真田たちは立海からタクシーで駆け付けたらしい。荷物を部室へ置いたままなので、一度戻るとのことだった。
 は彼らに別れを告げ、ひとり駐輪所へ向かった。背を屈め、自転車に鍵を差し込んだ。急に力が抜け、うずくまった。立ち上がれなくなる。
 うっすらと月が浮かび上がる空は鉛色をしていた。不気味な色だ。
 彼女は頬に吹き付ける秋風を不快に感じて、首を振った。

 呼びかけられて、顔を上げると、柳がたたずんでいた。名前で呼ばれるのは、出会ったときからずっとだ。
 柳の登場により、彼女はいつまでもしゃがみこんではいられなくなった。なんとか立ち上がり、自転車のハンドルに手をかける。
「タクシー、まだ来ないの?」
「俺は乗らなかった」
 は理由を聞かなかった。柳のほうから話すのを待つ。
 彼はおどけた調子で続けた。
「理由は明快だ。金が足りなかった」
 見え透いた嘘だ。復路の持ち合わせがないのにタクシーへ乗り込む愚行を、柳が犯すはずはない。仮にそれが起こりえたとしても、真田や赤也に借りれば済む話だ。
 だが彼女は進んで騙された。ひとりでなくなったことに救われた気がした。
「災難だね」と相槌を打ち「それで?」と話の先を促した。
「お前の自転車を当てにしてきた。漕ぐのは任せるといい」
「仕方ないなあ」
 はハンドルを譲ろうとしたが、柳にとどめられた。
「院内の敷地を出るまでは、お前が押して行ってくれ」
 柳は先立って歩き出した。
 は訝りながら、やむをえず後を追う。日が沈む。駐輪場に残る自転車の影はまばらだった。ほとんどが持ち主に放棄されたものだろう。
 彼女は遅ればせながら、柳の真意を見抜く。駐輪場は、ちょうど幸村の病室から見下ろせる位置だった。
「カーテンを閉めていたし、この薄暗がりだ。精市が俺たちを見つける可能性はかなり低い」
 そう分析してみせる。だが、物事に絶対はない。確信が持てない以上、柳は対策を講じる。その思慮深さが参謀と呼ばれる所以だった。
 は自転車を押しながら、疑問を口にした。
「でもそれなら、外で待っていてくれればよかったのに」
「そうしていたんだ。だが、お前がなかなか出てこなかった」
 そんなにも長い間、塞ぎ込んでいたことを彼女は自覚する。睫毛を伏せながら歩いた。
「立場が逆なら、私は見落としたのかと思って、先に帰っちゃうな」
「俺はのことなら見落とさないさ」
 意表を突く言いまわしをされて、は思わず立ち止まった。
「お前のせいじゃない。幸村が倒れたのは」
 なぜ急にこんなことを柳が言い出すのか、その理由を彼女はわかっている。聡明な幼馴染を相手に、秘密を守りおおせた試しはない。
 柳の澄み切った瞳の中に、ブレザーを羽織った少女が映り込む。
 彼女は憂いに満ちた面持ちを浮かべた。頬を伝う涙に、いまも気づかないようだった。
「泣くな、大丈夫だから」
 そう声をかけられて、ははじめて自分が泣いていることを知った。柳の瞳の中の少女は彼女自身だ。涙の止め方がわからず、呆然と立ち尽くす。
 彼女は自分を裁きたかった。なぜ幸村が変調を訴えたとき、もっと早くに病院をたずねるようすすめなかったのか。拒まれても、無理に引っ張っていくべきだった。それを怠った報いが、彼女ではなく幸村に降り注いだ。
 こともなげに見過ごした、ありふれた日常のひと場面が、幾度も脳裏に去来して彼女を罰した。
 自転車が倒れかけたのを、柳が寸でのところで支えた。とっさに距離が縮まる。突風が吹き抜け、彼らの心情を揺さぶった。
 は片手でスカートを押さえた。その動作が彼女を現実に引き戻した。柳からハンドルを奪い取る。
「ごめん、ありがとう」
 しかし、またすぐハンドルは取り上げられた。
 柳はキックスタンドを起こした。振り返れば、とうに病院の門はくぐっていた。
 彼はしゃがみこみ、サドルを上げる。
 は所在なさげにたたずんだ。片腕を抱きしめるしぐさをする。空白を埋めようとして、口にのぼらせたのは、触れるべきでない話題だった。
「幸村くん、きょう、本気で怒ってたね。蓮二のおかげで、お遊びっぽくなったけど」
 柳はサドルの準備を終えた。またがり、地に足をつけ、高さを確かめる。に荷台へ腰かけるよう促した。
 彼女はためらいながら、柳の背に手を置く。
「危ないぞ、ちゃんと腰に手をまわせ」
 はたじろいだが、意識するほうが不自然な場面だった。指示された通り、身体を密着させる。
 柳の体温が思っていたより高いことに、彼女は動揺した。肌寒さに原因を求めようと結論する。
 自転車はゆっくりと動き出した。ペダルがきしむ音に、柳の声が重なった。
「精市もうろたえているんだろう。そうでなければ、あんな勘ぐりはしない」
 は黙ってうなずいた。彼女がそうしたことは、背中越しに気配で伝わるはずだった。
 彼女は病室の幸村に思いを馳せた。あんなにも自在に躍動していた四肢が、いまはぐったりと横たわるばかりだ。彼の胸裏にはおびただしいほどの不安がせりあがっているにちがいない。
 このままなんてことはない。そんなことがあっていいはずはなかった。あんなに懸命だったんだからと彼女はひとりごちる。考え込むうち、いつしか柳の背に頬を寄せていた。
「懐かしいな。こうしてふたり乗りするのは何年ぶりだ?」
 七年前、ちょうど小学校にあがったころのことだ。
 彼らは当時、どちらが早く自転車の補助輪を取れるか競い合った。
 先を越した柳が、バランスの取り方を教えてやると言い出した。ちょうどいまと同じように、を後ろへ乗せて、目的地も決めずに出発した。途中、何度もふらつきながら、どうにか転倒せずに進んだ。
 は懐かしそうに笑った。
「何がおかしいんだ?」と問われて、思わせぶりにほほ笑んだ。
「補助輪が取れたとき以来じゃない?」
 柳はばつが悪そうに黙り込んだ。さらに思い出が甦る。あのときは、から尊敬のまなざしを向けられるのが嬉しくて、つい調子に乗ってしまった。背中から聞こえる歓声が心地よくて、ずっと聞いていたいと欲張った。
 地平線に向かって走り続けた。気が付いたときには、見知らぬ場所だった。家路を見失った不安でぐずるをなだめながら、通行人に声をかけ、道をたずねてまわった。
 結局、巡回中の警察官に保護され、自転車に書かれた住所をもとに、ふたりして送り届けられた。
「あのとき……本当は俺も、少し泣いていた」
「全然、気づかなかった」
 は驚きの声をあげた。
「子どもとはいえ、男だからな。見栄を張りたかったんだ」
 柳は苦笑いを浮かべて語った。
「そんなこと言うキャラだっけ?」
「お前が相手だからに決まってるだろう」
 はあわてて首を立て直した。柳の背に頬を預けることが、にわかに許され難く感じた。自分を罰したい気持ちがこみ上げる。
 彼女はぶんぶんと頭を振った。
「やめてよ、こんなときに。おかしいよ」
 おかしいのは彼女のほうだ。幼馴染を相手に妙な感覚を抱くことこそが、そもそも不純だった。恋人が不幸に見舞われ、病室で取り残されているときに、こんな不埒な考えに取りつかれてはならない。
 けれど彼女の心は落ち着きを取り戻しつつあった。柳とのひとときがもたらした作用だ。
 彼女は自分をひとでなしだと感じた。柳との関係性が揺らぐことがあってはならない。だがひび割れた心情の表面は、たやすく体温の浸透を許す。暖かさは七年前から変わらなかった。
「そうか。……そうだな。すまない」
 柳はどこか寂しそうに謝罪した。それきり口をきかず、ペダルを踏むのに専念する。
 見慣れた帰路の景色がめぐり、ふたりの周囲を通り過ぎた。

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