伊津乃邸は、藤代の里を出た静岡県のはずれにある。

 里から車で30分ほど走った先の、昔からの家が建ち並ぶ古い住宅街の一角にあるその屋敷は、やや敷地が広いことを除けば、周りの自然によく調和した古い日本家屋だった。

「良ければ召し上がってください。この辺りでは有名な店のものなんですよ」

 そう言って用意していた福餅を勧めると、少女が微笑んで頷く。
 若干ぎこちないのは、緊張しているせいだろう。茜だってそうだ。

 赤い絨毯が敷かれた洋風の応接間には、茜と華絵の二人しか居ない。
 キラと、華絵の連れである二人には席を外してもらった。
 まずは彼女と二人で話す必要があると思ったからだ。

 同年代とはいえ、相手は本家筋の姫君。
 失礼がないようにと構えても、これから話す事自体が失礼千万な突飛な内容にも思えて、どうしても上手い切り出し方が思い浮かばない。
 華絵は華絵で、自分を呼び出したはずの大河原の姿が見当たらず、困惑しているようだった。

「大河原さんは、所要で東京に戻られました」
「え!」

 殆ど見切り発車のように茜がそう告げれば、お茶に口をつけていた少女が、驚いたように顔を上げる。

「ですが、お話なら伺っております。私から華絵様にお伝えするよう、言付けも預かりました」
「そうなんですか。あの、大河原さんに、何かあったんでしょうか。急に帰るなんて……」

 不安げに尋ねる華絵を見て、茜はどこか安堵しながら微笑む。
 
「いいえ。ご心配には及びません。大河原さんは調べ物のために、急遽東京に発たれたのです。華絵様とは入れ違いのような形になってしまうこと、彼も心苦しそうにされていましたよ」
「……調べ物ですか」
「はい。藤代記録に関する件です」
「…………」
「華絵様、率直に申し上げます」

 そう言って、茜が決意の瞳を少女に向ける。

「お力をお借りしたいのです。一族を、根絶やしにするために」







――「草も木も、我が大君の国なれば、いずくか鬼の棲(すみか)なるべき」

 あの時は聞き取れなかった、歌うように呟いた少女の声が、今になって蘇る。

 ハンドルを握りしめ、東名高速を飛ばしながら、大河原の意識は今だ里の中にあった。
 伊津乃の家に辿り着いたことは、彼の長年の執念にとっては大いなる一歩と言えたが、目指す終着点は遠のいたように思えた。

『藤代記録は、我ら祖先の、鬼の一族の始まりの物語なのです』

 あの日、そう言って赤い巫女装束に身を包んだ少女が語り始めた言葉が、頭から離れないでいる。

『江戸中期、かつて藤代という女性がおりました。私たち楔姫の始祖でもあります。彼女は、江戸の下町で、女性では希少な薬師の真似事を営んでおりました。当時の江戸ではある流行り病が蔓延しておりまして、藤代の夫もまた、病魔に侵されてしまったのです。藤代記録とはつまり、彼女の夫の医療記録のことです』

 そうだ。だから、記録は難解だった。
 唐突に始まる医療日誌を、現代において読み解くのは至難の業だった。
 てっきり物語だと思っていたから、それが単なる医療記録だと気付くにも時間がかかった。

『鬼神丹(きしんたん)、と申します。それが藤代が発明した、流行病に効果をもたらす薬の名前でした』

 ぽかんと口を開けて話に聞き入る大河原を見て、少女が悲しそうに微笑む。

『悪夢の始まりでした。鬼神丹は、病魔こそ打ち消すものの、その強烈な副作用のため、人の体を異形の化け物へと変化させ、いずれは死に至らしめる毒薬でもあったのです。藤代は当時それに気づかず、親しい者に薬を分けました。もちろん、夫にも』

 夫の光熱は三日三晩下がらず、四日目の朝になると、呼吸も止まり、脈も停止したと記録されていた。夫は一度死んだのだと、藤代記録には残されている。

『そして五日目に、夫は目覚めました。同じようにして、峠を超えて目覚めた者も居ました。でもそれはすでに人ではなく、彼らは人としての生を捨てた、化け物として目覚めたのです』

 30人の隣人に薬を処方し、目覚めたのはわずか4人。
 藤代は、ここで初めて鬼神丹の恐ろしさに気付く。

『脳系統に、主に前頭葉に強く作用する劇薬です。人が持つ実行機能を破壊し、思考力を奪う。鬼神丹が人体や脳に及ぼす影響はまだ全て解明されていませんが、とにかく彼らはすでに人ではなく、破壊と暴力だけを繰り返す悪鬼となって目覚めました』

 彼らは不思議な炎を自在に操り、強靭な肉体で町を荒らし、人を食い荒らした。
 もう誰にも止められない。この罪はどう贖(あがな)えど許されない。私の魂は、未来永劫裁かれなければならない。
 藤代は、そうも記していた。

『けれど唯一、目覚めた彼女の夫だけは、彼女への愛情を覚えていました。彼女を守るために、彼女の罪の証を根絶やしにするためだけに、夫は自我を保ち続け、目覚めた悪鬼を全てその手で葬ったのです』

 藤代記録は、夫が目覚めたとされる日からその二日後に終わりを迎えていた。
 全ての罪を背負って、長い輪廻の苦行に、永遠に耐える。
 家族を愛しているけれど、もうこれ以上、生きてはいけない。

 最後のページは、殆ど彼女の遺書とも言えた。

『残された彼女の家族や、彼女の夫が、どんな結末を迎えたかは分かりません。藤代記録は、藤代の死とともに終りを迎えました。一族は、夫の魂こそが狗の始祖だと、この因果の始まりだと考えています。輪廻の輪に永遠に閉じ込められた藤代と夫の魂が、何度もこの世に転生しては巡りあうのだと。……本当のところは私にも分かりませんが、人智を超えた縁が我が一族にあるのは事実です』

 先立った妻の魂を追うように、何度何度も蘇る夫の魂。
 その執着が、その愛が、現代においても続いているとしたら。

 それにしても理解が出来なくて、大河原は眉をひそめた。
 夫が根絶やしにしたはずの悪鬼が、なぜ現代においても蔓延っているのか。
 夫の魂のように、一度悪鬼となった者は何度も何度も転生を繰り返すのだろうか。
 そんな疑問を浮かべる大河原を見て、茜が怯えたように目を伏せる。
 唇は震え、これから口にする恐ろしい言葉に慄いているように見えた。

『一族は、CIと呼んでいます。コモンインフェクト。通常感染者という意味合いを持ちます』

 は? 思わずそう漏らした大河原の間抜けな声にも、怯えきった少女は反応を示さない。

『それからSI。スペシャルインフェクトの略です。これが、私たち一族が標的とするいわゆる「外の鬼」です。CIの感染度が最終フェイズに移行すると、大抵の場合は死に至りますが、13%の割合で、峠を超える者が現れます。けれど彼らの脳系統は完全に破壊され、徐々に人格や人体に変化が現れ、凶悪になり、破壊活動や殺戮を繰り返すように……』

 少女の肩が震えている。
 わずかに覗く首元は総毛立ち、唇は青ざめ、浅い呼吸を繰り返す。
 こんな風にして語る少女を、以前にも見た気がする。

 かつて家のことを語る「ひな」と、全く同じようにして怯える少女を見て、大河原が目を見開く。

『大河原さん……鬼神丹は、その製造法は、一族の手によってすでに確立されています。この日本のあらゆる場所で、日々ばら撒かれているのです。大河原さん、私は……こんな恐ろしい悪行を繰り返す一族を、止めなければなりません』

 震える少女の言葉を聞きながら、真っ白になっていく頭の中で、大河原はかの大企業をぼんやりと思い浮かべていた。
 全国で処方されている薬、薬局で市販されている薬を思い浮かべ、富士白製薬から発売されている薬剤が、この日本にどのくらいあるのだろう。そんなことを考えた。

 それから、そんな恐ろしいことを考える自分に戦慄もした。
 そんなことがあるはずない。そんな恐ろしいことを、そんな人の道に外れたことを……。

『武永様は、恐ろしい方なのです。あの方はすでに人ではありません。あの方こそ、悪鬼と呼ぶにふさわしい』

 ついに瞳から涙を零した少女を見つめながら、大河原はひなのことを思った。
 あの日、彼女もこんな風にして、体を震わせ泣いていた。

 無作為にばら撒かれる鬼神丹。
 30人に飲ませれば4人目覚める。
 13%の割合で、鬼が生まれる。

 ゆえに現代においても外の鬼は絶えず、藤代一族の家業は安泰であり、つまり、歴代当主はもちろんのこと、現当主である藤代武永の権威は揺るがない。

 日本に鬼が生まれる限り、あの男は必要とされ続ける。

『私は、この命に代えても、一族を根絶やしにするつもりです』

 少女が決意の瞳で告げるその言葉を、放心しながら聞いていた。
 
――「全てビジネスなの。たくさんのお金が動くのよ」

 薄暗いものを、ずっと感じていた。

――「そして、たくさんの血が流れるの……」

 ずっとずっと、そんな予感がしていた。
 だから、諦められなかった。



 耳を劈くようなクラクションで、我に返る。
 気がつけば赤信号はとっくに青に変わっていて、業を煮やした後ろの車がけたたましくクラクションを叩いていた。
 慌てて頭を振った大河原が、ハンドルを握りなおして運転に集中する。
 こんな混乱した思考で、無事東京までたどり着けるのか、少し不安になった。

 それから数十分走らせ、休憩がてらに横浜のインターに下り、カラカラに乾いた喉を潤すためにコーヒーを買った。

 そうしていても、茜と交わした会話がぐるぐると浮かんでは消え、浮かんで消え、そのたびに恐怖に凍りついては背筋が冷えていく。

 もし茜の言うとおり、富士白製薬が人を死に至らしめる薬を何らかの方法で流通させ、無作為に選ばれた人間に投与しているのだとしたら、今すぐにでもあの企業を訴えなければならないが、その方法も見当たらなければ、証拠らしい証拠もない。藤代記録は真実にたどり着く切っ掛けとなってくれたが、司法の場においては何の証拠能力も持ち合わせていない。

 どうする。どうやって止める。
 分からない。茜もずっとそうやって悩んできたに違いない。

 記者の自分にしか出来ないやり方で、あの男を吊るし上げる方法があるだろうか。
 どんなに掘り返しても、スネの傷1つ見せない相手に、どう対抗していけばいい。

「すみません、少しよろしいですか」

 自販機の前で途方に暮れていると、そんなふうに声をかけられて、大河原が顔を上げる。
 暗い色のスーツに身を包んだ男性の二人組は、呆けている大河原の顔を確認するようにして互いに頷き合うと、胸ポケットから黒い手帖を取り出し、それを彼の前で掲げて見せた。

「大河原右近だな」
「は?」

 唐突に名を呼ばれ、目を丸くする彼の手をとって、目の前の男が銀色の手錠をその両手にかける。

「矢村亜紀殺害容疑で逮捕する」
「は……」
「おい、連れて行け」

 男がそう指示すると、どこからか現れた警官たちが、彼を取り囲むようにして素早くその身を拘束した。

「おいっ! ふざけるな、なんで俺が……っ」
「焦らなくても、話しなら署で聞いてやる」
「……なんで……」

 殆ど力ずくで警察の車に押し込まれた大河原は、始めこそ激しい抵抗を見せていたが、やがて諦めたように力をなくし、警官に挟まれた後部座席で項垂れる。

 潔白の身であることは、自分が一番良く知っている。

 ではなぜ捜査線上に名が上がったのか。
 そんなふうに考えて、バカバカしさのあまりに乾いた笑いさえこみ上げてきた。
 
――なるほどね

 こんなにわかりやすい陰謀論もないだろう。
 今、勝ち誇ったように薄笑いを浮かべる武永の顔がはっきりと見える。
 
 目障りだから消す。実にあの男らしいやり方だ。
 そうやってあらゆるものを手に入れてきたのだろう。

 うじ虫のように地を這いずり、邪魔するものは切って捨てる。
 あの男はそうやってこの日本を、やがては世界を、食い散らかして回るのだ。