翌日の放課後も、は幸村を見舞った。彼とはクラスメートでもあったので、授業の内容を伝えるために、ノートを持参した。
 幸村は昨日と同じ姿勢でを迎えた。
「やあ」といつも通り挨拶する。
「気分はどう?」
 問われて、彼女の腰かけた丸椅子のほうを向き、平然と吐き捨てた。
「最低だよ」
 愚問だったと彼女は後悔した。床に置いた鞄からノートを取り出そうとして、ためらう。
 聞けなかった授業の話など、彼は聞きたくないかもしれない。ややあって、幸村のほうから「どうしたのかな?」と問いかけてきた。
 彼女は迷ってから、言葉少なに応じた。
「あの……ノートを」
「借りるわけにいかないから、大丈夫だよ。明日も使うだろう?」
 は幸村の言わんとしていることを呑み込めず、頭を傾けた。幸村の口端にたちまち嘲笑がのぼる。自分自身を憐れむための笑みだった。
 彼は薄い瞼を閉じ、にわかるように言い直した。
「ノートをめくれないんだよ。持つこともできない。俺の手はいまがらくた同然だから」
 は心臓を抉られた気がした。だが最初に幸村を切りつけたのは、彼女のほうだ。自分自身を見下すような言動をさせてしまった。
 ノートを広げて、幸村の見える位置へ持っていこうとする。
 だが彼は横を向いた。視界に窓が入る。
「やめよう。ずいぶん時間がかかるよ。面会時間は無限じゃないんだ」
 がノートを片付けるのを待ってから、幸村は彼女のほうを向きなおした。
「カーテンを閉めてくれないか?」
 は心が黒ずんでゆく心地がした。立ち上がり、窓へ向かう足取りは重くなる。
 幸村は、外の景色を見たくないのだ。自分が駆けることのできない、外を目の当たりにしたくない。
 カーテンを閉める音が、室内に響いた。幸村が弱気になるのを、責めたり、なじったりすることは、できるはずがない。
 そもそも、この空間へ彼を導いたのは自身だ。彼女がちがう行動を取っていれば、ちがう現在があったかもしれない。
 仮定の世界に憧憬を持ったところで、なんの意味もない。
 それでも、彼らは空想に溺れるほか、自分たちを慰めるすべを持たなかった。
「病室の鍵も閉まればいいのに」
 幸村はうわごとのようにぼんやりと語った。
「そうすれば、君にキスしてもらえた」
 カーテンを背に、が振り返った。首を屈め、たじろぎながらも、くちびるを重ねようとする。寸前で幸村が顔を背けた。
「冗談だよ」と低い声でつぶやいた。
 彼の真意をはかりかねて、はひとまず席に戻った。話題を探すが、どれも幸村の気を晴らせそうになく、口を開きかけてはとどまるのを繰り返す。
 しばらくするとドアが開き、配膳用の台車が運び込まれてきた。食堂の職員らしき年配の女性を、若い看護師が先導している。
「お見舞い中だったの」
 看護師は手早くベッドテーブルを展開し、支度を終えた。
 湯気のたつ白米とみそ汁、焼かれた秋鮭、ほうれん草のごま和えに、杏仁豆腐が添えられている。は「おいしそう」とほほ笑む。料理自体は悪くなかったが、食器はすべて無機質な白のプラスチック製であり、いかにも病人食という見てくれだった。
 職員が頭を下げ、台車とともに去った。
 看護師はをまじまじとながめる。言いよどむしぐさをしてから、思い切った様子でたずねた。
「あなた、幸村くんの彼女?」
「……はい、そうですけど」
「まだ帰らない?」
 問われて、がうなずくと、看護師はあご先に手を当てた。
「いまから幸村くんは食事なんだけど……」
 そこで言葉を途切れさせる。面会は八時まで許されている。帰れと促されるいわれはない。
 は不審そうに看護師を見返す。幸村は上背があり、容姿も整っている。看護師がかわいがるのも無理はない。
 しかし、それは杞憂だった。看護師はあわてて手を振る。
「いやだ、誤解しないで。幸村くん、食事の手伝いはどうする?」
「今回は大丈夫です。彼女がいますから」
 幸村はにこやかに答えた。キスを避けたときの冷ややかさは失せている。
「そうよね。彼女に食べさせてもらったほうが、おいしくいただけるわ」
 看護師は満足そうにうなずき、を手招きした。病室の入り口に備え付けられた洗面所へ連れ入る。
「ちゃんと手を洗ってね。ほら、いま食中毒とか、うるさいから。アルコールスプレーを手にすり込むのも忘れないで」
 そう指導してから、廊下へ出て行った。
 は看護師に言われた通り、蛇口から水を垂らし、手を濡らした。石鹸を泡立て、手に揉み込みながら、そうだったと納得する。
 幸村はひとりでは食事ができない。介助が必要なのは当然だった。
 手先からアルコールが臭いたち、鼻孔にもぐりこんだ。
 ベッドで待つ幸村からは、もう愛想は消えていた。と目をあわせようとしない。
 それでも彼女はスプーンを握った。
「こんなこと、されたくなかった」
 幸村の肩が震えた気がした。実際には微動だにしていない。
 はためらいがちに白米を盛ったスプーンを差し出した。
 しかし、幸村が素直に口を開くことはなかった。悲痛そうに眉間をこわばらせ、掠れた声を絞り出す。
「今日は帰ってくれ」
「でも……」
 は食卓を見下ろした。幸村は力なく首を振った。
「一食くらい抜いても、なんてことはないよ」
 そう言い捨てたときの表情は、頑なだった。
 説き伏せるのは難しいと判断したは、鞄を拾い上げた。努めて明るく別れを述べる。挨拶は返らなかった。
 部屋を出ようとする彼女の背中に、不機嫌な声が投げかけられた。
「昨日は柳とどこか寄ったの?」
 は驚いて振り返った。一緒に帰ったことは知られていないはずだ。
 幸村のくちびるが緩み、そこからふっとか細い息が漏れた。
 ああ、とは内心で嘆く。頭を抱え込みたくなった。せっかくの幼馴染の厚意を無駄にしてしまった。
「やっぱりね。……その反応が見たかったんだよ」
 幸村が腕を振るい、食卓に並んだ食器を払い落とした。それは幸村が健康であれば、そうしていたにちがいないという、彼女の予想だった。実際には無力そうにまつげを震わせるばかりだ。
 入院してたった二日で、互いの心のありかを見失ってしまった。思いの乖離が、加速する。
 はエレベーターへ乗り込む前に、ナースステーションへ立ち寄った。カウンターに腰かけていたのは、さきほど幸村の部屋をたずねた看護師だった。
 彼女はに気づいて顔を上げた。
「すみません、幸村くんの食事の手伝い、やっぱりお願いできませんか」
 看護師は立ち上がった。申し訳なさそうに眉を下げる。
「……そうよね、男の子だものね。彼女にみっともないところ見せたくないか。心配しないで、ちゃんと対応しておくから」
 は安心し、お辞儀をしてから、エレベーターへ乗り込んだ。無用のノートを何冊も詰め込んだ鞄が重かった。逆の手で持ち替える。スマートフォンを取り出し、アプリを通じ、柳へメッセージを送った。内容は簡潔だ。
「ごめん、ばれた」
 ただちに既読マークがついた。
「予測の範囲内だ。気にするな」
 柳に迷惑をかけたことを悔いる。そこでエレベーターがロビーに到着した。スマートフォンを鞄へしまい、病院をあとにする。鬱積した気分が少し晴れた。足取りが軽くなる。
 その原因に気づいて、彼女はまた自己嫌悪に陥った。幸村から離れられたことに安堵したのだ。それでも、と考えを繋ぎながら、視線をローファーに落とした。彼のそばは、息が詰まった。
 家路につく途中で、下校中の柳と出会った。どちらからともなく近づく。
 ふたりは自転車を押して、しばし並んで歩いた。柳のほうから口をきく。
「精市はどうだった」
「変わらない。……いや、変わってるのかな。だいぶ荒れてたよ」
 彼は「そうか」とだけ返し、あとは黙り込んだ。言葉を選びかねているらしい。その沈黙がには好ましい。気まずさを回避しようと、無理に雑談を並べ立てるよりは、静寂を共有するほうが、ずっと心地よかった。
 柳の肩は、のそれよりもずっと高い位置にある。だから決して肩先がぶつかることはない。近くにいるのに、触れ合わない。それが幼馴染というものだ。
 出し抜けに柳がサドルに飛び乗った。
「先に行くぞ。お前も早く帰れ」
 は応じて、しかし自転車へ乗ろうとはせずに、のろのろと歩き続けた。柳の姿が見えなくなったことに安堵を覚える。会えば精神の安定を得るのに、そうすれば今度は罪悪感がこみあげる。
 空はもう夜に支配され、星すらも瞬かない。その暗さが、彼女をおののかせた。ハンドルをきつく握りしめ、進路を見誤らないよう、慎重に足を踏み出した。

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