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 ヴァイオレット奇譚「Chapter38・"恋は盲目"」



 脱衣所で、やっとのこと昨日から着っぱなしの制服を脱ぎ捨てる。
 嫌でも目に入る大きな鏡から目をそらし、万莉亜は疲れきった己の顔を無視して熱いシャワーを浴びた。
 数分前、散々泣きはらしたあと、彼女は七尾学園に戻ることを決意する。
 ここで延々待機しているのは、もう限界だったし、あと少しで誰かが来るかも、といったきりのない 期待を繰り返すのも、もうごめんだった。こんな場所で一人さめざめと涙していたって、事態は何も進展したりしないのだ。

 豪快な手つきで天辺からつま先まで洗い終えると、さっさと浴室を後にして、それからはたと気づく。
――着替えがない……
 もちろん、細かいことをぐだぐだとは言っていられないので、無いなら脱いだ制服と下着を再び身に着けるだけなのだが、 風呂から上がって早速その雨に打たれ汗を吸った衣類に手を伸ばす気にもなれず、一旦は洗面所にあったバスローブで髪が乾くまで凌ぐことにした。
 冷蔵庫から二本目のミネラルウォーターを取り出し、見慣れぬ部屋で唯一やっと馴染み始めた定位置のソファの上へと移動する。 そこでまた膝を抱え、夕方の子供向けアニメをぼーっと眺めた。
 本音を言えば、不安で不安で、どうにかなりそうだ。
 もし学園に帰って、クレアたちがいなかったら、どうすればいいのだろう。まさか、 もう二度と会えなかったりするのだろうか。彼らは、クレアは、ちゃんと無事でいるのだろうか。
 考え出したらきりが無いのに、考えずにはいられない。
――……大丈夫
 言い聞かせて、ゴクンと水を飲み込む。
 彼らに限って、そんなことは無い。とっても頑丈なんだから、絶対に、大丈夫。 心が不安に押しつぶされそうになるときは、そうやって念じてから、クレアの顔を思い出すようにしている。
――また会える……好きだって言ってくれたこと、絶対に夢になんかしない……
 しかしそれと同時に彼が言った不吉な言葉も芋づる式によみがえる。
――「さよなら万莉亜。僕が言った言葉、忘れないで」
 思いっきり頭を振ってどうにかその言葉を散らそうと試みるが、不安はむくむくと肥大化をはじめてしまう。
――さよならだなんて……どうして……
 まるで、もう会えないと告げられたようで、恐ろしい。
 彼には、覚悟が出来ていたのだろうか。だから、最後の告白として万莉亜に告げたのだろうか。 そう考えるほうがなぜか筋が通る気がしてしまう。
 初めから、万莉亜だけを逃がすつもりで、自分は……どうなるか分からないと……
 そこまで考えて、少女は思いっきり両の頬を打つ。
 パシンと強くはじかれた頬が、ひりひりと痛んだ。
 考えても仕方ないから、学園に戻ろうと決意したのに、気を抜くとすぐネガティブな妄想が始まってしまう。
「……早く、帰ろう」
 一人呟いて立ち上がり、ドライヤーをかけるために洗面所へ戻る。
 しかし一歩二歩と踏み出したところで、僅かなひっかかりを感じてしまい、万莉亜はもう一度だけ記憶を反芻した。
――「さよなら万莉亜。僕が言った言葉、忘れないで」
 彼は確かにそう言った。
 さよなら。そう言った。
 では、僕が言った言葉とは何だろう。あの告白のことだろうか。
 あれ? と彼女は一人首を捻る。
――「後で全部思い出してね。いい?」
 では続けて言われたこの言葉の真意は何だろう?
 彼の言った言葉を全部?
「ぜん……ぶ……って……」
――どこからどこまで?
 何かが引っかかる。
 それは、彼の言い方がどこか命令口調だったというか……別れの言葉を告げるにしては、 あんまり情緒の無い、例えば教師が生徒に「宿題やっとけよ」と命令するようなそんな含みがあった。
 クレアが万莉亜に告げた言葉とは何だったのだろう。
 それこそ数え切れないほどの数があるはずだが、彼はその中のどれを思い出せと伝えたかったのだろう。
 しばらくそこにしゃがみ込み、昨日の記憶を呼び起こす。
――確か……
 教室でふてくされている自分に、彼は黙って付き合い、それから 旧校舎を歩いている途中でわけの分からない化け物に襲われた。
 逃げたいのにどこもかしこも塞がっていて、自分たちは校舎中を走り回って逃げていたから、 ろくな会話をした記憶が無い。
 ああそう言えば、一度クレアが万莉亜と話をするためにわざわざ摩央を眠らせた時があった。
 それでも、何か重要な会話をそこでしただろうか。どうやって逃げようか、 そんな話しかしなかった。
 結局は、摩央に頼らない案はリスクが大きすぎるということで、クレアの思惑どおりことは進み、 無事旧校舎から抜け出して、そして新校舎に移動した。
 それからは、状況にも関わらず二人でのんびりお茶をして、趣味だとかをクレアに聞かれ、 そんなよく分からない会話をした後に、クレアにマグナの説明を受けて、泣いてしまった。
 昨日の流れだけでも、大体こんな感じだろうか。
「……あ」
 大切なことを忘れていた。
――プレゼント……!
「そうだっ……」
 すっかり忘れていたクレアからもらったプレゼント。
 どこへやったのだろう。慌てて辺りを見渡し、それから制服のポケットに入れていたことを思い出す。
 急いで万莉亜が立ち上がった瞬間、ゴト、と奇妙な音がバスルームから響いた。
「…………」
 思わず息をのんで、音の方向を見つめる。
 再び音が響く。
 全身に鳥肌が立ち、心臓がバクバクと暴れ始め、万莉亜は音を立てないようすり足で一歩後退した。
 そんな彼女に追い討ちをかけるかのように、再び奇妙な音が響く。
「……っ……」
 次第に荒くなる呼吸を抑えることが出来ずに、ズリズリとバスルームから距離を取り続け、やがて背後に行き詰ると、 彼女はその壁に面した収納クローゼットをそっと開けて、音も立てずに身を潜めた。
――……何……何っ!?
 わけも分からず混乱しながら、またもやクローゼットに身を潜める羽目になった自分を呪う。
――何の音……
 このセキュリティ過剰なマンションに、普通の人間が易々と侵入できるとは思えない。
 真っ先に浮かんだのは、あの黒い髪の化け物だった。あんな規格外ものに大して、鍵をかけた扉がなんの役に立つだろう。
――怖い……っ
 じっと身を屈めて、息を殺して、音に集中する。
 付けっぱなしのテレビから、子供向けアニメのエンディングが流れ始めた。 その陽気な歌の裏で、身の毛もよだつような音が確実に鳴り続けている。
――来ないで。来ないで……
 エンディングが終わり、CMが流れ出す。奇妙な音から意識をそらし、出来るだけ テレビの音に集中しようと努めた。
――昔も……こんなことが……
 あった。
 狭いところが大嫌いで、怖くて怖くてたまらないくせに、どうしてか、恐怖感じると狭いところに 飛び込んでしまう癖がある。そうして、ひたすらに時間が過ぎるのをやり過ごすのだ。
 けれどこの瞬間にも、大事なものがたくさん、それこそ根こそぎ奪われているのだと、 あの時分かっていた。きっともう二度と、父にも母にも会えないこと、それを知っていた。
 悲しくて悲しくて、だけど恐ろしくて、飛び出すことが出来なかった。
 ふと気づけば、辺りにはジングル・ベルが鳴り響いていて、万莉亜はいっそう体を きつく抱きしめた。
――違う……違う……っ
『隠れなさい、まりあ』
――お母さん、どうして……あの時……
『隠れなさい、まりあ』
――私も……一緒に……
 一人にしないでと今なら泣くことができる。
 だけどあの時は、考える余地もなかった。走るしかなかった。選択肢なんて、なかった。

「……っ!」
 ふと目が覚める。
 辺りは真っ暗で、そして狭い。
 親指に痛みを感じて、どうしたことかと口元から引き抜けば、加減なく歯を立てられていたそこからは 血が流れ、口の中には鉄の味が残っていた。
 それからぐっしょりと冷や汗をかいた自分の体。バスローブで良かったと 少しのんきなことを考えていると、テレビからはニュースの終わりを告げるアナウンサーの声が流れていた。
 どのくらい呆けていたのだろう。
 あの奇妙な音は、もう止んだのだろうか。そう考えて恐る恐るクローゼットの扉に手を伸ばした瞬間、 はっきりと人の足音が聞こえて、万莉亜は声にならない悲鳴を上げた。
 足音は部屋の中をぐるぐると回り、やがて家捜しをするような物音まで始まる。
――やだ……やだっ……!
 両耳を強く手のひらで塞ぎ、狭いクローゼットの中でうずくまる。
 やがて足音はクローゼットの前でぴたりと止まった。
――…………っ!
 大丈夫。ここは安全。絶対に、開かれることは無い。誰にも気づかれない。
 そんな彼女の祈りとは裏腹に、ガタリとクローゼットの扉が軋んだ。
「……いやっ!」
 思わず叫び、開こうとするそのドアを内側から思いっきり引く。
――どうして……!!
 ここは絶対に安全なはずなのに、どうして。

「……万莉亜?」
 必死になって内側から抵抗していると、幾分間の抜けたような声が彼女の名を呼ぶ。
 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、その声に驚いた万莉亜が力を緩めれば、開いた扉の向こうから 目をぱちくりさせているクレアの顔が覗いた。
「…………ク……」
「何してるの?」
「…………へ……」
「…………」
 しばらく二人呆然と見つめあったまま、やがてクレアがふ、と顔が綻ばす。
「ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだけど」
「…………ク、」
「怖かったよね」
 軽く笑って彼が固まっている彼女の体に手を伸ばす。石のようになっている万莉亜を抱き上げて クローゼットから脱出させると、彼はそのまま彼女をソファへと下ろす。が、首にがっちと回された腕は てこでも外れそうにないので、諦めて自分ごとソファへ座った。
 滝のように涙を零し、そのうち嗚咽まで始めた万莉亜の背中を撫でながら、クレアもまた脱力して 息を吐く。
 100点満点とは言えないが、もとより負け戦だったのだ。十分すぎるほどの結果だろう。
「良かったよ。もう少しで、消費期限が切れるところだった」
「…………な、何がっ……」
 嗚咽の間にどうにかして紡がれた彼女の声に笑ってしまう。
「プレゼント。生ものだから早めに開封して欲しかったんだけど、君中々制服脱いでくれないし」
「……」
「まぁ、その辺はあとで全部……それより……」
 言いながら万莉亜を膝に抱えていたクレアの上半身がずるずると横に倒れていく。
「……クレアさん……?」
「もうだめだ……」
 バタリとソファに倒れこんだ彼が片腕で顔を覆いながら息も絶え絶えに呟いた。
「少し…………」
 寝る。その言葉を最後にあっという間に寝息を立て始めたクレアを万莉亜はしばし呆然と見下ろし、はたと気づいて 乗っかっていた膝の上から体を降ろした。
 それから、未だ半信半疑のまますっかり眠りに落ちた彼の寝顔をじっと眺める。
「……クレアさん」
 そっと呟いてみる。返事は無い。
――でも、ちゃんといる……ここに……
 恐る恐る手を伸ばして、ソファの上に散らばった淡いブロンドに触れる。そのやわらかい感触に 万莉亜は目を細め、それからどっと襲ってきただるさに逆らうことなく、彼女もまた静かに目を閉じた。



******



「おいこら、開けやがれ」
『お帰りください』
「てめぇ!」
 ついそうがなりたてた瞬間、エントランスに立っていたスーツ姿の男がじろりと 厳しい視線を投げてくる。
「おい……睨まれただろ。早く開けろよ」
『開けてください』
「……いいから早くしろ」
『さようなら』
「あーったく! 開けてください入れてくださいお願いします!」
『よく出来ました』
 憎ったらしい声と共にガラスのドアが開かれる。
 やっとのことエントランスに入ることが出来たと思いきや、待ってましたとばかりに コンシェルジュが少年に詰め寄った。
「……何だよ」
「おはようございます」
「お、おう」
「エレベーターまでご案内いたします」
「いらねーよ」
「…………」
 見るからに安っぽいTシャツに着古したジーンズ。それからぼさぼさの茶色い頭。 おおよそこのマンションの住人には相応しくない薄汚れた少年をスーツの男は上から下まで 舐めるように観察し、そして値踏みすると、「やはりエレベーターまで」と食い下がる。
 そんな相手を煩わしそうに睨みつけた後、瑛士はさっさと自力でエレベーターを 見つけ、目的の部屋へと向かった。
――感じわりーとこだな。ったく……
 ポーン、という小気味いい音と共に目的の部屋の前でエレベーターのドアが開かれる。
「……一部屋っ!?」
 思わずそう叫んでからキョロキョロと視線を投げて、やっとこのマンションの過剰セキュリティに気付き、「なわけねーよな」と 平静を取り戻した瑛士が再びインターホンを鳴らそうと腕を伸ばす。
 その瞬間、勢いよく開かれた分厚いドアに額をしこたま打たれ、間抜けな叫び声と共に頭を抱えた少年が 床にうずくまった。
「瑛士くんっ!」
 ドアを凶器に少年を打ちのめした万莉亜が驚いて声を上げると、瞳に涙を浮かべた瑛士がギロリと相手を睨みつけながら 立ち上がった。
「てめぇ……」
「ご、ごめんなさい。大丈夫……?」
「大丈夫なわけないだろ! 突然ドアを開けるなよ! 俺がいるかも知れない可能性を考えろタコっ!!」
 勢いもよくそう言いきったところで、はっと我に返り、万莉亜の後ろで青筋を立てている青年の存在に気付く。
「……まぁ、そんなに痛くは無かったけどな、うん。言い過ぎたわ」
 ジンジンと痛む額を無視して慌てて付け加えれば、万莉亜は伏せていて視線を上げてじっと瑛士に見入る。
「な、何だよ……」
「瑛士くんも無事だったんだね……良かった……」
「へ?」
 そう間抜けな返事をしてから、ああそういえばと思い出す。
――こいつは何も知らないんだっけ
「まぁ、無事成功したのも全て俺の大活躍のおかげだけどな」
「…………」
「どうせ燃えちまうからわかんねえっつったのに、人にセーラー服着せた挙句ヅラまで被せやがって。あちぃしよ。 やっぱりどう考えても一番貢献したのは俺だよ」
 うんうんと頷きながら室内に踏み込むと、すれ違いざまに万莉亜の悲しそうな呟きが耳に入る。
「……やっぱり……瑛士くんも知ってたんだ……」
「……え?」
「一緒になって、私だけだましてたんだっ」
「え? あ、おいっ! どこにっ……」
 瑛士の制止も振り切って、万莉亜が部屋から飛び出していく。
 それを少年はポカンと眺め、その奥にいた青年は重苦しいため息をついた。

「……追わなくていいのか?」
 持っていたビニール袋をキッチンのテーブルにドン、と置きながら瑛士が訊ねれば、 クレアは小さく首を振って腕を組んだ。
「ハンリエットが護衛してる」
「何だ。枝はもう動けるのか。俺が急ぐ必要なかったな」
 損したと呟きながらいそいそとイスにかけてあったエプロンを手に取り、それを 装着すると迷いのない手つきでお茶を入れ始める。そうして用意したものを「さぁどうぞ」と 座っているクレアに差し出したところで、少年がはっと目を覚ました。
「何で俺が当然のようにお前に茶ぁ入れてんだ!!」
「……知らないよ」
「ちくしょう……習性って恐ろしいぜ……」
 ブツブツ言いながら習性で買ってきた全員分の夕飯の食材を習性で冷蔵庫に仕舞い、 習性でキッチンに立ち始めた少年の後姿を横目で眺め、「あーあ」とクレアがうな垂れた。
「だらしねぇな。万莉亜に黙ってようって言い出したのはあんただろ」
 にんじんの皮を剥きながら瑛士がフフンと追い討ちをかける。
「言い出したのはルイスだよ」
「決定したのはあんただ」
「……賛成してたくせに」
「当たり前だろ。あいつって大根ぽいし」
「…………何度も言うけど」
「はいはい万莉亜さん万莉亜さん。万莉亜さまさま」
「…………」
「結果的に上手くいったんだから大目に見てくれりゃーいいのに、万莉亜さまは お心がお狭いのですね。梨佳さまになさったら?」
「…………」
 そんなに女装が不服だったのだろうか。
 それとも丸焼きにされたことを根に持っているのか、チクチクと攻撃を続ける 瑛士の言葉を流しながら、さてどうしたものかと頭を抱えた。

「なぁな。カレーでいいよな。カレーしか作れねぇぜ俺」
「気持ち悪いこと聞くな」
「っんだと!?」
 包丁を握り締めて振り返れば、そこにクレアの姿はすでになく、彼はさっさとリビングに移動していた。
――……さっきのインターホンといい、俺に八つ当たりスンナっつーの
 たかが女一人に喚かれたくらいで自分のテンションまで左右されてしまうなんて、 情けない男だと馬鹿にしてまたにんじんの皮むきに戻る。 万莉亜みたいに底抜けのお人よしを相手に、何をてこずる事があろうか。床に頭をこすり付けて平謝りをすれば、 おそらくあの女はものの十数秒で怒りを捨て相手を許してしまうだろう。
 それをしないのはくだらない男の意地か、それとも、本当にそれが分からないのか。

「……?」
 リビングで横になっていると、台所から調子っぱずれの瑛士の鼻歌がこちらにまで 聞こえてきてクレアが顔をしかめた。
「ラビィ〜ずぶら〜ぃん」
 ただでさえイライラしてるのに、耳障りな雑音がうざったくてしょうがない。
 何の呪文だよと舌打ちしながら聞いていれば、どうやら恋の盲目さを歌ったかの名曲のつもりらしく、 しかし見事な音のはずし方とストレスの募る下手糞な発音で、クレアは込み上げてきた笑いをどうにか噛み殺す。
 その選曲は、まさか自分を遠まわしに馬鹿にしているのだろうか。 三下丸出しのようでいて、実のところ結構隙の無い少年だから、真意は掴みずらい。
――盲目か……
 万莉亜が普段温厚なせいか、こうして真っ向から喧嘩を吹っかけられるとどうしたらいいか分からなくなってしまう。 はたから見ていると、そんな自分は不器用に映るのかもしれない。きっと解決策はたくさんあるはずなのに、 そのうちの一つも見つけることが出来ない。本当に、馬鹿になってしまった気分だ。
「らビィ〜ずぶらぁ〜ぃん」
「…………」
 しかし例え図星だとしても、彼の希少な歌唱力が厭味の鋭さを台無しにしているわけだが。



******



 まさか自分でも、あんな風に怒り出すとは思わなかった。
 今クレアと離れ、一人で知らない町を歩いていると、「そこまで責めなくても良かった」という 罪悪感が湧いてくる。
――また……やっちゃった……
 感情のコントロールが出来ない。彼の前だと小さな子供みたいにして、わけもなく 泣きたくなってしまう衝動に駆られる。無事に帰ってきてくれて嬉しかった。 それだけで良かった。だから何も、あんなに責めたてることはなかったのに。
「……はぁ」
 ため息をついて辺りを見回した。
 それから、目ぼしいお店を探して、たまたま目に付いた花屋へフラフラと足を進める。

 アンジェリアが新校舎に奇襲をかけることをとっくに知っていた万莉亜以外の全員は、 綿密に計画を立てて、いつやってくるかわからぬXデーに備えていたらしい。
 万莉亜を新校舎に軟禁していたのも、あのクローゼットに閉じ込めたのも、 その中で万莉亜が半狂乱になって取り乱すのも、全部予定通りで、自分はただ出来上がった舞台の上で 何も知らずに踊らされていただけだった。
 実のところ、誰も死ぬつもりなんて無くて、クレアの言った「さよなら」だって、 精神的に万莉亜を追い詰めるためだというのだから、腹が立たないといえば嘘になる。
――「だって君、演技とか向いて無さそうだし」
 しゃあしゃあと言ってのける金髪の青年に、気がつけばデジタル時計を投げつけていた。
 彼はあらかじめ切り取っておいた小指をプレゼントと称し万莉亜に持ち出させ、 心臓に仕込んだ爆弾で新校舎もろとも体を粉々に吹き飛ばした。その間、 彼らの安否を心配して泣いていたのは万莉亜だけで、他のみんなは「しめしめ」とほくそ笑んでいたわけだ。
 どうして一言言ってくれなかったのか。
 演技は下手糞かもしれないけれど、クローゼットの中でクレアの名前を絶叫し続けることくらいは出来たのに。 初めから万莉亜を足手まといだと決め付けて、誰も教えてくれなかった。シリルでさえも。

「1860円になります」
 店員に言われ、はっと我に返った万莉亜が慌てて財布を取り出す。
「ありがとうございましたぁ」
 明るい声に見送られ店を出た万莉亜は、商品を抱えたまま、途方にくれた気持ちで空を見上げた。

「可愛い花束ね」
「……っ!」
 後ろから突然金髪のゴージャスな女性に話しかけられて慌てて振り返り、同時に後ずさる。 が、サングラスを外した相手の瞳が見慣れた赤い色であることに気付き、万莉亜は「あ」と声を上げる。
「ハンリエットさん! 無事だったんですね!」
「……? 当たり前じゃない」
 一瞬キョトン、とそう返した彼女が、やば、という表情を見せて突然ペラペラと取り繕いはじめる。
「いや、でも、ほんとに、ダメかと思ったわぁ。もう、全滅しちゃうかと……!」
「……ハンリエットさんも、知ってたんですもんね」
「…………」
「どうして、教えてくれなかったんですか」
 恨みがましい口調でそう聞けば、彼女は頭をポリポリとかきながら辺りを見回した。
「……お茶してく?」
「え……」
「言っておくけど、私は唯一最後まで反対してたのよ。絶対後々面倒になるから、やめなさいって。 聞かなかったのはお父様とルイスよ。あとあの三下」
「さ……さん、した……」
 随分な言われようだと瑛士を不憫に思っていると、強引に手を引かれて近くのコーヒーショップへと 半ば強制的に入店させられる。
――……でもそっか。ハンリエットさんは、反対してくれたんだ……
 もちろん、万莉亜の演技力に期待しての発言でないことは 分かっていたが、最初から蚊帳の外に自分を置かなかったハンリエットの心遣いが嬉しかった。

「……お花、枯れちゃうかしら」
 注文が終わった後、ハンリエットがイスの上に置かれた小さな花束にちらりと視線をやって呟く。
「少しなら大丈夫ですよ。帰ってすぐお水に挿せば」
「そう。……それってクレアにあげるの?」
「……はい」
「なんか逆じゃない? 普通ならあっちが花束抱えて謝罪するべきだと思うけど……」
 呆れたようにして淡い紫の花束を指さす。
「……これは……その……」
「そんなんじゃ万莉亜、相手に舐められるわよ」
 あはは、と力なく笑って誤魔化す万莉亜に、彼女はため息を零し頬杖を付いた。
「まぁ今回は、色々複雑だったし、とにかく何が何でも万莉亜は死んだと思わせたかったから、 あなたの鬼気迫る迫真の演技は必須だったのよねぇ」
 アンジェリアを葬ることなど早々に諦めた新校舎の面々は、それならば こちらが死ぬしかないと結論付け、その作戦に全てをかけた。とにかく、万莉亜にはアンジェリアの目の前で死んで貰わなければならない。 誰もが、最悪それさえ成功すれば良いと考えていたし、それが成功すれば、この戦は決して負けではないと思っていた。
 アンジェリアがどういう方法で万莉亜を殺すのかは分かっていた。十中八九火あぶり。他はありえない。 そう言いきったクレアの予言通り、アンジェリアはクローゼットに火を放ち、 そのせいで、瑛士は全身が原型を留めぬほどに焼き尽くされる羽目になったのだが、 それについては彼も作戦段階で腹を括っていた。
 火あぶりだからこそ成功した作戦だった。他では無理だった。
 アンジェリアがクローゼットに火を放つか放たないかの一瞬、その一瞬が、おそらく最もクレアが肝を冷やしたであろう瞬間に 違いない。

「お父様なりに、結構必死だったんじゃないかな。ここ最近、ずっと余裕がなくなってたし。 心臓に爆弾詰め込んで、奥歯に起爆スイッチだもの。うかつに歯軋りも出来ない状態で、いつ来るか分からない昨日を待っていたんだから」
「…………」
「万莉亜のこと、蔑ろにしてたわけじゃないのよ。むしろ全員で毎日 あなたのこと考えてた。まぁ、主にその殺し方についてだけど」
 その言葉に、ちょうどアイスティーを運んできたウェイトレスがぎょっと目を剥く。
 オロオロする万莉亜をよそに「ゲームの話よ」と強気でウェイトレスを追い払うと、 ハンリエットはにやっと微笑み、つられて万莉亜も笑ってしまった。
「まぁつまり、あんまりがっかりしないでやって。最終的にお父様の肩持っちゃったけど、私ってほら、 ファザコンだし」
「……はい。……あ、あの……」
「へ?」
 ストローを咥えようとしていたハンリエットが、顔を上げる。 すると妙に神妙な顔つきの万莉亜に、彼女もつられて眉根を寄せた。
「あの……アンジェリア……さんは……あの人はどうなったんですか? あとヒューゴって人は……」
「ああー」
 思わせぶりに頷いて彼女がアイスティーを口に含む。
 それが喉を通りすぎまで万莉亜はじっと待ち、やがて咳払いと共に告げられた言葉に、あんぐりと 口を開ける。
「分かんない!」
「…………」
「どっか行ったんじゃない? クレアが死んだと勘違いして」
「クレアさんが?」
「うん。だってクレアが万莉亜の持ち出した小指から再生し始めたってことは、 新校舎にあったはずの本体が食われたって事だもの。跡形もなく食われたから、クレアは分離していた細胞から再生を始めることが出来たの」
「…………」
「本当は……アンジェリアもクレアもバラバラになったその一瞬、アンジェリアの細胞を残さず食べてくれる 人物がいればもっと良かったんだけど。何と言ってもクレアは小指だし、瑛士は丸焦げだし……」
「……」
「でもやめといて正解だったわ。アンジェリアが粉々になった瞬間、私たち枝への無力化が解けて、 私あの部屋に急いだの。それで見ちゃったのよ」
「……何を……?」
「再生よ。再生。バーンて砕けたかと思ったら、ヒューンと元通り。一瞬よ、一瞬。 食ってる暇なんてありゃしないわ」
「…………」
「多分、再生にかかる時間も第二世代はコントロールできるんだと思う。それが分かっただけでも儲けものだったし、 クレアが死んだと思ってくれているのなら、それも儲けものよ。作戦は十分成功といえるわ。なるべく死人を出せってのが 本来の目的だったんだし……」
 ハンリエットの声色が、だんだんと曇っていく気がした。
 それは、気のせいではないだろう。なぜなら万莉亜も今、同じ事を考えて沈んでいた。
 この作戦は、一時しのぎに過ぎない。いつかはきっと、クレアが生きていることがアンジェリアに 知られるだろう。万莉亜が生きていることも知られるかもしれない。
 やっぱり本当の意味での成功は、永久的にアンジェリアを葬る以外にない。
――だけど……
 ぎゅっと目をつぶって彼の顔を思い浮かべる。
 クローゼットで泣いていた自分を見つけたときの、彼のあの表情。思い出して、思わず笑いが込み上げた。
 やっとのことで制服のポケットから開放され、何とか再生しきった彼が、疲れた顔で万莉亜を探し回り、 やっと見つけたかと思えば居直り強盗と誤解される始末。彼は笑ってくれたけど、苦笑いだったはずだ。

「万莉亜?」
「……この花束は、謝ろうとして買ったんじゃないんです」
「…………?」
「ずっと不安で、もう会えないかもって思って、何でも良いから帰ってきてほしいって 願ってたら、帰って来てくれたから」
「……」
 感謝の気持ちです。
 そう呟いて、隣にある薄紫の小さな花びらを眺めた。
「すごく変に聞こえるかもしれないけど、私、クレアさんの好きなところと、嫌なところが一緒なんです」
「……」
「秘密主義だったり、自分勝手だったり、それに僕は無神経なんだって突然開き直ったり……嫌なはずなのに、 そんな所が好きだとも思えるんです。……これって変ですか?」
「うん」
「…………」
「ずばり言わせてもらうけど、お父様のいい所って顔しかないわよ。絶対。あの人性格ゆがんでるもの」
「…………いい所だってありますよ」
「ない」
「あ、あります」
「ぜぇーったい無い」
「あるもん」
「目ぇ覚ましなさいって。美化は良くないわよ」
「……あります。絶対。……探せば」
「ハイハイ」
「…………」

 結局店を出てからの帰り道、延々あるだのないだの言い争っていた二人は、 そのまま無事マンションに戻り、万莉亜はキョロキョロとあるのかないのかはっきりしない噂の張本人を探した。
 シリルとルイスはまだ合流していないらしく、キッチンでは瑛士が おかしな鼻歌を歌いながら食事の用意をしていて、万莉亜が若干元気の無くした花束を抱えているのを見るや否や、 なぜすぐ水に挿さないんだと小姑みたいにブツクサいいながらそれを奪っていった。 エプロンを纏ったその後姿をぽかんと眺めていると、耳元でハンリエットが囁く。
「ね。どこに出しても恥ずかしくない下っ端でしょ」
「…………」
「やっぱり環境に染まるのよねー」
 そんなことを感慨深げに呟いてハンリエットがバスルームへと消えていった。

 半笑いでそれを見送ると、万莉亜は広いリビングに移動し、まずそのテレビの音量の大きさに驚く。
 ぼんやりとした表情でソファに沈み、それを眺めているクレアを見つけると、万莉亜はそばに近寄り、 軽く彼の肩を叩いた。
「……あ」
 そこで初めて万莉亜の存在に気付いた彼が、おかえり、と微笑む。
 万莉亜も微笑んで頷くと、クレアはテレビの電源を切って彼女を見上げた。
「なに見てたんですか?」
「美女と野獣」
「…………お、面白かったですか?」
「全然。シリルに付き合ってもう100回は見てるし」
「……」
 万莉亜ですら誇張は抜きにこのDVDを20回は見ているのだから、 その万莉亜よりもシリルと付き合いの長いクレアが100回見ていても なんら不思議ではない。
「鼻歌がうるさくてさ……」
「え?」
「いや。それより、どこに行ってたの?」
 そう言いながら彼が自然と万莉亜の腕を引くから、それに逆らうこともなく自然と隣に腰掛ける。 しかしふと目に留まったガラステーブルの上のデジタル時計が視界に入って、居た堪れなくなった。 角が、削れている。
「ハンリエットさんとお茶を……あの……さっきはごめんなさい。私、気が動転して……」
「気にしてないよ」
 全然、と彼が微笑む。
「君が帰ってきたらどう謝ろうか、ずっと考えてたんだ」
「いいんです。もう、いいんです。やっぱり私に話さなくて正解だったと思います。本当に」
「万莉亜……」
「そ、それで、あの、記念にっていうか、クレアさんが無事だったお祝いに、お花を買ってきたんですけど」
「……それは、ありがとう」
 と、言いながらクレアが首をかしげる。
「さっき瑛士くんがそれをお水に挿してくれるって言って」
 つまりここには無いんですけどね、と万莉亜が情けない笑い声を零した。
「とにかく私は、またみんなに会えて嬉しかったのに、それを伝える前に あんな風に怒っちゃって……すごく後悔したんです。……ごめんなさい。それで……あの、…………あの、ですね………… 顔が……あの……顔が…………か、かおが……」
 近い、と叫んでどんどんとこちらへ距離を縮める彼の顔をぐいっと押しやる。
「ま、まだ話があるんですからっ!」
 真っ赤になって訴える万莉亜をよそに、クレアは「まだあるの」と顔に書いてあるようなあからさまな表情を見せる。
「あるんですよっ!」
「……じゃあ、手短によろしくね」
 適当にあしらうようにしてそう答えると、彼は聞くポーズすら見せずに、万莉亜の体に 腕を回して髪を撫でたり頬にキスをしたり、勝手に遊び始める。
「あ、の時ですね……あの……クレアさんが……」
「うん」
「言った言葉なんですけどもっ」
「うん」
「あれは、あ、あれは、あれも……その、作戦だったんですか」
「うん」
「…………へ?」
「うん」
「どっちなんですか」
「え? なにが?」
「もうっ!」
――人の話なんて、全然聞いてないんだからっ!
「……まじめに聞いてるのにっ」
 悔しくてぷいと顔を背ければ、彼は小さく笑って「冗談だよ」と囁いた。
「じゃ、じゃあ、……本当なんですか?」
 思わず振り返ってそう訊ねれば、彼はいつものように不敵に微笑み、 それから万莉亜の顎を捕らえた。
「あっ……」
 唇が触れる直前、「当ててみて」と呟かれる。
――……何だか
 すごくずるい。
 こんなやり口は、ずるすぎる。
 触れた彼の唇は熱くて、それが万莉亜の唇にも伝染する。

 その時、ドン、という音と共に、ガラステーブルが衝撃に震える。
 驚いて唇を離した万莉亜の視界に、真っ白い花瓶によく映える紫の花びらが飛び込んだ。
「ったく、お前らはあっちでいちゃいちゃこっちでいちゃいちゃ」
 場所をわきまえろ! と、文句を零しながら乱暴に花瓶を置いていったエプロン姿の 瑛士が去っていく。顔を真っ赤にして俯く万莉亜の隣で、クレアがその後姿に目を細めた。
「……だんだん小姑みたいになってきたなぁ」
 どうしてだろうと首をかしげるクレアを見て、万莉亜が穏やかに微笑む。
 そんな彼女の視線に気付き、バイオレットの瞳が二回瞬きを繰り返した。金色の長いまつげが 揺れる。それを、とても愛おしいと思う。もし彼が自分の瞳を覗き込んで、 同じように思ってくれるのならば、もう人生で欲しいものなど、何もないかも知れない。
「ねぇ万莉亜」
 ふいに彼が口を開く。
 ふざけているでも、神妙でもない、あっさりとしたその声に気を抜いたまま反応すると、 彼は瑛士が一人で騒がしくしているキッチンの方向へ視線を向けたまま呟いた。
「君はもう、マグナじゃないよ」
「…………」
 万莉亜の瞳が見開かれる。
「もう香水振りまいて出歩くことはない」
 ふ、と笑って彼が振り返る。
「そう言えば以前、君ものすごい香水を」
 思い出し笑いをしている彼の言葉を首を振る事で遮り、つないだ手のひらを強く握って万莉亜は言葉を探す。 不安が、その表情にありありと浮かんでいた。
「……どうして……」
「どうしてって」
「どうして……っ」
「死んだことになってるんだから。少しは大人しくしとかないと」
「じゃ、じゃあ、一時的って事ですか?」
 身を乗り出して訊ねると、クレアは困ったように微笑んで、首を振った。
「違う」
「……」
「万莉亜……?」
――どうして……突然……
 マグナにはなれないと、確かに言った。 だけどこんなに急に。自分勝手だと分かってはいてもショックだった。マグナという存在は、 万莉亜とクレアの絆を強固に結ぶ。ずっと、出会ってからも、今までも。それが今はもう、無い。
「……っ」
「万莉亜」
「ごめんなさい……っ」
 ここで泣くのは卑怯だ。なれないと、先に告げたのは他でもない万莉亜なのだから。
「参ったな」
「ごめんなさ、……私……」
「これ愛の告白のつもりだったんだけど」
「………………」
「切り出し方を失敗した」
 俯いて涙を堪えていた彼女が、一瞬で乾いた瞳をクレアに向けて「へ?」と間抜けな声を出す。
「この件は、後に回せばよかった。まさか君がマグナに固執してるとは思わなくて」
「…………」
「いーじゃない別に。マグナなんて良いことないし、それにどうせ君が役目を果たす日なんて来ないよ」
 もういいんだ、と零した彼に、何をと訊ねようとして、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「だからこんなことは、……本当に生まれて初めて口にするんだけど」
「…………」
「僕の恋人になってくれないかな」
 彼が真剣な表情でそう言い終わったのと同時に、万莉亜が飛び掛るようにして その体に抱きついた。
 涙が喉につまって言葉が出ない代わりに、何度も何度も首を縦に振って伝える。
「こっちもあんまり……良いことはないと思うけど」
「……っ」
「でもとりあえず、パートナーはいつまでも若いよ」
 そう言って彼が悪戯っぽく微笑む。瞳に涙を浮かべながら、万莉亜が笑った。
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