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 ヴァイオレット奇譚「Chapter11・"その花の香り[1]"」



 アルバイト先の喫茶店で第四世代の襲撃を受けてから二日目。
 教室の窓から見える新校舎を眺めて万莉亜はため息をついた。
――シリル……大丈夫かな……
 あの日、結局アルバイトが終わるまで負傷したシリルの代わりにクレアが 護衛をしてくれたものの、肝心のシリルは駆けつけたルイスに連れられてそれっきりだ。
 警察に捕まえられたあの男の処置もシリルの容態も、万莉亜にはさっぱり分からない。 「心配しないで」という短い言葉を告げて別れたクレアとももう二日会っていない。
 それというのも、新校舎に向かうたびに入り口付近で梨佳の姿を見かけるせいだ。 まるでわざと自分の姿を見せているかのようにたびたび見かけてしまう。 そんな無言のプレッシャーを感じて万莉亜は彼らの住む五階に近づけないでいた。
 勿論、この二日間は別段学園の敷地内を出る用事が無かったのも大きな理由の一つだ。 学校と、寮と、寮の中にある購買で全て事足りてしまう。学園の敷地にいるうちは無理に枝が一緒にいる必要は無いらしく、結局万莉亜は 自分でも驚くほどこの二日間を真っ当に過ごしてしまった。
 何の危険も不思議も無い生活。それはありがたい事だったけれど、ほんの少し寂しい気もする。
「万莉亜帰らないの?」
 チャイムが鳴っても机に突っ伏したまま動こうとしない万莉亜にクラスメイトの摩央が声をかける。
「アルバイトは?」
「……今日は無いよ」
「珍しいね。土曜日なのに」
 意外そうにそう言った後、すぐに興味をなくした摩央はせっせと寮に帰る支度を始める。
「摩央ちゃん、デート?」
「うん。……そう言えばあんた、この間言ってた男はどうなったの?」
「……そんなんじゃないって」
 髪を机に好き放題広げながら、摩央を見上げる。綺麗にセットされた茶色い髪は、一本一本 神経が行き届いているようで、思わず見とれてしまう。
「……何見てんのよ」
 舐めるような視線を迷惑そうにして摩央が睨んでも、万莉亜は虜にでもなったようにしてしつこく彼女を眺める。
「摩央ちゃんて何でそんなに可愛いの?」
「何よそれ」
 冷たくあしらいながら、それでもまんざらではない様子で摩央が答える。
 実際彼女はこの学園でも群を抜いての美少女だ。自惚れるだけの可愛らしい外見を持っているし、 さらに磨くために日々気を張っている。この女子高で、おまけに全寮制という気の緩みがちな閉ざされた空間にいてもなお、 それに甘んじる事無く恋もしっかり楽しむ。流されて、一緒になって女であることをおざなりになどしない。
「あんたも結構可愛いよ。ちょっと野暮ったいけど」
「やぼ……」
「じゃ、私帰るから」
 そう言って足取りも軽く摩央が教室を後にする。
 残された万莉亜は相変わらず机に頭を乗っけたまま、教室の窓から見える新校舎を見上げ、 それにもさすがに飽きると、ため息をつきながら背中を丸めて寮へと戻った。

 部屋に戻ると、先に帰っていたルームメイトの蛍が下着姿で彼女を迎えた。
 カーペットの上に座り、口にアイスをくわえながら足の爪を切っている彼女を見て笑いがこみ上げる。
「蛍、油断しすぎ」
「ふぁ?」
 意味が分からなかったのか、アイスをくわえたまま蛍がおかしな声を上げた。
「もし男の人が入ってきたらどうするの? そんな姿で」
「男なんているわけないじゃん」
「そりゃそうだけど。意識の問題だよ」
「なに摩央みたいなこと言ってんのよ」
「……」
 図星をつかれて口ごもる。多分帰り際、あまりにも可愛い摩央を見て影響されてしまったのかも知れない。 我ながら単純だなと呆れて制服を脱ぎ、それをハンガーにかけるでもなくベッドに捨てると、下着姿のまま 机に腰掛ける。それから頬杖をついてパソコンのスイッチを入れ、お気に入りのオークションサイトを開く。
「また何か買うわけ?」
 足の爪を切りそろえた蛍が画面を覗き込む。
「うーん。香水をちょっとね……」
「……また変な匂いのやつ買ってきたら今度こそ部屋から放り出すから」
 棘のある口調で釘を刺されて万莉亜は苦笑した。
 例のフェロモン香水は泣く泣く捨ててきたが、とにかく何でもいいから香水がないと外出が出来ない。 けれど、画面越しではどれがどんな匂いなのか想像もつかない。
 冷蔵庫から蛍が持ってきたアイスを受け取り、結局彼女と同じように下着姿のままそれを頬張る。 そんな風にしてリラックスしていると、だんだん考えるのが面倒になり、 本来の目的から脱線してついつい祖母の土産探しを始めてしまう。
「ねぇ蛍これ見て。アフリカでとれた恐竜の骨笛だって。ほんとかなぁ」
 またしてもへんてこな物を見つけて嬉しくなった万莉亜が振り返ると、いつの間にかシャツとジーパンを着た 蛍が今靴下に足を通そうとしていた。
「……蛍、どっか行くの?」
「どっかって。私これからバイトだもん」
「なんだぁ。たまには一緒にお昼食べられると思ってたのに」
 がっかりして肩を落とす。クラスもバラバラで休日はお互いアルバイトに勤しむ二人は、 ルームメイトでありながらも中々昼食を共に出来ないでいた。
「万莉亜バイトは?」
「今日は無いよ」
「おばあちゃんのお見舞いは?」
「今頼んでるお土産が届いたら行くつもり。今週はまだ来ないよ」
「手ぶらでも暇なら行ってやればいいのに」
「……う、うん」
 胸にぐさっと来て万莉亜は目を伏せる。
 行きたい気持ちは山々だが、外出するために必要な香水が無い。 学校の敷地から出るときは絶対につけるようにと、固く言われているのに。
 でもどこかでそれを言い訳にしている自分を見抜かれたようで、情けなかった。
「あ……でも、万莉亜だってたまにはゆっくりする時間が必要かもね」
 自分の言葉が意図した以上に相手に冷たく届いてしまったのだと気付き、蛍は慌てて付け加える。 それから最近、彼女が奇妙奇天烈な事を口走るようになったことも追って思い出し、笑顔でゆっくりしていなよとなだめてから 蛍は部屋を出て行った。
 残された万莉亜はちくちくと胸を痛める罪悪感を感じながらパソコンに向き合う。
 祖母は、今か今かとやってくる自分を毎日心待ちにしているはずだ。最近はアルバイトが忙しくて 日曜日に一回通う事が習慣になっていたけれど、そんな中突然土曜日に現れたらどれほど喜んでくれるだろう。 その喜びを今すぐ与えてやる事が出来るのに。
――……行きたいな
 でも香水が無い。それを買いに行く事も出来ない。
 行き詰ってアイスをくわえたままどうにか頭を捻る。その時、見落としていた大事な事実に気がついて「あ」と声を漏らす。
 何にも困る事は無い。ここは女子寮だ。
――馬鹿みたい! 誰かに借りればいいんだ!
 蛍が香水を持っていないから、何となく「借りる」という選択肢をのっけから排除してしまっていた。
 しかし何といっても全寮制だ。香水を持っている生徒など、腐るほどこの建物内にいるだろう。 それに気付くと万莉亜は勢いよくイスから立ち上がり、後ろへ振り返る。その時、いきなり視界に入ってきた 予期せぬ人影に驚いて思いっきり後ろへイスごとひっくり返る。
「い、痛いっ……」
 大きな音を立ててひっくり返り、机にぶつけた後頭部を抱えながら万莉亜がうずくまる。 それから、これにはさすがに抗議をしていいだろうと思い、人影を見上げて思いっきり睨みつけた。
「いるならいるって言ってください!!」
 叱られた金髪の青年は、目の前で大股を広げ転がった相手に笑いを堪えながら手を差し伸べる。
「ごめん。次からそうするよ」
「次はちゃんとノックして入ってきてください!!」
「ごめんね。ルームメイトの子が出るところだったから、ちょうどいいと思って」
 蛍とすれ違うようにして入ってきたのだろうか。全く気がつかなかった自分の散漫ぶりに呆れると同時に、 それ以上にデリカシーの無い彼にも気抜けしてしまう。
「全く、私が着替え中とかだったらどうするんですか」
 ブツブツと文句を言うと、相手は少し困惑したように小さく首を傾げた。 そんな彼の態度に眉をひそめ、それから今の自分の姿を思い出して愕然とする。
「……そうだね。着替え中じゃなくて助かったよ」
 真面目ぶって言われた言葉に、万莉亜は顔を真っ赤にして手元にあったコードレスのマウスを投げつける。
「で、出てってッ!!」
 頭を傾けてその攻撃をかわすと、クレアはこれ以上被害をこうむらないように一旦部屋の外へと非難した。
――信じられない! 無神経なひ……生き物ッ!!
 肩で息をしながらドアを睨みつけると、もう誰も見ていないというのに万莉亜は ベッドからシーツを引っ張り体に巻きつけた。
 以前彼には下着姿を見られたどころか、素っ裸を見られた事がある。
 あの件は、傷を治すための不可抗力だったと許すことも出来たが、今回のこれは相手がきちんとノックをしてくれさえすれば 未然に防げたはずだ。そう考えるとどうにも消化できない怒りが腹に溜まる。
 とりあえず手元にあった脱ぎ捨てたばかりの制服に袖を通し、鏡で簡単にリボンを整えると、大きく深呼吸して 部屋の扉を開く。
 壁によりかかって腕組みをしていた青年は、それに気付くとにっこり微笑んで万莉亜に挨拶した。 それから相手がぶすっとしているのもお構いなしに部屋へと上がりこむ。
「……クレアさん。さっき見た事は忘れてください」
「努力するよ」
「……」
 嘘でも良いから頷いて欲しかった万莉亜は、その返事に満足できないまま冷蔵庫から 缶のお茶を取り出し、ドン、と大きな音を立ててテーブルに差し出す。
「ありがとう。優しいね」
 その態度に怯む事無く相手もふてぶてしく微笑む。
――変なの。まるでわざと嫌われようとしてるみたい
 それとも、自分が知らないだけで、彼は元々うんと意地悪な人なのかも知れない。それか、 隙あらば女の子の裸を見ようとする生粋のすけべか。
――どっちにしろ、ろくなもんじゃないわ
 警戒を露わにしながら万莉亜は彼から距離を取って部屋の隅に立つ。 彼はそんな相手の態度に気を悪くするどころか、むしろ満足するように目を細めて、それから 着ている黒いジャケットのポケットからラッピングされた小箱を取り出した。
「実はこれを届けに来たんだ」
 それをそっと部屋の中央にある低いテーブルの上に置く。
「……なんですか、それ」
「プレゼント」
「……え?」
 予想だにしなかった言葉に驚いて万莉亜が顔を上げる。
「ていうよりは、備品の支給かな。無いと困るだろ?」
「あ……」
 箱の中身に察しがついて、万莉亜は床に膝をつきそれを手に取ると、 頷くクレアを見てためらいがちにラッピングを剥がしていく。丁寧にそれを剥がし終えると、 プラスチックの透明ケースの中から可愛らしいピンクの小瓶が現れた。
「わぁ、可愛い……」
 自然と顔をほころばせてクレアを見上げる。
「ありがとうございます、クレアさん。気を使ってくれたんですね……」
 心遣いが嬉しくて警戒心も忘れて微笑む万莉亜を見て、クレアが自分から一歩後退する。
「気にしないで。もともと僕の部屋に転がってた物だから、役立てる時がきて良かった」
「いえ、私ちょうど困ってたんです。前の香水は捨てちゃったから、今も誰かに借りに行こうとしてて」
 前の香水を捨てた、という言葉を聞いて相手が内心ほっと安堵のため息をついていることなど知らずに 万莉亜は嬉々として中身を取り出す。
 プラスチックケースから解放された小瓶からは、淡い薔薇の香りがする。
「……いい匂い」
「良かった。じゃあ、僕はこれで」
「あ……」
 言いながら部屋を後にしようとする彼の背中に声をかける。
「あの……これ、早速使っていいですか?」
「ん? 君の好きなときに使って構わないよ」
「いえ、あの……今からちょっと出かけたいんです」
 そう告げると、クレアは体を万莉亜に向き直し、うーんと小さく唸った。
「……あの……何か問題が?」
「いや……実は今シリルもハンリエットも負傷してて動けないんだ」
「えっ!?」
「ま、いーや。ルイスに行ってもらうか。呼んでくるから待ってて」
 勝手に納得して部屋を出て行こうとする相手のジャケットの裾を、走り寄ってきた万莉亜が掴んで引き止める。
「どういうことですか! まさか、この間の怪我が……?」
「え?」
「ごめんなさい……私、すぐ治るんだと思って……」
 うろたえる万莉亜の言葉の意味をすぐには理解できず、それから すっかり忘れていた二日前の夜のことを思い出してクレアが首を振る。
「違うよ。昨日、梨佳が襲われたんだ」
「……え」
「君は寮にいたし、外出する梨佳にシリルとハンリエットを付けたんだけど、相手も二人でつるんでいたから 大分手こずったんだ」
「寮長が……?」
「梨佳もマグナだからね。君と同じくらい、頻繁に襲われる」
 失念していたわけではないが、彼女も自分と同じ立場だと思うと随分奇妙な感じだった。
「りょ、寮長は……大丈夫なんですか?」
 この二日、嫌と言うほどピンピンしている梨佳を見かけたが、見落としていただけで どこか痛めたりしていたのだろうか。そう思うと、同じ境遇の者にしか分からない同情心がこみ上げる。 あんなに恐ろしい日常を、彼女もまた送っているのだ。自分よりも、ずっと長く。
「もちろん。マグナに手を出させたりはしない。そのためにあの子達がいるんだから」
「……そう、ですか」
 胸が痛む。
 自分の存在が、むやみにシリルたちを犠牲にしている気がして、割り切れない罪悪感がこみあげた。 梨佳もこんな後ろめたさを感じているのだろうか。だから、万莉亜がマグナになることをあんなに拒んだのだろうか。 マグナが増えればその分、彼らの負担も増える事になる……。
「あの……」
 勝手に口が開く。何を言おうとしているのか自分でも分からないまま言葉が零れ出した。
「あの、私に、銃を持たせてくれませんか?」
 突然の申し出に唖然としてクレアが黙っていると、さらに相手が詰め寄る。
「だって、そうすれば、あの……ちょっとコンビに行くときとか、一人でも平気、だし……その……」
 尻すぼみになっていく言葉に自分でも呆れる。何を馬鹿なことを言っているんだろう。 いくらなんでも突拍子が無さ過ぎる。それに、受け取ったところで銃なんて扱えない。 言われたクレアも呆れたようにため息をついて彼女を見つめた。
「君が持ったら銃刀法違反だよ、万莉亜」
「……はい」
「君は普通の女の子なんだから、銃を振り回して戦う必要はないよ」
「……でも、シリルだって普通の女の子です」
「シリルの存在は法律に縛られないし、彼女は心臓を撃ち抜かれても死なないからね」
「でも……!」
「万莉亜。銃を持つって事は、それを奪われて撃たれる事も覚悟しなきゃいけない」
「……」
 きっぱりと言われて閉口する。そんな覚悟は、当然持てない。
 押し黙っている彼女の肩を軽く撫でて、クレアがドアノブに手をかける。
「じゃあ、ルイスを呼んでくるからここで待っててね」
 釈然としないまま頷くと、クレアは困ったように微笑んでそっと部屋を後にした。
――……どうして
 アルバイト先で襲われ、シリルが怪我をした時、彼は横たわる少女に目をやって、 ほんの一瞬だったけれど沈痛な表情を見せた。だからこそ万莉亜の胸も痛んだ。それなのに。
 愛しいくせに、道具みたいに扱っている。その矛盾が理解できずに万莉亜は両手を握り締めた。
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