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 ヴァイオレット奇譚「Chapter39・"いずれも奇縁"」



 十一月の頭に起こった私立学園での事故。
 あれだけの爆発であったにも関わらず、世間は「どこかの学校で起きたボヤ」だと認識した。
 それもそのはずであり、実際その事故がテレビニュースで流されることはついに一度も無く、彼らが それを知ることが出来たのは、翌々日の朝刊の隅にたった一度、小さく載った記事だった。
 記事は、小さな火事であったにもかかわらず、運悪く居合わせた生徒の一人が亡くなった旨を淡々と綴っており、 決められた文字数で記されたそれは、読み飛ばしてくれと言わんばかりのそっけなさすら感じさせる文面だった。
 学園の名前が明記されていないことも、死亡者の名が伏せられていることも、おそらくは誰も気に留めない。 派手な見出しの付いている芸能人の怪しいゴシップや政治家の汚職事件、それらがその記事の希薄さをさらに薄いものへと 変えていく。そしてそのうち忘れられていく。やがて、消えていく。最後には、無かったことになる。
 小さな悲劇はいつだって、毎日、毎時間、毎秒と飽きるほど起こっているから、知らぬ町の知らぬ悲劇などに、 もう誰も興味を示さない。ノンフィクションであろうとも、毎朝届く朝刊のそっけない記事であるうちは、ありふれたフィクションでしかない。

 がしかし、今回に限ってはそれこそが真実である。
 記事は真っ赤な嘘であり、捏造であり、でっち上げであり、フィクションである。
 あの夜七尾女子学園で起きた事故はボヤではなく、強力プラスチック爆弾による爆発であり、被害は多大であったにも関わらず、 幸運なことに死亡者はゼロ。今となっては忘れ去られた記事の、最早どうだっていい真相がそれだ。
 ショッキングな出来事ではあるが、しかし季節は十二月下旬。
 街はクリスマスムード一色に染まっており、あの日の些細な事件などに、誰もかまっている暇は無さそうだ。



******



 その日訪れた招かれざる客を、梨佳はため息と共に迎えた。
 豊満な胸と長い足。色の濃いブロンドに、そして赤い瞳。 可能性が無いわけではなかったが、まさかよりにもよってこいつかよ、と出かかった言葉を飲み込んで 部屋の入り口に立つ女をそのまま睨みつけた。
「来たくて来たんじゃないわよ」
 ハンリエットが開口一番にそう前置きする。 それからずかずかと部屋に入り、ぐるりと室内を見回した後、隅にある大きめのベッドに腰をおろした。 部屋の主はそれを黙って視線で追いながら、新校舎の私室でも寮の部屋でもなく、実家のこの部屋に異端が いることを奇妙に感じていた。なぜだろうか。
 あの閉ざされた空間で散々顔をつきあわせてきたというのに、今学園を離れたこの場所で、 人間でない生き物が息を吸う。足を組みかえる。なんと奇妙な光景だろうか。
「で、どうするつもり」
 ぼんやり眺めていると、痺れを切らしたハンリエットが切り出した。
 梨佳は机に向き直り、読みかけの詩集に視線を戻す。会話する気などさらさら無いぞという意思表示だったのだが、 もういい加減、相手には通用しないだろう。案の定、ハンリエットは堪えた様子も無く続ける。
「学校を辞めるの? それとも、このまま一度も出席しないで卒業するつもり?」
「……」
「どっちでもいいけど、教えてくれないとサポートできないわ。忙しいんだから、さっさと決めなさいよ」
「頼んだ覚えは無いけど」
 物言いにかちんと来てつい言葉を発してしまう。
 ハンリエットは満足げに微笑み、梨佳はまた苛立ちを募らせる。
「……サポートだなんて、良く言うわ。どうせ名塚万莉亜のことを口止めしに来たんでしょ。何よあのでたらめな新聞記事は」
「クレアが記者に書かせたの。生徒が死亡したのに、一切報道されないのはまずいから。もちろん、報道されすぎても困るけど。 その辺の按配が絶妙だったでしょう? 時期も良かったわ。みんなクリスマスで、すぐに忘れてしまうから」
 どこか自慢げに語るハンリエットの声を聞きながら、梨佳は窓の外に視線を投げた。
――そういえば、クリスマス……
 あの爆発事件の前夜、クレアの言うとおり一旦実家に帰り、それから今までずっと引きこもっていたから、 うっかり忘れていた。ということは、今日から冬休みだ。これで少なくとも、不登校児ではなくなる。そう 考えるとほんの少しだけ気が楽になり、意外にも自分はそんな小さなことを気にしていたんだなと心の中で自嘲する。
「まったく……くだらないわね」
「梨佳……?」
「小さな人間……私は」
 人生を捧げようと誓った男を横から奪われて、絶望の淵にいたと思っていたのに、 その隅で、出席日数や各教科の単位を気にしていただなんて。体裁を、気にしていただなんて。
「私はもう、あの学園には戻らない」
「……」
「サポートもいらないわ。クレアの術が無くても、パパが何とかしてくれるし」
「そう。……でも校長の一存で卒業できるかしら」
「最後の数ヶ月休んだって、卒業できるくらいの実績はあるもの。だからサポートはいらない。そう伝えて」
「……そ」
「もう帰って」
 窓の外を向いたままそう告げると、僅かにベッドが軋み、それから扉へ向かう足音が聞こえた。しかし それがピタリと止み、しばしの静寂の後、ハンリエットが振り返る気配がした。
「それと、万莉亜のことだけど」
「…………」
「学園内ではその存在の記憶ごと抹消されているの。だから……」
「余計な真似はするなって?」
「そうよ」
 きっぱりと答えてハンリエットが頷くと、一度もこちらへ向こうとしなかった梨佳が ゆっくりとした動作でイスを回し、ハンリエットと視線を絡める。どこかぼんやりとした表情に いつもの棘は無く、思わず首を傾げてしまう。
「……あの夜……」
「え?」
 声が小さすぎて聞き取れない。
 けれど一歩踏み出してしまえば、今とても不安定なバランスで保たれている仮面を脱いだ梨佳が 消えてしまいそうで、ハンリエットは扉の前から動くことをせずに耳だけを澄ませた。
「クレアが……」
「……」
「クレアが私を抱いたのも、……全部名塚万莉亜のためだったのね」
「……」
「すごく、……焦ってた。いいから早くどっか行けって言われてる気がした。きっと……気のせいじゃなかった。 私に計画のことを言わなかったのも、邪魔されるのを恐れてかしらね」
「…………」
 違う。
 クレアは、万莉亜と同じくらい、梨佳を守ろうとしていた。巻き込むまいと躍起になっていた。 だけどそれは、言うべきじゃない。絶対に、伝えるべきではない。
「……そうよ。全部、万莉亜のため」
 努めて冷静にそう告げる。それでも、梨佳の表情は変わらなかった。 何の色も無い、水のような表情。そんな彼女を見ていると、ひどく苛立つ。何にでもない、その透明さと、儚さに。そして、 弱弱しさに。
 虚勢という鎧を脱いだ梨佳は、つつけば頭から崩れてしまいそうなほどに頼りない。

「……笑っちゃうけど、はじめてだったのよ」
「…………?」
「あんな風にクレアが、私と向き合って、……私の気持ちに、向き合って……」
「梨佳……」
「いつだって適当に交わしてたくせに、何でもするから忘れてくれって頭を下げて……すごく 不思議な感じだった。私の知ってるクレアは、私の気持ちになんて見向きもしないクレアなのに……」
「……」
「全然、似合ってない。馬鹿みたいだったわ……笑っちゃう……」
「もう、高みの見物はやめたってことでしょ。お父様も」
「どういうこと」
「傍観者ではいられなくなったって事よ。あの人が見下して無視してたものとか、長い間に 忘れてたものとか死んでたものとか、それら全部が、自身の問題として降りかかってきたから」
「……意味がわからないわ」
 そうね、と答えてハンリエットが静かに息を吐く。
 伝えるなと言われていたけれど、知らぬうちに残酷な優しさを発揮してしまう彼の事だ。 多分、言ってやるほうがずっと優しい。

「万莉亜は……マグナではなくなったってことよ」
「…………」
 梨佳の眉が一瞬だけ微かに動く。それでも、意味が分からないという風にして眉根を寄せる彼女に、 ハンリエットは淡々と告げた。
「二人は、今も一緒にいるわ」
「…………」
 意味を察した梨佳が、目を見開いたまま言葉を失った。
 彼女が長い年月と全精力をかけて挑んできた壁が、ついには乗り越えることは不可能なのだと 思い至った壁が、ふらりと現れた少女にいともたやすく崩されてしまう。
 マグナに恋をするだなんて、可能性を溝に捨てるような真似をするだなんて、あの人に限ってはありえないと信じて疑わなかった。 それが同時に、自分の可能性を否定することになったとしても、誰のものにもなりえないのなら、それでいいと 思っていた。

「……どう、して……」
 イスに座ったまま微動だにしない梨佳の瞳から、零れるように涙が溢れる。 そんなことには構いもせず、ただただ問題の解けない生徒のように答えを求めてくる梨佳の視線。 それから逃れるようにしてハンリエットが足元に視線を落とす。
「……心の本質なんて、中々見えないものよ。梨佳の瞳にお父様がどう映っていたかは知らないけど、 きっと、大きくずれていたんでしょうね」
「どういうことっ? 全然……っ分からない!」
「万莉亜は、ああ見えてものすごくタフな女性だもの。元来、ああいうのが好きなのかもよって話」
「…………は」
「だからぁ、タイプだったんじゃないの? 他に理由なんて無いじゃない」
「……タイ、プ」
 ゆるゆると梨佳の体から力が抜けていく。
 それを気の毒に思いながらも、気付かないふりをして腰に手を当て、今一度自分の言葉をハンリエットは反芻した。
 真実など、誰にも分からない。感情は理屈ではないけれど、気の遠くなるような年月を生きてきた父ならば、 その場の激情よりも深い打算が勝るのかもしれない。だから彼が、何を思って万莉亜を選んだのかなど、自分には分からない。
 だけど一つだけ、分かっていることがあるとすれば。

「相性の問題よ……」

 言ってやるほうが、ずっと優しい。



 入って来た時と同じように黙って梨佳の実家を出ると、ハンリエットは肩で深い息を吐き出した。
――……サイテー……
 嫌な役目だ。とても適任とは思えない。
 あんな女、死んで貰っても何ら構わないと思っていたけれど、無論、今もその気持ちに変わりは無いけれど、 こんな役目は最低だ。そう思って正面に立っている長身の男を睨みつける。
「死人に鞭打って来たわよ。ビシバシとね」
 そう言って嫌味を浴びせてやると、ルイスは悲しげに微笑んだ後、二階にある梨佳の部屋を見上げた。
 本来なら自分の仕事だったものを、どうしてもと頼み込んでハンリエットにこなして貰った。 情けない話だが、これで良かったと思う。これ以上物事を複雑にする必要は無い。
「……彼女は……立ち直れるでしょうか……」
 独り言のように呟くと、隣にいたハンリエットが肩をすくめる。 答えを求めていたわけではないから、ルイスはそのまま 二階にある出窓を覗いた後、黙ってやってきた方向へと歩き出した。 その背中を引き止めるようにして、ハンリエットが声を投げかける。
「行ったら良かったのに」
「……」
「……梨佳は、もうマグナじゃないのに」
「行きましょう」
「もうお父様のものじゃないんだから、行ったら良かったじゃない。ほっとけないって思うのなら、行って 慰めてやりなさいよ。あんたがあれに入れ込んでることくらい、お父様もとっくに気付いてるわ」
「…………」
 入れ込んでいる? それは違う。けれど……
「……元来、ああいう弱い女性は放っておけない性分なんです」
「だったら行ってやればって言ってるのよ」
 少し苛立ってきたハンリエットに向かって首を振る。
 これ以上、ことを複雑にする必要は無い。
 未来ある若い女性に、すでに死に絶えた自分が出来ることは少ない。 どこまでも傍観者でいようと決めたその誓いは、揺らがない。ただ今は、痛々しいほどの彼女の想いが果たされなかったことが、 少し悲しい。
 そうしなかったクレアに、それを横から手に入れた万莉亜に、思うところが無いわけではないが、 それもこれもすべて巡りあわせ。誰それが悪いと簡単に断罪できることではないのだろう。
 彼女はとても弱いけれど、そんな所がとても愛おしいけれど、いずれ巡りめぐって誰かと穏やかに笑える日が あの少女に訪れるならば、それでいい。
「行きましょう、ハンリエット」
 そう言ってルイスが歩きだす。
 ふと脳裏に、きつい目元をしたショートカットの梨佳の姿がよぎる。だがそれも、一瞬で消えてしまった。



******



――「ぶっ倒れそう」
 そう宣言した通り、万莉亜に関する記憶を筆頭に、その他の事後処理を捏造して回ったクレアは、 全てが一段落着くや否やベッドに倒れこんで丸二日寝込んだまま一度たりとも目を覚まさなかった。
 死んでしまったのかもと冷や冷やしていたのは万莉亜だけだったが、案の定二日後にはケロリとして 復活したクレアは、「これからどうするの」という全員の問いに「どうしたい?」と答えた。
 そして十二月の二十五日。
 誰もが明日の予定も分からないままに、「とりあえずクリスマスだから」という瑛士の勢いに押され、 各々命じられた準備をそつなくこなしていた。
 とりあえずはクリスマス。誰が泣いても、笑っても、そんなことは知らぬそぶりで街は浮かれている。 電飾で彩られ、軽快な曲が絶えず流され、何ら思い入れの無いキリストの降誕を理由にして騒ぐ幸せな一日。

「これください」
 そう言って迷うことなく指差した少女に、店員は微笑んだ。
 知識が無いから、何にしていいのか分からない。どんな花を包んだらいいのか、何が常識はずれなのか、 全く分からなかったから、的外れなものを選んでしまうよりはと思って迷わずに菊を選んだ。 祖母はいつも、もっと色とりどりの花を選んでいた気がするけれど、上手く思い出せない。
「きれい」
 お店を出ると、白い菊の花を抱えた万莉亜を見上げてシリルがそう呟く。
 両手には今にも破れそうなほどびっしりと食材がつまった薄いビニール袋を幾つも抱えていた。
「テーブルに飾るの?」
 その言葉に万莉亜は小さく笑う。
 幼い上に外国育ちの彼女だ。概念がからっきしないのは仕方の無いことだが、 クリスマスの食卓に菊の花が置かれている絵が頭に浮かんで、それがあまりにもシュールだったので吹き出してしまった。
「これは違うの。お供えするお花」
「……おそなえ?」
「うん、あ、来た来た!」
 短く答えながら、ちょうど通りすがったタクシーを止めてシリルと共に乗り込む。 行き先を告げている頃には、シリルも「おそなえ」の意味などどうでもよくなったらしく、 大人しく透明人間を始めていた。だから万莉亜も黙って流れる窓の外の景色に目をやる。
 どこを見ても幸せそうな人たちで溢れかえっていた。
 本当は、そうじゃないのかもしれない。辛くて辛くて、どうしようもない人がいるのかも知れない。 楽しいふりを、しているだけなのかも知れない。 それでも見える景色はただひたすらに陽気で、ひとかけらの悲しみすら見出すことが出来なかった。

 マンションのエントランスで全ての荷物をコンシェルジュに預けると、 万莉亜はそこで部屋に戻るシリルと別れ、一人待たせてあるタクシーに乗り込んだ。
 キッチンで鼻歌を歌いながらケーキを作っている瑛士や、ツリーの飾り付けをしているハンリエット、テーブルをセッティングしているルイスの気分を 害したくなかったから、墓参りに行くことは誰にも告げていない。こっそり行って、こっそり帰ってくるつもりだった。
「どちらへ?」
「……あの」
「はい」
「…………」
 喉にものが詰まったようにして黙りこくってしまった少女を、運転手は首をかしげて訝る。
 目的地の名前は分かっているのに、言葉を発するまでに随分と時間がかかってしまった。 万莉亜がどうにか言い終えると、やっとのことで車は発進する。
 もう戻れない。
 マンションから離れれば離れるほどに、そう思う気持ちが強くなった。 ジェットコースターが、ジリジリと頂点へ上るころに後悔し始める感覚。 何てことをしてしまったんだろうと万莉亜は唇をそっと噛んだ。
 それからたっぷり一時間かけて車はとある墓地へと到着する。
 片道だけの料金に万莉亜は飛び上がりそうになったが、乗り継ぎの無いタクシーは途中で逃げ出すことも出来ないから 結果的にはこれで良かったのだ。そう自分に言い聞かせて財布から数枚のお札を抜き出した。
――帰りは電車で帰ろう……
 待っていてくれと言う予定をさっさと変更してタクシーを帰し、万莉亜はぐるりと墓地を見回した。
 広い墓地ではなかったが、ここに来ることは滅多に無かったし、来るときはいつも祖母が隣にいたから、 中々墓石を見つけることが出来ずぐるぐると歩き回って視線をあちこちに投げる。
 やがて見つけた名塚の名前にほっと一安心してしゃがみ込み、それからぼんやりとそれを見上げた。
 特に何かを思うわけではなかった。自分でも驚くほど、何の感慨も浮かんでは来なかった。
 初めて一人でお墓参りをしようと決めた時、きっと自分は墓石を直視も出来ずに泣き崩れてしまうんだとか、やっぱり怖くて すぐに帰ってしまうんだろうなとか色々予想はしていたのに、実際はただぼんやりと墓石を見上げ、意外にやることが無いな、 などと間抜けな事を考えている。
「……あ」
 それから、線香を忘れたことに気が付いた。
 がっくりと肩を落とし、詰めの甘さをなじり、やっぱり祖母に色々聞いておくんだったと ひとしきり後悔した後、忘れたものはしょうがないと諦めて近くに用意されてあったたわしとバケツを手に墓石の 掃除を始める。父も母も一人っ子で、あまり親戚が多くなく、そのくせ縁まで薄い。 さらには唯一の祖母まで病に臥せってしまっているから、名塚家の墓石は閑散とし、そして汚れていた。
 真冬の空の下、セーターの上にコートを着込んだ万莉亜はじんわりと滲む汗を拭ってひたすらに 墓石を磨き続ける。そのうちに妙な愛着が生まれ始め、最後には「どの墓石よりも綺麗にしたい」と躍起になって 手を動かした。
「……ふー」
 一人息をつき、綺麗に掃除され花を飾られた我が家の墓を眺める。
 肝心の線香を忘れたのは大打撃だったが、今日のところはこんなものだろう。 満足げに微笑むと、着ていたコートを脱ぎ、まとわりつく熱を手でパタパタと仰ぎながら逃がし、さてどうしようかと考える。
――……こういう時って、何か、報告とかするんだよね
 手を合わせての近況報告。
 だけどここ最近のめまぐるしさは、まだ言葉で説明できるほど万莉亜自身消化できているわけでもなく、 何となく言葉を見つけられずにそこへ佇む。
 何を言ったらいいのかが分からない。
 そんなことよりは、今ここで、たった一言でいいから声を聞かせてほしい。
「……元気です」
 迷った挙句、ぽつりとそう呟いて万莉亜は俯いた。
 死んだ人間の魂がこの世に存在するのかどうかは分からないけれど、もうそうならば、 父や母が知りたいのはそこだろう。きっと、それ以外には無いはずだ。
 それから、幸せですと続けようとしたけれど、それは嘘になってしまうからやめた。 どうあったって、どう振舞っていたって、どう見えていたって、幸せであるはずが無い。それは彼らも、きっと知っている。
 寂しくて寂しくて、いつだって死んでしまいそうだった。
「…………」
 結局続ける言葉もなく、万莉亜はただ黙って墓の前にしゃがむ。 途中冷えてきたせいでもう一度コートを羽織るため立ち上がった以外、彼女はその場から微動だにせず、 墓石に彫られた文字を眺めつづけた。
「……よし」
 いい加減きりが無い。そう呟いて立ち上がると、心の中で「またね」と呟いてくるりと墓石に背中を向ける。 その時、墓地の入り口からこちらへやってくる人影を見つけて万莉亜は目を凝らした。
 本当は、目を凝らさなくても誰かは分かっていた。
 目もくらむようなあの派手な金髪を、そんじょそこらでふいに見かけることはそうそう無いだろうから、本当はすぐに分かったけれど、 なぜ彼がここにいるのかが分からずにパチパチと瞬きを繰り返す。彼は万莉亜を見つけつけると少し驚いたような 表情の後に軽く微笑んでこちらへ歩いてきた。
「奇遇だね」
 それからそう言って、、呆けている万莉亜をよそに膝をついて持っていた色とりどりの花をそっと供え始める。 それは祖母の用意する花の色合いによく似ていた。
「……クレアさん」
 万莉亜が呼ぶと、彼は手元へ落としていた視線を横に立つ万莉亜に向ける。
 日の光に照らされたバイオレットの瞳は色を無くし、水のようにどこまでも透き通っていた。
「な……あの、……何してるんですか」
「お墓参り」
 そう言って黒いコートのポケットから線香を取り出す。その瞬間、「ああ!」と万莉亜が声を上げた。 驚いたクレアが動きを止める。
「い、一本くださいっ……!」
 飛びつくようにしてコートの裾を握る少女に「まさか忘れたの」という言葉を飲み込み、 苦笑いしながら束の半分を渡す。それから持っていたライターで 火をつけていると、万莉亜がおずおずと口を開いた。
「……何、してるんですか?」
「これはね、お線香に火をつけてるんだよ」
「…………」
「冗談。ハナさんに頼まれたんだ。多分万莉亜は行かないから、 代わりに行ってやってくれませんかって」
「……おばあちゃんが?」
「うん。だから君がいるのを見て少し驚いたけど、まぁ来て良かったよ。だって……」
 まさか線香忘れたなんて、という言葉をもう一度飲み込む。
「何にせよ、赤の他人の僕より、君が来てくれた方がご両親だって嬉しいだろうし」
「…………」
「万莉亜」
「え……あ、ど、どうも」
 ぼんやりしていると、彼がライターの火を差し出していることに気付き、慌てて線香の先をそこへ向ける。 何十本もある束に全て火がつけられると、万莉亜はそれを手向けて手を合わせた。
――この人はクレアさんといって、怪しい人ではありません……
 赤の他人、という彼の言葉を思い出し、両親が混乱しないように心の中でささやいた。
――ちょっと変わってるけど、いい人です。おばあちゃんとも仲が良いです
 どこまで聞いたのだろう。
 祖母は、彼にどこまで喋ったのだろう。
 クレアが足しげく祖母の見舞いに通っていることは知っていた。正しくは見舞いにかこつけて、病院内の誰かがあの記事を読んで 余計なことを祖母の耳に入れることのないよう、厳しく監視を続けていた。それは万莉亜と一緒のときもあったし、彼一人のときもあった。 今までは考えたことも無かったが、二人は自分がいないとき、どんな話をしていたのだろうか。
「……どうしたいか、決めた?」
 ふと静かな声で問われて、閉じていた瞳を開けば、隣でこちらを見ているクレアと目が合って心臓が音を立てる。
「……いえ……あの……」
「うん」
「どうしたらいいのか……どれが一番良いのか分からなくて。本当は、死んだほうがいいんですよね」
 物騒な言い方を両親の墓石の前でしてしまい、「しまった」と咄嗟に感じたが、 他に言いようも無かったので万莉亜は訂正をしなかった。どう考えても、アンジェリアから身を守るためには このまま表面上は死んだほうがいいのだ。それでも、大々的に報道をさせなかったり、名前を伏せさせていたり、 中途半端に大勢の記憶をいじったりしているのは、万莉亜に選択の余地を与えるためなのだろう。
「何度も言うけど、一番好きな方法で構わないよ」
「……でも」
「危険だったとしても、例えあの作戦が無に帰したとしても、それはそれでいいと思うんだ」
「…………」
「君が今一番選びたい選択をしてくれたら、僕はその道で最善の策を取るよ」
「……本当に?」
「うん」
 そう言ってクレアが微笑む。
 彼はもうずっと、万莉亜が本当はどうしたいのかを知っていて、彼女が愛する人たちを捨てられないことも知っている。
「私……また、あの学園に戻りたいです。あそこで卒業したいんです」
 今は万莉亜のことを忘れている愛しい友人たちと、縁がこれきりなるのは、やはり寂しい。 七尾学園に戻ることは、ここまで裏工作をして自分は死んだのだとアンジェリアにアピールし続けた作戦を無駄にする可能性があるけれど、 それでも、好きなものを選べといわれたら、真っ先に浮かぶのはあの学園だった。
「分かった」
 頷いたクレアに、「本当に?」と何度も何度も訊ねる。
 そんな万莉亜に彼は笑って、しばらく考えた後、「春になったら」と答えた。
「……春?」
「本当はすぐにでも生き返らせてあげたいけど、春まで待とう。その間に、 彼らが学園に飽きてくれるのを願って」
「てことは……えーと……いち、にい……」
「ま、長い冬休みだと思って」
「春……」
 春になったら、またあの学園に戻ることが出来る。
 色々と不安に揺れてばかりの日々だったから、また蛍や摩央、そして千歳がいるあの学園で 楽しい学園生活を送れるのかと思うと、自然に頬が緩み、同時にやっと決まった身の振り方に肩の力が抜けてしまう。
 それからはたと気がついて彼のコートの裾を握る。
「ク、クレアさんたちも戻るんですよねっ?」
「うん」
「……良かった」
「人間の一生は短いから、出来るだけそばに居たいんだ」
 墓石を眺めてさらりと告げられた彼の言葉の意味が咄嗟に理解できず、つられるようにして 何となく万莉亜も目の前のそれを眺め、それから今の言葉を反芻する。
――ああ……そうか……
 流れる時間が、全然違うのだ。
 どちらがつらいのかは、まだ分からない。これから、知っていくのだろうか。
「…………」
 言葉を失って、隣で黙っているクレアの横顔を盗み見る。
 相変わらずの端正な顔立ちに目を取られ、この人をずっとこうやって見ていくのかと考えれば、 不思議と、そこに悲しみは湧いてこなかった。
 多分、いつか来る悲しみが、今ここで愛を向けないことの理由にはならないからだ。
「何か、不思議ですね」
「え?」
「人生って何がどうなるか、本当に予測もつかない」
「……うん」
「でも、私まだ……後悔してません」
 だからあなたも後悔しないでと本当は言いたかった。言えなかったから遠まわしに 伝えたのだけど、隣でニヤニヤと微笑む彼の意地悪な表情を見て、どうせお見通しなんだと知り赤くなる頬を俯くことで隠した。
 厄介な男性に惚れてしまった。だけどまだ、後悔には程遠い。
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