敗した。視界が結露を起こす。泣けば幸村の負担になる。それを知っているからこそ、目の縁で涙をとどめた。切なさで胸が詰まる。
「
、頼まれてくれないかな」
重苦しい空気を変えようとしたのか定かではないが、幸村はそう切り出した。
がハンカチをしまい、椅子から腰を浮かす。
何をすればいいのか問われた幸村は「カーテンを閉めてくれないか」と頼んだ。
窓ガラスの向こうに石灰色の空が広がる。冬の訪れはまだ先だ。にもかかからず、雲は凍てついて見えた。
は言われた通りにカーテンを引く。クリーム色の襞が揺れ、外の景色を覆い隠した。
「ありがとう」と幸村はいい、目を閉じた。疲労を覚えたのかもしれない。
そろそろ引き上げるべきか、あるいは幸村の不安をやわらげるために刻限までいるべきか、
は迷った。その判断を終えるより早く、数人の足音が近づいてくる。
「幸村!」
口を切ったのは真田だった。
「大丈夫なのか?」
問いかけたのは柳だ。
赤也も身を乗り出して見つめている。自分が倒れたわけでもないのに、いかにもつらそうに眉をひそめるのが、彼の感受性の強さを示した。
幸村は目を細めて、三人を見上げた。
「来てくれたのか」
「当たり前じゃないっすか!」
赤也がベッドに手をつき、幸村に語りかけた。
「みんな行きたいって聞かなかったんすよ! でも、柳先輩が全員で行くと病院に迷惑だからって……」
「その判断は正しいね。赤也ひとりでも騒々しいのに」
「ひでえよ! 部長!」
真田が腕を組み、横から付け加える。
「もっとも、一番聞かなったのは赤也だがな。それでこの面子になった」
幸村は笑い声を返した。
ふいに
の肩に、柳の手がかけられた。室外へ出るよう目配せされる。ふたりは幼馴染みで、気心の知れた仲だった。
は無言でうなずき、歓談する三人から離れた。
と柳はどちらからともなく歩き出し、エレベーターホールへ向かった。ベンチに並んで腰かける。
「まさか、こんなことになるなんて……」
彼女は顔を伏せ、長い息を吐きだした。
「大丈夫なのか?」
「わからない」
力なく首を振る。
「いまおばさんが、先生から話を聞いてるみたい」
「そうじゃない」
柳は沈痛そうに眉をひそめた。
の焦点の合わない視線をとらえようと、じっと目を凝らす。
彼女は意味を呑み込めずに、首をひねった。
エレベーターから入院患者が降りてくる。点滴スタンドを転がしながら、ふたりの前を横切った。患者が行き過ぎるのを待つ間、ふたりはしばし見交わした。
「俺が大丈夫かと聞いたのは、お前のことだ」
は目を白黒させた。
「私はなんともないよ」
「そう見えないから言っているんだ。気づいてないのか、顔が真っ青だぞ」
柳に観察されまいとして、
は横を向いた。頬に手をあてる。自分でもぞっとするほど冷たかった。皮膚が粟立つ。その感覚すら柳に見透かされそうな気がした。あわててベンチから立ち上がる。
「化粧してないから」
「いつもしていないじゃないか」
柳の声に笑みが混じる。彼に嘘や隠し事は通用しない。
「お前が化粧をするのは、精市とのデートのときくらいだ」
指摘されて、
はくちびるをとがらせた。照れ隠しだ。
それを見た柳は、急に満足そうにうなずく。
「少しは血色が戻ったな。そろそろ戻ろう、精市に邪推されたら敵わない」
柳が冗談を言うので、
は無理に笑顔を返した。彼の励ましにこたえたい気持ちが働いた。作り笑いであることも見抜かれたはずだ。それでも、表情を動かすことで、いくぶん気が楽になった。彼女はいつも柳の狙い通りに歩かされている。
病室へ戻ったふたりを出迎えたのは、幸村の冷ややかな視線だった。それまで気分よく赤也の話に耳を傾けていたのに、目つきを一変させた。
「俺たちが話している隙に
を連れ出すだなんて、参謀殿は意外と悪党だね」
柳は真田と赤也を順に手で指した。
「ずいぶんと盛り上がっているようだったからな。水を差しては悪いと思った」
緊張感がたちまち消毒液の臭いに溶け込む。
「何を話していたんだ?」
問われた
は、肩を縮めて狼狽した。柳が助け舟を出す。
「精市が恋しいのはわかるが、あまり長居をして負担をかけてはいけないと諭していた」
甘んじて悪役を引き受ける。それがさらに幸村の神経を尖らせた。景色も見えないのに、窓に視線を放り投げ、そのまま黙り込む。重い沈黙がおのおのの肩にのしかかった。
真田は事態のなりゆきを呑み込めておらず、腕を組んだポーズのまま静観を決め込み、赤也は借りてきた猫のようにおとなしくなった。
は別の話題を探そうと頭を捻ったが、徒労に終わった。
柳が「やれやれ」とわざとらしく首を振った。
「精市。それくらいにしておけ。魂胆が見え見えだ。皆の心配を取り払おうとしているのだろうが、ばればれだぞ」
ややあって、幸村が反応した。
「種明かしが早すぎるよ。もう少し遊びたかったのに」
赤也はゼンマイの切れた人形のように、椅子に崩れ落ちた。
「部長! こんなときに芝居打つなんてひどいっす!」
「
と赤也は騙せる自信があったんだ。……真田はどうだった?」
真田の眉間の皺が深くなった。
「感心できん悪ふざけだ」
「相変わらず冗談が通じないな」
幸村に反省の色はない。彼の元に笑みが戻った。
「あら、
さんにテニス部のみんな、きれくれてたのね」
幸村の母が姿を現した。突然の事態に見舞われ、疲労の色があらわだった。
「いまお医者様と話してたの。明日検査が行われて、その結果が週末に出るらしいわ」
「そうですか。……では、我々はそろそろ失礼するとしようか」
あまり長居しても邪魔になる。真田の提案に、後のふたりもうなずいた。
「あら、まだいいじゃない。もう少しいてやって」
母親が引き止める。面会の刻限までにはまだ余裕があった。
「我々がいると、幸村くんも休みづらいでしょうから、今日のところは失礼します」
柳が丁重な辞去の言葉を述べた。
も床に置いてあった鞄を持ち上げた。
「
」
病室を去る直前、幸村は
にだけ呼びかけた。
「また来てほしい」
「もちろん」
彼女は笑って請け負った。母とお辞儀を送りあってから、ドアを閉める。
彼らは連れだってエレベーターへ乗り込んだ。下級生の赤也がボタンを押した後、後頭部へ手をまわした。
「部長、思ったより元気そうっすね。倒れたって聞いたから、どうなることかと思ったっすけど」
と柳は返事をしなかった。ただ真田だけが満足そうにうなずいた。
は壁によりかかる。エレベーターの振動が肩口から伝わってくる。どこまでも落ちていきそうな、絶望的な心地がした。だが、まだ希望は残されている。
彼女は気分を上向けようと努めた。検査結果が出ないうちから落ち込んでも仕方がない。そう自らに言い聞かせた。