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 ヴァイオレット奇譚「Chapter13・"その花の香り[3]"」



「万莉亜ちゃん、そろそろ」
 病室へと戻り、いつまでも祖母と話し込んでいる万莉亜にそっと看護婦が告げる。
 時計を見上げれば時刻は面会時間の十分ほど前で、万莉亜は最後に祖母のトイレの介助をするために立ち上がった。
「あ……」
「どうしたの万莉亜」
「ごめんおばあちゃん。ちょっと私、先にお手洗い行って来てもいい?」
「ああ、いってらっしゃい」
 話すのに夢中で無意識のうちにずっと我慢していたのだ。 万莉亜はさっと病室を後にしてトイレに駆け込む。
 それから用を足し両手を洗うと、香水まで取れてしまったんじゃないかと不安になりもう一度吹きかける。 それから少しだけ落胆した。
――私……いつまでこんなこと……
 容易なことではなかった。
 特にバイト中などは水仕事が多いせいで、どうしても手首まで洗い流してしまう。 そのたびにトイレに戻って香水をかける。些細なことではあるが、億劫なのに変わりはなく、 おまけに香水臭い自分は老人ばかりのこの施設ではどうにも悪目立ちしてしまって気が気でない。
 けれどそんな風にマイナス思考に陥ってしまう一端に、そもそもこの香水が気に入らないという 大前提があることも万莉亜は自覚していた。
 けれどそんなことを言ってもしょうがない。これは若い女性がお洒落を楽しんでいるわけではなくて、 あくまで自衛の手段なのだから。「ごめんなさいね」と心の中で通りすがる人たちに謝罪をし、肩身の狭い思いをしながら祖母の病室に戻る。
「万莉亜ちゃん!」 
 病室へ入るなり、同室の患者さんが駆け寄り万莉亜の肩を掴む。
「な、何ですか?」
「ハナさんがおかしいんだよ!」
 慌てて告げられた言葉にぎくりと心臓が音を立てる。 そのまま相手の手を振り払い、部屋の最奥、窓際にある祖母のベットまで走り寄ったとき、思わず言葉を失い足を止めた。
「生まれはどちらなの?」
「スウェーデンです」
「まぁそうなの、知ってるわ。ストックホルムが首都だったかしら」
「ええ。僕が生まれたのはヴェステロースという、もう少し西側の古い町です」
「素敵ねぇ。外国の方とお話しするのは初めてだわ」
 少しはしゃぎながら言葉をつむぐ祖母の傍らで、鮮やかな金髪の青年が微笑みかける。
 けれど、そんな二人を見守る周囲の目つきが一様に困惑しているところを見ると、 おそらく、彼の姿は誰一人として認識できていないのだ。
「ほら、おかしいだろう? ハナさん、ああやってずっと一人で喋っているんだよ」
 突っ立っている万莉亜に同室の患者がそっと耳打ちする。同情や哀れみが混じったその口調に 万莉亜はつい反論したくなるが、グッと堪えて注目の的になっている祖母のベットへ歩き出した。
「あら万莉亜、おかえりなさい」
 孫の気配を感じた祖母が手招きする。その隣で、さも今気付いたかのように手を上げる青年を睨みつける。
「こちら、クレアさん」
 祖母の紹介もよそに万莉亜はまだ戸惑っている思考を整理しようと必死だった。 どうして彼がここにいるのかも分からないし、どうして祖母には彼が見えるのかも分からない。
「どういうことですか?」
 その疑問を全てまとめてクレアに投げる。
 彼はきょとんと首を傾げて、もう一つのイスを片手で叩き万莉亜に座るよう促した。 万莉亜は鼻息も荒く彼の隣に腰掛けると、そのまま襟首を引っ張って低い声で囁く。
「どういうことですか!」
「……何が?」
「どうしておばあちゃんにだけあなたが見えるんですかって聞いてるの。 見てくださいよ、周りの人、おばあちゃんがボケちゃったと思ってる!」
 聞きたいことは山ほどあったが、まずは今のこの状況をどうにかしなければいけない。
「まずいの?」
「まずいに決まってます! 痴呆症のプログラムまで組み込まれちゃったらどうするんですか!」
「僕が今いきなり姿を現すのとどっちがまずい?」
「……そ、それは……」
 突然摩訶不思議な登場をされて、今こちらを注目している老人たちの心臓に 影響がないとも言い切れない。口ごもる万莉亜を見て青年は しばらく黙った後、席を立ってベッドから一歩遠ざかった。
「外で待ってるよ」
「……あ……」
「またいらしてくださいね。クレアさん」 
 歯切れの悪い万莉亜の横から祖母が挨拶をすると、青年は「はい」と小さく返事をして 病室を後にした。
 残された万莉亜と祖母の間に奇妙な沈黙が訪れる。
 それを打ち破ったのは、クスクスと漏らされた祖母の笑い声だった。
「おばあちゃん?」
「不思議な男の子ね」
「……え」
 まさか、彼が人間ではないと言う事がばれてしまったのでは。 そう思うと全身が硬直してしまって言葉が出てこない。
「あの人がお砂糖の人なの?」
 そんな万莉亜の緊張を勘違いしたのか、祖母がにこにこと微笑みかける。
「……えっと……うん、そう」
「そうなの。随分日本語がお上手なのね。最初日本人かと思っちゃったわ」
「……どうして分かったの? クレアさんが外国人だって」
 盲目ではないものの、人物の細かなディティールを見分けられるほどの視力はないはずなのに。 そう問いかけると、祖母はとうとうこらえ切れなくなったのか、我慢していた笑いを吹き出してしまった。
「だってあの人、いきなり私の手をとってキスをするんだもの。笑っちゃったわよ」
「なっ……!」
「あんなに気障なこと、日本人はあまりしないものね」
「あ、あの人……そんなことをおばあちゃんに……」
「お幾つなのかしら? 声は随分若いのに、妙に落ち着いていて何だか不思議な人だわ」
「……知らない」
 ふて腐れたように呟く。
 一体何を考えているんだろう。沸々と湧いてくる怒りを堪えてギュッと両手を握り締める。
「さぁ万莉亜、もう行きなさい」
「え?」
 そんな彼女の腿を叩いて退出を促す祖母に思わず顔を上げる。 彼女は戸惑う万莉亜に笑顔を向けて頷いて見せた。
「でも、まだおばあちゃんのトイレが」
「看護婦さんに手伝ってもらうから、いいから行きなさい。あんまりお待たせしたら悪いから」
「……でも」
「いいから。しっかりお礼を伝えといて頂戴ね」
「……」
「行きなさい万莉亜」
「……また来るわ」
 半ば追い出されるようにして病室を出る。
 入り口には腕組みをして自分を待っていたクレアが立っていて、その姿を確認すると万莉亜は黙って歩き出した。 怒っているのもあるけれど、無視をしたわけではない。誰にも見えない人物と会話することが自分を他人の目にどう映してしまうのか、 この数日で嫌と言うほど思い知ったからだ。そんな彼女のあとをクレアは黙ってついて歩く。
 病院を出て人気のないバス停に到着すると、万莉亜はやっとのことで隣の人物に視線を合わせた。
「……どうして、ここに来たんですか」
「シリルが血相変えて戻ってきたから。君を探せるのって僕だけだし」
「……でも、あんな変な登場しなくても。おばあちゃんがボケちゃったと思われるって考えなかったんですか」
 責めるような口調で言えば、クレアは素直にこうべを垂れて「ごめん」と呟いた。
「姿を隠してそっと見守るつもりだったんだ。でもまさか君のお祖母さんまで相性が悪いなんて考えもしなかった」
「おばあちゃんが?」
「そういうことだろ? 僕の力に全く惑わされなかったんだから。……君のお祖母さん、 僕の子供生んでくれないかな?」
 ふざけたことを言う相手の背中を思いっきり拳で殴るとクレアはわざとらしくよろめいて笑った。
「ほんの冗談なのに」
「い、言っていい事と悪い事があるでしょ!」
 顔を真っ赤にして肩で息をしていると、向こうからバスがやってくるのが見えて万莉亜は相手から顔を逸らして バス停に並んだ。
「……ねえ」
「何ですか?」
「まさかアレに乗って帰るの?」
「ほかにどうしろっていうんです」
「そっか。実は車で迎えに来たんだけど」
「え」
「まぁどうしてもっていうのなら付き合うよ」
 そう言って到着したバスに乗り込もうとする青年の裾を思いっきり引っ張って叫ぶ。
「さ、先に言って下さい!」
 宙を掴んで一人叫ぶ少女を運転手は不審そうに見つめ、それから黙ってドアは閉められた。 遠ざかっていくバスを見送りながら万莉亜がクレアに向き直る。
「じゃあ、行こうか」
「……私のこと、からかってませんか?」
「まさか。何でも君の意思を尊重しようと思ってるだけだよ」
 心外そうに驚いてそう言う彼を疑うような目つきで覗き見れば、バイオレットの瞳が彼女の疑心を 見透かしたように細められた。
「行こう」
 それからさりげなく万莉亜の手を取って歩き出す。
 いつもならそのまま大人しくしている万莉亜も、今日は正体不明の苛立ちに蝕まれているから、 握られた手に力を込めてそれを振り払った。
「子供じゃないんだから……一人で歩けます」
「そう」
 その拒絶を受けて、満足気にクレアが答える。
「大体、寮長がいるくせに……」 
 続けて口から出た言葉に自分でも驚いて口元を片手で覆う。
「梨佳が?」
「……何でも無いです」
 慌てて首を振り歩き出す。
 彼らがどんな関係だろうと、自分には関係ない。そこは不可侵の領域だ。自分なんかが 迂闊に首を突っ込んでいい場所ではない。
 黙って歩き出すと、クレアも黙って後をついてくる。
――……マグナって……何なんだろう
 正体不明の化け物にターゲットにされ、こうして彼らに身辺を警護される。 今のところ、分かっているのはそれだけだ。
 子供を生む存在だと言われたけれど、彼がそれを強要してくる様子もない。
 梨佳は色々知っているみたいだけど、同じマグナである万莉亜には全く彼らについての知識がない。 何故こんな事をしているのか。一体どうしたいのか。
 聞きたいことは山ほどある。
 でも、それに全部目をつぶってマグナになることを了承してしまったのは他でもない自分自身だ。 だからだろうか。根掘り葉掘り聞き出す気になれないのは。
「ねぇ」
 後方からクレアが声をかける。
 どうして自分には、この声が聞こえてしまったんだろう。そしてこの声をいつまで 聞いていくことになるんだろう。
――先のことは……
 考えてもしょうがない。分かっていても気になってしまう。
 今日はあんまり気持ちがコントロール出来ない気がして、万莉亜はぐっと雑念を追い払った。
「万莉亜」
「……なんですか」
「駐車場、逆」
「……」
「散歩したいなら、付き合うけど」
「……先に言って下さい!」
 怒りながら振り返れば、そんな彼女の反応を柔らかい微笑で待っていたクレアと目が合って、 つい脱力してしまう。
「行こう」
 彼はもう手を差し出さなかったけれど、万莉亜が戻ってくるまでその場に立ち、 彼女が横に並んでからゆっくりと歩き出す。
 小さな心遣いがくすぐったくて、喧々していた自分に少しだけ後悔を感じた。
 もう一度手を出してくれたら、今度は振り払わないのになと密かに思ったけれど、 自分の意思を尊重すると言ったクレアはもうそんな素振りを見せない。
 胸が痛んだ。
――……ああ……もう……
 一人で空回っている気がする。
 今日は上手く感情のコントロールが出来ない。
 優しくされたら、優しくしてあげたいのに、棘々した感情は彼に刃を向ける。
 憂鬱な気分も、落ち込みがちな気持ちも、全てまとめて彼にぶつけたい。全部この人のせいにしたい。
――嫌だな……
 そんな風に、誰かを傷つける自分ではいたくないのに、彼の隣にいると上手く笑えない。



******



「クレア、まだ戻らないの?」
 新校舎の五階、フロアにあるソファに体を埋めて梨佳が呟く。
 通るたびに同じ質問をされてルイスは苦笑した。
「そろそろだと思いますよ」
「……そう」
 いつものように覇気のない梨佳の返事に、ルイスは彼女に近寄って膝をついた。
「マグナを探せるのはクレアだけですから」
「知ってるわ」
「……すみません」
 蛇足だったかと思い、ルイスが謝った瞬間梨佳の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。 彼女はそれを拭ってそのまま顔を伏せる。
「梨佳さん……」
「もうダメだわ。私……クレアに捨てられる」
 弱音を吐きながら体を丸める梨佳を、どう慰めてよいのか分からずにルイスは戸惑った。
 梨佳は、万莉亜が現れてから余裕をなくしている。それはどの枝から見ても明らかだった。 いつもイライラしてクレアやほかの住人に八つ当たり、彼女の前では迂闊に万莉亜の名前すら出せない状況だ。
「分かってるもの。私じゃ……子供が作れないって……もう出来ないのよ。ちゃんと分かってる」
「……クレアがあなたをマグナだと認めている限り、あなたはマグナです。あまり悲観的に……」
「あの子、その日のうちに階段を見つけたわ。私より 可能性があるってみんな思ってる。クレアだって!」
「万莉亜さんにはまだ覚悟がありません。マグナがどういうものか、全然知らないでいる。あの方がマグナとして生涯を全うするか……クレアは大分疑っていますよ」
「そんなの今だけよ。すぐにあの子の方が良くなる……。あの子は……私みたいにクレアに色々望まない。 みんなだって名塚さんのほうが好きなんでしょう? そんなの、見てればすぐに分かるわ……」
 涙を零しながら、絶望したように梨佳が吐き捨てる。
 何を言ったらいいのだろう。何を言っても上っ面だけの慰めになってしまいそうでルイスは口を閉じた。 シリルが万莉亜に懐いているのは事実だし、梨佳と敵対しているハンリエットが万莉亜寄りなのも本当だ。
 では自分はどうだろう。そしてクレアは。
 二年間マグナとして務めを果たしてきた梨佳をそう簡単には切り捨てられない。 昨日今日会った万莉亜と比べる事も出来ない。梨佳は、立派に耐えてきた。称えられこそすれ、切り捨てられる謂れはない。
 ただ今ここで問題なのは、それが単なる義理人情から来るものであって、 単にマグナとしての優先度で言うと、万莉亜はもう可能性の途絶え始めた梨佳を追い抜いているのかもしれない。
 そして、人情を切り捨てて目的を全うしようとしている父親が、どちらを選ぶのか。 少し考えれば、梨佳が不安定になるのも致し方がない。
――……まったく
 マグナにはいつもこの問題がついて回る。
 そう思ってルイスはため息をつく。
 無理やりに女性を手に入れることを良しとしないクレアのやり方では、まず惚れてもらうしかない。 しかし、マグナは恋人ではないから役目を果たせないのであれば共にいる意味も無くなる。 そうしてまた次のマグナを探し、相手を誘惑する。
 しかし人間には感情があるから、勿論スムーズには行かない。
 それが男女の間になれば、話は縺れに縺れ、どうしようもない終わりを迎える事だってある。
 梨佳以上に喚き、非業の最期を遂げた女性もいた。
「マグナは恋人ではない」と父は繰り返すけれど、実際は女性の恋心や愛情、そして執着心を逆手にとって利用している。 それはどう取り繕っても弁護出来ないから、こちらはもう開き直るしかないのだ。
 そんな開き直りを、梨佳は表面上では受け入れている。けれど深いところでは、全く納得していない。 不当な扱いだと怒っている。それが万莉亜の登場で表面化しつつある。こうなるともう、待っているのは泥沼だ。
「馬鹿みたい……」
 自嘲気味に梨佳が呟く。
「この学園に、私以上にマグナの素質がある生徒なんて、いるわけないって思ってたのに」
「……」
「名塚さんのアルバイト……あんなにうるさく言わなきゃ良かった……」
 梨佳の脳裏に黒髪の少女が浮かぶ。
 同学年の下倉摩央に並ぶ門限破りの常習犯。
 髪を振り乱して寮に続く坂道を駆け上がってくる少女は、毎度こちらのご機嫌を伺うようにして へらへらと笑い、ビシッと怒れば素直に俯いてみせる。それでもアルバイトをやめないところを見ると随分 強情な一面もありそうだ。
 嫌味のない子だなと思っていた。
 摩央のように棘のある言葉で言い返してこないし、感情が素直に表情に出るから、 深読みせずにこちらが上手に出られる。
 きっと好かれやすい人柄とは、ああいう事を言うのだろう。
 自分とは、全てが正反対だ。
 素直な言葉もプライドが邪魔をしてしまう。言うべき言葉のタイミングをいつも逃してしまう。 「好きだから行かないで」なんて口が裂けてもいえない。縋り付くなんてみっともない。 「私はマグナなんだから」と怒鳴って、相手を困らせてばかり。でもその真意を汲み取られると恥ずかしくて、 汲み取ってくれないと悲しい。
 そんなジレンマをクレアはいつも体ごと受け取ってくれるけれど、彼の愛の言葉に なんの重みもないことも知っている。そう望まれている事を知っているからそう言っているだけであって、 そこに彼の意思なんて、存在しない。
「……死んじゃえばいいのに」
 ぽつりと漏らされた言葉にぎくりとしてルイスが顔を上げる。 万莉亜の身の危険を案じている彼の表情を見て、涙を流しながら梨佳は自嘲気味に微笑んだ。
「名塚さんのことじゃないわ」
 低いトーンでそう言うと梨佳はソファから立ち上がり、五階にある自室へと戻っていった。
 その後姿を困惑した面持ちでルイスが見送る。
――まさか……
 そう思って、それからすぐに浮かんだ考えを振り払う。
 梨佳にクレアは殺せない。彼女だって知っているはずだ。あの体は呪われている。 そのために、マグナがいる。
 けれど、梨佳がそれほどまでに思いつめているのも事実だ。
 その気持ちを思えば胸が痛むけれど、自分は最後の時まで傍観者で居続けなければならない。 どんなに足掻こうと、この命も意思もクレアのものだ。
 二百年以上も前に、ナポレオン戦争と呼ばれたあの混乱の中で、妻も子も虐殺され、命を失った 自分の恨みを晴らすために再び肉体を与えてくれた主のあの無謀な賭けにも思える選択。それを決して無にしないために、最後の時まで彼の”枝”であり続けなければならない。 それが、彼が本当に願っていた結末だと知ってしまったから。
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