が次に幸村の病室をたずねたのは、検査結果の出る土曜日だった。授業は昼で終わる。
 真田と柳も呼ばれており、ふたりとともに学校から直行した。
 の足取りは重い。靴に鉛でも仕込まれたのかと疑いたくなった。
「大丈夫か。俺は外してもいいんだぞ」
 柳の気遣いに感謝しながらも、申し出は受けなかった。来なければ不自然で、却って幸村から怪しまれてしまう。
 真田は黙って成り行きを見守る。なんの話をふたりが交わしたのかもわからない様子だった。
「よくきてくれたね」
 病室をおとずれた三人を迎えたのは、幸村の曇りのない笑顔だった。その表情を見て、は希望を膨らませる。危惧したより、予後はよいのかもしれない。
 それでも相変わらず幸村の手は動かなかったし、カーテンは閉じられたままだった。
 彼は淡然としたくちぶりで語った。
「今朝、主治医から話を聞いたけど、診断は下りなかった」
「……原因不明、ということか?」
 柳が聞き返す。
「ギランバレー症候群と似た症状だけど、それとはまた違うらしい。病名がついていないんだよ」
「ごめん、蓮二。ギランバレー症候群って?」
 は解説を求めた。
が知らないのも無理はない。筋肉が麻痺し、手足の動作が不能になる病だ。だが決して不治の病ではなく、難病指定もされていない」
 幸村とまた一緒に過ごせる。その未来を思い描いただけで、胸が熱くなった。幸村が自棄を起こすことも、きっともうないだろう。闘病は楽ではないかもしれないが、懸命に支えていこうと誓う。
 が柳と見交わし、真剣に傾聴するさまを、幸村は冷ややかそうにながめた。のけ者にされた気分だ。ふたりが名前で呼び合うのも、いまさらながら気に食わなかった。俺だって名前で呼ばれていないのに、と胸中で不平を述べる。
「ギランバレー症候群の治療法は有効なのか?」
 柳から質問されて、幸村はあわててにらむのをやめた。感情のこもらない笑い方をする。
「いいや。……ただ治療法は判明している。過去に同じ症例があってね」
 幸村は瞼を閉じて、いったん言葉を止めた。ひと呼吸置いてから続ける。
「適応する手術法があるんだ。成功率は低くない。高くもないけどね」
「怯むな、精市。可能性があるなら挑むべきだ」
 真田は力強くうなずき、幸村の肩をつかんだ。柳も同意する。
 だけが不安そうに瞳を揺らした。失敗したら、どうなるのだろう。
 彼女は自分のことのように怯えた。とても彼らのように果敢な考え方は出来ない。
 幸村は「ああ」と相槌を打った。その後でつけくわえる。
「挑めるのならね」
 空気がたちまちこわばった。ある者は動揺し、またある者は緊迫する。ただ当事者である幸村だけが、病など忘れたようにふるまった。
 電灯のやわらかい光が照り、たち三人の影を、光沢を帯びた床に逆さまに浮かび上がらせた。そこにはベッドの上の幸村だけが含まれない。世界から除かれてしまったようだ。
「日本国内で俺の執刀が出来るのは、東帝大病院大門先生のただひとり。先生のオペを待つ患者はあまりに多い。……俺の体力が持つのと、順番がまわってくるのと、どっちが早いか。こればかりは担当医も予測がつかないと言っていたよ」
 は頭蓋に打撃を受けた気がした。よろめいて、倒れ込みそうになるのを、柳が支えた。丸椅子に座らせる。
 幸村はふたりのやりとりを平然とながめていた。ややあって、真田を見つめる。
「真田、今日からは君が部の指揮を執ってくれ」
「もとよりそのつもりだ。お前の不在はしっかりと守る」
 真田は深々とうなずいて承知した。しかし、幸村の真意は別だった。
「俺は部長を降りるよ」
 その宣言は青天の霹靂だった。
 真田と柳は瞠目し、顔を見合わせる。
 その反応を目の当たりにしながら、幸村はまったく介意しなかった。こともなげに話を進める。
「副部長の人事は一任する。もっとも柳以外の選択肢はないと思うけどね」
「待て、精市」
 それは真田の言葉であり、柳の言葉でもあった。ふたりの声が寸分たがわず重なった。
 柳はいったん口をつぐみ、真田に発言の機会を譲る。
「それはならんぞ!」
 柳に思いを託された真田は、眉を逆立てて幸村に向き直った。
「大病をして、弱気になるのはわかる。俺がお前の立場なら、きっと無様に激しく取り乱しただろう。だが、部長を降りることは許さん。一度引き受けたからには全うしろ」
「……こんなことでは部の統率は図れないよ。新体制になったばかりで却ってよかったと考えるべきだ。スムーズに新部長のもとにみんな集えるだろう」
「ならんと言っている。、なんとか言ってやれ!」
 どうでもいい。はそう叫びたいのを寸でのところでこらえた。彼らのテニスを愛する気持ちは痛いほどよくわかる。だが、恋人の生死を争う事態を前にして、部長の人事をめぐって争う彼らには、違和感を禁じ得ない。
 部長なんか辞めてしまえばいい。一生、ラケットを握れなくてもいい。ただ幸村が生きて、自分に笑いかけてくれることが大切だ。抑揚のない、少し掠れた、高めの声で語り掛けてくれることが重要だ。それに勝るものなどない。
 は喚きだしたいのをかろうじて我慢した。その反動が目じりからこぼれ落ちる。徐々に椅子からすべり落ち、ベッドに顔を突っ伏して泣きじゃくった。
「これでもお前は部長を降りるというのか!」
 の涙の理由を誤解した真田が叫ぶ。
 幸村は笑うのをやめ、眉をひそめた。窓に視線を移ろわせ、しばし黙り込む。やがて、苦悩の滲んだ声でつぶやいた。
「この話はまたにしよう」
 話の棚上げを受け、真田はひとまず納得し、リストバンドを直すしぐさをした。
 柳は腰を落とし、の肩口に手を添えた。立ち上がる手助けをする。
 彼女はしゃくりあげながら、椅子に腰かけた。未だはらはらと頬を伝う涙を、ハンカチで拭った。
 彼女の嗚咽が静まるのを待って、柳は幸村と真田を交互に見た。
「精市は治療に専念しながら、精神的支柱として病院から、後輩、特にまだ見ぬ新入生を支えてほしい」
「こんな病人にそんな大役が務まるわけがないよ。それに、そういえば、まだ話していなかったね」
 幸村は首をすっと起こした。三人をぐるりと見まわす。
「実は退院が決まったんだ。しばらくは自宅療養だから、もうここにはいなくなる」
「それではめでたいな」
 真田が祝福する。それに柳もうなずき返した。
「自宅のほうがゆっくりできるにちがいない」
「明日なら部活もない。皆で顔を出そう」
 真田の申し出を、幸村は首を振って拒んだ。
「完治じゃないんだから、来られても困るよ」
 口調こそ穏やかだったが、間を置かずに返したので、断りたいのだという意思は鮮明に伝わった。あまり大勢の部員に、身体が不自由なさまを見られたくないのだろう。
 そう推察したは、納得しない様子の真田を制止した。
「それは完全回復のときの楽しみに取っておこうよ」
「ああ、の言うとおりだ」
 柳が賛同したので、劣勢に回った真田は、しぶしぶ応諾した。
 幸村は「楽しみにしているよ」と気持ちのまじらない言葉を向けた。以前の自分に戻れる日など来ない。そう信じ切った物言いだった。
 ただ表情は変わらず柔らかかったので、真田は不審に思わなかった。
 と柳だけが不安そうに顔を見合わせた。その視線の交差が幸村は気に入らない。
は明日も来てくれるよね?」
 突然の依頼だった。
 は返事に窮する。嫌だとは言えない。だがひとりで来るのは避けたかった。かといって、柳と来れば事態は悪化へ向かう。真田とふたりで来るのは不自然だ。きっと彼は柳を外す理由を知りたがるだろう。
 袋小路へ追い込まれたは、視点を定めることに失敗した。
 その動揺を幸村は見逃さない。
「恋人に退院を祝ってもらえないなんて、俺はそんなに不幸な男だったのか」
 はうなずく以外の選択肢を持たない。だが首は頑として動かなかった。
 たじろぐ彼女を見て、幸村は不審そうに眉をひそめた。頬をゆがめ、いびつな笑みを浮かべてみせる。
「都合でも悪いのかな? ほかに大事な用があるとか」
 自分より優先すべき事柄があるとは言わせない。そういわんばかりの態度だ。
 は引き伸ばし続ける勇気を失う。
 柳が助け舟を出すか迷ううちに、真田が快活に笑い飛ばした。
「お前たちは本当に仲がいいな。精市のことはお前に任せておけば安心だ。頼むぞ、
 幸村は満足そうに目を細める。最後のとどめを刺してくれた真田に、謝意のこもったまなざしを向ける。
 はしぶしぶうなずいた。
 その胸中をおもんばかった柳が、遅ればせながら口を開いた。
「弦一郎、そろそろ引き上げよう。練習の総仕上げはしておきたい」
「む。もうそんな時間か。……幸村、落ち着いたら連絡をくれ。迷惑でなければまた見舞いたい」
 幸村は「もちろんだよ」と快諾した。
 はタイミングを見計らい、腰を上げた。しかし、幸村に見とがめられてしまう。
まで帰るのか。寂しいな。もう少しいてくれないか?」
 およそ彼らしくない台詞だ。しかし、病で気が弱くなっていることを踏まえれば、不自然だとも言い切れない。
 なりふり構わぬ攻勢に、は立ち尽くした。見かねた柳がフォローを入れる。
とは明日また会えるのだから、欲張りすぎるな。あまり話し込むと疲れが出るぞ」
 幸村は笑顔のまま動きを止めた。細めた目に敵意がちらつく。
「ふうん、、ね」
 また柳がの名を口にしたのが、癇に障った。今度はこらえきれず、牽制の一撃を仕掛ける。
 これには、一方の柳も譲歩しない姿勢を示した。正面から見返す。彼からすれば単なる長年の習慣であり、なんら咎められる覚えはない。こんなことで機嫌を損ねるようでは、ますますを幸村とふたりきりにはさせるわけにはいかない。なんらかの策を講じる必要があった。
「……確かに、柳の言うとおりだね」
 幸村はひとまずうなずき、の帰宅を許した。明日、柳を遠ざけることに成功したことで、当座の満足を得たのだろう。
 三人は続々とドアに向かって歩き出す。の心に暗い陰が差し込んだ。とても恋人に会った直後の表情ではない。
 一行は真田を先頭に廊下を進む。
 柳はやや歩調を緩め、に並んだ。小さな声でささやく。
「心配するな。俺に任せろ。いまの精市とお前をふたりきりにはしない」
 は涙目になって、柳を見やった。幸村を拒みたくない。それなのにふたりで会うのは耐えがたい。病に打ちひしがれる恋人を支える義務を怠り、自己愛だけを発揮する自分が許せず、気持ちがせめぎあった。
 はエレベーターの壁にもたれかかった。そうしなければ、柳に寄りかかってしまいそうだった。

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