宝良の部屋を飛び出して、慣れない建物の廊下をうろついていた華絵は、ふと突き当たりにある自動販売機の前に阿久津の姿を見つけてたじろいだ。

 気安く声をかけるにはいくらか躊躇いがちになってしまう相手だが、早朝、せっかくこうして姿を見つけたのだから、朝の挨拶くらいはすべきなのかも知れない。それに、レンが今どこにいるのかも知りたい。
 彼は、華絵を宝良の部屋に送るとそのまま仕事に行くと言っていたから。

「あ、あの……」

 やや控えめに声をかけると、自動販売機の取り出し口から缶コーヒーを掴んだ阿久津が血色の悪い顔を持ち上げて振り返る。

「ああ、おはようございます姫様。どうですか、昨日は良く眠れましたか? 慣れない場所ではなかなか疲れも取れないでしょう。もっとゆっくりお休みになってくださっていいんですよ」

 では、と続けて一方的に捲し立てたまま去ろうとする彼は、まるで華絵との会話を避けているようにも見えた。そんな阿久津を引き止めるようにして、華絵が慌てて口を開く。

「あの、レンがどこにいるかご存じですか?」
「……レン、ですか。実は、早朝から緊急の会議が入りまして、スタッフは全員会議室に集まっているんですよ。今は中休みですが、今日中一杯はかかるかと」
「……そう、ですか」
「なにかご入り用でしたら宝良にお申し付けください」

 土色の顔をした阿久津が疲労を顔に浮かべて微笑むから、華絵も思わず心配になって眉尻を下げる。
よほど忙しいのだろうか。深く刻まれた目の下の隈は、彼がろくな睡眠もとっていないことを物語っていた。

「ああそれから」

 立ち去ろうとしていた阿久津が、ふとそう言って華絵と視線を交わす。
 自分から言いかけたくせに、一瞬戸惑うような沈黙を見せた後、彼は不思議と顔を綻ばせた。

「まぁ、ほんとはあなたには口止めされていたんですがね、菖蒲様が東京にいらしてますよ」
「……お母様が!?」

 思わず前のめり気味に声を上げてしまった少女に頷く。

「ええ、藤代の里での例の一件を耳にした武永様のご指示で、久々宮の病院に移されました」
「病院に……」
「目を離せないほど不安定な状態では、病院に置いておいたほうが安心だろうというご配慮です。俺も、そのほうが良いと思いますよ。あなただって、あのような状態のお母様を里に一人置いておかれるのは不安でしょう」
「……え、ええ。でも、……お母様にはマキがついているはずでは?」
「狗は家に仕える身です。マキにも仕事をしてもらわないと……。では、俺はこれで」
「……」

 今度こそ去っていく阿久津の背中を見つめながら、華絵は阿久津が何気なく告げた言葉に打ちのめされた。

――「あなただって、あのような状態のお母様を里に一人置いておかれるのは不安でしょう」

 そんなふうに考えたことはなかった。
 母の側には、マキがいるから、大丈夫だと思っていた。

――「私にはマキだけなのに……」

 あの日、そんな風に言った泣いた母をよく覚えている。
 寂しさも、感じなかったように思う。
 むしろ、共感すら覚えた。

――お母様……

 いつからだろう。なぜなのだろう。
 母を、母とも思わない、父を、父とも思わないならず者になっていた。

 もし彼らが同じように、我が子を我が子とも思えない、そんな情に欠けた本音を持っていたとしても、別段かまわない。心も、大して冷えないような気さえした。

――私、どこかおかしいんだわ……

 阿久津に言われるまで、母を一人里に残していくことに、わずかばかりの躊躇もなかったことを思い知る。

 冷たい、鬼のような娘だ。







 ベッドに横たわる女性は、まるで少女のように可憐で、純潔ささえ湛えた無垢のほほ笑みで武永の側近である我妻修平を出迎えた。
 こうして顔を合わせるのは初めてだというのに、長年の連れ合いのような親しみの篭った笑顔で迎えられた修平は、少しだけ出鼻をくじかれたような気持ちでベッド脇に立つ。

「初めまして菖蒲様。いや、もうお義母様とお呼びしたほうが良いかもしれません」
「初めまして、修平様。菖蒲と申します。わざわざご足労頂きありがとうございます」

 まるで彼女自身が嫁にくるような、そんな淑やかで愛情のこもった声色で菖蒲が答える。
 華絵とよく似ているが、纏う空気は母の方がよほど穏やかで険がない。
 長く心を病んでいると聞いているが、愛想良く微笑む彼女にそのような気配は見られなかった。

「お体の調子が優れないと聞きました。そのままの姿勢で結構ですよ」

 上半身を起こそうとする菖蒲にそう声をかけて、修平がベッド脇のスツールに腰掛ける。
 彼は側にいた秘書から受け取ったアタッシュケースを膝の上に広げ、数枚の書類を取り出すと、それを不思議そうな目をして横たわる菖蒲の前にそっと差し出した。

「武永様からすでにお聞きかとは思いますが、遅くとも来年の頭には華絵様との挙式を執り行いたいと考えています。婚前契約の書類もだいぶ形になりました」
「そうですか」

 ニコニコと笑いながら頷く彼女が、本当に理解しているのかは定かでないが、修平にとってはどうだっていいことだ。この七面倒なやり取りは他でもない武永の命令なのだから、頭のおかしい病人相手でもとりあえずは話をしなければならない。

「それで、私が華絵さんを娶った暁には、あなたと誠様が保有している富士白製薬の自社株と、いくつかの権利、それから里の土地や、こちらにあるあなた方夫婦の名義になっているビルのいくらかを、私の名義にしていただく必要があります。私はいずれ富士白製薬を継ぐ身ですので、相続なんかの関係はいまからしっかりと」
「ええ、結構ですよ」
「は?」
「全部、持って行ってください、私はそれで、結構ですよ」
「……そう、ですか」

 それなら話が早いと、修平は菖蒲のサインが必要な書類の束をファイルに閉じて、ベッドの脇の棚に置く。

「来週僕の秘書が受け取りに参ります。それでよろしいですか?」
「ええ、結構ですよ」
「では、僕は仕事がありますので、これで失礼しますね」
「ええ、お仕事、頑張ってくださいね」
「……どうも」

 もはや怪訝な表情を隠そうともせずに修平はそう言って席を立つ。
 最後までニコニコと笑みを浮かべたまま見送る菖蒲を、どこか気味が悪いと思った。

 自分が持っている財産に一切の執着を見せず、それどころか心ここにあらずと言わんばかりの腑抜けた笑みを一貫して見せていた彼女。

「先生の仰っていた通りだ。あの夫人は長く心を蝕んでいる」

 後部座席に乗り込んだ修平がぽつりとこぼすと、運転手をしていた秘書が「そうでしょうか」と小首を傾げる。

「思っていたよりもずっとまともな女性に見えましたが」
「どこがだよ。ニコニコ笑いながらも、視線はずっと宙を彷徨っていたぞ。なんだか気味が悪い」
「まぁなんにせよ、相続で揉めることはなさそうですね」

 まぁな、と答えて、修平は背もたれに深く寄りかかった。

 心を病んでいるのだから、真っ当なやり取りなど期待するな、と武永は言っていた。

――「楔姫は、総じて頭が悪い」

 彼はそうも言った。
 そうなるように教育してきたのだと。

 その中でも、藤代菖蒲は抜きん出て救いようのない不出来な娘だったらしい。
 その反省を踏まえて、慎重に育てられたのが娘の華絵だ。

――あれも、可愛げのない女だったな……

 里へ迎えに行った時、初めてまじまじと実物を前にして思った。
 姿こそ中々に美しいけれど、物もハッキリ喋れないような田舎者の小娘だった。
 そのくせ、はっきりとした拒絶の色を瞳に浮かべ、その気配を全身から放つ。

 わずかばかりの落胆と、安堵。
 
 険のある視線を寄こす少女を上から見下ろしながら、修平は覚悟を決めた。
 この女の価値などどうでもいい。どうせ踏みつけるのだから、知恵など無い方がいい。

 欲しいのは彼女ではなく、彼女が持つ数多の財産と、鬼の一族と呼ばれた藤代のその名だけ。
 それ以外は、とうに全て色褪せた。