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 ヴァイオレット奇譚「Chapter21・"VIOLET Dawn"」



 嵐は過ぎ去った。
 もうダメかと何度も観念しそうになったが、それでも生きて帰って来られた。 その実感が湧かずに、万莉亜はベッドの上に仰向けになりながらぼんやりとした表情で天井を見上げた。
――蛍に、電話しなくちゃ……それから……
 梨佳にもお礼を告げなくてはならない。それとこの血だらけになった制服も、 早く洗ってしまわないと学校へ行けない。それから、相手に奪われた携帯電話を解約して……。
――それから……
 やらなくてはならないことが山ほどある。考えなくてはならないことも。 だけど頭が痛い。乱暴に扱われて痣になった腹や、ぶたれた頬が痛い。それに、とても疲れた。
「万莉亜」
 全てを放棄してまぶたを閉じかけたとき、静かに開かれた扉の向こうからクレアが戻ってくる。 万莉亜は視線だけを彼に向けると、その腕にかけられたものを見て飛び起きた。
「サイズは、9号でよかった?」
「あ……!」
 彼はビニールを被せられた真新しい制服を万莉亜に手渡すと、狼狽する彼女の横に腰をおろして 少しだけ意地悪く微笑む。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。サイズは豊富に取り揃えてあるから」
「なっ、だ、大丈夫です!」
 まさか制服の面倒まで見てもらえるとは思ってなかったから驚いただけなのに、嫌味な事を言われて お礼を言うタイミングを失ってしまった。だから気を取り直して彼に体を向け、頭を下げる。
「あの、クレアさん……ありが」
「いいよ。お礼なんて、言って欲しくない」
 そんな彼女からフイと顔を背けてクレアは自分の足元に視線を落とした。
「……クレアさん?」
 随分と素っ気無いその仕草に万莉亜が小首を傾げる。
「梨佳のこと……ごめんね」
 それから静かに告げられたその言葉に「は?」と間抜けな声を零し、万莉亜は彼の顔を覗きこんだ。 不思議そうにクレアを見つめる万莉亜を、彼もまた不思議そうに見下ろす。そのすれ違いに、先に気がついたのはクレアだった。
「そうだ……私、羽沢先輩にお礼をしないと。羽沢先輩は、お部屋ですか?」
 黙ったままの自分をよそに慌てて梨佳の部屋の方向へ顔を向けた彼女を見て、心が沈む。
「万莉亜……」
「クレアさん、私羽沢先輩のところへ行かないと」
「万莉亜、梨佳は」
「…………」
「梨佳は君の事を」
「……やめてください」
 突然遮った少女の声は、思っていたよりも低くて驚いたクレアが顔を上げる。視線の先には、まるで自分を軽蔑するような 目つきで見つめる万莉亜の顔があった。「一体何を言うつもりなのか」とその黒い瞳がクレアを責める。
「やめてください」 
 もう一度繰り返す。
 クレアは口をつぐみ、それから震える少女の手の甲をそっと撫でる。
――そうか……
 気付いてないわけじゃなかった。きっと、すぐに気付いたはずだ。
 目の前の少女は、決して馬鹿じゃない。だからすぐにその可能性が頭をよぎったはずだ。でも 彼女は悪意から目を逸らす。簡単にはそれを認めない。
 強いから? それとも、弱いから?
 そのどちらだったとしても、きっと現実は、そんな信念を持つ彼女にはいつも冷たい。
「……梨佳は」
「…………」
「梨佳は今眠ってるよ。だから、お礼を言うのは後でもいいんじゃないかな」
「……はい」
 小さく頷いて、自分の手を撫でる彼の指先を見つめた。
 蛍のような細い指とも、祖母のような皺々の指とも違う、長くて骨ばった男性の指先。 こんな風に男の人に触られるのはそれほど経験がないけれど、父親を抜かせば、その少ない回数のどれもがクレアだった。 彼は当然のように万莉亜を慈しむ。いつもは気恥ずかしくてパニックになるばかりだけれど、 こんな夜は羞恥を捨てて素直に甘えたくなってしまう。だけどそうするわけにはいかないから、ギュッと唇を噛んだ。
「ありがとう」 
「……え?」
 突然告げられた言葉に驚いて、つい顔を上げてしまう。
 真っ直ぐにこちらを見つめるクレアと視線が交差して、万莉亜は視線を泳がせた。
「僕を守ってくれたとき、あれかっこよかったな。くらくらしたよ」
「……へっ?」
「あんな風に、女の人に庇ってもらったのは初めてだ」
 情けない自分を嘲るように、彼が口元だけで微笑む。それを見ていると 何だか不安になって万莉亜は言葉を探す。何か、何でもいい。彼を励ます言葉を。 だけど結局何も見つからずに、ただおろおろするだけで終わってしまった。その代わりに、 重なったクレアの指先を握り返す。ほんの少しだけ、力を込めて。
「……アンジェリアに君を見られた」
「ア、アン?」
「僕の妻だよ。彼女は僕たち第三世代を作った第二世代だ。おかしな現象を見ただろう?  あれは空だって飛べるふざけた生き物だ。とても、敵う相手じゃない」
「…………」
 妻?
 あの長い長い黒髪の、あの女性がクレアの妻。
 万莉亜は絶句して、視線をベッドのシーツに落とす。衝撃に震える心の裏で 針につつかれているような痛みが走る。胸が苦しくて、熱い。
――結婚……してたんだ……
 もっと大事な事を彼が話しているというのに、ただその事実に打ちのめされて、上手く聞き取れない。 梨佳が同じ香水をつけていたと知ったときと、同じ痛み。
「……好き、なんですか?」
 聞いてしまってから自分で驚く。
 何を口走っているのだろう。そんなの、当たり前なのに。だから奥さんなのに。
「好き……?」
 まさかそんな質問をされるとは思っていなかったクレアも驚いて聞き返す。
「いえっ、あの、違うんですっ! あの……何でも」
 何でもないですと告げようとした言葉が消え入るようにして音を失くしていく。 自分が思っている以上に混乱し、ショックを隠しきれずにいる。
「あの……っ」
 そんな風にして取り繕う万莉亜を、探るような目つきでクレアが覗き込めば、 万莉亜の口はいっそう慌しくパクパクと開いたり閉じたりを繰り返した。
「万莉亜?」
「忘れてっ……忘れてください!」
「…………」
 きっと顔が真っ赤のはずだ。それを見られたくなくて、さらに俯いてみるけれど、 勘の良い彼にはもうお見通しなのかもしれない。いつのまにか、自分の胸に渦巻いていた 嫌な気持ちや憂鬱な気分。香水を嫌ったり梨佳を嫌ったり。 わけの分からないこの気持ちにはきっと単純明快な名前があって、ずっと気がつかないフリをしていたけれど、 こんな風にしてたまに口が暴走を始める。
 もう一言たりとも余計な事を零さないようにと黙りこくってしまった万莉亜を、クレアも黙って見つめる。 その不思議な静寂を打ち破ったのはルイスの控えめなノックだった。
「クレア、万莉亜さんを寮へお送りしますか? それとも彼女も今夜はこちらでお休みになりますか?」
 扉の向こうからかけられた言葉に万莉亜が慌てて首を横に振ってみせる。 いつもはニ、三度のノックの後ズカズカと部屋に入ってくるくせに、まるで恋人同士の戯れを邪魔しないように 扉の向こうから声をかけるルイスのその気遣いが余計に気恥ずかしくて、万莉亜はわざと大きな声で 彼に返事をした。やましいことなんて、何もありませんよと主張したかったのかもしれない。
「か、帰りますっ!」
「分かりました。私はフロアで待機してますので、いつでも声をかけてください」
「い、今すぐ帰りますから」
 飛び降りるようにしてベッドから立ち上がり、まだそこに腰かけているクレアに振り返る。慌しい万莉亜の 動作とは対照的に彼はゆっくりと立ち上がると、慣れた手つきで彼女の手を取り扉に向かって歩き出した。 そしてドアノブに手をかけ、何かを考え込むようにしてそのまま動きを止める。
「……クレアさん?」
 彼がドアを開けてくれるのを待っていた万莉亜が不思議に思って声をかけると、それを合図に ドアノブから離れた腕が彼女を抱きしめた。
「……っ!」
 何の前触れもなかったその行為に心臓が大きく音を立てる。傍目から見ると小柄で線が細い彼も、こうやって 抱きしめられると万莉亜の視界などその体一つで全て覆えてしまうほどの体格差を実感してしまう。それは 万莉亜をそわそわと落ち着かない気分にさせたし、同時に全てをゆだねたくなる安心感も与えた。
「……あ……あの……」 
「君を最後まで守りきる自信がないんだ」
 彼女の頭に頬を寄せながらクレアが囁く。
「……クレアさん?」
 一体どうしたというのだろう。こんな風に弱音を吐く彼は初めてで、万莉亜は相手を突き飛ばすタイミングを失う。 いや、最初から突き飛ばす気なんて無かったのかもしれない。離れなければと思いながらも、この腕には何の力も入らない。 このまま、彼の甘い香りに包まれていたいとさえ思う。
「……ごめんね。こんなこと言っても君を不安にさせるだけだ」
 そんな万莉亜の思いとは裏腹に、クレアが抱きしめていた彼女を解放し、力なく微笑んだ。 万莉亜は名残惜しく感じる自分に呆れながら、無理やり作られたその笑顔を見つめる。
 彼の気持ちが分からなかった。
 何に傷ついているのか、何を悲しんでいるのか、何に憂いているのかが何も分からない。 何か励ましの言葉をかけてあげたいのに、やっぱりそれが見つからなくて歯がゆい。
「万莉亜……?」
 伸びてきた手に驚いてクレアが瞬きをする。
 言葉が見つからなかった万莉亜は、両手を彼の背中に回すとぎゅっと力を込めて抱きしめる。 それから躊躇いがちな手付きで彼の背中をそっと撫でた。その幼稚な慰め方に彼のプライドが傷ついたらどうしようと びくびくしながら目を閉じる。
「……きっと、大丈夫って言い聞かせるんです。嘘でもいいから……」
「…………」
「そうしてください。私はいつも……そうしてます」
 でっちあげの希望でもいい。それを現実逃避だと呼ばれてもいい。 そんな風にして乗り越えなくてはならない日が、人生には多くある。万莉亜の人生にも、きっと、クレアの人生にも。
「……私は大丈夫です。私が、そう信じてるから」
 何にも言ってくれない相手に動揺しながら、自分に言い聞かせるようにして呟いていると、 突然息が詰まるほどに強く抱き返されて閉じていた目を開く。彼の肩口とそこにかかるブロンドが視界に飛びこんできた。
「……そうやって」
「え?」
「そうやって君が僕を甘やかすからかな。弱音を、吐きたくなるのは」
「私が……甘やかす?」
「君なら励ましてくれるって、どこかで思ってるのかもしれない」
 体が潰れてしまいそうなほど抱きしめていた両手を緩めてそれからゆっくりとそれを解く。 そうされてからやっと万莉亜はクレアと顔をつきあわせた。一瞬、彼が笑っていない事にどきりとしたけれど、無理やりひねり出した 笑顔よりは幾分ましだと万莉亜はどこかで納得した。
 きっと、今はまだ笑えないのだろう。それならそれで、無理をすることは無い。
「……また、明日」 
 今度は自分からその台詞を相手に言ってみる。
 以前彼がそう言ってくれたとき、すごく嬉しかったから。
 クレアは声に出さずに、ただその言葉に頷くと再びドアノブに手をかけて今度こそ彼女を送り出す。 厚みのあるドアが二人を引き裂くまでずっと名残惜しそうに指を握られていた万莉亜は、その指が離れたときに なんとも言いがたい寂しさを感じた。それを、彼も感じているのかは分からない。ただ、そんな自分を慰めるためだけに もう一度同じ台詞を繰り返す。
「あの、また明日っ……」
 ドアが閉まる直前に、振り返ってそう告げると、少し驚いたように目を見開いてからクレアが答える。
「待ってるよ」
 その言葉に満足して微笑むと、万莉亜は理事長室に背を向けて歩き出す。
 もう誤魔化しきれない感情を抱えながら、これに向き合うべきなのかも分からないまま。それが許されるのかも、分からないままに。
――「マリア。淫売の名前だわ」
 きっと彼女は、こんな自分を見透かしていたのだ。
 それが恥ずかしくて、そんな言い方をされたのが悲しくて、ぎゅっと拳を握る。
――……帰ろう……
 今日は色々あった。
 考えるには、疲れすぎている。こんな日は、何も考えてはいけない。

「万莉亜さん」
 フロアに戻ってきた彼女を待機していたルイスが呼びかける。
 万莉亜は吸い寄せられるようにしてふらふらと彼の元に歩み寄り、二人で螺旋階段を下る。 その階の途中で、腕を組んで待ち構えていた梨佳を見つけたルイスが、万莉亜の前に立つ。
「話があるの」
 そんなルイスを清々と無視して梨佳は真っ直ぐに万莉亜を見据える。
 本音を言えば、今夜はもう梨佳と対峙するほどの余力は残っていなかった。 だからすぐには返事を出来ずに俯いていると、その代わりにルイスが口を開く。
「万莉亜さんには、今後一切の接触も許しません。きつくクレアに言われていますから」
「……ひどいのね」
「自分が何をしたのか、よく考えてください」
「私が別のマグナを憎んで何が悪いの? これは守りきれなかったあなたたちのミスよ」
「……梨佳さん」
 あまりの物言いに絶句したルイスの横で万莉亜も言葉を失う。それからすぐに 湧いてきた怒りに両手をわなわなと震わせ、万莉亜は素早く階段をおりるとそのままの勢いで 梨佳の頬を思い切り張った。
 小気味のいい音が、辺りに響く。
「……私、先輩が嫌いです。この先どうあっても、もう好きにはなれません」
「奇遇ね。私もよ」
 叩かれた頬を片手で包みながら梨佳が答える。 もうきっと、何を言っても彼女には届かない。分かり合えない。
「私は……十二番目のマグナだったわ」
「……え」
 言葉の真意が分からなくて万莉亜が相手を睨みながら視線を合わせると、 梨佳はそんな相手を嘲るように微笑む。
「クレアが生涯で出会ったマグナの数よ」
「…………」
「その誰もが、後悔しながらクレアのもとを去っていった。あなたも、きっと後悔するわ。マグナ・マーテルになった女は みんなあの男に一生消えない傷を負わされるのよ」
「……それが、なんだって言うんですか」
 低く囁くと、梨佳がピクリと片方の眉を上げる。
「マグナがなんなんですか。マグナになったから、先輩は人間の心を持つ事もやめちゃったんですか? マグナだから、 誰かを傷つけてもいいんですか?」
「…………」
「それなら、後悔して当然ですっ! そうすべきよっ!!」
 怒鳴りつけてから鼻息も荒く階段を駆け下りる。 そんな自分の後を慌ててルイスが追いかける気配に気付いていたけれど、万莉亜はスピードを緩めなかった。
――どうして……
 信じたかった。それが叶わぬのなら、せめて、たった一言でいいから謝って欲しかった。
 そうしたら、許すことが出来た。何度だって許すことが出来た。 自分が勝手にしゃしゃり出たのだと、そう言ってやることが出来た。そうする事の方が、よっぽど楽だった。 それなのに、彼女はその機会すら与えてくれなかった。それが悔しくて涙がこみ上げる。
「……万莉亜さん」
 追いかけてきたルイスが躊躇いながら声をかける。
 こんなことで泣いてたまるかと唇を噛み締めて万莉亜は新校舎四階の窓から見える 景色を見上げる。もうあと数分もしないうちに日が昇り始めるであろう紫色した空。それを 眺めながら、彼の瞳を思い浮かべた。梨佳は、彼の大事なマグナだ。 その彼女を憎んでいると知ったら、彼は悲しむだろうか。
「万莉亜さん、行きましょう」
 そんな彼女の横に立ってルイスが微笑む。その穏やかな笑みに 毒気を抜かれて万莉亜は素直に頷いた。
「……はい」
 考えても仕方が無い。
 今日はとても疲れているから、きっと何も考えない方がいい。
 辛い事ばかりだった夜はもうあけた。
 過ぎ去った嵐なんて知らぬ素振りで、もうすぐ朝が訪れる。
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