夜明け頃、華絵を抱いたレンが染谷邸の門をくぐると、玄関先で彼らを待ちわびていた小巻が、膝から崩れ落ちそうな程に大げさに安堵しながらレンの元へ駆け寄った。

「お帰りなさいませ。華絵様は……眠ってらっしゃるのですか」

 抱えられたまま静かな寝息を立てている華絵を覗きこんで小巻が言うと、レンは頷き、「疲れているのでしょう」と答えた。

「……レン様……どちらにいらしたのですか」
 
 どこか責めるような小巻の視線に薄く微笑んで、レンが歩き出す。

「養成所近くの森にいました」
「……森ですか?」
「そうです」

 家の中に入り、華絵の寝所を目指して階段をあがる間も、小巻が背中にぴったりとくっついて来て、あれやこれやと質問を浴びせる。その全てに答えても、彼女はまだ不満気に唇を尖らせていた。

「……お二人で、駆け落ちでもなさるおつもりかと」
「駆け落ちですか」
「それも結構ですけど、小巻には一言申して下さいませ」
「はぁ」

 ぶっきらぼうに答えるレンに頷いた後、小巻はハッと息を呑み、大事な用件を伝え忘れていたことに気づく。彼女は慌てて両手を打ち鳴らし、華絵を布団の上に降ろしていたレンの背中を揺すった。

「レン様、そうでした! 大変です」
「小巻……もうちょっと静かに」
「例の大河原右近から電話があったのです」
「大河原さんから?」

 怪訝そうに眉をひそめて顔を上げた青年に、小巻がコクコクと頷く。

「至急華絵様と連絡が取りたいと申されて、どこで調べたのか染谷の家に電話を寄越してきました。それも深夜に!」
「……それで用件とは?」
「それが、華絵様でなければお話できないと仰って、あんまりにも粘るのでしぶしぶ受話器片手に華絵様のお部屋を訪ねて見れば抜け殻同然! あの時、小巻がどれほど肝を冷やしたか……っ」
「それで用件とは?」
「そうでした! それで、お繋ぎできないと申しましたら、直接会いに行くと仰って」
「…………」
「今、応接の間にてお待ちいただいてます」
「……先にそれを言ってください」

 立ち上がりながらそう言うと、一階にある応接の間へ急ぐ。
 
 扉を開くと、大河原はレンが現れることも分かりきっていたように片手を上げて見せた。

「お待たせしてすみません」
「何の何の。こちらこそ、非常識な時間にお伺いしてしまいました。お許し下さい」
「華絵様は今眠っておられます。俺で良ければ代わりにお話を伺いしますが」

 どうせ断るのだろう。
 そんなふうに考えていたから、大河原が素直に頷いたことを内心意外に感じた。けれどそれは顔には出さず、レンは黙ったまま彼の正面のソファに腰を下ろす。

 二人が向き合い席についたところで、お盆にお茶を乗せた小巻が戸口に現れる。
 彼女は俯いたまま大河原に新しいお茶とお茶請けを差し出し、レンの前にも湯のみを置くと、一礼して下がり、そのまま部屋の隅立つ。

 出て行ってくれる気はないのだなと二人の男が承知したところで、大河原が口火を切った。

「これを」

 そう言って彼が、懐から折りたたまれた数枚の用紙を取り出し、テーブルの上に広げる。
 A4用紙に印刷された異体字を見て、レンが眉根を寄せた。

「藤代記録の一部です。ご存知でいらっしゃいますよね」
「はい」
「この内容を……全貌を知るために、私は藤代の里へ来たのです。以前の取材で、こちらにはいくつかのツテがありました。今回もそのツテを頼りに彷徨い歩いていたところ、とある家に辿り着いたのです」
「……と申しますと」
「はい。実は今、こちらのご親族の元でご厄介になっております。伊津乃(いずの)という名を、ご存知ですか?」
「伊津乃の家に……?」
「はい。なんでも、その家も狗を所有されているそうで、同じ家に楔姫もおりました。茜(あかね)という名の、華絵様と同じ年頃の少女です」
「伊津乃の家なら親族ですが、他の分家とは少し事情が異なります」
「はい。過去藤代ご本家と一悶着あり、伊津乃の一族ごと破門同然の状態だとか」
「……仰るとおりですが」
「だからでしょうかね。彼らはよそ者の私を快く受け入れ、藤代の伝承についてや、藤代記録の全貌について、語ってくださいました」
「…………」
「染谷さん、あなた、この記録に書かれている内容を知っておられたのですか」
「無論です」
「それであなたは……なんの疑念も抱かなかったと?」

 身を乗り出し、指先で藤代記録を指し示しながら、大河原が目を剥いて問う。

「何のことですか」

 そんな相手を見据えながら、青年が答えた。
 その声の冷徹さに、大河原が息を呑む。

「気付いて……おられたのですね」
「何のことか分かりません」
「あなたは、この家が……何をしようとしているのか、気付いているんだ」
「……大河原さん、この件でこれ以上あなたとお話するつもりはありません。どうぞお帰りください」
「何をしているのか分かっているのか!? これは、……これは、この国に対する重罪行為だぞ……」
「お帰りください」
「なんて、なんて恐ろしいことをっ……」

 唇をわなわなと震わせ、こちらを見上げる相手を置いてレンは立ち上がる。
 
「小巻、お客様のお見送りを」
「は……はい……」

 やや戸惑いを見せた小巻が、それでも命じられたとおりに大河原の元へ駆け寄るのを見届けてから、レンは応接の間を後にした。
 閉じた扉の前で堪えていたため息を吐き出そうかと思ったが、思い直して再び早足に屋敷を出る。

 玄関を抜けた先にある門に、よく知ったシルエットを見つけた。
 微かに鼻腔をくすぐった同族の香り。
 やはりと思いながらも、重い足取りでそのシルエットに近寄ると、レンは相手に鋭い視線を向けた。

「何をしている、キラ」

 そう声をかけると、オレンジ色の髪を無造作に揺らしながら、黄金色の瞳を細めた若い男が笑う。
 アーモンド形の瞳に通った鼻筋。彼は黙っていれば中々の美少年なのに、常に浮かべているニヤニヤとした笑みと、ボロボロのジーンズに薄汚れたシャツを着たきりの姿が、その美貌をいまいちくすんだものにしている。

「うちのお客様が染谷邸にお邪魔していると聞いて、お迎えにあがったんですよ」
「……いつ里に戻った。東京にいるはずだろ」
「あんた知らないだろうけど、ゼンが殺された時点で緊急チームは解散。俺だって東京なんかに用はねぇから、持ち場に戻らせて貰いましたよ」
「…………」
「それより面白いだろ、あの人。記者らしいぜ」
「べらべら喋っただろう。また武永様の怒りを買うぞ」
「そりゃあね。こっちは失うものなんて無いですから」
「……」

 ハハ、と乾いた笑いを零して、今だ鋭い眼光を放つレンから逃れるように、彼は軽快な足取りで一歩後退する。

「きっとまた、近いうちに会うことになると思いますよ、レン様」
「何を企んでる」
「さぁ。それは俺の姫に聞いてください」
「……」
「選ぶのはあんただ。だけど昔のよしみで教えてやるよ。俺の姫は本気だ。本気で、藤代に牙を向くつもりでいる。あの記者のおっさんも、役に立ってくれそうだしな」
「キラ、あの人はもう十分に一族の被害を被っている。これ以上、巻き込むような真似はやめろ」
「そんなこと言われても、決めるのは俺じゃないし。わかってるでしょ」

――あんたも。
 そう最後に告げて、オレンジの髪の青年が颯爽と駆けていく。 
 その姿も見えなくなると、ずっと握りしめていた拳から力を抜いて、レンは堪えていたため息を吐いた。


 とかく、この世は面倒だ。


 頭の中で、誰かが囁いた。
 その通りだと思っても、答える気にはならない。

 もうとっくに嫌気が差している。それでもこの世には彼女がいる。
 強固な楔は、はるかはるか昔より、わずかに軋む素振りも見せない。
 
 愛していると囁きながら四肢を食らうことよりも、激情を潜めて頭(こうべ)を垂れることを選んだのは、なぜだろう。

 それが子々孫々まで末裔を苦しめることになると知りながら、かつての始祖は人の手をとった。


――「それであなたは……なんの疑念も抱かなかったと?」

 驚愕と、心からの侮蔑を浮かべた大河原の表情が頭から離れない。
 藤代記録に、藤代が抱える秘密の全ては書かれていない。

 決して書かれることは無かった核心に大河原が気付いたとなれば、彼ももう、長くはないかもしれない。
 
 仕方がないとどこかで諦めている。
 だけどふと考える。

 華絵はまた、泣くだろうか。

 悲しみと後悔の念を抱きながら、彼のためにまた花を植えるのだろうか。
 それだけは許せないと、頭の中で誰かが囁いた。

 何を敵に回しても、破壊の限りを尽くそうとも、楔のために生きろと囁く。
 やはり答える気にはなれない。でも分かっている。

 どのみち、逆らうすべもない。