大河原宅の電話が鳴り響いたのは、夜八時を過ぎた頃で、彼の帰宅を手作りの夕食と共に待っていた華絵は、突如音を立てたそれを見て、思わずレンの顔を見上げた。

「私が出るわ。大河原さんかも知れないもの」

 彼が受話器に手を伸ばしかけたのを見て、華絵は慌ててそれを遮るように受話器を持ち上げる。

「……もしもし」
『ああ良かった。まだいらっしゃったんですね』

 覚えのある大河原の声を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。

『実は今山梨県の方まで来てまして、このまま藤代の里を目指すつもりです』
「えっ!?」

 随分急な話に驚いて、華絵が大きな声を上げると、大河原は安心させるように気楽な笑いを零して、取材のためだと告げた。

『藤代記録の内容についてもう少し調べようと思っていましてね、まぁ、かすかなツテがこちらに無いわけでもないので、思い切って行ってみようと』
「で、でも……」
『ご安心ください、何だかんだで通い慣れた里です。留守の間、家の方は好きに使って頂いて構いませんよ。週に一度食料品を届けるよう業者に手配してありますので、必要な時は受け取って、いらんときは居留守でも使えば帰っていきますから』

 電話口の彼が快活そうに笑う。
 多分、華絵の声がよほど不安そうに揺れていたからだろう。

『それよりも心配なのはあなたの身です。一族の追手やゼンという狗の件はもちろんのこと、あの青い瞳の男も、あまり信用なりません。あなたに付き従うような素振りを見せてはいるが、……その本質はゼンと同じ化け物なのですから』

 レンに受話器を取らせなくてよかったと冷静に考えながら、華絵は「ええ」と短く答える。

『身の危険を感じたら、すぐに電話をください。二、三日ほど滞在した後そちらに戻るつもりではいますが、折を見て連絡を入れます』
「分かりました。大河原さんも、……どうかお気をつけて」

 はい、と慎重に告げられた相手の言葉を聞いて、受話器を置く。


「大河原さんは仕事で戻らないそうよ」
 振り返りながら言ったはものの、近くに居たはずのレンの姿が見当たらず、彼を探しに家の中を見て回る。


「……レン?」

 いつの間にか庭先のポーチに立っていた彼を見つけ、開け放たれたリビングの窓から声をかける。 

「大河原さんは取材でしばらく戻らないそうよ」
「そうですか」
「……何してるの? 風邪をひくわよ」

 狗である彼らが風邪を引いたりするのかは知らないが、寒々しい冬空に薄着で佇む彼を見てついそんな風に言ってしまう。

「……レン?」
「嫌な予感がします」

 空を見つめながら彼が言う。

「気配と言ったほうが良いかもしれません」
「……どういうこと?」

 訝しむようにして華絵が尋ねれば、彼は振り返り、呆けている相手を見つめその青い瞳を細める。

「姫様、俺はあまり鼻が利きません。それでも先ほどの一瞬、ゼンの匂いを近くに感じた気がしました」
「……」
「確信はありませんが、よほど近いと考えたほうがいいです」
「……そんな……」

 脳裏に赤い目をした少年の姿が浮かぶ。
 彼を逃したのは他ならない華絵だ。再び命を狙われるのは当然の道理でも、こうして突きつけられれば声は震えて足は竦む。

「阿久津の元へ戻るべきです。あそこにはまだ三名の狗がいます」
「……ダメよ」

 阿久津だって、本当の意味で華絵を守ろうとしているわけではない。

「……姫様、ゼンは一族の外にある狗です。力を制限された俺達とは違い、鬼火を無尽蔵に使えます。彼が本気を出せば、俺一人葬ることなど造作も無いことです」
「…………]
「阿久津さんの元へ戻るべきです。今すぐにでも」
「嫌よ」

 彼の言うことが正しかったとしても、その選択肢だけは選べない。
 阿久津もゼンも、華絵にとっては同じ脅威だ。

「レンは阿久津さんの所へ戻っていいわ。でも私はもう戻れない。……ごめんなさい」

 顔を背けて、でもきっぱりと言い切ると、華絵はリビングの中へと戻る。
 ソファに座り、思わず頭を抱えたくなる衝動と戦いながらどうにかして切り抜ける方法を考えていると、庭から戻ってきたレンが彼女の前に立ち、二人は見つめ合う。
 意志の固そうな少女の瞳と向き合うこと数秒、青年は静かなため息を付いて降参を告げた。

「……姫様、すぐに荷造りをしてください」
「どういうこと。言ったでしょ、私は戻らないわ」

 重々承知だと言わんばかりに頷いた青年は、華絵の前に跪き、懇願するような声色で言う。

「ならばせめて藤代の里へお逃げください。染谷の家の者は、あなたの身柄を一族に明け渡したりはしません。あなたがそれを望まない限りは」
「……なぜ」
「俺があなたの狗で、あなたが俺の楔姫だからです」
「…………」
「染谷の家には狗の扱いに長けた者が多く居ます。それに、ゼンも藤代の里ならば迂闊には踏み込めないはず。姫様、どうか信じてください。染谷の人間は決してあなたを謀(たばか)ったりはしない」

 真に迫った声で懇願され、心が揺れる。
 確かに華絵が唯一信頼をおいている小巻も染谷の出身だ。とは言え、一族には変わりないが。

「……でも」
「信じてください」

 躊躇う気持ちを見透かすように強い口調で言われ、華絵が唇を噛む。
 生まれて初めて、人生の大事な岐路に立たされた気分だった。
 自分で選ぶことに慣れていないから、どうしても臆病になってしまう。

「……わかったわ」

 覚悟を決めて、華絵は頷いた。


 大河原はレンを信用するなと言った。
 それはとても正しくて、道理にかなっていた。

 それでも普段は冷静な彼が、早口に捲し立てるその様子を見て、もしかしたらと思う。
 もしかしたらレンは、本当に心配をしてくれているのかもしれない。
 例えそれが狗であるがゆえのただの習性であっても、凶暴な反面、楔姫には忠誠を誓うのが狗ならば、今の彼に嘘はないのかもしれない。







 静まった新幹線のホームには、これから遠い自宅へ帰るであろうビジネスマンの姿が多く見られた。
 疲れきったような顔でうなだれる人、携帯電話に向かってペコペコと頭を下げる人、パソコンを開いて残業をこなす人。皆一様に言えるのは、夜の10時を回ってもまだまだ仕事に取り憑かれているという事だ。

――仕事をするのって大変なんだわ……

 そんな彼らの姿を見つめて、華絵は改めて社会の厳しさを目の当たりにする。
 もっとも、人外の異端に命を狙われている世界よりはマシだろうが。

 ベンチに座りながら小巻の用意してくれたボストンバッグを膝に抱え、寒さに震えていると、隣に座っていたレンが自分のコートを差し出す。
 薄手のシャツ一枚の彼からはぎ取るわけにはいかないと断っても、無言で押し付けられてしまうから、華絵はしぶしぶ受け取って、大きめのコートを羽織った。

「ありがとう。レンは寒くないの?」
「はい」

 狗だから?
 そう聞こうとしたけれど、意味が無いと思いやめた。
 そうであってもそうでなくても、彼は「はい」と答えるだけだろうから。

「それにしても、新幹線で逃げるとは思わなかったわ」
「人混みに紛れることは大切です」
「そうなのね。でも良かった。また荷物みたいに抱えられて走って行くのかと思っちゃったから」

 駿足の彼に抱えられながら逃げたことはまだ記憶に新しいが、華絵としてもあんな風にして藤代の里まで連れて行かれるのは少々つらいものがある。

「それは効率的ではありません。どんなに急いでも時速300キロの乗り物には敵いませんから」
「なら良かった」

 冗談のつもりで言ったのに大真面目に返されてしまう。
 家を出てからというもの彼はタクシーの車内でも表情を強張らせたまま、話しかけづらい雰囲気を漂わせては華絵を緊張させた。

 レンがとてもナイーブになっているのが分かる。
 それはつまり、彼が言った「ゼンには敵わない」というセリフは謙遜でもなんでもなく、紛れも無い事実だということを裏付けているようで、にも関わらずこんな責務を与えてしまった自分を恨めしく思う。

「……随分落ち着いているんですね」

 ベンチに座りながら、興味深げに辺りを見回す華絵を見て、レンが言う。

「そうかしら。……レンはずっと怖い顔ね」
「…………」

 前を向いたままの彼が、薄い唇をわずかに結ぶ。
 それを見て、華絵はふっと瞳をゆるめた。

「私、駅のホームって初めてよ。もちろん新幹線に乗るのも」

 改札を通る際には、随分彼に恥をかかせてしまった気がする。
 全く要領を得なくて、何度も何度も突っかかっては周りの通行人に白い目で見られた。
 でも次からはもう間違えない。落ち着いて切符を入れたら、開くまで待てばいいのだ。もちろん、機械が吐き出した切符を受け取るのも忘れずに。

「次は一人で改札をくぐれるわ」

 頬に笑みを浮かべて言えば、呆れてしまったのかレンが白い吐息を吐く。

「怖くはないのですか?」
「……怖いけど、それほどでもない」

 レンの方がよっぽど怖がっているから、余計に冷静になってしまうのかもしれない。
 華絵が怯えれば、彼の肩に乗せられた荷物が一層重くなるようで、素直に怖がることが出来ない。

「私が怖いのは、また元の生活に戻ってしまうことなの。何も考えないで、与えられたものだけを着て、与えられたものだけを食べて、誰とも会わないで、死んだように暮らすこと。それに比べれば、今のほうがよっぽど生きているって感じがするの。自分で選んだ道を進んでいる気がする」
「危険すぎます。自立したいのならばそう申し出ればいい」
「許されるはずないわ。私の部屋に監視カメラを仕掛けるような家なのよ」
「……ですがあなたは藤代の跡目ですから、ある程度は仕方がないかと……」
「そうね。……でも私が本当に怖いのは、それに何の疑問も抱かずに、頭も心も空っぽにして過ごしていた自分に戻ることよ」
「……」
「過去がない気持ちなんて、レンには分からないわ。本当にただ生かされているだけだったのよ。自分が何をしてきたのか、何をするのかも分からない。きっと私の命日だって、家が決めるんでしょうね」
「華絵様」
「……そんなものを受け入れる自分には、もう戻りたくないの」

 たとえゼンに殺されても、それが自分が選んできた選択肢のツケならば、納得もできる。
 彼を逃したのも華絵だし、阿久津の元へ戻らなかったのもほかならぬ華絵の選択だ。

「……そうですか」

 わずかに落胆の色を滲ませて彼がそう答えたのと同時に、構内にアナウンスが響き渡る。
 もはや理解を得ようとは思わないから、華絵もそれ以上は何も言わなかった。
 レンも、前を向いたまま黙りこくっている。

 月が明るく照らす夜の空には、細い灰色の雲が幾重にも重なり浮かんでいた。
 今夜は冷えると、出掛けに見たニュースで言っていたのを思い出す。

 これで良いのだと言い聞かせて、凍えるような両手を握りしめた。

 10時10分発、新大阪行きの新幹線はそれからまもなくして到着した。