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 ヴァイオレット奇譚「Chapter22・"拝啓、戸塚瑛士さま"」



 十月上旬。
 中間テストを一週間後に控え、珍しく深夜まで机に向かっていた万莉亜が 何の気なしにパソコンの電源を入れる。
 こうやってすぐに脱線してしまうから、中々作業がはかどらないのだ。 それでなくとも、九月は他の生徒に比べて授業に身の入らなかった自分だ。ここで巻き返さなくてはいけないのに、教科書の目の前にある モニターにすぐ誘惑されてしまう。
――三十分だけ……
 あと三十分したら、蛍がアルバイトから帰ってくる。そうしたら、一緒に勉強すればいい。 そんな風に言い訳をして、一通りオークションサイトを見て回り、最後にメールソフトを立ち上げた。 パソコンのメールアドレスで友人とやり取りする習慣は無いが、オークションや通販を多用する万莉亜には、 商品の手続きや発送通達などの業務連絡が不可欠なため、まめなメールチェックは欠かせない。 だからいつものように最後の締めとしてそれを立ち上げて、受信メールを確認する。
「……あれ」
 見慣れた通販関連のお知らせメールのほかに、見知らぬアドレスから来たメールを見つけてそう零す。 近頃めっきり増えた迷惑メールかなと軽く考えてそれをクリックすると、本文の一行目に自分の本名を見つけて 少しぎくりとさせられる。
 ――『拝啓 名塚万莉亜さま』
 なんだか堅苦しく始まったそれを疑わしく思いながら読み進める。

 ――『木犀の香りに秋の深まりを覚えます。朝晩の冷え込みが日一日と厳しくなりますがお元気にお過ごしでしょうか?  この度は突然のメールに、さぞ驚かれている事と存じますが、わけあってこのような方法で ご挨拶させて頂きました事を、どうかお許しください。私は現在七尾学園から二駅離れた街で 暮らしています。ご存知の通り異端の身ゆえ、日陰を渡り歩き、その不自由さに近頃は すっかり鬱々とした気分の日々が続いております。そんな中あなた様のことを思い出し、勝手ではございますが、こうして ご連絡をさせて頂きました。折り入ってお話したい事がございます。一度お会いして頂くわけには 参りませんでしょうか? あなた様に是非とも聞いて欲しいお話がございます。 勝手なお願いを申し上げ、まことに心苦しいのですが、どうかよろしくご検討ください。お返事をお待ちしております』

――…………?
 本文もさることながら、その文面の最後の一文を見て、万莉亜はさらに首を傾げる。
――『敬具 戸塚瑛士』
「とつか……えいじ?」
 首をひねったまましばらく考え込んだものの、やはりそんな知り合いはいないともう一度そのメールに くまなく目を通す。万莉亜の名前や、学園を知っている事から悪戯でない事は分かったけれど、 差出人に心当たりが無い。
――私に話したいことって何だろ……
 それにこの"異端"とはどういう意味だろう。
 もちろん真っ先に頭に浮かんだのは新校舎の隠された五階に住むあの面々だ。だけどまさかと首を振る。これはきっと 何らかの理由で日陰の道を歩く自分を皮肉っているだけだろう。
 一体誰が何の理由でこんなメールを送ってきたのだろうか。怪しむ気持ちもあったが、それ以上に 好奇心が勝って万莉亜は返信のボタンをクリックする。それから立ち上がった返信画面の前でしばらく考えた後、 簡潔にこう書いた。
――『拝啓 戸塚瑛士さま
    あなたは一体誰ですか?』
 悪戯の可能性も捨てきれないから、万莉亜はあえてその素っ気無い一文を送り返す。きっと返事は来ないだろうし、 来たらきたで、ちょっと楽しみかもしれない。
 そんな風に楽観的に考えて彼女はパソコンの電源を落とした。



******



 翌日。
 次から次へとひっきりなしにやってくる客を見て満悦そうなマスターとは逆に、 万莉亜はやけっぱちになってカップを洗う。新たなる来客が訪れれば両手に泡を付けたまま迎え、 立ち去る客がいれば、山ほど食器を積み上げたトレイを片手にレジを打つ。賑わいは午後九時を過ぎても 止む事はなく、大抵は万莉亜がバイトを上がる九時半まで店はほぼ満員の状態が続いた。
「いらっしゃいませ!」
「ありがとうございました!」
「ただいま参ります!」
 一人でこの三つの台詞を延々叫びながら店内を駆け回る。いくらなんでも、ファミリーレストランじゃないんだからと 内心愚痴を零すけれど、満足そうなマスターの顔を見てしまうとこれで良かったのかなとも思う。 九月のさんさんたる売り上げを見て、これは本格的に閉店かと頭を悩ませていたマスターもさぞや一安心だろう。 万莉亜だってこの店が潰れてしまうのは困る。
――でもなぁ……
 客が去ったテーブルを拭きながらため息を零す。
 今日も店内に響くかしましい女性客の楽しそうな笑い声。今やお店の八割が、女性客のリピーターで 溢れかえっていた。
 チラホラとやってくる常連客の接客に慣れきっていた万莉亜は、 新しい客層のその慌しさにまだ上手く対応できていない。 喜ぶべき突然の大繁盛に、置いてきぼりをくらっている気分だ。
「いやぁ、壮観だね」
 がちゃんがちゃんと荒々しい音を立てながら洗い物を進める万莉亜の横で、 満席になった店内を眺めてマスターが呟く。
「これでもう安泰ですね。マスター」
 疲れてはいたが、とにかく閉店の危機は免れたので万莉亜も素直にそう返すと、彼は 満面の笑みを窓際の席に一人佇む金髪の青年に向ける。
「クレアちゃんのおかげだよ。ほんとに」
 その呼び方がどうしても可笑しくて、噴き出しそうになるのをどうにか堪えながら万莉亜が真顔で頷く。
 派手な金髪の上、さらに目の覚めるような美形の彼は、その美しさと外国人という物珍しさで、閑古鳥が鳴いていた古い喫茶店に若い女性客という新しい客層の呼び水となってくれた。 本人がそれを意図したわけではなくても、やはり感謝すべきだろうと万莉亜も思う。
 彼が万莉亜に付き添ってこのお店に通い出したのはあの嵐のような夜の後からだった。 初めの頃はそれこそひっきりなしに女性から声をかけられ、なんだか複雑な気持ちもしたが、彼が スウェーデン語とフィンランド語しか操れないフリを根気よく続けれくれたおかげで、今ではすっかり観賞用として 周りからただ眺められるだけの存在だ。
 だからマスターはそんな彼をまるでお店のマスコット人形のように愛を込めてクレアちゃんと呼ぶ。
「さて。あんまり待たせたら悪いから、万莉亜ちゃんレジ閉めはいいから、着替えておいで」
「え……今日もですか?」
 最近はあまりレジを閉めさせてもらえなくなり、思わずそう返す。
 しかし、それも仕方がないのかも知れない。九時を回った頃にはさっさと閉店準備を始めていた以前と比べ、 万莉亜のアルバイト終了時間になっても満席のこの状況では。
「そうですね……」
 レジを閉めるにはまだ早すぎる。諦めて苦笑すると、万莉亜は一旦バックヤードに引っ込み手早く私服に着替えてから、 マスターに挨拶しに再びカウンターへ戻る。
「お疲れ様、万莉亜ちゃん」
 彼女にそう言ってから彼は窓際でマスコット役を務めている青年にもカウンターから声をかける。
「クレアちゃーん、お疲れ様ねー」
 その声に気付いた彼がニッコリと微笑んで頷く。クレアが客の前では日本語を使わない事を知っているマスターは、 その呼びかけに反論の出来ないクレアに「ひひひ」と意地悪な笑いを零して仕事に戻った。可愛がっていた 娘を横取りされたのだ。 万莉亜は彼を「友人」だと言い張るが、何の下心もなく友人の女性のアルバイト先にまでくっついて来て送り迎えをする野郎がいるものか 。男親の気分だったマスターからすれば、ちくしょうと地団太も踏みたくなるし、 いくら宣伝効果の抜群なマスコットといえど、意地悪の一つもしたくなる。 ただあんまりにも大人気ないことも自覚しているので、万莉亜には決して悟られぬよう、あくまで水面下の戦いである。
「お疲れ様でしたー」
 ドアの前でぺこりと頭を下げて万莉亜が店を出るのをカウンターから見送る。
 その後ろで、こちらに視線を投げかける青年がいつものように微笑んで中指を立てながら去っていくのを見て、 しかし相手も大概大人気ないなと苦笑した。



******



 住宅街の奥まった場所にあるその公園は、すぐ正面にある分譲マンションが管理しているもので、それほど 広さがあるわけでもなく、遊具は小さな滑り台が一つとブランコが二つ。そして申し訳程度の砂場が一つ。 遊び盛りの子供が大勢集まって遊べるような場所ではなく、その密やかでいてこじんまりとした雰囲気は秘密基地に近い。
 万莉亜はここを気に入っていたし、アルバイト帰りに通りかかるたび、「いつか寄ってみたい」とぼんやり考えていた。 ただ、まさか本当にアルバイトのたびに遊んでいくはめになるとも思っていなかったので、今はもう見飽きたこの小さな景色に いささかうんざりしているのが本音かもしれない。
「あ、ありがとうございます」
 そう言って差し出された温かい缶ココアを万莉亜が受け取ると、クレアは軽く微笑んでベンチに座っている彼女の横に 腰を下した。
「飽きたね」
 座ると同時に呟いたクレアがうんざりとした表情で辺りを見回す。
 多分、自分と同じかそれ以上にこの場所に辟易している彼に万莉亜も笑って頷いた。
 なんと言っても、狭い。その上セキュリティのためか、まるで中の子供達を守るかのようにして四方をぐるりと 囲む生い茂った植木のせいで景色は遮断され、圧迫感まである。 さらには利用者がいないのか、いつまで経っても設置されている二つの外灯は切れたままで放置されている。 忘れ去られた公園。響きこそ謎めいていて素敵だが、長時間いて楽しめる場所でもない。
 そんな中で、もう対象年齢でもない二人はただひたすらベンチに座り時が過ぎるのを待つ。
「でも、シリルが遊ぶんだったらうってつけですよね」
 何度目になるか分からないフォローを今日も口にしてみる。
 毎度アルバイト先にクレアと共にやってくるシリルは、父親の手前なのか今日も大人しくきちんと イスに座って口をつぐみ、万莉亜のすねを蹴ることも無く長時間飽きや退屈と戦い抜いた。
 そのご褒美に、食べ物では喜ばない彼女をこの場所へ連れてきたことが発端だったわけだが、 それがいつの間にかパターン化し、今ではきっちり公園に寄らないとダダをこねて手に負えなくなるという始末だ。
 ただそのパターンを最初に作り、「彼女にもご褒美が必要だ」とクレアに訴えたのは他の誰でもない自分だったので、 今更声高に「ここはもう飽きた」ともなかなか言えず、 この場所をいたく気に入り、目の前の小さな滑り台で狂ったように滑り降りするシリルを見て、 「うってつけですよね」「本人も喜んでますし」と繰り返すのがいつの間にか万莉亜の口癖になっていた。
 そしてそんな万莉亜のフォローに、呆れたようにクレアがため息を零すのもいつものパターンだったが、 今夜はそれが無かったので、不思議に思い隣のクレアを覗き見る。
「クレアさん……?」
 反応の無い相手の顔を下から覗くと、クレアは閉じかけていたまぶたをハッと開いて万莉亜の視線に気付く。 それから軽く頭を振ると、バイオレットの瞳を思いっきりぐりぐりと擦って息を吐いた。
「……眠いんですか?」
 まさかとは思いながら聞いてみる。
 いつもはあまり隙の無い彼が人前で、しかもこんな場所で眠気に負けてしまうなんて、何だか意外な気がして 驚いていると、クレアは眉間を指先でつねりながら口元だけで微笑んだ。
「大丈夫だよ」
「……でも」
 彼はそう言うけれど、眉間をつねる指先を放したらそのまま眠りに落ちてしまいそうだ。
「ハンリエットが疲れてる上に、シリルが急に興奮したから」
 いきなり来た、と小さく続けて彼がもう一度頭を強く振る。それからゆっくりと 眉間から指を離して万莉亜に微笑んだ。
「もう大丈夫」
「…………」
 なんと言ってのか分からずに万莉亜は曖昧に頷いた。
 彼らが生体として理解の超えたレベルでリンクしていることは何となく知っていたが、 分かっていてもそれは中々納得できる話ではないし、かといって目の前の疲れた男性に何の気遣いをしないわけにもいかない。
「今日はもう、帰りますか?」
 だからそう声をかけてみるけれど、クレアは取り憑かれたようにして滑り台で遊ぶシリルを眺めて首を横に振った。
「……大分冷えますし、あんまり無理しないほうが」
「寒い?」
 気を使って言ったのだが、逆にそう質問されて慌てて万莉亜は否定する。
「私は着込んでますから。クレアさんこそ、そんな薄着で……」
 九月も終わり十月の上旬、気温はぐっと下がったというのに、彼は薄手の七分丈シャツ一枚に黒いデニムパンツという出で立ち。 昼はそれで凌げても、夜は見ているこっちが寒くなりそうな格好だ。
「車に上着無いんですか? 私のパーカー着ます?」
「君の服を剥ぐわけにはいかないよ。それに、寒くない」
 いつものように、彼女を安心させる口調でクレアが言う。 そう言われてしまえば万莉亜は頷くしかないけれど、そのあからさまな嘘に納得したわけでもないので、 釈然としないままパーカーにかけていた手をそのままにしていると、突然ふとそれを彼の手で包まれて 心臓が飛び跳ねそうになる。
「あ、あの……」
「手を繋いでもらってもいいかな」
 もう繋ぎながら彼が言う。そして万莉亜が頷くの待たずに彼は彼女の左手を自分の膝の上にさらっていった。
 こんな風にして、たまに手を繋ぐときがある。あの嵐の夜以来、クレアが万莉亜を抱きしめたり、 突然悪戯にキスをしたりすることは無くなったけれど、その代わりに手を繋ぐことが増えた。
 そして彼の罪深いその仕草は、芽生えた万莉亜の感情を少しずつ、でも確実に育て始めている。
「そ、それにしてもシリルはほんとにあの滑り台が気に入ったんですね」
 胸に湧き上がる甘い感情に流されまいと万莉亜は努めて陽気な口調ではしゃぐシリルを眺めて言う。
「本当は、シリルがみんなに見えればいいのに。そしたら、昼間に来てもっと大勢の子供と遊べるし。残念ですね」
 クレアは自由自在に姿を現したり消したりが可能なのに、その枝たちは一貫して透明人間のままだ。それを不憫に思って呟くと、 クレアは薄く笑いながら肩をすくめた。
「やって出来ないことは無いけど」
「出来るんですか!?」
 今までは見えないことが当たり前だったので、その常識があっさりと引っくり返されて思わず大きな声を上げる。 滑り台の頂上に立っていたシリルが一瞬不思議そうにこちらを振り向いて、それからすぐに興味を無くし、また滑り降りる作業に戻った。
「基本的には全部思念なんだ。見せたかったら見せたいと思えばいい。やったこと無いけど」
「ど、どうして……」
 それではあんまりだ。シリルは無害なだけじゃなく、あんなに人間が好きなただの子供なのに。
 そう思って眉をひそめながら彼を見つめていると、クレアは万莉亜から目を逸らし、そのまま視線でシリルを追う。
「あの子達がみんな、消えることを望んだから、かな」
「……消える……?」
 言葉の真意が分からずに首を傾げる。消えることを望んだ? シリルが?
「世俗と関わりを持ちたくて生きてるわけじゃないんだ。シリルも、ルイスもハンリエットも」
「…………」
 ぼんやりとシリルを眺めるクレアの瞳ははっきりと憐れみを含んでいて、それだけで万莉亜の 胸はざわめき始めた。彼らがどこでどう生まれた生き物なのかは知らない。だけどうっすらと感じていたことはある。 それは、もしかすると彼らは人間ではないかという疑問。呼吸もする。汗もかく。人間と同じように瞬きをして、 人間と同じように笑う。そしてあの嵐の夜、ぼんやりとした頭の向こうで確かに聞こえたヒューゴの言葉。
――「死人のお前達にとって、命を与えた第三世代とは神の別名だからな」
 あれは、かつて彼らが人間であったという意味ではないだろうか。
 そしてもしその通りなら、「父親」と呼ばれるクレアは、彼ら死者を復活させた事になる。 とことんオカルトじみてきた妄想に、万莉亜は必死にストップをかけていたものの、どこかで、それが 当たっているような気がしてならなかった。
「どうして……シリルは……」
 ろくな答えなどきっと返っては来ないだろうと知りながら万莉亜は自然と問いかけていた。
「君が聞いたら、きっと卒倒するよ」
 おそるおそる問いかけてくる万莉亜を気遣ってクレアがそう答える。
 多分その通りなのだろう。聞きたくないと、今すぐ耳を塞いでしまいたい。だけど納得が出来ない。
 不安げに瞳を揺らしながら真っ直ぐこちらを見据える少女に 観念してクレアが重い口を開く。
「なんていうか、シリルの人生は悲惨なんだ」
 そうワンクッション置いて、クレアが相手の反応を確かめる。 そこまでは予想できていた万莉亜がしっかり頷くと、小さなため息を零してから先を続けた。
「あの子は宗教の犠牲者なんだよ。アメリカの先住民で、インディアンの娘だったんだけど、家族が みんな宗教に取り憑かれててね。シリルはその、いわゆる悪魔崇拝の団体に人格を壊された挙句、生贄にされたって感じかな」
「……いけ、にえ?」
「大層な名分だけど、実際は快楽殺人者の余興だよ」
「…………」
「シリルだけじゃない。ルイスもハンリエットもろくな死に方はしてない。みんな何かの犠牲者で、強い恨みを持ってる。 その驚くべき怨念にたまたま僕が出会って彼らは枝になったんだ」
「……生き、返らせたんですか?」
 震える声で問う。するとクレアはしばらく考えた後、静かに首を横に振った。
「生き返らせてはいないよ。あれは……多分死体が動いてるだけだと思う」
「どうして……」
 彼の気持ちが分からなかった。
 もし自分が彼なら、絶対に生き返らせたりはしない。死なせてやるべきだ。それが正しいと、胸を張って言える。
 そんな彼女の声にならない批難を受けて、クレアが自分を嘲るように小さく笑う。
「君が正しいよ。実際僕は、彼らを持て余してる」
「……クレアさん」
「恨みを、晴らすチャンスを与えたかったわけでも、ましてや善行を積みたかったわけでもないんだ。 復讐に生きるのもいいし、そうしなくたっていい」
「……どうして?」
「実験かな」
「…………」
「気の遠くなるような時間を与えてみたかったんだ」
 そう呟いてから、彼は伏せていた目を開くと、さっと表情を変えて駆け寄ってきたシリルに笑顔を向ける。 それにつられて振り返れば、顔いっぱいに笑みを浮かべたシリルが視界に飛び込んできて、万莉亜は眩しそうに目を細めた。
 憤ることも、悲しむタイミングさえも逃して、ただただ信じたくない事実に心臓が冷えていく。
 救いがたい悪意が、かつて彼女に牙を剥いた。それが辛いのかも分からないまま、顔をゆがめたままおかしな笑顔をシリルに 向ける。
「万莉亜?」
 様子のおかしな彼女を怪しんでシリルが万莉亜の顔を覗きこむ。笑顔を作らなければと焦るほどに引きつっていく顔を どうしようも出来ないでいると、見かねたクレアがシリルの手を取り「帰ろう」と声をかけた。そのまま立ち上がったクレアに引かれて 万莉亜もベンチを後にする。
「……万莉亜ぁ」
 車に乗り込み、しばらくすると後部座席から首を伸ばしてシリルが万莉亜に顔を寄せる。 黙りこくってしまった助手席の万莉亜を彼女なりに気遣っているのかもしれない。
「クレアちゃん、万莉亜と喧嘩したの?」
 それから戸惑ったような口調で運転席のクレアを向けば、彼は実に不服そうな目つきでシリルを睨む。
「……その呼び方はやめなさいシリル」
「万莉亜、クレアちゃんにいじめられた?」
 抗議する相手を無視して再び万莉亜に向き直る。次の瞬間、仰天したシリルが大きく口をあけながら悲鳴を上げた。
「万莉亜が泣いてる!」
 叫ぶようにしてクレアに訴えかけるシリルの声が耳元でキンキン響くけれど、当の万莉亜はそれどころではない。 堪え切れなかった涙が溢れ出す。それを覆い隠すようにして両手で顔に押し付けて彼女はそのまま背中を丸めた。 一度許してしまった涙は堰を切ったようにして溢れ、止めたくても止まらない。喉が熱くて、焼けてしまいそうだ。
 やっぱり聞かなければ良かった。
 こんな風に泣いてしまうくらいなら、聞かなければ良かった。
 嵐の夜も、昨日も今日も、自分の知らないかつての日もいつかの日も、そして、あの日も。
 悪意、悪意、悪意。この世に蔓延する悪意。
 ずっと目を逸らして生きてきたのに、最近はそれにぶち当たってばかりいる気がする。
 ただそれが恐ろしくて、涙が止まらない。



******



「ありがとうございました」
 そう言って軽く頭を下げる万莉亜の顔を覗いてクレアが目を細める。 慈しむような彼の表情に気恥ずかしさを感じながら、万莉亜は繋いだ手を離していいものか分からず困ったように 彼の手と顔を交互に見やる。
 女子寮にある万莉亜の部屋の前で、いつまでもこうして二人突っ立っているわけにはいかないのに、送ってくれたクレアが 中々立ち去ろうとはしないから万莉亜も次の行動に移せずにただ彼の言葉を待つ。
「……あの……」
 だけどやっぱり何も言ってくれない相手に痺れを切らせて、もう一度自分から彼に声をかける。 顔を見れば、彼は何かを考えているような、何かに迷っているような、複雑な表情でじっと万莉亜を見つめていた。
 大分慣れたとはいえ、その隙の無い顔立ちと向き合うのはやはり居た堪れない気持ちになるし、ただでさえ自分は今 泣き腫らしてひどい顔をしているはずだ。一刻も早く彼の前から消え去りたいのに、それが叶わなくてもじもじと繋がられた手の指先を動かす。
「……前から思ってたんだけど」
 やがてポツリと言葉が零される。
 けれども万莉亜が小首を傾げた瞬間に、彼はふっと笑って言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いいや。何でもない。泣かせてごめんね」
 そう言って空いている方の指先で彼女の赤くなった目尻をすっと撫でる。驚いて硬直する顔の筋肉はそのままに 万莉亜はブンブンと首を振った。
「クレアさんのせいじゃないです。ごめんなさい。シリルにも勘違いされちゃって」
 クレアが万莉亜を傷つけたと信じて疑わないシリルに、彼は帰り道の車中で延々嫌味を言われネチネチと責められ続けた。 庇ってあげたかったのに、その時は声も出せないほど打ちのめされていたせいで、シリルの中でクレアの評価は地に落ちてしまったはずだ。 そう言って詫びると、彼は小さく笑った。
「いいんだ。元から僕の評価なんてそんなものだよ」
「……そんなことないですよ」
 言いながら、万莉亜も思わず顔をほころばせる。思えば、最初からシリルは一貫して彼をからかうスタンスだったかもしれない。 クレアの尊厳など、どこ吹く風といった調子で。
「これは、あの話のフォローではないんだけど」
「え?」
 それから何となく告げられた言葉に顔を上げる。
「あの子の本当の名前は、サンディって言うんだ。シリルって言うのは僕が適当につけた」
「……え」
「元から人格がめちゃくちゃでさ、今のシリルは何にも知らない子供だよ。枝になってからしばらくして、 サンディが消えて徐々にあの幼い人格が主人格になって……今はもうサンディは消えたんじゃないかなって僕は思ってる」
「……それって……あの、多重人格ってことですか?」
「多分。専門医に見せたことは無いけど」
「…………」
「サンディは物凄い悪ガキで、この世の全てを憎んでいたけど、彼女は自分の生きた年月の二倍も三倍もかけて静かに消えていった。 そして今のシリルがいるんだ。だからさっき君が言ってたこと、今のシリルなら望むのかもしれない」
「私が……言ってたこと?」
「公園でみんなと遊んだり、今のシリルならその方がずっと楽しいのかもしれないなって」
「…………」
「そのうち聞いてみるよ」
 言葉に詰まって頷くことしか出来なかった。
 悲しいルーツで生まれたシリル。だけど彼女が、過去を何も知らないというだけで、救われた気持ちになってしまうのは 間違いだろうか。間違っていてもいい。痛みを抱えて消えていったサンディは、それをシリルに一切譲らなかった。たった一つの体の中で 行われた切ないやり取り。それを奇麗事に仕立て上げて、シリルが何も知らない奇跡に、感謝したい。
「あの子が生意気なことを言うたびに、サンディの事を思い出すんだ」
 遠い昔を懐かしむような口調でクレアが微笑む。
 また込み上げて来そうになる涙をぐっと飲み込んで万莉亜も微笑んだ。
――「ある人には幸せだけど、ある人には悲しい事なの」
 かつてのシリルの言葉が、唐突に脳裏をよぎる。
 あれは、サンディが言わせたものか、それともシリルの言葉なのか。今思えば、皮肉にも表裏一体である彼女たちの 悲しい言葉だ。言った本人に思うところがあったわけではないと思う。あれは決して自分自身に向けての言葉ではないのだろう。 それでもあの時、手を離さなくて良かったと本心から思う。
「私……クレアさんが何を見たかったのか、分かりました」
 そう心のままに呟けば、クレアが瞬きで答える。
「信じていたんでしょう? それが、見たかったんですよね?」
「……どうかな」
 わざとはぐらかす彼の繋いだ指先をギュッと握る。
「どっちが正しいのか、私には分からないけど、……でもシリルは……サンディには……」
 時間が必要だったはずだ。
 優しくて長い時間が絶対必要だったはずだ。
 強い恨みすらも流れる時間の中では不変ではなく、それがどう転ぼうとも不変ではなく、やがて生まれたシリルが無垢ならば、 それはそれで、幸せなことではないだろうか。

「万莉亜?」

 その時、部屋の前に立つ二人の背後でドアが開き、そこから女性の声が飛んでくる。
 びっくりして振り返った万莉亜の前には、同じようにして驚いている蛍の顔があった。
「あ……ほ、蛍」
 慌ててそう返事をし、それから今彼女にクレアが見えているのか、いないのかが分からずに相手の反応を待つ。 やがて蛍の視線が万莉亜を通り越し、その隣にいる青年に注がれていることに気付いた万莉亜は動揺しながら彼を紹介しようと口を開く。
「……知ってる。クレアさん、でしょ」
 そんな万莉亜をよそに落ち着いた様子で蛍が先回りする。
 一瞬驚いて呆気に取られた万莉亜だったが、そう言えば初めて無断外泊したあとの夜に 心配かけた蛍には正直に彼の話はしたし、特徴も伝えてある。金髪の外人で年の頃は十代後半、とびっきりの美形、バイオレットの瞳、その条件さえあれば 十分に察することが出来るのかもしれない。
「あ、じゃあクレアさん、この子がルームメイトの蛍……」
「知ってるよ」
 ニッコリと笑ってクレアが答える。
 万莉亜はまた驚いて目を見開いた。蛍の特徴は伝えていないはずだが、それでもまぁ、ルームメイトとして蛍の 名前は何度も彼に出したし、万莉亜の部屋から出てきた女性なのだから、それは蛍に違いないとふんだのだろうか。 それにしても、二人ともまるで顔見知りのような口調だ。
 そんなことを考え首をひねりながら、とにかく紹介の必要は無さそうなので万莉亜は焦りながら次の言葉を探す。 蛍はドアから顔だけ出して厳しい目つきのままクレアを睨んでいるし、クレアはクレアでニコニコとその視線をやり過ごしている。 どういうわけだかあんまり和やかな空気でも無さそうだ。
「じゃあ、僕はお邪魔みたいだし、そろそろ失礼するよ」
 おろおろしている万莉亜の繋いだ手を持ち上げて、彼はいつものようにそこに軽くキスを落とす。
「あ、……はい」
 すっかり慣れ親しんでしまったその気障ったらしい行為を蛍の前だということも忘れて受け流すと、背後で息を呑む彼女の気配を 感じてぎくりとする。
「おやすみ、万莉亜」
 手の甲に唇を触れさせたまま、僅かに顔を上げてこちらを上目遣いで覗く彼がいつもより色っぽく、そして妙に挑発的な表情をしたせいで、 万莉亜はいつもの十倍はどぎまぎしながら上ずった声で去っていく彼を見送る。
 それから何だか後ろめたい気分で振り返れば、蛍の冷ややかな視線が万莉亜を出迎えた。
「……た、ただいま!」
 わざと明るい声でヘラヘラと笑いながらそう言っても、蛍は黙ったままポニーテールを翻して部屋の中へと戻っていく。
 それもしょうがない、と自分を慰めながら万莉亜はその後に続いた。蛍は、彼らの存在を良く思っていない。 初めて説明したあの日以来、蛍は彼らの説明を聞きたがら無いし、あの嵐の夜の無断外泊の後にいたっては、それを問い詰めようともしなくなって しまった。それは少し意外だったし、寂しくもあったけれど、聞きたくない話を無理にするわけにもいかず、万莉亜も次第に蛍の前では 五階の住人達やそれにまつわる話を控えるようになってしまっていた。
「お腹空いたなー、蛍、もうご飯食べた?」
 着ていたパーカーを脱ぎながら何気ない話題を振る。
 しばらくして、返事が無い事を不思議に思った万莉亜が振り返ると、突然蛍が真後ろに立っているのに驚いて そのまま引っくり返りそうになる。
「ほ、蛍!?」
 何とか二、三歩よろめきながら後退するだけに済んだ万莉亜がそう声をかけても、蛍はじーっと彼女の顔を見つめたまま 視線を外そうとはしない。
「なに、何……私の顔……何かついてる?」
「泣いたの?」
 探るような声色で問われた蛍の言葉に、万莉亜は戸惑いながらも頷く。きっとまぶたは真っ赤になっているだろうから、 今更誤魔化しようが無いだろう。
「……めずらしいね。万莉亜が泣くなんて」
「そ、そうかな」
「そうだよ」
 それを言ったら、万莉亜だって蛍の涙を見た事など一度たりとも無いわけだが、 何だか不満そうな彼女にそう突っ込むのは気が引けて曖昧に笑う。
「私、あんたは人前じゃ泣けないんだって思ってたけど、違うんだね……ちゃんと泣くんだ」
「……蛍?」
「あんなやつのどこがいいの?」
「え……?」
 驚いて首を伸ばした瞬間、肩をトン、と押されてそのままバランスを崩し、ベッドまで背中から倒れこむ。 その際、奇声を上げながら壁に頭を打つことも忘れない。
「……い、痛い! ひどいっ!」
「万莉亜って超メンクイだったんだね。良かったじゃん、これで摩央に一歩近づいたよ」
 無様に倒れこんだ万莉亜を腕組みで見下ろしながら蛍が悪戯が成功した子供のように微笑む。 何だか憎めないその表情に万莉亜は毒気を抜かれてブツブツとしこたま打った頭を撫でながら立ち上がる。
「別にそんなんじゃないもん」
「よく言うよ、あんなに顔真っ赤にしといて」
「あんなことされたら誰だって赤くなるの! クレアさんじゃなくても!」
 もう、と一人で呟きながら机に向かいパソコンの電源を入れる。
「……あ」
 その時、昨夜の出来事を思い出し、お気に入りのオークションサイト巡りも後回しに万莉亜はメールソフトを立ち上げる。
――そう言えば……あのメール届いたのかな
 十中八九返事は来ないだろうとふんでいたので、新着メールの中から見覚えのあるアドレスを発見して思わず心臓が音を立てる。
――『拝啓 名塚万莉亜さま』
 文章は、お決まりの一句から始まっていた。
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