目が覚めた時、なぜ自分がこうしているのか理解できなくて、しばらく瞬きもせずに天井を見つめていた。

 阿久津と別れ、一人雪の上で寝そべっていたはずの華絵だったが、今はこうしてきちんと布団の中におさまって横になっている。結い上げたはずの髪も、いつの間にか解かれていた。

 でも、心の何処かで気付いていた。
 布団の横で正座をしながらこちらを見守る彼の気配に気づく前から、分かっていた。
 
「……レンが運んでくれたのね」
「はい」
「やっぱり」

 そんな気がしたの。
 そう呟いて、華絵が体を起こす。ずっと雪の上に居たはずなのに、寒さは感じなかった。
 多分、薄っすらと肌の上に残る青い光のせいだろう。

「過去を取り戻して、満足ですか」

 意地悪な言い方をするなと思った。
 それから、彼は怒っているんだと気付いた。もう目を見なくても分かる。

「……そうね。でも、あなたが必死になって私を止めた理由もわかったわ」

 素直に白状して、華絵が力なく微笑む。

「阿久津さんにも、色々と聞いたわ」
「……そうですか」

 また不満気に、彼が言う。
 いつもと変わらない声色なのに、今の華絵にはそんな彼の心の機微まではっきりと伝わってきた。
 これが姫と狗の絆なのだろうか。
 家が、人の命よりも大事にしているという、それなのだろうか。

「あなたの言うとおりだった。余計なことをしないのが一番ね。あの時大人しく阿久津さんの元へ帰っていれば……ううん、花咲きの庭でゼンを逃さなければ、一般の人まで巻き込んで、命を落とさせることもなかった。最初から、家で大人しくしていればよかったのよ……何も知らないくせに、自立だなんて、人生を取り戻したいだなんて……全部忘れていたほうが、よっぽど……」

 自分の愚かさに目眩すら感じる。もう、涙も出ない。

「……姫様」

 そんな華絵を見て、レンが彼女を呼ぶ。
 でも少女は振り返らず、力なく落とされた自分の両手をじっと見つめている。

 やがてぽつりと、彼女が呟いた。

「……森へ行きたい」
「え?」

 うまく聞き取れなかったのか、レンが顔を傾けて少女の方へわずかに身を乗り出す。

「……昔、二人で行ったの、覚えてる?」
「森、ですか?」
「そうよ。初めてレンと外へ出かけたの。レンが退院して、リハビリのために散歩をした場所。覚えてない? あの散歩道へ、連れて行ってよ」
「……姫様、もう夜の夜中です。雪が積もった森に行くのは……」
「命令よ。お願い」

 弱々しい声できっぱりと告げられ、青年はため息をついた後しぶしぶ頷いた。
 できるだけ華絵に厚着をさせると、そのまま彼女を抱き上げて、冷えきった夜の森を目指す。



「……真っ暗で、何も見えないわ」
 森の中にある舗装された散歩道の途中、背の高い木々たちのざわめきを聞きながら、華絵は不満そうな声を上げた。

「夜ですから」
 その隣を歩く彼もまた、不満そうにそう答える。
「明かりを持って来るべきだったわね」
「散策なら昼間にすべきです」
「……もう、意地悪ばかり言わないでよ」
 レンの肩を拳で軽く小突いて彼の腕からするりと降りると、華絵は小走りに道をかける。
 微かに舞い降りる花びらのような粉雪が、頬をかすめて肩に落ちた。

 それに気付いた華絵は足を止め、肩に乗った雪に指を伸ばすが、触れた途端に溶けて消えていく。
 当たり前のことなのに、ひどく虚しさを感じて、ごまかすように肩をギュッとにぎった。

「ねぇレン」

 そう言って振り返り、後ろを歩いていた狗を見上げる。
 青い瞳の美しい人外の狗だった。だけど華絵にとっては、憧れの男の子でもあった。

「私ね、昔、レンのこと好きだったのよ。知ってた?」

 唐突な告白に、青年が眉根を寄せる。
 難しい顔をした彼を見て、華絵がクスクスと笑った。

「レンに会いたくて、いつも染谷の家に押しかけては、嫌がられていたわね」
「あの頃は……」

 そう言いかけて、レンが口を噤む。
 よほど言いにくいのだろうか。心の内を隠すようにして顔をそらす相手を見て、華絵が首を傾げた。

「何?」
「いえ、何でもありません」
「……」
「何でもありません」
「まぁいいけど……」

 諦めてそう言うと、華絵はそっぽを向いたままの彼に近寄る。
 あの頃は同じ目線だったはずなのに、今はずっと上を向かないと目も合わせることができなくなってしまった。それだけ、時が過ぎたのだ。

「レン、私と鬼ごっこをしない?」
「……今ですか」
「今よ。今ここで。昔みたいに、一緒に遊んでよ」
「…………」

 黙ったままでいる彼を無視して、華絵は一人淡々と話を進める。

「私が鬼よ」
「はぁ……」
「もしレンが、私から逃げ切れたら、私、レンの言うことを一つだけ聞くわ」
「……」
「もし私がレンを捕まえたら、その時は私の言うことを一つだけ聞いて」

 呆れ顔で聞いていたレンが、ふいに目を細め、それから華絵を見下ろす。

「ならば俺の願いは決まっています。これ以上、伝承に触れないでください。できれば全て忘れ、東京のあの部屋で今までのように暮らしてください」
「……どうして?」
「それが、あなたを守る唯一の方法だからです」

 阿久津も、同じことを言っていた。
 多分それが、正しいのだろう。

「分かったわ。レンが勝ったら、私はレンの言うとおりにする」
「では俺の勝ちなので、今すぐ東京にお戻りください」
「ちょっと、まだ勝負もしてないじゃない」
「するだけ無駄です」

 真面目な顔できっぱりと言い切られて、華絵が口ごもる。
 
「姫様、俺は本気で言っているんです。あなたが人生を取り戻したいと仰ったその気持ちはわかります。ですが、そのためにこの先の未来を危険に晒すおつもりですか」
「レン……」
「武永様はあなたの一挙手一投足を鋭く観察されています。あなたは他家の楔姫とはまったく違う宿命を負わされている。それでも守るためには、すべて忘れて暮らす他にないのです」
「……レンは、それでいいの?」
「構いません。あなたに会えなくとも、触れられなくとも、俺は構いません。ずっとそうやって生きてきました。これからもそうやって生きていくつもりです」
「……従順なのね」
「あなたの幸せのためと思えば、容易いことです」

 真っ直ぐに向けられた青い瞳に、迷いは見当たらない。
 
「そんな風に言われると、……私からのお願いは言い出しづらいわね……」
「姫様、どうか……」
「十数えるから、その間に逃げてね」

 彼の言葉を無視して、目元を隠すように両手で覆う。
 心の中で数を数えながら、ふと思い立って呼びかけてみた。

「ねぇレン」

 レンの返事はない。
 もう、行ってしまったのだろうか。
 それでもいいと、華絵は思う。どうせ捕まえられないのだから、聞いていなくてもいい。

「……私を連れて、どこかへ逃げて……」

 ずっと遠くへ。
 武永も母も、誰も居ない場所で、二人。
 こんな辛いばかりの場所とは無縁のどこかへ行きたい。

 叶わないと知っても、そんなことばかりを願ってしまう。
 心が、そんな悲鳴ばかりを上げる。
 後悔に押しつぶされ続けるのは、もう疲れた。

 また涙がこみ上げてきて、それを飲み込みながら、華絵はそっと目を開けた。

「…………なんで」

 微動だにせず同じ場所に立ち、こちらを見つめる青い瞳を見上げて、少女が呟いた。
 難しい顔をしながら唇を結び、両手で拳を握りしめていたレンは、呆けている華絵の前で長い溜息をこぼす。白い吐息が、夜の闇に浮かんで消えた。

「……嫌がっていたわけではありません」
「え……」
 
 静かな声でそう告げる彼の真意が分からなくて、華絵は呆けたまま首を傾ける。

「あなたが楔姫としての自覚を持たないのは、そう教育されていないからだと、分かっていました。でも、理不尽だと思ったのです」
「……理不尽」

 そうですと言って、レンが頷く。

「あなたは俺に好意を抱いていたけれど、そんなもの、その辺の草花を愛でる程度の気まぐれと同じ」
「……そんな」
「俺があなたを思う気持ちに比べれば、塵のようなものです。だから、何も知らないあなたの顔を見るたびに、言いようのない苛立ちを感じていました」
「…………」
「……とても、子供だったのです」

 彼の言葉を聞いていると、あの日の情景が目に浮かぶようだった。

――「どうして毎日来るんですか」

 そう言って、不満そうに眉をひそめたあの日の少年が見える。
 華絵は彼の冷たい態度にショックを受けて、打ちのめされるのだけど、日が昇ればまた会いたくなって、彼の元へ行っては邪険にされる。その繰り返しだった。

「そうね……私、しつこかったわね」
「はい」

 大真面目に頷かれて、華絵が思わず笑い出す。
 きっと、相当迷惑だったに違いない。

「……許してね。子供だったの。レンのことが大好きで、毎日顔が見たかっただけなのよ」

 彼の抱える事情も、その深い想いも知らずに、ただ手放しに、憧れていた。

「レンは狗だもの。きっとすごく戸惑ったでしょうね。楔姫に求愛されては、大問題だわ」
「その通りです。どれほど悩まされたか、あなたは知らないでしょう」

 子供の淡い初恋も、この里の中においては、笑い話にすらならない。
 文字通り、互いの命に関わってしまうのだから。

「何度も、何度も考えました。藤代の宝であるあなたを、どうしたら俺だけのものに出来るのか」
「…………」
「あなたを連れて逃げだせたら。そんなふうにも考えました。……結局、諦めるよりほかないと、割り切れたのはそんなに昔ではありません」
「……レン」
「俺に何かを頼むときは、慎重に考えてから言うと、仰っていたはずです」

 青い瞳が揺れる。華絵を責めているようにも見えたし、ただ泣いているようにも見えた。

「……レン、私を連れて、どこかへ逃げて……」
 
 もう一度同じ願いを口にした華絵を、音もなく伸びてきた腕が抱き寄せた。
 冷えた彼の首元に頬を押し付けるようにして、華絵は目を閉じる。
 
 このまま、彼の腕に包まれたまま、誰も知らない場所へ逃げられたら幸せだと思った。
 それを口にしてしまえば、レンはまた、華絵の願いを叶えようとするだろう。
 分かっていた。
 分かっていたのに、また口にしてしまった。

「レン……ごめんなさい……」

 腕の中で声を殺して泣き始めた華絵を、レンはいっそう強く抱きしめる。

「……もう、何も謝らないでください」

 耳元でそう囁いて、彼もまた目を閉じる。

 二人の頭上で振り続ける雪が、この罪も、隠してくれたらいいのにと思った。
 かつて深い業を覆い隠してきたように、今日の罪も、隠してくれたらいいのに。

 いつか暴かれるとしても、それでもいい。
 今だけは。
 そんな風に願う少女の心を汲み取るようにして、雪が降る。
 密やかにただ深々と、罪の色をした全ての徒花たちも、白に染めるように。