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 ヴァイオレット奇譚「Chapter10・"彼女の決断と異臭騒動"」



 午前最後の授業開始を告げるチャイムが鳴る。
「臭いっ」
 クラスメイトの下倉摩央がたまりかねてそう叫ぶと、隣の席の万莉亜がぎょっとして振り返った。 心当たりがあるらしく、彼女は自分の袖の辺りを慌てて鼻に寄せ、くんくんと匂いを確認する。
「ご、ごめん摩央ちゃん。香水つけすぎたかも」
 そう言って周りを見回せば、皆怪訝な面持ちで自分を見ている事に気付く。よくぞ言ってくれたと、 称賛の瞳を摩央に向ける者すらいた。
「つけすぎとかいう問題じゃない! その香水臭いのよ!」
「マレーシア産のフェロモン香水なんだけど……限定品の……」
 おずおずと説明を始めるものの、クラスメイト一同に冷たい視線を浴びせられ万莉亜は口ごもった。
「どこの馬鹿が腐ったカレーの匂いがする女に惚れるのよ。いーから洗ってきなさいよ」
 ビシッとトイレを指さし、有無を言わさぬ口調で命ずる摩央に万莉亜は申し訳ないと思いながらも 首を横に振った。
「体育が終わったら洗い流してみるから。みんなもごめんね」
 そう言って周囲にいた数人に詫びてからさっさと体操着に着替え、逃げるようにしてグラウンドへ駆け出す。
 街中に学園があることもあって、ここ七尾女子学園のグラウンドは学校の敷地外、街を歩いた先の少し離れた場所にある。 勿論、テニスコートやプールも同様だ。
 七尾女子学園の生徒が薄ら寒い体操着姿で交差点の信号待ちをしている姿はこの街での密かな名物であるし、 それを楽しみにここを通る男性の通行人も少なくない。
 けれど今日は違う。
 横断歩道の前で信号待ちしている体操着姿の女子高生を、通行人はまるで避けるようにして通り過ぎ、 同じように信号を待っている者も一瞬嫌そうな視線を向けたあと、万莉亜からは極力距離を作るようにして遠巻きに立っている。
――そんなに臭いかなぁ……
 内心首を傾げながら、それでも何となく居た堪れなくなって早く信号が変わってくれることを祈った。
 昨日の夜、突然キスをされて唖然としている万莉亜をよそに、あの美貌の青年はマグナを務める上での簡単な注意事項を 彼女に告げた。
――「学校の敷地外に出るときは、香水をつけることを絶対に忘れないで」
 まだマグナになる覚悟も出来ていなかった万莉亜だが、先日の痴漢が万莉亜に付いたクレアの匂いのせいで 現れたのだと説明され、さらに香水を付けるだけでその危険を回避できると言われれば、半信半疑のままでも 頷く事は難しくなかった。
 それに、これで衝動買いしてしまった香水の使い道が出来る。
 ただ、その香水がここまで不評だと思わなかったが。
「名塚さん、あなた臭いわよ」
 とうとう体育教師にまで通りすがりに注意されて、万莉亜はがっくりと肩を落とした。

 お昼。
 体育が終わったあと、しばらくトイレの洗面所で苦戦したものの、匂いはしつこく 万莉亜にまとわりつき、ランチタイムの教室に戻ろうとすると、視線だけで閉め出しを食らう。
 散々みんなに煙たがられ旧校舎を後にすると、彼女は安住の地を求めて新校舎へと駆け出した。
「万莉亜さん、いらっしゃ……っ!」
 新校舎の四階に現れた黒い螺旋階段を駆け上り、隠された五階のフロアに辿り着いた万莉亜を笑顔のルイスが 迎える。が、その笑顔も一瞬で凍りつき、その後取ってつけたような笑みでルイスは一歩後退した。
「……ルイスさんも、臭いって思ってるんだ」
 やけっぱちになってそう呟くと、ルイスは慌てて否定するが、後退する足は止まらない。
 その時、ルイスの後方から万莉亜の姿を見つけて赤錆色した髪と褐色の肌の少女が駆けて来る。
「万莉亜ー! いらっしゃー……ぎゃー臭いー!!」
 が、すぐに鼻をつまんで逃げて行った。
「シリルまでひどい!」
 涙目になって万莉亜が叫ぶが、すでに自室へと避難してしまったシリルには届かない。 まあまあと宥めるルイスはフロアの中央にあるラウンジのソファに万莉亜を案内し、お茶を入れるからと彼女に座るよう促した。 しかしもちろん、その顔は終始引きつっている。
「僕たち”枝”は人間より鼻が利くんですよ。あんまり気にしないでくださいね」
 口先だけの苦しい慰めに万莉亜は肩をしょんぼりさせて首を振る。
「いーんですルイスさん。クラスのみんなにも散々嫌がられてますから」
「そ、そうだったんですか……」
「隣の席の摩央なんて、カレーの腐った匂いだって言うし」
「……言われてみれば」
 つい本音が零れた口元を慌てて片手で覆い、ルイスは紅茶の入ったティーカップを万莉亜に差し出す。 それをありがたく頂くと、万莉亜はほっと一息ついた。
「折角ネットで買ったやつが役に立つかなって思ったのになぁ」
「例のオークションですか?」
 彼女の趣味を知っているルイスが片方の眉を上げてそう聞くと、万莉亜は少し瞳を輝かせて語り出した。
「ううん。これは元々おばあちゃんの誕生日プレゼントにどうかなって新品のやつを通販で買ったんですよ。 フェロモン香水って言ってマレーシア産の限定品なんですけどね。何でも男性を引き寄せるヒトフェロモンが 配合されてて、さらにマレーシアで発見された物質……あれ何ていったかな。とにかくすごいんですよ」
「なるほど。……それはめずらしい」
 妙に感心しきってルイスが頷く。若干匂いに慣れたのか、それとも表情を押し殺しているのか、 とにかく彼はその説明を楽しんでいるようだ。
「おばあちゃんも恋したら女性ホルモンの分泌が激しくなって、長生きするかなって思ったんですけど、 でもこれじゃ臭くて早死にしちゃいますよね……失敗したな」
「素敵な心がけじゃないですか。おばあ様も喜んでくれると思いますよ」
「そうかなぁ」
 そもそもネットオークションや通信販売にはまったきっかけは、 奇をてらった物を祖母に送りたいという思いからだった。
 何でも喜んでくれるからこそ、考えすぎてしまう。そんじょそこらにあるものよりは、 珍しくて貴重なものを送りたい。本当に喜んで欲しい。それが今では趣味となり、半ば生きがいにもなりつつある。
「ルイスさんは何か欲しい物とかあるんですか?」
「私ですか?」
 唐突な問いかけにルイスが目を丸くしてからうーんと唸る。
「あえて言うのなら、茶道具……ですかね。最近千利休に関する本を読んですっかり感化されてしまって。 彼は素晴らしい茶人ですね」
「茶道具ですか……」
 一応心の中にメモしておく。彼の誕生日などに役立つ情報かもしれない。
「ただ、抹茶を出してもクレアは喜ばないでしょうね。彼が茶の湯を楽しむとは思えませんし」
 ルイスがさりげなく口にした言葉にぎくりとして万莉亜は目を伏せた。
 頬にキスをされたときは”外国人だから”という理由で何とか無視できたものの、しっかりと唇を重ねられては、 それを忘れるのは難しい。思い出すだけで顔が熱くなる気がして、それを誤魔化そうと出された紅茶を一気に飲み干す。
「ああ、そういえばもうお昼ですね。万莉亜さん、クレアを起こしてきてくれませんか?」
 言われたとたん、喉を流れたはずの紅茶が逆流して思わずむせ込む。ひとしきり咳をした後、万莉亜は真っ赤になってルイスを見つめ返した。
「な、何で私が……?」
「万莉亜さんはクレアのマグナですから」
 にっこりと微笑みながら、何の説明にもなっていない台詞をルイスが口にする。
「みんなでお昼にしましょう。トマトのパスタはお好きですか?」
「……大好きです」
 考えなしに新校舎に来てしまったため、お昼を買いそびれた万莉亜が唾を飲み込みながら頷くと、 ルイスは嬉しそうに目を細めて立ち上がった。
「じゃあ私は支度をしますから、クレアを呼んで来て下さいね」
 そう言ってルイスはラウンジを後にし、キッチンがあるらしき部屋へと足早に消えていった。
 残された万莉亜は、さっさと行ってしまった彼の後姿をしばらく見つめた後、おそるおそる理事長室のある方向へと顔を向ける。
――私が、寝ている男の人を起こすの?
 生まれて初めての体験に気後れしながら、そっと立ち上がってゆっくり歩き出す。
――うるさいって怒られたらどうしよう……ほんとにいいのかな……
 湧き上がる不安を抱えたまま理事長室の扉の前に立ち、ほとんどさする様に軽くノックしてみる。
「……ク、クレアさん」
 返事が無いので、もう一度控えめなノックをする。それから、蚊の鳴くような声で再度呼びかける。
 それを何度か繰り返し、さっぱり音沙汰が無い事が分かると万莉亜は思い切ってドアノブに手をかけてみる。 意外なことに鍵は開いていて、そういえば昨夜もルイスがノックなしに飛び込んできたことを思い出す。
――ちょっと神経質な感じがするのに……結構無防備なんだ……
 ほんの少しイメージとのずれを感じながら、僅かに開いた扉の隙間から中の様子を伺う。
 部屋は黒いカーテンで閉めきられ、電気もついていないので真っ暗な闇が広がるばかり。 どんなに目を凝らしても、ベッドの輪郭すら見えてこない。
「……クレアさーん」
 おそるおそる手探りで中に踏み込み、彼を呼んでみる。
 電気の場所が分からないので、とりあえずカーテンを目指して進む。 のろのろと、途中テーブルの角に足をぶつけながら窓際に辿り着くと、万莉亜はほっとして一気に黒いカーテンを引いた。
 その瞬間、部屋には眩しいほどの日差しが射し込み、万莉亜は目をしばたたく。
 振り返り、意外と側にあったベッドに視線を投げると、すでにパッチリと目を開いてこちらを見つめているバイオレットの 瞳と目が合った。
 腕を枕にしながらベッドに横たわり、物も言わず自分を眺めている相手に、万莉亜も一瞬言葉を失う。 てっきり寝ているかと思っていたので、これは予想外の事態だ。
「あ、あの……」
 真っ直ぐに向けられた視線に耐えられず万莉亜はヘラヘラと笑ってみせる。
 するとクレアはやっと一回だけ瞬きをして、そのまま彼女に小さく手招きをしてみせた。 それに誘われるようにして万莉亜はベッドサイドに近寄り、その場に膝をついた。
 すぐ近くにある彼の顔は、吸い寄せられるような色気があるけれど、 瞬きをしないと作り物の人形のようで少し怖い。
「おはようございますクレアさん。あの、お昼ご飯です。トマトのパスタだそうですよ」
 居心地の悪さを誤魔化すようにしてそう説明すると、クレアはやっとゆっくり頷き、眩しい光を遮るようにして 片手で目を覆った。
「……僕はいいよ。もう少し寝かせて」
 それからかすれた声で小さくそう呟き、シーツを頭から被る。
「え、で、でも……パスタ……ルイスさんがもう用意してますよ?」
「いいんだ……寝かせて……」
「でももったいないですよ。ご飯を粗末にしたら罰が当たるっておばあちゃんも……」
 万莉亜が食い下がると、クレアは被っていたシーツから目だけを覗かせて相手を見上げる。
「昨日は朝早くから中国に行ったり、夜は夜で忙しかったり……物凄く疲れてるんだ」
「ちゅ、ちゅうごく!?」
 思わず声がひっくり返る。
「そう。だからもう少し寝かせてよ」
 それだけ告げると彼はまた頭からシーツを被って昼食を拒否した。
――……ひ、日帰り海外旅行? なら、しかたないかな……
 これ以上無理に起こすのも忍びなかったので、万莉亜は入ってきた時と同じくらい静かな足取りで部屋を後にする。
 役目を果たせなかった事を申し訳なく思いながらラウンジへ戻ろうとすると、こちらへ向かってくるルイスが見えた。
「あ、万莉亜さん。クレアは起きましたか?」
「ルイスさん、ごめんなさい。クレアさんは中国帰りで疲れてるみたいです」
「え?」
「それに、……私の治療も負担になってるみたいです」
 クレアの言う”夜の忙しい事”とは、恐らく自分のことだろうと感じた万莉亜がしょんぼりと眉尻を下げる。
「いえ、クレアの寝坊はいつものことですから。それも私達を生かすために必要な事なので、 万莉亜さんが気に病む事はないですよ」
 笑顔でフォローするルイスの言葉に万莉亜が首を傾げる。 そんな彼女の疑問を汲み取ってルイスがさらに説明を続けた。
「私達はクレアに作られた”枝”という特殊な生き物ですが、物を食べたり睡眠を 必要としない代わりに、親であるクレアの養分を吸って生きているんです」 
「よう、ぶん?」
「はい。栄養みたいなものですね。だから枝を作れば作るほど、クレアの負担が大きくなるんですよ」
――そういえばシリルも前に……
 クレアが食べないと自分達は死んでしまうと言っていた。
 あの時はよく分からなかったけど、本当に言葉通りの意味だったと知り万莉亜はただただ驚き入った。
「なかなか……ルイスさんたちって深い生き物なんですね……」
 感心したようにそう言うとルイスは軽く肩をすくめる。
「そうでもないですよ。それに、万莉亜さんのほうがよっぽど奥深い」
「私が?」
「前々から思っていたけれど、あなたは物怖じしない人ですね」
 そうだろうか。十分していると自分では思っているけれど、彼らに対して違和感が薄れてきているのは事実だ。
 何と答えていいか分からずに曖昧に微笑んだ万莉亜ににっこりと微笑を返しルイスが理事長室へと向かう。
――……もう慣れたのかな……私ってば……
 危機感が薄いわけではないと思う。
 だけど、不思議と彼らを怖いとは思えない。
――ああ……そうか……
 多分、何が怖いのかを知っているからだ。
 一人納得すると、万莉亜はいつのまにかラウンジに並べられていた食卓テーブルを見つけ、 その上に並べられた豪勢なランチに、ほんの少し前まで伏せていた瞳を切り替えるようにして輝かせる。 走りよって料理を眺める瞳には、もう一点の曇りも見当たらなかった。



******



 一応ノックをしてからルイスが理事長室へ入ると、部屋の主は上半身を起こして こちらを睨みつけていた。
「クレア、起きていたんですか」
 クレアは鼻と口を手で覆ったまま頷く。その様子に、彼の心中を察したルイスが苦笑した。
「マレーシア産の香水だそうです。ヒトフェロモンが配合されている逸品らしいですよ」
「……てっきり生ゴミが歩いてきたのかと思ったよ」
 うんざりしたように呟き、窓を開けるようにルイスに指示する。すぐさま開けられた窓から 新鮮な空気が部屋に入り込み、クレアはずっと止めていた息を吐き出した。 
「ですが、彼女に悪意はありませんから」
 振り返ってそうフォローするルイスに、だから性質が悪いんだと言いたい気持ちを堪えて薄く笑う。
「ところでクレア、万莉亜さんの護衛の件は……?」
 ベッドから起き上がったクレアの肩にガウンをかけながらほんの少しの期待を含めてルイスが問いかける。
「ああ、万莉亜にはシリルを付ける」
「……シリルを?」
 それは意外な選択だったので、ルイスは素直に驚いて目を丸くした。 そんな彼を見てクレアは申し訳無さそうに微笑む。
「枝を増やしてやれなくてお前には悪いと思ってるよ」
「いえ、私は。それに、これ以上増やしてもクレアの負担になりますから。でも……シリルですか?」
「そう。梨佳はハンリエット一人で対処してもらうよ」
「……ハンリエットは万莉亜さんに付く気ですよ」
「もう決めたことだ」
 きっぱりと言い切ってクレアがバスルームへ向かう。
 荒れることは目に見えていたが、ずる賢い梨佳の監視を子供のシリルに務められるとも思えないし、 ハンリエットは自分にとって都合のいい事を万莉亜に吹き込みかねない。
 ベストだとは言い難いが、無難な配置だ。
 そう言い聞かせて熱いシャワーを浴びる。
――どうせ一時的だ……
 梨佳とは違い、覚悟も無い彼女がマグナを続けられるとは到底思えない。今は違っても、 そのうち辞退を言い出すことは目に見えていた。
――それにしても
 鼻の曲がりそうな匂いがまだ漂っている気がしてクレアは眉をひそめる。
――なんで毎回斜め上を行くんだろう……
 呆れ果てて目元を覆う。
 次の行動が読めない。予測も立てられない。
 彼女に関して言えば、先を見通す事など全く意味が無い事。それもまた、クレアはうっすらと理解し始めていた。



******



「何か臭うな」
 カウンターにいた男性客がさりげなくそう呟くと、万莉亜は慌てて彼から距離を取る。
 とんでもない香水をつけてしまったと説明すると、マスターは苦笑いで承知してくれたが、これでは営業妨害になりかねない。
――バイト休んだ方が良かったのかな……
 黒いエプロンを握り締めため息を零す。一日中、人という人に煙たがられて万莉亜はすっかり落ち込んでいた。
「万莉亜臭い」
 洗い物をしている自分の隣で、しゃがみ込んでいたシリルが鼻をつまみながら抗議の声を上げる。
「言わないでよ。わかってるんだから」
 誰にも聞こえないようにそっと答えると、カウンターの奥に腰掛け新聞に目を通していたマスターが ちらりとこちらへ視線を向ける。
「やばっ……シリル、バイト中は話しかけないでって言ったでしょ?」
「だってつまんないんだもん。もう帰りたい」
 そう言ってはつま先で万莉亜の足をトントンと蹴る。
「勝手についてきたくせに。だからつまんないよって言ったのに」
「だってシリルは万莉亜の護衛だもん。でももう辞めたい」
「あと二時間くらいで終わるから」
「お腹空いた」
「物は食べないって言ったじゃない」
「帰りたいー」
「痛い、痛い! 足蹴らないで!」
 思わず洗い物を中断して店の客から隠れるようにカウンターの裏にしゃがみ込む。 膨れっ面のシリルに顔を突きつけて睨んでみるが、あまり効果は見られない。シリルはつんと澄まして万莉亜から顔を背けた。
「分かったわよ……」
 あっさり根負けした万莉亜が妥協案を提示する。
「じゃあ、あと一時間大人しくしててくれたら、帰りに楽しい場所に連れて行ってあげる」
「……楽しい場所?」
「そう……って言っても公園だけど。一緒にブランコ乗ろう」
「ブランコ?」
「大人しくしてたら、帰りに遊んであげるから。いい?」
「……ほんと?」
 疑わしそうにこちらを覗き見る少女の小指を取って自分の小指と絡める。
「指きり」
「ゆびきり……」
 そう言って誓い合ったところでテーブル客の声が上がる。
「注文だ。じゃあシリル、約束ね」
「……わかった」
 ほんの少しだけ不服そうな顔で、それでも譲歩してくれたシリルを残して万莉亜が カウンターから飛び出す。
――全く。何が護衛だか……これじゃあ私が子守りしてるだけじゃないの
 どうしてもと言って聞かないから連れて来たのに、ついて早々帰りたいと駄々をこね出したシリルに うんざりしながら注文を取る。 この小さな喫茶店にウェイトレスは万莉亜一人。遊んでいるわけには行かないというのに、気紛れな相手に振り回されっぱなしだ。
 気を引き締めて仕事に取り組まなければと自分に喝を入れたとき、ガランガランと大きな音を立てて扉の鐘が鳴る。 振り返って入り口を向けば、手ぶらの男性が店内を覗くようにして立っていた。
「いらっしゃいませ」
 笑顔で駆け寄ると、サングラスをかけたその男性は万莉亜を見てほんの少し眉をひそめる。 それから言われるがままに窓際の席に腰を下ろし、注文を取ろうとする万莉亜も無視してきょろきょろと店内を見回した。
――……変な人
 心の中でそう思いながらも、顔には出さず万莉亜はもう一度注文を取ろうと彼に声をかける。 男はそんな彼女を煩わしそうにして、店にいる客のうちたった一人の女性客である女子大生の方を一心不乱に見つめる。
「あ、あの……」
 堂々と無視されて万莉亜は弱り果てた。それから彼の視線の先にエスプレッソを楽しみながら読書をしている女子大生が いることに気付き、ははん、と口の端を持ち上げる。
――さてはナンパしたいのね?
 女子大生は週に一度か二度この喫茶店に通ってくれる常連客で万莉亜とも顔見知りだ。 そんな彼女に淡い好意を寄せているのなら、助太刀してあげない事も無い。ほんの少し得意気になった万莉亜が ニッコリと微笑んで彼に声をかける。
「あの、お客様……」
「黙れ」
 めげずに声をかけてくるウェイトレスの言葉を遮るようにして男が低く呟く。 それから黒いサングラスを外して、食い入るようにして女子大生に目を凝らした。
 一方の万莉亜は邪険にされて落ち込むでもなく、ただ目の前にいる男の瞳の色に釘付けになる。何気なく 外されたサングラスの下から現れたそのバイオレットの瞳には、嫌というほど見覚えがあったからだ。
 日本人の配色にはあまり似合わないその紫の瞳。そのくせ、それがイミテーションでない事はすぐに分かる。 底まで見えそうな、透き通ったガラス玉の瞳。コンタクトレンズではこうはいかない。
――……この人も……目が紫……
 嫌な予感がした。
 祖母を見舞った帰り、襲ってきた痴漢も同じ瞳をしていた。思い出して背筋に冷たいものが走る。
「万莉亜」
 隣から声をかけられてはっと我に返る。
 カウンターで不貞腐れていたはずのシリルがいつの間にかすぐ横に立ち、席に座る男を厳しい目つきで見据える。
「普通にしてなきゃダメだよ」
 男を見たまま、シリルが言う。
 誰もがそうであるように、彼にもシリルの姿は見えないらしく、すぐ隣で発せられた言葉に反応したのは万莉亜だけだった。
 どうしたらいいのか分からずそのまま棒のように突っ立っていると、やがて男はゆっくりと視線を戻し、ため息をついて 再びサングラスに手を伸ばした。
「……コーヒー」
「は、はい」
 言い捨てるようにして漏らされた注文に慌ててペンを走らせる。
 それからそそくさとその場を立ち去り、注文票をマスターに渡すと万莉亜はカウンターのさらに奥にある 従業員用のトイレへ駆け込んだ。その後をシリルが追う。
 パタン、と音を立てないように扉を閉めてしゃがみ込む。
 恐怖を感じる前に、ただ言葉に出来ない驚きが心を支配していて口を閉じたまま床を見つめる。 そんな万莉亜を立ったまま見下ろしていたシリルが普段と変わらぬ口調で尋ねる。
「万莉亜、おしっこしたいの?」
「違う!」
 噛み付くようにして言い返すとシリルは悪戯っぽく微笑んだ。
 分かっててからかってるんだ。そう思うと腹が立って万莉亜は相手を睨み、その手を引いて無理やりしゃがませる。
「説明してよ。あの人も痴漢の人と一緒なの?」
「痴漢の人?」
 シリルが首を傾げる。ああそうだ、あの時シリルは居なかったんだ。焦る気持ちを堪えて 三日前の襲撃の件だと説明すると、少女はコクコクと頷いた。
「うん。あれも一緒。第四世代の人たち」
「……第四世代?」
「そう。クレアの匂いを嗅ぎつけてここまで来たけど、でも今日の万莉亜は臭いから大丈夫だよ」
「……そんなに言わなくたって……」
 この際聞き流すべきかとも思ったが、ついショックを受けてしまう。
「あの人たちはクレアのマグナを捕まえたいの。そうしないとクレアに近づけないから」
「……近づいて、どうするの?」
「わかんない。多分クレアを食べたいんじゃないかな」
 さらりと告げられた言葉に閉口してしまう。
――食べる? ……食べる!?
「第四世代はもっと仲間を作りたいんだと思う。クレアの肉を使って」
「……食べるって……だって……あの、じ、人肉習慣みたいなこと?」
 まさかと思いながらも聞いてみると、シリルはしっかりと頷いた。
「……信じられない。それ、宗教か何か? 人を食べるなんて……」
 そこまで言ってはっとした。
 彼らは人間ではない。ルイスだってクレアから栄養を頂いて生きていると言っていたではないか。 自分には計り知れない彼らの世界とそのルール。今まではただ聞き流していた。 もちろん疑っていたわけではない。世の中にはまだまだ未知の存在がいるのだと、感心すらしていた。 だけどどこか人事のように感じていたのかもしれない。所詮は、隣の世界の話だと。
 でももう、外野ではいられない。
 あの男は、自分を狙ってこの店へ来たのだ。
――……怖い
 そう感じたとき、怯え始めた体はもう立ち上がる気力すら失っていた。
――「楽しい事なんて一つもない」
 昨晩言われた彼の言葉がこだまする。
「大丈夫だよ」
 冷や汗を流し始めた万莉亜の手に、シリルがそっと自分の両手を重ねる。
「シリルがいるから大丈夫」
「……でも」
 自分よりも小さな目の前の少女に命を預けろというのだろうか。
「あの人……どうするの? 倒してくれるの?」
 殺し合いでも始めるつもりだろうか。あの晩のように。
「まさか。アレは死なないもん」
「……死なない」
「殺したいなら全部食べちゃわないと。再生を始める前に、頭から足まで全部」
「……」
 ホラー映画じゃあるまいし。そう思ったけれど口にするのはやめておいた。
 説明するシリルの口調は淡々としていて、表情にもこれといった色が見られない。多分彼女にしてみれば ごく当然の事を口にしたまでで、決して万莉亜を脅かそうとしているわけではない。ずっと前から身近にある常識を口にしているだけ。 そう感じたから、万莉亜はもう何も言えなかった。その代わり、ぎゅっと口元を結んですっかり萎縮してしまった下半身に力を入れる。 そうやってゆっくりと立ち上がった万莉亜を、シリルが口を開けながら見上げた。
「……行かなきゃ。普通にしてなきゃいけないんでしょ? バイト続けないと」
「うん。でも、万莉亜大丈夫?」
「……私、ちゃんと臭い?」
「すっごく」
「よし」
 小さく頷いてトイレのドアを開ける。
 店内は特に変わった様子もなく、いつもどうりの穏やかな空気が流れている。 窓際で俯きながら横目で女子大生の様子を伺っているあの男を除いては。
――まさか……あの子と私を、間違えてる?
 微かに嗅ぎつけたクレアの匂いを辿ってこの店に来たとしても、今の万莉亜からはきつい香水の香りしかしない。
 意識して男を見ないようにしてさりげなくカウンターへ戻り、洗い物を再開するも、彼女の安否が気になって なかなか集中できない。
 そのせいか、泡で滑った指先から白いカップがシンクに落下する。
 ガシャン、と大きな音を立てた瞬間、自分でも驚いて思わず叫んでしまった。
 カウンターの奥にいたマスターが何事かと顔を上げる。店内にいる客達の視線も、一斉に万莉亜に注がれた。 シンとなった店内に緊張が走る。そう感じたのは万莉亜だけだったかもしれないが、とにかくパニックになった彼女は 指先一本動かすことすらままならずただ黙ってシンクと睨めっこをしていた。
 もし今顔を上げて、あの男がこちらを見ていたら。万が一視線が合わさってしまったら。多分、自分は 動揺を押し殺すことなんて出来ない。この顔はすべてを物語ってしまうだろう。
――どうしよう……どうしようっ!
「万莉亜ちゃん、大丈夫?」
 駆け寄ったマスターに声をかけられて万莉亜は笑顔を取り繕う。それでも、 その笑顔は相変わらずシンクに向けられままだ。
 その時、客席から誰が立ち上がる音がして反射的に顔を上げてしまう。
 窓際の男が、騒がしいカウンターには目もくれずほとんど口をつけてないコーヒーを置いたままレジへと向かう。
「万莉亜ちゃん、ここはいいからレジお願いできる?」
 何てことはないマスターの言葉に、万莉亜は固まった。拒否しなければいけないと分かっていた。 けれどマスターが放った言葉はおそらく男の耳にも入っている。ここで頑固に拒否することは、少し不自然ではないだろうか。
 どちらも正解ではない気がしたが、迷っているうちにマスターがゴム手袋をはめ出してしまったので、諦めてレジカウンターへと歩き出す。
「お待たせしました」
 出来うる限り冷静な声でそう告げると、男は黙って伝票を置く。 震えないようにと気をつければ気をつけるほど小刻みに震えてしまう指先を誤魔化すように手早くそれを受け取り レジを打つ。
 それでも、そんな万莉亜の様子を不審に感じるでもなく男はレジ前に置かれたサービスの飴玉を一つつまんで 口に放り込む。サングラスの下の瞳は見えなかったが、それほど厳しい目つきをしているわけでも無さそうだ。
――……気付いてないんだ
 あまりにも油断しきったその態度に万莉亜の緊張も僅かにほぐれる。そうなると、自然に振舞うことは それほど難しくもなく、ぎこちないながらも笑顔まで浮かべる事が出来る。
「430円になります」
 そう告げると男は飴を舐めたまま黙って財布を取り出し、お釣がないように 値段ぴったりの硬貨を置いてそのまま店を出た。
 ガランと鐘が鳴って扉が閉まる。
――やっぱり、気付かなかったんだ……よかったぁ
 心底ほっとして受け取った硬貨をレジにしまう。その時、 百円玉だと思っていた硬貨にあるはずのない丸い穴を見つけて「あ」と声を漏らす。
 彼は間違えて五十円玉を払っていった。
 それに気付いた万莉亜は、考えるより先に店から飛び出していた。
 彼が危険人物であるということも忘れ、ただ払うものは払ってもらわなければというその思いだけで店の前の通りに出る。
「あれ……」
 それほど通行人が多いわけでもないのに、通りに彼の姿を見つけることが出来ない。
――もういなくなっちゃった……?
 辺りを見回しながら立ち往生していると、すぐに軽く肩を叩かれる。それから振り向く間もなく、口元を大きな手で覆われ 、引き摺られるようにして路地裏へと連れ込まれた。
 男は店の裏口まで来ると、誰も居ないことを確認して万莉亜を解放する。しかし 咄嗟に逃げようと試みた万莉亜の態度に思い直し、自身のベルトで彼女の両手をしっかりと縛り壁際へと追い詰める。
「乱暴にしてすみません」
 突然の恐怖に我を失い、じたばたともがく万莉亜の口元を覆いながらそっと呟いた。 その意外な言葉に万莉亜の動きが止まる。
「大声を出さないでください。あなたに危害は加えません。お約束します」
 男はじっと万莉亜を見つめ、おそるおそる口元の手を緩める。途端に、万莉亜は大声で助けを呼んだ。
「誰かー! 助けっ……」
 男が舌打ちしながら再び彼女の口に手を押し当てる。万莉亜は一層激しく抵抗を始めるが、 歴然としている力の差の前ではあまり意味はなさないようだ。
――冗談じゃない! 何が危害は加えないよ……!
 男の胸の中でじたばたともがいていると、通りの方向からこちらへ駆けつけてくる足音が聞こえた。 男の大きな体の隙間から視線を向ければ、どこで拾ってきたのか、大きな石を両手に抱えたシリルがこちらに向かって走ってくるのが見える。
「――!」
 まさに天の助けだ。そう思った万莉亜が声にならない声でシリルの名を呼ぶ。 それとほぼ同時に石は容赦なく男の頭に叩きつけられた。解放された万莉亜はさっとシリルの後ろに身を隠す。
「万莉亜は逃げて」
 余裕のない声でそう言うと、シリルは相手との距離をはかりながらジリジリと詰め寄る。
 一方、突然現れた石に頭を殴られ痛みに歯を食いしばっていた男は、少し焦った様子できょろきょろと周囲に視線を投げる。 そしてその場に万莉亜しかいないことを知ると、不思議そうに眉をひそめた。
――そうか……あの人にはシリルが見えないんだ
 その事を万莉亜が思い出したとき、男は可笑しそうに口の端を持ち上げて笑いを零す。
「……なるほど。”枝”がいるな。そうだろう? やっぱりその娘はマグナか」
 今この場にいる目には見えない第三者に向かって男が語りかける。
「クレア・ランスキーはどこだ。あいつはアレをどこに隠し持っている」
 その言葉に答える事無く、シリルは男の足元に飛び掛り思いっきり歯を立てる。小さな呻き声の後 男はにやりと微笑み、噛み付かれている足に手を伸ばして目に見えない彼女を両手で捕えた。
「捕まえたぞ。随分小さい体だな……子供か?」
 あっさりと持ち上げられたシリルは男の腕の中でもがく。しかし抵抗もむなしく、 男はシリルの腕を握ったまま彼女を壁へと思い切り叩きつけた。
「シリルッ!!」
 思わず叫ぶ。
 男は容赦なしに何度も小さな少女を壁へと叩きつけると、ぐったりとした相手をゴミのように 地面へ放り投げた。
「やめて! シリルッ!!」
 駆け寄ってシリルの小さな体を掻き抱こうとするが、ベルトで封じられた両手ではそれが出来ない。
 ショックでどうにかなりそうだった。もしかしたら自分はとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。 彼らは人間ではないから、人間の目をも欺ける優れた生物だから、きっと強いんじゃないかと。
 でも違った。
 シリルに有利な点はただ一つ。相手の目には映らないという事だけ。捕えられてしまった彼女は、 歳相応の非力な少女でしかない。
 思い返してみれば、祖母を見舞った帰り、駆けつけてくれたハンリエットは銃を持っていた。 あの時は光景の異常さに思考が停止してしまったが、よくよく考えてみれば、武器を持たねば対抗できないという事だろうか。 人間の武器に頼らなければ、人間に対抗できない。
――……そんな……
 絶望したまま、エプロンの裾でシリルの額の血を拭う。
 だとしたら、根拠のない思い込みで彼女を頼り、小さな少女を盾にしてしまった自分は最低だ。 割れた額から流れるシリルの赤い血を見て、万莉亜は歯を食いしばる。
 この場で、自分だけが守られていていいはずがない。
 沸々と湧き上がる怒りをぐっとこらえ、相手を見上げる。男は殴られた頭部から 流れ出る血を気にしながら、服を汚さないようにと上着を脱いだ。
「先に手を出したのはそっちですよ」
「……シリルはまだ小さい女の子なのよ……ッ」
「見えませんから」
 あっさりと返す相手に両手がわなわなと震える。
――持ち上げたときに、気付いたくせにッ!
「あなたに聞きたいことがあるだけです」
「何も知らないわ」
「すぐに喋りたくなりますよ」
 かけていたサングラスを外し、現れたバイオレットの瞳でにっこりと男が微笑む。
「……あなたみたいな人だいっきらい。力で押し通せば何でも思い通りなるなんて、大間違いなんだから!」
 威勢良く叫ぶと、ぐったりと横たわるシリルを庇うようにして立ち上がる。 勝算なんてないけれど、怒りで据わってしまった度胸が行けと命じていた。
 相手よりも早く、思い切って一歩踏み出す。
 けれどその瞬間、肩を引かれて万莉亜はよろめいた。そんな彼女を、現れた腕が支える。
「ああ、聞く手間が省けました」
 満足気に呟くと、男は万莉亜の隣の人物に軽く会釈してみせる。
 万莉亜は、自分の肩に置かれた手の熱を感じながら、どうして彼がここにいるのか分からず混乱し、その一方で自分の体が あっという間に脱力していくのを感じた。
 力の抜けていく彼女の体を支えながら、突然現れたクレア・ランスキーは地面に横たわっているシリルにちらりと視線を投げて 小さくため息をついた。その彼の仕草に万莉亜の心が痛む。
――……私のせいだ
 シリルはクレアの家族で、大事な娘なのに、うっかり警戒する事も忘れて店から飛び出し、 まんまとあの男に捕まってしまった。
「……ごめんなさい」
 零れるようにして小さく口から漏れた言葉をかろうじて聞き取ったクレアが視線を向ける。 それから万莉亜の手首にきつく巻かれたベルトに気付き、それをそっと外してやると赤くなったそこに軽くキスを落とす。 驚いた万莉亜が慌てて手を引っ込めると、彼は優しく微笑んでから目の前の男に向き直った。
「クレア・ランスキー……お会いできて光栄です」
 ほんの少し興奮した様子で男が言う。万莉亜は違和感を覚えた。 口調には敵意は勿論、好意や羨望が入り混じっている。
「第三世代がめずらしいか?」
 それはクレアも感じたようで、彼がそう問うと男は口角を上げて頷いた。
「もちろん。希少な第三世代です。あなたと、香港を隠れ蓑にしているもう一人。 たった二人の生き残りだ」
「三人だ」
 しらじらしい台詞を吐く相手をたしなめるようにしてクレアが言うと、男がぴくりと眉を上下させる。
「……どういうことですか?」
「とぼけたいのなら好きにすればいい」
 やはり第三世代がいる。リンの居所が彼らにばれている事が何よりの証拠だ。 もっと強く引越しを勧めなかったことを後悔し、けれどどの道逃げ場はないかとすぐに思い直し、 雑念を振り払うようにしてクレアが相手に詰め寄る。
「何がしたいのかは知らないが、僕のマグナに纏わりつくような真似はやめてもらいたい」
「……あなたが隠しているアレの所在を教えてくれればすぐにでも消えますよ」
「何の話かさっぱりだな」
 言いながらクレアは脱ぎ捨てられた男の上着を拾い上げ、探している物が無いと知ると そのまま男の体に手を伸ばした。
「……何の真似です」
 突然体をまさぐられて男が顔をしかめる。
「ボディチェックだよ」
「このまま私に食われるとは思わないんですか?」
 無防備なクレアの体を両手で掴むと、男はにやりと白い歯を覗かせる。
 少し後方でそれを見ていた万莉亜が咄嗟に一歩踏み出すが、自分の後ろに更なる 人影を感じて振り返る。
「……お前、この体になってそんなに日が経たないだろう」
 ぎりぎりと食い込むように肩に爪を立てられても、クレアは暢気に そう言いながら男の体を確認することをやめない。
「何を言っている?」
「全然、ルールを分かっちゃいない」
「……何だと?」
「僕を相手にする時は、武器が必須だよ」
 そう言って微笑んだクレアが男から手を放して一歩後退した時、耳に痛い銃声が鳴り響き、同時に男の体に 二つの穴を開ける。その衝撃で男は地面に崩れ落ち撃たれた両膝を抱える。
 痛みを堪えながら見上げれば、いつの間にか駆けつけた二人の警官が まるでクレアを守るようにして立ちはだかっていた。
「持っておかないと、第三世代はためらいなく人間を使うからね」
 二人の警官の肩越しからそう声をかけ、悔しそうに顔をゆがめる男を一瞥すると クレアはそのまま背中を向けて歩き出した。
「万莉亜」
 呼ばれて我に返る。
 通りから警官が入ってきたのにも驚いたが、彼らが ためらいもなくあの男に発砲した事に万莉亜は仰天した。遠目から見れば、 若者同士の小競り合いにしか見えなかったはずなのに。そんなに簡単に国家権力を 行使していいはずが無いのに。
「あ、あのおまわりさん……なんで……」
 震える指で男を捕えている二人の警官を指すと、クレアはシリルを抱き上げながら 首を振って見せた。
「ちょっとお願いしたんだ。助けてくれるように」
「でも! 撃っちゃったじゃないですか!!」
「撃ってもあいつは死なないよ」
 それを聞いた万莉亜にさらなる懸念が浮かぶ。 確かにあの紫の目をした人達はすぐに怪我が治ってしまう。そのことを疑ってはいない。でも……。
「……見られて良いんですか? こんな事が世間に分かったら、大パニックに……」
「どうかな」
 実際に、国にその存在を突き止められてしまった同胞なら腐るほどいる。
 犯罪を起こして、投獄された第四世代の話もよく聞いた。看守達はいつまで経っても老いず、 死刑にしても死なない受刑者にさぞや首を捻っている事だろう。しかし、その存在を公にしないのはどの国家も同じだった。
 ぼんやり考えていると、不安そうに瞳を揺らす万莉亜と目が合ってクレアは苦笑した。
「大丈夫だよ。今回は利用させてもらったんだ」
「……どういうこと?」
「僕が学園の生徒にしている事と同じ事をしたんだよ。今回は目だけじゃなくて、意識ごと乗っ取って手伝ってもらったんだ。もちろん、 終わったら全部忘れてもらう」
「……」
「そんな非難がましい目で見ないでよ」
 そんな目をしていたのだろうか。万莉亜はすぐに彼から顔を逸らしてクレアに抱きかかえられている シリルに視線を落とした。
 眠っているように穏やかな呼吸を繰り返す彼女の顔は、見るも無残に腫れ上がっていて、額の血は乾く事無く流れ続けている。
「……どうしてシリルの怪我はすぐに治らないんですか?」
「シリルは僕たちとは違う生き物だから」
「……」
 彼女に申し訳なくて唇を噛む。万が一傷跡が残るような事になってしまっては、悔やむに悔やみきれないだろう。
「大丈夫だよ。一晩じっくり眠ればシリルの怪我はすぐに治る。……眠るのは僕なんだけど」
「……クレアさんが、寝れば?」
「そう。枝って不思議な生き物だよね」
 どこか他人事のようにそう言う彼を見上げながら、あなたも相当不思議だと言いたい気持ちを堪えて 万莉亜は微笑んだ。とにかく今は、その奇妙な生態系に感謝したい気分だ。
「帰ろう」
 言いながら、さりげなく握られた手に目をやる。
 恋人でもないのに、密接に接してくるクレアに戸惑いながら、なぜか振り払う気にはなれなかった。
 いつもそうだ。抱きしめられても、例えキスをされても、何となく彼を受け入れている気がする。 何故だろうか。彼が美しい青年だから?だから、嫌な気がしないだけ?
――そんなことない……
 少なくとも、たったそれだけの理由で易々と男性を受け入れる自分では無いと思いたい。
「万莉亜?」
 突っ立ったまま動かない彼女に振り返り、クレアが呼びかける。 そんな彼の顔を見上げて視線を合わせると、何とも言えない複雑な感情がこみ上げてきて万莉亜は俯いた。
 今すぐ逃げ出せと本能が命じる。
 怖いからじゃない。
 きっと後戻りできなくなる事を心が恐れている。
 芽生え始めた感情には、いつか単純明快な名前がつけられる。そうなってからでは遅いのだと本能が告げる。
 だからといって、こんな日々にはとても耐えられそうも無い。
――……今なら、間に合う……?
 そう心が揺らいだ瞬間、それを見透かすようにして彼の手から力が抜けていく。 止めるつもりは無いと告げるようにして緩められた手に驚いて顔を上げれば、表情をなくしたクレアと目が合った。
 万莉亜を見ているようで、決してそうではない視線。
 何も見たくないのに、目を閉じて浮かぶのは嫌なことばかり。だから心を空っぽにして、宙を眺めている。
――……知ってるわ……
 そうすれば、少し楽になれることを。
「行きましょう」
 解けかけた手に力を込めてぎゅっと握る。
 明日の後悔よりは、今日の後悔を回避する。今を選ぶ。
 決意したように微笑んだ万莉亜にクレアは笑顔を返さず、一瞬驚いたように目を見開いた後、そのまま静かに伏せる。 それから黙って彼女の手を引き歩き始めた。
 多分彼は、どちらを選んでも笑ってはくれないだろう。
 そんな気がして、万莉亜は何も言えなかった。
 ただしっかりと握り返された手は意外なほどに力強くて、それが大胆な決断をした自分を慰めてくれる。
 一体何に絶望しているのだろう。
 聞いてみても答えてはくれないだろう。
 だから一瞬頭をよぎった疑問をその場に捨てて、彼に引かれるままに路地裏を後にした。
 いつかそれを知る日が来るのだろうか。来たとして自分は彼に何が言えるのだろう。 慰めの言葉はあまり意味が無い。万莉亜を救ったのは根気強い愛だった。彼を救えるのは、一体何なんだろう。
――……でも
 あんな目をしているうちは、彼自身もきっと気付けない。
 絶望の渦中では誰もが盲目になりがちだから。
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