幸村の家は駅からもほど近い、横浜市内のマンションにあった。
 エントランスを飾る街路樹の付近にいったん停車する。
 母親がトランクから車椅子を下ろした。あらかじめリースし、車に積み込んでいたものだ。も降車し、後部座席のドアへまわった。
「さ、幸村部長、大船に乗ったつもりできてください!」
 赤也が張り切って幸村を抱える。看護師に担がれたときとは違い、くすぐったそうに笑っていた。も手を添えたが、その必要はないくらいだった。
 赤也は軽々と幸村を持ち上げてしまった。車椅子へ座らせる。
「助かったよ、ふたりとも」
 母親は車を再び発進させた。マンションには機械式と平置きの駐車場があり、幸村家が使用するのは後者だった。
 赤也は居室まで付き添う気満々で、しっかりと車椅子のハンドルを握った。
 は幸村の背後にいるのをいいことに、こっそりと安堵の息をついた。柳に足を向けて寝られないと苦笑する。赤也がいてくれて命拾いした心地だった。そうでなければ、いまごろ神経をすり減らしているところだ。
 おそらく、と彼女は歓談する男子ふたりをながめた。幸村は赤也の前では、先輩としての尊厳を保とうとするのだろう、と推察できた。
「お待たせ。それじゃ、行きましょうか」
 ややあって母親が戻ってきた。四人で居室へ向かう。
 は幸村に何度か招かれ、訪れたことがある。
ちゃんもきてくれたんだ」
 ドアを開けると、幸村の妹が出迎えた。
 は妹に赤也を紹介した。
「幸村くんの部屋はそっち」
「うっす」
 車椅子のハンドルを握る赤也を、が後ろから誘導した。
 生活感のないリビングを抜け、幸村の部屋へ向かう。見晴らしのよい窓が四つも並ぶ、広大な角部屋だった。
 は思わず足を止めた。長身の幸村が手足を投げ出しても、なお余るくらいの規模だったベッドが、忽然と姿を消している。代わりに介護ベッドが運び込まれていた。
「ベッド、替えたんですね。こっちのほうが便利ですもんね」
 はなるたけ平然を装ってつぶやいた。
「ええ、車椅子と一緒に借りたのよ」
 母親はうなずいた。先の見えぬ病だ。それなのに、車椅子も介護ベッドも購入せず、借りて都合したのは、じきに快復に向かうはずだという、家族の切なる願いの証だった。
 はやはり来るべきではなかったと立ち尽くした。幸村が重い病を患うことの意味を痛感する。切なさで息が出来なかった。きっと、彼のほうでも、変わり果てた生活を恋人に見られたくなかっただろう。
 妹は車椅子の幸村をのぞきこんだ。
「お兄ちゃんの前のベッド大きすぎるんだよ」
 前のベッドはひとまず彼女の部屋に運び込まれたらしい。ぼやいてから「早くこの介護ベッド引き払ってよ」と軽口を叩く。
 妹なりの全快を祈る言葉に、幸村は曖昧にうなずいた。約束を交わせないことがつらい様子だった。
「先輩、もうベッドに行くっすか?」
「そうだね、寝心地を試してみようかな」
「了解っす!」
 赤也が抱きかかえようとするのを、幸村はいったん止める。
「赤也、何から何まで済まないんだけど、着替えさせてくれないかな」
「お安い御用っすよ」
 母親がスリッパの音をたてながら、パジャマを取りに行く。前開きのものを新調したらしい。
「そういえば、私ったら、お世話になったのにお茶も出してないわ。支度するから手伝ってちょうだい」
 母親は出ていく間際、妹も連れて行いった。
、悪いけど、カーテンを閉めてくれないか?」
 あくまでも外界を遮断しようとする幸村に、彼女は言葉を持たない。
 少しは外の景色を感じられた方が、気分転換になるのではないか。それが彼女の考えだったが、それを伝えて、幸村が納得できるようになるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
 彼女は分厚い遮光カーテンを閉じてまわった。半分は赤也が手伝ってくれた。
 母親がパジャマを手に戻ってきた。妹がを呼ぶ。
ちゃん、お茶淹れたから、少し休んで」
「ありがとう」
 着替えに同席するわけにはいかず、ちょうどよかった。
「俺は先輩の着替え手伝うっす」
「お願いね、切原くん」
 は礼を述べ、妹とふたりで幸村の部屋を出た。
 リビングへ戻り、暖かいティーカップを手にした。湯気はダージリンの香りをはらんだ。お茶請けのクッキーには手を付けない。すっかり消沈してしまい、食欲が出なかった。
 まもなく赤也が姿を現す。
「先輩、入っていいっすよ」
 は立ち上がった。
「もう、時間も時間だし、ここで失礼しようか」
「え、まだ来たばかっかりだよ、ちゃん。もう少しいてよ」
 妹が寂しがり、引き止めるのを辞退し、玄関へ向かう。
 赤也があわててを呼び止めた。
「帰るなら部長に挨拶しないと!」
「……切原くんが行ってきて」
 はつらそうに視線を外した。顔を伏せ、スリッパの足先を見つめる。
「会えば、別れづらくなるから。ずっとそばにいたくなる」
 赤也は反論する気力をくじかれた。
「うっす」と弱々しく返事をしてから、幸村のもとへ向かう。たちの帰宅を知った母が、見送りにやってきた。
「ふたりとも、今日は本当にありがとう。後日、改めてお礼させてもらうわね」
「そんな。後輩として当然のことっすよ。復帰試合の相手を俺に選んでくれたら十分っす」
 わざとらしく自分を売り込むことで、茶化してみせる。赤也の配慮に感心しながら、はこんどこそ立ち去ろうとした。
 しかし、再び引き留められる。彼女の足を止めたのは、またしても赤也だった。
「部長が、また来てくれるか聞いてきてほしいって。返事、もらって来いって言われてるんで」
 は努めて明るく笑った。
「当たり前だよ。ご迷惑にならない程度に、顔を出すから」
 母親は「いつでもきてあげて」とに頼んだ。
 は承知して、来る前には一報を入れさせてほしいと頼み、自宅の電話番号を教えてもらう。スマートフォンへの登録を終えたところで、伝言を終えた赤也が戻ってきた。
「お邪魔しました。失礼します」
 は深々と頭を下げ、幸村宅を辞去した。
 エレベーターへ乗り込んだ途端、彼女は長いため息をついた。額に手を押し当てる。堤防が決壊し、陰鬱とした気分が、奔流となってあふれ出す。泣き叫びたい衝動に駆られたが、赤也を困らせたくなかった。じっとこらえる。
「先輩、どうしたんすか?」
 幸村に会わずに帰ると言い出したことの不自然さは、どうにも隠しようもなかった。
 は参った様子で答える。声の端々が震えを帯びていた。
「つらいの。幸村くんを見てるのが。でも、いちばんつらいのは、私に見られてつらいだろうと感じてる幸村くんを見るのが、何よりもつらい。……私には何もできないから」
 赤也は黙り込んだ。何か気の利いた台詞を吐こうとして、結局何も浮かばずに沈黙を守る。昨年度までランドセルを背負っていた彼には、重圧が大きすぎる。
 はマンションのエントランスを抜けると、駅へ向かって歩き出した。
 赤也は突然はしゃぎだした。
「先輩、約束覚えてますよね? 肉、肉っすよ!」
 その空元気を好ましく思いながら、は大げさに顔をしかめてみせた。
「約束したのはケーキでしょ。肉なんて言ってない」
「食べ放題行けば、肉もケーキも両方食えます」
「だから破産するって……」
 駅前のカフェに寄り道し、はミルクティーをホットで頼み、赤也には約束通りケーキをふるまった。三千円のジャンボパンケーキを頼もうとする彼を必死で遮り、ショートケーキを注文させた。
 円卓をふたりで囲むうち、赤也がいちごを突きながらつぶやいた。
「こういうのって、なんかアレみたいっすね」
「あれ?」
 スプーンを振りながら赤也は話す。その行儀の悪さを、視線を険しくすることでとがめてから、は話の先を促した。ミルクティーに砂糖を入れ過ぎたかもしれない、と悔いる。
「浮気」
 赤也は窓の外の往来をながめながら、悪ふざけを言った。はティーカップを置いて、にっこりと笑った。
「浮気をするにしても、私も人を選ぶよ」
「ちぇ」と赤也は舌打ちした。たちまちケーキを完食してしまい、水を飲み干す。メニューを見直し、追加の注文を検討し始める。
「それは自分で払ってよ」と釘を刺してから、もミルクティーを飲み終えた。カップの底があらわれる。
 赤也は再び舌打ちをしてから、意地の悪い声を出す。
「人を選ぶって……柳先輩ならオーケーってことっすか?」
 は音をたててカップをソーサーに戻した。陶器が割れたのではと危惧するほどの音だった。気迫をこめて、赤也をにらみつける。
「こんなときに、何言ってるの?」
「……す、すんません」
 あまりの剣幕に驚いた彼は、頭を垂らして、反省の色を示す。
 は憤然と息をついて、立ち上がった。伝票をつかんで、レジへ向かう。
 あとから、赤也がすごすごとついてきた。
 会計を終えたは、カフェを出た。横に並ばず、数歩遅れてついてくる赤也を、肩越しに振り返った。
「別にもう怒ってないから。帰ろうよ」
 赤也は表情を輝かせて走り寄ってきた。
 後輩の切り替えの早さに、は苦笑いしながら、パスケースを取り出して改札を抜けた。
 赤也とはホームがちがった。彼は何度も手を振って、階段を駆け上がって行く。
 はエスカレーターに乗り、手すりをつかんだ。ひとりになると、自己嫌悪の衝動をさらけ出す。赤也にあたってしまったことが悔やまれた。柳の名前を出された途端、理性が弾けてしまった。
 彼女は手すりをつかんだ。ふと目線を上げ、エスカレーターの頂上をながめる。自分がどこへ行きたいのか、彼女にはわからなくなりつつあった。

 秋は深まり、空気に冬の臭いが混じりはじめる。喪失感は虚無感へ繋がる。
 彼女は日々をぼんやりと過ごした。授業を受け、友人と昼食を摂り、まっすぐ帰宅する。幸村が不在にするまでは、放課後になるとテニスコートへ赴き、フェンス越しに練習を見学するのが常だった。
 そのうちの何度かは練習が終わるのを待ち、放課後のデートを楽しんだ。過ぎ去った日々がひどく懐かしく感じられる。
 彼女は教室を出て、駐輪場に行こうとしたが、誤ってテニスコートへ来てしまった。習慣に引きずられてしまった。まだボールを打つ音は響かない。準備運動の段階だった。
 部員の中心にいるのが、幸村でなく、真田であることに、は改めて寂しさを感じた。きびすを返し、立ち去ろうとする。
せんぱーい!」
 赤也の声だ。
 彼はフェンスの向こうから、に手を振っていた。
 彼女が手を振り返すより早く、真田の叱責が飛んだ。赤也はあわてて練習に戻る。
 ふと視線を感じて、そちらを見返すと、柳がいた。彼はバインダーとボールペンを手に、考え事をしている最中のようだった。
 ふたりはしばらく見つめあったが、のほうから視線を逸らした。いま柳と声をかけあえば、よりかかってしまいそうな気がした。

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