幸せを具現化するのなら、それはきっと、青い色をしている。



「菖蒲様はほんとに艶やかな色の着物がお似合いですね」

 そう言って、新しい布を買い付けた女中頭が満足気に微笑むのを見て、菖蒲は頷いた。
 この里で生まれてからずっと、この世で一番美しいのは自分だと思っていたし、一番賢いのは自分だと思っていた。
 
 賢いと言っても、勉強のたぐいは禁止されていたので、実際のところは小学生レベルの日本語しか書けないし、同レベルの計算しかこなせない。
 それでも、世界の理のすべてを理解していると思っていた。
 この世に恐るべきものなど何もない。
 この身は、神の寵愛を受けている。

「伊津乃の姫が、また狗を連れて脱走を試みたらしいわね」

 大好きな甘いお菓子をつまんで呟くと、うっとりと着物を見つめていた女中がはっと顔を上げて、慎重に頷く。
 里の噂は今それで持ちきりだ。
 あそこの家は、姫や狗をよく産む名家ではあるけれど、同時にトラブルを起こしてばかりの不届き者の集まりでもある。

「そうなんです。まったく、伊津乃の楔様は本当に、どうしてああも聞き分けがないのか」
「手足を縛って牢にでも繋ぐしかないわね」

 ケラケラと笑いながら菖蒲が告げた冗談に、けれど女中頭は大真面目な顔をして頷き、「それが」と口を開く。

「もう薬を使うしか無いと、お上の方はお決めになったそうですよ」
「まさか……薬って、忌避剤のこと?」
「ええ」

 忌避剤は当時、楔姫を懲らしめるために里に伝わっていた富士白製薬独自に開発された薬だった。
 
「あれって、副作用のせいで体を悪くするんでしょ。常用しては長く生きられないと聞いたわ」
「ええ、忌避剤は毒薬ですもの。でも、例えば30までも生きてくだされば、一人くらいは子供を産めますものね」

 にっこりと微笑んだ女中を見て、それもそうかと菖蒲が頷く。

「可哀想な伊津乃の姫。逃げようとするから、そんな目に合うのよ」

 窓の外の青い空を見上げて、菖蒲は他人事のように呟いた。
 
 15年と半年を過ぎて、この世について思うのは、人の人生とはなんて不平等なのかということだ。
 菖蒲の人生に財と権力が欠けたことはない。生まれてこの方、生活にはなんの不自由を感じたこともない。

 そして、女としてもまた、不自由さを感じたことはなかった。
 
 男が欲しければ、見目麗しい彼女にはいつだって相手がいたし、ちょっと手を伸ばせば、誰もが気安く近寄ってきた。そんな彼女の振る舞いを、家長すら容認していた。狗に執着するよりはよほどいいと、お墨付きまでくれた。

「ねぇ、昨日庭で見かけたんだけど、夕方家に来ていた染谷の使いの方、知ってる? 素敵だったわね」
「ああ、染谷の次男坊の方ですね。確か婚約者がいらして、もうすぐご結婚なさるそうですよ。あそこは狗の名家ですから、もしかしたら狗が生まれるかも知れませんね」
「……ふぅん」

 なんだ。人のものだったのか。
 そう思ってつまらなそうに唇を尖らせ、菖蒲はまた窓の外に視線を向けた。

 空は青く、天はどこまでも高い。

 手を伸ばし続ければ、いつかあの青の切れ端にすら、この指は届くのだろうか。







 狗は、美しい見目をしている。

 それはどの狗も同じ。彼らは絹のような髪と、陶器のような肌と、ガラス球のような瞳を持っていて、優れたバランスの造形をした面立ちで常に女を誘惑する生き物だ。

 だが、忘れてはならない。

 あれの本質は獰猛な獣で、その白い肌の裏側には、下等な畜生の血が流れている。
 決して踏み越えてはならない。開いてもならない。忘れてはならない。


「おかえりなさいませ」

 自室に戻った菖蒲を、長い髪の男が膝を折って出迎えた。

 淡い水色の瞳の、人外めいた美しさを持った彼は、今日一日、彼女に命じられたとおり部屋の中で過ごし、一歩も外にでることなく主人の帰りを待っていたのだろう。

 愚かで忠義なことだ。
 菖蒲は嘲るような笑みを浮かべると、狗の横を通り過ぎ、お気に入りのソファに腰を下ろす。それを合図にして彼は立ち上がり、彼女のために甘い紅茶を淹れた。

「伊津乃の姫が、ついに忌避剤を使われることになったんですって」

 カップを持って戻ってきた狗を見上げて、愉快そうに菖蒲が告げる。

「あなたの婚約者って確か伊津乃の女中だったわよね。もう知っていた?」
「いいえ。それから、女中ではなく、伊津乃家のご息女です」
「どうでもいいわよ」

 紅茶に口をつけながら、つっけんどんに少女が返す。
 相手が頭を下げると、彼の長い黒髪がさらりと肩に落ちた。あれは触れば絹のように滑らかに滑って、温度は雪のように冷たく、清涼な香りがするのだ。

「忌避剤って、狗と通じた姫に使われるんでしょう? 聞いたことがあるわ」
「さぁ、聞いたことがありませんが」
「そうなのよ。一旦狗と通じた姫はね、発情期の雌のようになるんですって。それはもう、ひどく見苦しいそうよ。身も心も、日がな一日中狗を求め始めるの。はしたない話ね」
「……」
「忌避剤を使うと、ひどく無気力になって、それが収まるんですって。なんだか本当に動物じみた話しよね。発情期の獣を去勢するみたいじゃない?」

 クスクスと笑いながらおかしそうに顔を歪める少女を、狗は黙って見つめている。
 それがつまらなくて、菖蒲はまだ熱い紅茶が入ったカップごと彼に向かって投げつけた。

「なんとか言ったらどうなの。この木偶の坊」

 それでも微動だにしない相手を見て、菖蒲が苛立たしげに立ち上がる。
 イライラして、無性に腹の奥が気持ち悪い。

 自分の人生は満たされているのだ。財も権力も、美貌も男もある。
 毎日毎日、そう言い聞かせている。なのに、この男を前にすると、イライラして、どうしようもなく凶暴になってしまう。

 この一年は、もうずっとそんな感じだ。

「……どうか、お許し下さい」

 ずっと黙っていた男が、小さくそんな風に呟けば、菖蒲は心の中の怒りが破裂しそうな衝動を感じて、相手を睨みつけ、部屋を飛び出した。

 薄暗くなった里の空の下、必死に駆けて目指したのは染谷邸だ。
 
 藤代の楔姫が突然現れたとあって、家長を始めとする家のものがぞろぞろと現れては玄関に詰め寄る。少女はその顔ぶれを冷静に眺めた後、一人の青年を指さし、「話がある」と告げた。

 用意された染谷邸の応接間で、出されたお茶とお茶菓子を挟んで向かい合う男は、背が高く、すらりとした痩身の美青年だった。菖蒲よりも少しだけ年上に見えたが、近々結婚するというのだから、事実年上なのだろう。けれど、この里の序列はまた違う。本家の娘である菖蒲と、分家の次男坊である彼とでは、比べようもないほどの身分の差がある。

 それを重々承知しているのだろう。
 藤代の姫を目の前にした染谷伊織(そめやいおり)は、幾分硬い表情を浮かべて俯いていた。

「庭先であなたを見かけて気に入ったの。私を抱いてくれない?」

 不躾に、挨拶もなくそう告げると、半ば予想していたのか、伊織はさらに表情を固くして、黙ったままうんともすんとも言わないでいる。この沈黙が、彼の真意だと知っていても、そんなことはどうでもいい。どうせ断れないのだから、駆け引きなんて時間の無駄だ。

「結婚するんでしょう? 聞いているわ。だから別に私の男になれとは言ってないでしょ」

 こんな風に、不躾に脅迫めいた誘惑をするのも初めてではない。
 大抵の男は二つ返事でノコノコとついてくるが、決まった相手がいる男は冷や汗を浮かべて硬直してしまうのだ。それでも結局は、菖蒲の言いなりになるのだけれど。

「……少し、時間を頂けませんか」

 やっとのことで彼がひねり出した言葉を一笑に付して、少女が首を横に振る。

「今がいいの。今夜よ。明日になったら、私気が変わっちゃうかもしれないもの」
「ですが……俺には婚約者が居て、まず彼女に話を」
「そんなの後にしてよ。今すぐじゃなければ、私、お父様に言いつけるわよ」

 武永の名をちらつかせれば、伊織は目を見開いて顔を上げる。
 戸惑いと、怒りと、軽蔑の色を浮かべた瞳だ。

 でも、怒っている彼も中々に美しいと思った。
 この里の人間の中では、多分一番美しい男だろう。今まで知らなかったのが惜しいくらいだ。

「姫様ッ!!」

 膠着状態にあった応接間に、突然悲鳴にも似た女の声が轟く。
 家人に止められながらどうにか部屋に飛び込んできた女が、頬に滝のような涙を流してそのまま応接間のソファに座る菖蒲の膝に縋り付いた。

「姫様! どうか、どうかお許し下さいっ!!」
「ちょっと、……誰よあなた」

 強い力で膝元のスカートを引っ張る女の体をはねつける。
 思ったよりも軽いその体が勢い良く床に落ち、岩のように固まっていた伊織が素早く女の肩を掴んだ。

「六花(りつか)……!」

 そう言って錯乱状態の女を伊織が抱きしめると、六花と呼ばれた女が肩で息をしながらなおも縋るような眼差しで菖蒲を見上げる。

「姫様、どうか、ご容赦ください。お願いです、菖蒲様、お願いです……っ」
「この無礼者。突然部屋に押し入って、私に掴みかかるなんて」

 おそらくは伊織の婚約者だろう。
 単身乗り込んでくるだなんて、よほど自分の男を奪われたくないらしい。
 ますます面白くなくて、菖蒲がきつく相手を睨みつける。


「私はどんな罰でも受けます。でも、どうか、どうか伊織様だけは……私にとってたった一人のお方なのです。どうか……どうか……」

 床に頭をこすりつけながら懇願する女の横で、彼女の肩を抱きしめながら男が鋭い眼差しで菖蒲を睨み返していた。その怒りは、菖蒲の傍若無人な申し入れにではなく、婚約者を守ろうとする彼の闘志だ。

 途端に興が削がれて、菖蒲は力なくソファの背もたれに体を預ける。

 もうこの男は、死ぬまで菖蒲を抱いたりはしないだろう。
 菖蒲とて、ここまで敵意を見せる相手に抱かれたいとも思わない。

 泣きじゃくる六花を見て、自分とはタイプが違うけれど、綺麗な面立ちの女性だと思った。
 美男美女でお似合いじゃないか。勝手に幸せになればいい。馬鹿馬鹿しい。

 この里の中で、真っ当に愛を貫くことが、どれだけ難しいのか、この二人は知らないのだ。

 だから、こんな些細なことで、取り乱したりする。
 この世の終わりみたいに、泣くのだ。
 彼らは幸せになれるのに。大した苦労もなく結ばれるのに。

 馬鹿馬鹿しい。

「……いつ結婚するの」

 だらしのない格好でソファにもたれながら、力ない声色で尋ねれば、むせび泣いていた六花がきょとんと丸い目を見開いて顔を上げる。

「ら、来年の……春、です」
「そう。そんなに好き合っているのなら今すぐ結婚すればいいのに」
「……えっと、両家の都合もあって、それに、式の準備もまだ何も……」

 涙をぼろぼろ零しながら、しゃがれた声で必死に菖蒲の問いかけに答えようとする女はいじらしくて、少しだけ可愛いと思えた。

「そうなの。案外くだらないのね。私だったらすぐに結婚するわ」
「え……」
「そんなに好きな男なら、すぐに結婚したらいいじゃない。それが出来るんだから」
「……菖蒲様?」

 もし、この二人が狗を産んだら、それはそれは美しい男児が生まれるだろう。
 ここで二人の関係をこじらせるよりも、そのほうがよっぽどいいかもしれない。
 美しい狗を、見るのは好きだ。

「……良いわね。好きな者同士、結ばれて」
 
 そう告げて、ふらりと立ち上がり、呆然とする男女を応接間に置いて菖蒲は染谷邸を後にした。

――馬鹿みたい。私、何しに行ったのかしら……

 突然分家に乗り込んで、目当ての男に拒絶され、あまつその婚約者にまで泣かれて。
 何も楽しくなかった。

 明日には噂が広まり、しばらくは里の笑いものになるだろう。
 いい話の種だ。でもそれも、もはやどうだっていい。

 許してくれと泣きじゃくった六花の目に、菖蒲という女はどう映ったのだろう。


――「……どうか、お許し下さい」

 藤代の家を出る時、あの男も、菖蒲にそう言って謝ったことを思い出す。
 
 何を許せばいいのだろう。
 何を許して欲しいのだろう。



「おかえりなさいませ」

 出て行った時と同じ姿勢で、同じ声色で、淡い水色の目をした狗が言った。
 いつも思う。彼の目は、晴れた日の空の色と同じだ。

「もう寝るわ。布団を敷いて」

 ぶっきらぼうに言い放つと、座っていた従者の横を通りすぎてソファの上に腰を下ろす。

「どちらへ行かれていたのですか?」

 珍しく質問をしてきた彼に少しだけ虚をつかれた菖蒲は、どうせ明日になったら耳にするだろうと諦めて膝を抱えたまま静かに笑い声を上げた。

「染谷の男を誘惑しに行ったの。でも婚約者が現れて返り討ちにあったわ」
「……そうですか」

 静かに答えて、男が立ち上がる。
 長い髪が背中に流れて落ちるのを遠目に眺めながら、どうして彼は髪を切らないのだろうと思った。とても綺麗で、似合っているけど、男なのに長すぎやしないだろうか。

「ねぇ」
「はい」
「髪の毛、切れば?」
「わかりました」

 間髪入れずに返って来た返事には色気も素っ気もない。
 いつもそうだ。狗相手には、会話らしい会話が成り立たない。それでも昔は、こんな些細な事に苛立ったりはしなかったのだけれど。

「どうしてそんなに伸ばしているの」
「それは、2年ほど前、髪を伸ばせとあなたが俺に命じられたからです」
「……そうだったかしら。もう忘れたわ」
「あなたの一言一句を、俺は忘れません」

 皺一つ残さずシーツを広げ、彼女のために寝床を用意すると、その脇に膝をついて、狗が次の命を待つ。いつもそうだ。出て行けと言うまで出て行かないし、来いと言うまで来ない。菖蒲の一言一句を忘れないし、本人すら忘れていた命令を違えたりもしない。それなのに。

「マキ」

 その名を呼べば、忠実な狗が顔を上げる。

 あの空の色をした瞳は、誰よりも菖蒲に忠実なのに、どれだけ手を伸ばしても、決して届くことはない。