伊津乃邸の縁側に腰掛けながら、空が赤く染まっていくのを眺めていた。
 早朝一番に訪ねたはずだったのに、もう日は暮れ始め、枯れ木を夕陽が染めていく。

 茜が語る途方も無い真実を、受け入れるには時間がかかった。
 何かの間違いであってほしいと何度も思った。

 今も、そう思っている。

「姫様」

 背後から静かに呼ばれて、華絵は顔を上げた。
 振り返れば、白い頬を夕陽に染めたレンが立っていて、生気の抜けたような顔をしている主人を真っ直ぐに見下ろしていた。

「外は冷えます。そろそろお戻りください」
「……そうね」

 ぼんやりと答えるけれど、もはや手足を動かす気力もわかない。
 心も頭も空っぽで、何一つ、機能していないのが分かる。

「昔……記憶を亡くした時、私、自分の名前も分からなかったの」

 ぽつりとそう呟くと、青年が怪訝そうに眉をひそめる。

「みんなは私の名前を呼ぶけれど、それが本当に自分の名前なのか、分からないの。それがどういう気持ちか、分かる……?」
「いえ……」
「そうよね。……あの時ね、みんなが、何かのお芝居をしているように見えたの。私の名前も、私の立場も、みんなお芝居の設定で、私はそこに放り込まれただけの、何も知らない役者なの」
「……」
「ずっと、……そんなふうに感じてた」

 ルーツをすべて失った心細さと、突きつけられた過去に感じる違和感。
 それが嫌で記憶を取り戻したというのに、また全てが、どこか遠くの出来事のように感じている。
 
「レンは、知っていたの?」
「……何をですか」
「家が、……お祖父様がしていることの全てよ」

 掠れがちな声で尋ねられた言葉に、青い瞳が伏せられる。
 
「知って……いたのね」

 答えはない。それでも、少女の心に絶望がひた走る。
 彼の瞳はいつだって、言葉より雄弁に真実を物語ってしまうから。

「……なぜ、なぜそんなことを……自分が何をしてきたのか、分かっているの……? 罪もない人間を化け物にして、殺してきたのよ……なぜそんなことが出来るの……」

 枯れ果てたはずの瞳が再び涙に濡れる。
 それを拭う気力すら沸かずに、ただただ信じられない思いでレンを見つめていた華絵は、彼がおもむろに視線をずらすのを見て、促されるように振り返る。

 オレンジ色の髪をした青年が、縁側で向かい合っていた二人を遠目に眺めていた。

「なぜ、と言いましたか?」

 彼はそう言って、こちらを嘲るような笑みを浮かべながら一歩一歩近づく。
 わずかにレンが身構える気配がしたけれど、華絵は臆さず、相手を睨みつけた。

「……そうよ、お祖父様があなた達がさせていることは、人殺しなのよ」
「それはあなた達のルールだ。俺たちには関係ない」
「……何を言ってるの」

 黄金色の瞳には、はっきりとした侮蔑の色が浮かんでいた。
 怒りとも、憎悪とも取れるその強い眼差しに、少女が混乱したように表情を歪める。

「何が俺たちを裁くのですか。人の法律ですか、それとも人の道徳?」
「……な」
「あなたは道端の獣に、人の道を説いて歩くのですか?」
「……」
「狗の不始末は飼い主の責任だ。散々放っておいたくせに、責めることだけは忘れないなんて、随分な飼い主だとは思いませんか」

 「キラ」、と静かな声が割って入る。
 その怒気をはらんだレンの呼びかけも無視して、キラは目を見開いたまま絶句している華絵に詰め寄った。

「あなたの言うとおり俺たちは人殺しだ。だけど茜は、その罪を背負う覚悟でいる。だからこそ、命を投げ出しても一族を止めようとしている。……それであなたは何をしていました? 記憶が無いからと狗を放り出し、取り戻したと思ったら、今度は外野のフリして俺たちを責めるのですか?」
「……私は……」
「あなたに誰を責める権利もない。一族の者は、みな同罪です。例えあなたが何も知らなかったとしても、それは変わらない。無知は罪ですよ姫様。あなたは知るべきだった。今になって一族を責めるのなら、もっと早く知ろうとすべきだったんだ」

 キラがそう捲し立てた次の瞬間、ダンッ、と言う激しい衝撃音に、硬直していた華絵の肩が震える。
 突然掴みかかるようにしてキラの胸ぐらを壁に押し付けたレンが、固く握られた拳を振り上げた。それを見た華絵が咄嗟に立ち上がるよりも早く拳は振り下ろされ、キラの体が床に打ち付けられる。

「レンッ!!」

 激しい衝撃音と華絵の悲鳴を聞きつけた使用人たちの足音が近づく。
 レンはなおもキラに馬乗りになり、キラもまた負けじと相手の襟元を?む。

「やめて! キラを放しなさいっ!! 二人共やめてっ!!」

 互いの胸ぐらを掴み睨み合う二人に華絵の言葉は届かなかったが、やがて使用人達が慌てて駆けつけ始めると、二人はどちらからともなく視線を外し、レンは乱れた襟元を正しながら立ち上がると使用人の隙間を縫うようにして廊下の奥へと消えていく。

「……ごめんなさい、キラ」

 まだ床に倒れたままのキラに謝りながら、華絵は消えていったレンの背中を追う。
 
「レン、レン、待って……!!」

 長い廊下を足早に進む彼は、そのまま伊津乃邸の玄関をまたぎ、華絵は慌てて靴を引っ掛けながらどうにか玄関先でレンのシャツを?む。

「待ってって、言ってるでしょう!?」

 やっとのことでレンを立ち止まらせることに成功すると、乱れた息を整えるために、シャツの裾を掴んだまま深呼吸をする。
 彼は立ち止まったまま振り返らない。その背中に立つ華絵も、掛ける言葉を失ってしまう。
 
「……レン」

 それどころか、言うべきことなど、何もないように思えた。

 キラの言葉は最もだった。
 何もかも忘れ、のうのうと暮らしていた自分が悪いのだ。
 レンを責める資格なんて、自分にはない。

「あなたは、何も悪くない」

 静かな怒りを纏いながら背中を向けてレンが言う。その言葉に、華絵は首を横に振った。
 
「……いいえ、キラの言うとおりよ。あなたを責めるなんて、間違ってた。あなた達は……家に従うしか道はなかった。そうでしょう?」

 そうだ。元々彼らに選択肢など存在しなかった。
 家に飼われ、服従を強要され続けてきたレンを、救えたのは自分だけだったのに。
 
 そんなふうに己を責めれば、まるで華絵の心の中を見透かしたかのようにしてレンが振り返る。そうしながら「違う」と呟かれた彼の声はとても低く、上手く聞き取れなかった華絵が眉をひそめた。

「……キラの挑発に乗らないでください。あいつはあなたを利用することしか考えていない。それが自分の楔姫の願いだから、その願いを叶えることしか頭にない」
「でも茜さんの言っていたことが本当なら、見過ごせることじゃないわ。レンだって、本当は嫌なんでしょう? 罪もない人を、鬼に変えてしまうことを、望むはずがないわ」
「いいえ」

 こちらを真っ直ぐに見据えてそう答えた青年を、少女が見上げる。
 逆光に照らされて、薄暗いシルエットに包まれてしまった彼の表情を読み取ることは出来ない。

「……レン?」
「あなたは、何か勘違いをしている」
「え……」
「俺たちに、ものを考える頭が無いとでも思っているのですか」
「…………」

 青い瞳が、黒い影に霞む。
 よく見えなくて目を細めても、ますます歪んでいくばかりで、何度も瞬きを繰り返した。

「俺もキラも、ハクもどの狗も、いつだって選ぶことが出来た。それをしなかったのは、どちらの道を選んだほうが利口なのかを知っていたからです」
「レン……」
「所詮は狗です。俺たちのような下っ端に武永様の真意などは計りかねますが、元よりそんなものに興味もありません」
「……なんてことを、言うの……」
「あなたのことは関係ない。俺が、自分で選んだんです。藤代一族の当主は武永様です。何人たりとも、彼に逆らうことは許されません。姫様、例えそれがあなたであっても」
「レン、やめて……」
「俺は、自分が切って捨ててきたものを、振り返って眺めるような真似だけはしたくない」

 どんなに瞬きを繰り返しても歪んだままの彼のシルエットを見て、華絵は初めて自分が大粒の涙を零していることを知った。

 レンは、従えないと言っているのだ。
 華絵の決断には、到底賛同できないと。


「レン……それでも……私は……」

 私は。
 それ以上は、喉が詰まって、声にならない。


「華絵様っ!」

 見つめ合ったまま膠着状態に陥っていた二人の間に割って入るようにして、小巻の悲鳴にも似た呼び声が響く。
 驚いて振り返った華絵とレンの前に、受話器を握りしめた小巻が青い顔をして玄関から飛び出してきた。

「……小巻? どうしたの」
「た、たった今、東京から連絡が入りました。武永様の秘書の方からです!」
「え……」

 恐る恐る差し出された受話器を受け取った華絵は、心臓が早鐘を打ち始めたのを感じながらそれを耳に当てる。
 単調なメロディーが流れるのを聞いて、もう一度小巻の顔を見やった。

「今は保留になっています……我妻修平(わがつましゅうへい)様という、武永様の秘書の方です。数年前に我妻家と養子縁組をした外のお方ですので、おそらく華絵様はご存知ないかと……」
「初めて聞く名前よ……多分」

 自分の記憶にはすっかり信用を持てなくて、華絵はそんなふうに答える。

「伊津乃の家にかけてくるなんて、よっぽどの急用でしょう。華絵様……どうなさいますか? 入れ違いに出かけてしまったと、伝えることも出来ますが……」

 そんな時間稼ぎは何の意味もないだろう。
 小巻だって、分かっているはずだ。

「……出るわ」

 白い受話器を見つめながら、華絵は頷いた。

「姫様」

 その時背中からそう呼びかけられて、華絵は保留ボタンに伸ばしかけていた指を止める。
 振り返れば、憂鬱な影を瞳に落とした従者が華絵を見つめている。

 大丈夫だとは言えなかった。
 そんな気休めを口にするほどの余裕はない。

 武永の秘書が、華絵に直接連絡をしてきたのだ。
 これが何を意味するにしろ、朗報でないことは明らかだろう。

 だから少女は歯を食いしばり、もう一度頷く。
 
「レン、……それでも私は、戦うわ」

 先ほど言えなかった言葉の続きを彼に伝えた。

 それは、もう一歩も引かないという、弱い自分への宣戦布告でもあった。