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 ヴァイオレット奇譚「Chapter12・"その花の香り[2]"」



 クレアが部屋を去ってから二時間が過ぎた。
 大人しく部屋で待っていた万莉亜もさすがに痺れを切らして部屋の窓から 外の様子を伺うが、誰かが寮に入ってくる気配は無い。ほんの少し苛立ちながらいつもの癖で左腕に目を落とす。
――あ、そっか……
 いつもしている腕時計は、今は机の引き出しの中で眠っている。
 祖母から貰った大切な時計だったのに。
――寮長がいけないのよ……
 もともと苦手な相手だったが、こと時計の件に関しては、万莉亜は随分と根に持っている。 あれは大切な人からの贈り物だったから、思い入れもひとしおだった。
――あんな風にナイフ持って追っかける事無いじゃない
 考えれば考えるほど怒りがつのる。多分、二時間もの間待ちぼうけを喰らっているせいもあるだろう。 けれどそんな怒りをまとめて一手に梨佳に向けてみれば、それは度胸となって万莉亜を奮い立たせた。
――そうだよ……私が気を使う必要ない
 奮起して窓辺から立ち去ると、ベッドの側にある小さなハンガーラックから服をあさる。いつも着ている 青いパーカーとジーパンに手を伸ばし制服を脱ぎ捨てて着替えていると、等身大のスタンドミラーの中で 髪の毛をこれでもかと乱している自分と目が合った。
 間抜けな顔をした自分と見つめあっていると、放課後の摩央の姿が脳裏に浮かぶ。
 綺麗にセットされた茶色い髪と、すっきりとした眉。睫毛の先まで手入れの行き届いた大きな瞳。 それから、いつも不思議なほどに潤っている桜色の唇。例えば摩央が生まれつきの美少女だったとしても、 今の彼女の美しさに努力が無かったわけではないだろう。
 クレアやハンリエットのように、骨格からして作りが違う彼らと自分を比べる気にはなれないが、 もし頑張ったなら、いつの日か摩央のように綺麗になれたりするのだろうか。
――私、野暮ったいのかな……
 親しみやすいと蛍は言ってくれるが、果たしてそれは褒め言葉なのだろうか。考えた事も無かった。
 テーブルに置かれた香水に目をやり、なんとなくそのピンクの小瓶を手に取る。優雅で、それでいて嫌味の無い甘い香りが 鼻腔をくすぐれば、胸のうちにある僅かな乙女心が刺激されて、万莉亜はジーパンを脱ぎ捨てた。
 それからハンガーラックに戻り、滅多に袖を通さない若草色のプリーツワンピースをハンガーから取り出す。
 外出着にと思って買ったのだが、 万莉亜が外出するといったら、大抵はアルバイトか病院だ。バイト先にはきちんとした制服があるし、目の見えない祖母の前で着飾る必要もない。 だから実際のところは、楽なパーカーとジーンズばかりを着まわしていた。
――まずは、意識改革だよね
 小さく頷くとワンピースに袖を通し、それから鏡の前でいつもより少しだけ丁寧に髪を梳かす。さらに、いつもは 気紛れで塗ったり塗らなかったりしているリップクリームを丹念に塗りこんでそれを鞄に戻す。 見て分かるほどの変化など何も無いが、まずは意識する事だ。
 白いカーディガンを羽織り、手首に香水を吹きかけてから部屋を出る。 しゃんとした格好をしているせいか、 いつものようにばたばたと走るのも気が引けて、万莉亜は静かな足取りで寮の階段を下りた。
――寮長、居ないといいけど……
 祈るようにして新校舎に向かい、私服のまま玄関を通り過ぎるとそのまま四階まで上がる。
 真っ直ぐに廊下を突き進み、そろそろ壁にぶち当たるというところで左を向けば、黒い螺旋階段が彼女を迎えた。 この階段を使うのは、梨佳と対決したあの夜以来だ。ごくりと唾を飲み込んで、怖気づきそうな自分を叱咤する。
 梨佳は、怖い。
 あのピシッとした冷たい雰囲気は勿論、三年生の彼女は先輩でもあるし、閉鎖された女性だけの学園内では、 一般の共学高よりも上下関係が厳しい風潮にある。先輩に噛み付くなど言語道断。 穏便に学園生活を送りたいのならここで引き返したほうが得策だ。
 それなのに足は意思を持ったようにして勝手に上がり、階段をのぼり始める。
 隠された五階に辿りつく前に、口論する男女の声が聞こえてきた。
――……ああ…… 
 思わず目の前を覆う。
 梨佳の声だ。そして、それを宥めるルイスの声もする。
 どうすべきか迷いながらも螺旋階段をのぼりきった万莉亜は、フロアの中央で口論する二人を 遠目で眺めた。
 どうしていつも梨佳は怒っているのだろう。そんな疑問が頭をよぎったが、その一端に自分の 存在が含まれていることを思い出して目を伏せる。
「何しに来たの」
 入り口で立ちすくんでいる万莉亜の姿を見つけて、梨佳が厳しい口調で咎める。 同じようにして万莉亜を見つけたルイスが、慌てて駆け寄ってきた。
「すみません万莉亜さん。お待たせして……」
「何しに来たのって聞いてるの」
 ルイスの言葉を遮って梨佳が怒鳴る。万莉亜は、そんな梨佳の瞳に涙の跡を見つけて目を逸らした。 ここにいる彼女は、いつだって泣いている。
――どうして……?
 答えない万莉亜に梨佳はさらに詰め寄り、ナイフこそ出さなかったがその手で万莉亜の肩を小突く。 僅かによろめきながらも、万莉亜は口を開かなかった。何を言っても逆上させてしまう気がして言葉が見つからない。
 その時、梨佳が鼻をひくつかせて顔をしかめる。
 その動作を見て、万莉亜も思わず眉をひそめる。
 薔薇の香りがする。自分と、そして目の前の梨佳からも。
――同じ……匂い?
 梨佳はすでに確信したようで、憎憎しげに相手を睨んでいる。
――ああ、そっか……
 きっと、梨佳と同じ物を彼は自分にくれたのだ。別におかしい事じゃない。 元々梨佳のためのストックだったのか、何の気なしに同じ物を買ってくれたのか。どちらにせよ、何にもおかしい事じゃない。
 それなのに、心は鉛のように重くなる。
「クレア」
 向かい合う少女達を静観していたルイスが、主の登場に声をあげる。
 フロアの端にある部屋から出てきたクレアは、突っ立っている少女達にまとめて微笑みかけ、近寄ってくるルイスに小さく頷いて見せた。
「……ハンリエットの様子は?」
「あんまり良くないな」
「そう……ですか」
 がっくりとルイスがうな垂れる。
「今から少し寝てみるよ。僕の部屋に睡眠薬を用意しておいて」
「……はい」
 重い足取りでルイスがフロアから立ち去る。
 クレアは残された少女二人に向き直り、疲れを追い払うかのように 一度ぎゅっと目を瞑る。それからすぐにいつもの笑顔を取り繕うと、二人の前に立って両方の手首に交互にキスを落とす。 その動作に慣れない万莉亜がさっと手を引っ込めたのに対し、梨佳はキスをされている間も黙って相手を見つめている。 全ての激情を含んだようなその複雑な表情に、深みのある薔薇の香りはよく似合っていて、万莉亜は口元を固く結ぶ。 これは梨佳のために選ばれた香水だと、嫌でも思い知らされる。
「こんなんじゃ、私はいつか死んでしまうわ」
 ぽつりと零すようにして梨佳が言う。
「君は僕が守るよ」 
「……クレアの言葉なんて信用できない」
「梨佳……」
「昨日だって、もう少しクレアが遅かったら私は死んでた」
「あいつらの目的はマグナを殺す事じゃない。僕をおびき寄せる事だ」
「そんな冷静な奴ばっかりじゃないって知ってるでしょ!? ただあなたに復讐したいだけの 第四世代だっているのよ! 私がほんとに危険だって分かってるの? もっと枝を増やしてよ。 こんな女が出てきて、私の枝まで持っていっちゃうなんてひどいじゃない! シリルは私の枝なのに!」
 人差し指を指されて当惑する万莉亜をよそに、クレアは優しい手付きで梨佳の頭を撫でる。まるで駄々をこねる子供を あやすかのように。それでも、怒りが収まらないところを見ると、それは梨佳の望む対応ではないらしい。
「クレア、寝室の用意が整いました」
 理事長室から戻ってきたルイスが声をかけると、クレアはまだ万莉亜を睨みつけている梨佳の肩に手を回して 歩き出す。梨佳は抵抗をしなかったが、歩き出しながら去り際まで万莉亜に鋭い視線を向けた。それからそっと 彼の背中に手を回してもたれ掛かる。そうやって理事長室へ消えていく二人を呆然と見送りながら、万莉亜は 自分の胸をぎゅっと掴んだ。
 ちくちくとした痛み、圧迫されている心臓。苦しくて辛い。
「万莉亜さん、行きましょうか」
 戻って来たルイスにそう声をかけられても答えることが出来ずに、情けない顔で彼を見上げる。 梨佳に圧倒され萎縮しているのだと感じたルイスが「すみません」と呟くけれど、そんな言葉もどこか 遠くで響いていた。
「……私、今日はやめておきます」
「え?」
「おばあちゃんのお見舞いはいつでも行けるし、シリルやハンリエットが不調な時に無理して行くこと無いから」
「ですが……」
「いいんです。また、お願いします」
 軽く頭を下げて笑顔を見せれば、ルイスは僅かに戸惑いながらも頷いた。 彼だって本当はシリルやハンリエットに付いていたいのだろう。それを感じた万莉亜は そのまま階段を駆け下りて、新校舎を抜け寮に戻る。
「ただいま」 
 呟いても、蛍はアルバイトに行ってしまったから部屋には誰もいない。 寂しさよりもむなしさが込み上げてきて、万莉亜は着ていたワンピースを手早く脱ぐとそれをベッドに投げ捨てた。 薔薇の香りが、まだ体に纏わり付いている。その匂いが、何故だか心を締め付ける。
――苦しい……
 胸を掴んでうずくまる。
 情けなくて恥ずかしい。素敵な香りなのに、今すぐにでも瓶を床に叩きつけたくなるような衝動。 誰も悪くは無いのに、この痛みを誰かのせいにしたい。傷つけられたのだから、と誰かを責めたてたい。
 もしかすると、梨佳もこんな風に苦しんでいるのだろうか。これよりも、もっとずっと強く。
 だから彼女はあの青年に牙を向く。全ての激情を彼に向ける。
――寮長はクレアさんが好きなの……?
 問いかけながらも、確信していた。
 そうしてまた、胸が痛む。



******
 


 翌日、アルバイトに来た万莉亜の様子がおかしい事に気付いてマスターは首を捻った。
「……万莉亜ちゃん」
「はい!」
「そろそろ……トイレはいいよ。もう磨くところもないだろう」
 白いタイルは目にまぶしいほど光り輝き、便器には沁み一つ無い。 それでもなお床に膝をついてせっせとタイルを磨き続ける万莉亜を、見かねたマスターが止めに入る。 客が入らなくて暇ならば、いつものように一緒にカウンターでコーヒーを飲めばいいのに、今日の彼女は ちょこまかと忙しなく働き続けた。
「少し休憩しようよ」
「いえ、これが終わったら入り口周りを掃除しようと思って」
「そ、そうなの?」
「それが終わったら私呼び込み行って来ます。日曜日だし、今日は外に人が多いから 上手くいけば誰か来てくれるかも」
「ま、万莉亜ちゃん、そんなことしなくていいよ」
「え? そうですか?」
「それよりお昼にしようよ。もう二時だよ、お腹空いただろう」
 いまいち反応の鈍い万莉亜をトイレから引きずり出してカウンターに座らせると、 マスターは手際よく二人分のサンドイッチを用意した。
「はい、お待ちどうさま」
「いただきます。これ大好き」
 両手を叩いて喜ぶ彼女を見てマスターも口元をほころばせる。
「万莉亜ちゃん、午後はおばあさんのお見舞いに行くんだろう?」
「はい」
「一旦店を閉めて送って行ってあげるよ」
「い、いいんですか?」
「どうせこの分じゃ、お客さんも来ないだろうし」
 がらんとした店内を見渡してマスターが苦笑する。白髪の混じった眉毛が力なく 垂れ下がるのを見て万莉亜も乾いた笑いを零す。
――大丈夫かな……このお店
 雰囲気はすごくいいお店なのに、古めかしい建物の概観と、それによって生じるひなびた 空気が客を遠ざける。上手くすれば隠れ家的存在になりそうなものだが、世の中はそこまで甘くないらしい。
「おっと忘れてた。発注の電話してこなくちゃ」
 しんみりとした空気の中、そう呟いてマスターはカウンターの奥へと消えていった。
 それを横目で確認しながら、彼の姿が完全に見えなくなると万莉亜は立ち上がって 誰も座っていないテーブル席へ向かう。
「シリル」
 窓際の空席に向かって呼びかける。
 万莉亜にしか見えない赤錆色した髪の少女が、寝ぼけ眼で顔を起こす。
 アルバイトの予定を知っているシリルは、朝にしっかりと彼女を迎えに来たものの、 まだ回復していないのか店に着くなりテーブルで眠ってしまった。
「サインドイッチ、食べる?」
「……いらない」
 首を振ってもう一度テーブルに突っ伏す。
「奥で寝たら? そんな所じゃ体が痛いでしょう」
 イスに座って眠る彼女を気遣ってそう言うと、シリルは少し迷っているように眉をひそめる。 多分、彼女なりに前回の失態を悔やんでいるのかも知れない。
「奥にはソファがあるから、そこで寝なよ。お客さん全然来ないしさ」
「……うん」
「怪しい人が来たらすぐに起こすから。それでいいでしょ?」
「絶対ね」
「はいはい」
 不安そうに店の奥へと向かったシリルを見送ってため息を零す。
 実際、また第四世代とやらがこの店に来たとしても、一体シリルを頼っていいのかどうか。 その事についてはまだ迷っていて、今も答えは出ていない。ただ、見えないという事については確かに 利点があるから、彼女にも危険が無い程度に協力してもらって、二人で敵を追い払うか。
――そんなこと、出来るのかな……
 あんまり機敏な方ではないし、腕力にも自信は無い。真っ当に立ち向かっても勝ち目は無いだろう。
 だからこそ、まずは見つからないことに全力を注がなければいけないのに、その為につけている 香水の香りに万莉亜の心は沈む。
 手首に鼻を寄せて、きちんと匂いがあるのか朝から何度もチェックして、 そのたびにほっと胸を撫で下ろし、その次に憂鬱になる自分。くだらない ジレンマを振り払うようにして朝から夢中で仕事に励んでいるけれど、 肝心のマスターはそんな彼女に戸惑っている様子だ。
 肩を落としてカウンターに戻り、残ったサンドイッチを全部口に詰め込むと それを無理に飲み干した。本音を言えば今日は朝からあんまり食欲が無い。
――私、どうしちゃったんだろ……
 カウンターに突っ伏して目をつぶる。
 頭に浮かぶのは昨日理事長室へと消えていった二人の男女の姿。それが、瞼の裏に焼きついて どうしても消えてくれない。

「……ちゃん、万莉亜ちゃん」
「ん……」
「万莉亜ちゃん、起きて」
 肩を揺すられて重い瞼を持ち上げる。
 昨日あんまり眠れなかったせいだろうか。体がだるい。
「……マスター」
「大丈夫? 疲れてるみたいだけど」
 そう言われてはっと起き上がる。
 寝てしまったんだ。あのまま、仕事の途中で。
「ご、ごめんなさい!」
 がばっと上半身を起こすと、妙に柔らかい感触に違和感を感じて万莉亜は視界を一周させた。 カウンターのイスはこんなに柔らかくない。
「起こしても起きないから」 
 マスターが微笑む。
「……え……」
「万莉亜ちゃん寝ちゃってたし、お客さんも来ないからね」
 その言葉に状況を理解する。
 今万莉亜がいるのはマスターの車の中で、目の前に見えるのは祖母のいる病院だ。
「お店は私に任せて、元気なうちにお見舞いしておいで」
「あ……ごめんなさい、マスター」
 車内の時計を見れば、時刻は三時前。本来ならアルバイト終了まであと二時間もある。 申し訳なくてこうべを垂れる万莉亜の肩をぽんぽんと叩いてマスターは去っていった。
 車を降りた万莉亜は、マスターから渡された荷物と私服を持ってまず病院内のトイレに向かう。
――マスター……私を運んでくれたんだよね。重くなかったのかな……
 老いた彼が必死に十六の娘を持ち上げているところを想像してほんの少し心が温かくなる。
 ぼんやりしているくせに、時々こうやって強引に万莉亜の世話を焼く彼に感謝しながら着慣れた青いパーカーに 袖を通し、ジーパンに履き替える。それから、朝から何度も繰り返している匂いのチェックをしているときに、 忘れていた事実に思い当たり愕然とする。
――シリル!
 慌てて個室から飛び出し辺りを見回すが、彼女の姿は見当たらない。置いてきてしまった。
――ど、どうしよう……
 混乱しながら鞄の中の携帯電話を取り出し、お店の番号にかけるが、 ここが病院だということを思い出して急いで電源を落とす。
――どうしよう……一回外に出て……
「万莉亜ちゃん?」
 女子トイレの真ん中で立ち尽くしていると、看護婦さんに介助されながら トイレにやってきた老婦人が声をかける。
「あ、田崎さん……」
 祖母の隣のベッドの患者だとすぐに分かり万莉亜も咄嗟に笑顔を取り繕う。 田崎と呼ばれた老婦人は微笑みながらトイレの外を指差した。
「ハナさんなら今散歩の時間だよ。庭にいるから行ってあげて」
「あ……はい。ありがとうございます」
 荷物を抱えて一礼すると、万莉亜はトイレを後にしてとりあえず庭に向かった。 向かう間、何度も香りの強さをチェックし、ほんの少し不安になればもう一度吹きかける。 万が一にでも祖母の前に彼らが現れてしまったらと思うと、過剰だと分かっていてもそうせずにはいられなかった。
 建物を出て、施設内の庭を遠目から見回せば、看護婦に車椅子を押されながら散歩を楽しむ祖母の姿を見つけた。 秋の景色は見えなくてもその薫りだけで彼女は十分に楽しそうだ。
「あら。ハナさん、お孫さんが見えましたよ」
 万莉亜の姿を見つけた看護婦が祖母に囁くと、彼女はきょろきょろしながら万莉亜の感触を探す。 いてもたってもいられなくて万莉亜は駆け出し、祖母の手を握った。
「おばあちゃん、来たよ」
「万莉亜」
 二人が再会を喜んでいるうちに、看護婦がさりげなく姿を消す。
「すこし早いんじゃない? 今日はアルバイトがあると思ってたよ」
「うん。マスターが、特別に早退させてくれたの」
「そう。いい人だね。お礼を言わないとね」
「そうだね」
 万莉亜は後ろに回りそっと車椅子を押す。手入れされた庭の赤や黄色やだいだいの紅葉を眺めながら ゆっくり歩いていると、棘々していた心がゆっくりと絆されていくような気がして万莉亜は自然と微笑んでいた。
「おばあちゃん。紅葉がすごく綺麗だよ」
「そう。風も冷たくて気持ちいいね」
 やっと秋らしくなってきた気温。冬を迎える準備が着々と始まる。
「冬までには、退院できるといいんだけど」
 ぽつりと漏らされた祖母の言葉に万莉亜の足が止まった。 多分それは叶わぬ夢だと二人とも分かっている。 祖母には引き取る家族がいないし、唯一の万莉亜はまだ学生で、しかも寮生活をしている。
「……その時は私の部屋に来てね」
 それでも、儚い夢だと思いたくなくて万莉亜は答える。 学生の寮に要介護老人が暮らすなど聞いたこともないが、それが今の万莉亜の頭に浮かんだ唯一の案だった。
「万莉亜、香水をつけてるの?」
 しんみりとした空気を破って唐突に祖母が顔を上げる。
「く、臭い?」
 やっぱりつけすぎたかと万莉亜は慌てて袖口を鼻に押し当てた。
「ううん。薔薇のいい匂いがする」
 目を閉じて香りを吸い込み、祖母が微笑む。 上手く笑顔を作れなかった万莉亜は、車椅子のハンドルをぎゅっと握った。
「……私は……あんまり好きじゃない」
 それでも押し留めることが出来なかった感情が、口から零れる。 祖母は不思議そうに両方の眉を上げた。
「どうして?」
「……分かんない」
「そうなの」
「うん」
 小さく頷いてまたゆっくりと歩き出す。そのまま黙って 庭を一周したところで、祖母がそっと口を開いた。
「……そうだね」
「え?」
「万莉亜は春生まれだから、春の花が似合うかもね」
「……そう、かな」
「万莉亜が生まれた頃、あれは三月だね。早咲きのヒメスミレが庭にたくさん咲いてて、すごく綺麗だったよ」
「……」 
「もう名前は決まってたのに、それを見たおじいさんが菫に変えようなんて言い出してね」
「おじいちゃんが?」
「そうそう。それで光一や誠子さんが随分困ってたのよ」
 久しぶりに聞いた両親の名前にズキンと胸が痛む。 それを悟られないように、万莉亜は平静を装って返事をした。
「おばあちゃんは、どっちが良かったの?」
「私は、万莉亜が良かったね。当時は何だかお洒落な響きだったし。でも おじいさんが頑固で、結局は家族全員でお寺に行って、偉いお坊さんに選んでもらったの」
「そうなの!?」
 初めて聞くエピソードに思わず大きな声を出してしまう。 それから慌てて口元を覆い、周りを見渡す。みんな暢気に散歩をしていて、大した注目も浴びなかったことにほっとして 万莉亜は再び祖母に向き直った。
「すごく偉いお坊さんだって聞いたから、その人に決めてもらおうって事になってね」
「……そうだったんだ」
「そしたら、その方が万莉亜にしなさいって仰ったの。この子は将来海外の方と 深く関わることになるから、あちらで馴染みのある名前の方がいいって」
「……嘘」
「みんなびっくりしたけど、でもお坊さんがそう仰ったし、おじいさんもそれでやっと納得したみたい。 その日から万莉亜は通訳になるんだって信じきっちゃって。思い込みの激しい人だったからね」
 今はもういないかつての人を思い起こして祖母が穏やかに笑う。
 一方の万莉亜は、こんなにも温かいルーツがあるにもかかわらず、今はその当事者の殆どがいないことに 懐かしさよりも苦しみが勝り、上手く笑えないでいた。泣き崩れないだけ成長したのだと自分に言い聞かせて 目を伏せる。
 秋の冷たい風が頬をかすめて通り過ぎる。
 雲ひとつない午後の青い空を見上げれば、シンと張り詰めた空気の中に冬の気配を感じて万莉亜は目を細めた。
 やがて訪れる冬の季節を、再び愛せる時が来るのだろうか。
 じっと耐えてそれを乗り越え、訪れる春を今か今かと待つのではなく、きちんとあの季節を愛せるように。
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