ヴァイオレット奇譚2

Chapter1◆「The Spring Rabbit―【1】」




 ――春。

 全寮制のとある私立女子学園、その中庭に今柔らかな風が通り過ぎ、 その後を追うようにして桜の花びらが舞い踊る。 さらにその下では、大きな桜の木を日よけにして、初々しい新入生たちがきゃあきゃあと騒ぎながら色とりどりの ランチボックスを広げ、ああでもないこうでもないとまだ慣れぬ新生活での話題で盛り上がっていた。

 そんな微笑ましい彼女らの様子を遠巻きに観察しながら、一人の女子学生がいっそ清々しいほどよく通る舌打ちをしてみせる。
「……ったくうざったい。昼飯くらい静かに食ったらどうなのっ!」
 中庭の隅にある長いすに腰かけてそう愚痴を零した下倉摩央。
 そんな彼女に、横に座っていた駒井蛍がしらけた視線を向ける。
「聞いた今の? 嫌な先輩の見本みたいだったね」
 蛍の言葉に、ベンチの正面にある段差に座っていた逢坂千歳がうんうん、と頷いた。
「そうそう。摩央はちょっと心が狭いよね。美人なのにもったいないよ」
「ちょっとかわいい新入生が多かったからって、そんなに目くじら立てなくてもねぇ」
「あんたたち! よってたかってやめてよね。これ以上ないくらい 心広いでしょあたし。下倉さんは美人なのに性格もさっぱりしてていいよねって大評判じゃない。知ってるでしょー」
 自分で言うなよ、と蛍がちょうど突っ込みを入れたところで、遠くから 缶ジュースを抱えて走ってきた少女が息を切らせて輪に混ざる。
「何の話!」
 笑顔全開の彼女から、ウーロン茶を受け取りながら蛍が肩をすくめた。
「摩央の心が狭いって話」
「そうなの? あ、はい摩央ちゃん炭酸。ちーちゃんオレンジ」
 てきぱきと飲み物を配りおえると、「よいしょ」と呟いて名塚万莉亜が千歳の横に腰を下ろした。
「ありがとう万莉亜」
 隣の千歳が微笑んで礼を述べると、万莉亜は首をブンブンと振って見せた。
「いいのいいの。ぱしりならまかせて!」
「……?」
 妙にはりきっている彼女に千歳が首を傾げる。
「気にしちゃだめだよ逢坂さん。そいつはそいつで昨日から壊れてるんだから」
 後ろからそう蛍が千歳に声をかける。
 千歳が、ますます首を深く傾げた。
「何、万莉亜どうかしたの?」
 隣の摩央も口を挟みだし、蛍が呆れたように皆に語って聞かせる。
「いや知らないけどさ、昨日の始業式からずーっとテンション高いの。それから やたらベタベタしてきてうざいし。昨日の夜なんて、あの狭いベッドで二人で寝たんだよ。 嫌だって言ったのにどかないし。一晩中喋ろうとか言い出して、修学旅行かっつーの」
「ひどい。私は少しでも蛍の傍に居たかっただけなのに」
「……さんざん一緒にいるでしょうが。これ以上どう一緒にいりゃいいのよ」
「…………」
 しゅん、と落ち込んだ万莉亜を千歳も摩央も何か訝るような視線で 眺める。両者とも、今日はやたらめったらべたべたと甘え、進んで小間使いを申し出る 万莉亜をずっと不思議に思っていた。
「……友達って素敵だよね。私、今本当にそれを実感してるんだ」
 刺すような視線の中、焦点の合わない瞳で熱に浮かされたように語り出した万莉亜を見て、 確かに壊れている、と摩央が呟く。
「どうせくだらない映画にでも感化でもされたんじゃない?」
 しかしサンドイッチを口に放り込みながら言われた蛍の言葉に、摩央も千歳も「なるほど」と 納得してしまう。なにか暑苦しい友情物でも見たのかもしれない。
「ま、まぁ、悪いことではないよね」
 言われっぱなしの万莉亜をフォローするため千歳が乾いた笑いを零すと、 隣からやけに熱い眼差しを感じて笑顔も引きつる。
「ちーちゃん……ちーちゃんて、本当に優しいよね……私、幸せものだよ」
「あ、ありが、ありがとう……」
 がしっと両手を握り顔を近づけてくる万莉亜に、どうにも重症だと 千歳が持ち上げた頬をひくつかせる。その時、愛読書に登場するあるキャラクターが脳裏をよぎり、 とりあえず近づきすぎた顔を離して欲しくて、脈絡もなく浮かんだ言葉を投げる。
「ね、ねぇ万莉亜、三月ウサギって知ってる?」
「……え、知らない」
 呆けた彼女が油断した瞬間掴まれた両手を取り戻し、千歳がこほん、と咳払いをした。
「不思議の国のアリスのキャラクターなんだけど、なんていうか、"いっちゃったキャラ"っていうか」
「へぇ……」
「もともとは慣用句から来てるんだけど」
「へぇ」
「まぁ、それだけなんだけど……」
「へぇ……」
 反応の鈍い万莉亜にしびれを切らし、舌打ちと共に摩央の声が割ってはいる。
「つまりー、春になるとおかしな人が増えるわね、っていう千歳なりの嫌味なのよ。鈍いわね!」
「あ、なるほど……えっ!」
 ショックで口をあけたままこちらを見つめる万莉亜に千歳が慌てて首を振る。
「ち、違うよ! 何となく頭に浮かんだだけで!」
「つまりー、無意識に連想してしまうほど万莉亜が壊れてるってことよ」
「もう! 摩央は黙ってて。違うよ万莉亜、万莉亜はウサギみたいに可愛いねって言いたかったの!」
 いやそれ苦しいよ、と蛍が小さく突っ込めば、千歳はさらにむきになって否定する。

 柔らかな風が通り過ぎる中庭の隅でぎゃあぎゃあと声を上げる彼女らは、はしゃぐ新入生の声などいとも簡単に掻き消し、 その場にいるどの生徒の固まりよりも悪目立ちしていた。



******



 新学期。
 学年が変わるのと同時に大規模な寮内引越しを行った生徒たちは、 まだ部屋も片付かぬうちに授業や部活、アルバイトなどで慌ただしい生活を余儀なくされる。
 男性は問答無用で立ち入り禁止の閉ざされた部屋で暮らす彼女らは、その内積み上げたダンボールをタンス代わりに使い始め、 使われないパイプベッドを洗濯物置き場に再利用し続け、 やがて気付けば一年が終わっていた、などというパターンに陥りがちだ。
 あどけない新入生はまだそれに気付かず「いつか休みの日に片付けよう」と高をくくっているが、 嫌というほど思い知っている三年生はそうはいかない。
 引越しを終えてからの数日間が勝負なのだ。
 そこで一大奮起し、行われる大掃除こそが、この一年の部屋のレイアウトを決定する。

「万莉亜、私の目覚まし知らない?」
 ベッドの前でダンボールを開きながら蛍が問えば、トイレ掃除をしていた万莉亜が 顔を覗かせて自分のダンボールを掃除用のブラシで指す。
「ああ、こっちにあったんだ。まったく、ごちゃごちゃで何が何だか……」
 万莉亜の荷物から自分の目覚まし時計を取り出して蛍がベッド脇にセットする。
 一年生の頃の手痛い経験から、今年も去年同様、さっさと片付けてしまおうと 決心した二人は、夕食も抜きにして手際よく新しい部屋の整理を進めていた。
 初めこそおもちゃ箱をひっくり返したような惨状ではあったが、 根気よく一つ一つ片付けていくことで、とりあえずは人が通れるスペースと寝る場所だけは確保できた。
 トイレや風呂、簡易キッチンなど、主に水回りの掃除を担当していた万莉亜が 満足気な表情で額の汗を拭いながら小休止している蛍の元へ戻ってくる。
「終わった?」
「ばっちり。トイレもわりと綺麗に使ってたみたいだよ」
「良かった。去年は最悪だったからね」
「ねー」
 テーブルの向かいに万莉亜が座ると、蛍は先ほどコンビニで買った パスタを温めるために席を立つ。食べるでしょ? という無言の視線に頷き、 レンジの前に立つ蛍の背中を眺めた。
――……やっぱり落ち着くなぁ
 彼女とこうやって過ごすのは実に四ヶ月ぶりだ。
 もちろん、蛍は知らないし、誰も真実を知らない。みな、 冬の間万莉亜の存在を忘れていたのだから当然なのだけど、 その間の万莉亜の寂しさといったら、想像をはるかに上回るもので、記憶を消したのはこちらなのに、 まるで見捨てられたような気分になった。 特に蛍に忘れられるのは辛い。
 父が死に、母が死に、祖母が入院してしまい、それから放り込まれるようにして 来たこの学園で出会ったルームメイトは、その彼女と過ごす部屋は、万莉亜にとっても う一つの故郷とも言える。
「蛍……私たち、一生友達だよね」
「気持ち悪い!」
 しかし悲しいかな、事情を知らぬ蛍は不気味がる一方で、万莉亜の過剰な愛情表現は、 昨日から空回りし続けている。
「今度気持ち悪いこと言ったら部屋から追い出すからね」
「……はい」
 湯気を立てるきのこのパスタを受け取りながら、がっくりと肩を落として万莉亜が頷いた。
――思っても声に出さないようにしよう……
 そう心で反省してテレビのリモコンに手を伸ばす。
「何かやってるかなぁ」
「もう11時回ってるし、何もやってないんじゃない」
「……うーん」
 呟きながらザッピングを続けていると、ふいに蛍が声を上げる。
「あんた、点呼行ったの?」
 ボタンを無造作に押していた万莉亜の指が動きを止めた。
「……まさか忘れてたの?」
「やばいっ!」
 テーブルを引っくり返しそうな勢いで立ち上がり、 ベッドに置いてあった白いカーディガンを羽織る。
「行かなきゃ! あ、それフタしといて!!」
「はいはい」
 うんざりしながらパスタの容器にフタをしてうっかり者のルームメイトに 蛍が手を振った。

 階段を二段飛ばしで駆け下りながらまずは一階にある一年生のフロアに向かう。
 三年に進級し、これで名実共に胸を張って寮長を名乗ることが出来るというのに、 掃除にかまけてさっそくつまらない失態をしてしまった。一時間の大遅刻だ。
――「一時間オーバーですけど、言い訳は聞きませんから」
 ふと、きつい口調が脳裏によみがえる。それから、あの厳しい瞳。短い髪。
 そこまで思い出して、万莉亜が頭を横に振った。痛む胸にも、無視を決め込む。
 彼女のように立派で威厳ある寮長にはなれないかもしれないけど、せめて、 後を継いだからには精一杯務めなければならない。
――しっかりしなきゃ……!
 久しぶりの友人との再会に浸っている場合じゃない。新しい生活はすでに始まっているのだ。

「なんか用ー?」
 最初にたどり着いた部屋で、下級生がカップラーメンをすすりながら万莉亜を迎える。
 ああ、どの部屋も食べているものは変わらないのね、と苦笑しながら「点呼」ですと 告げると、下級生は慌てて割り箸を口から引っこ抜き、「すみません」と頭を下げた。
「同級生かと思って……」
 へへ、と笑う彼女を見て、万莉亜もへらっと笑う。
「しょうがないよ。私服だもんね」
「ていうか、何か雰囲気で」
 わざわざ言ってくれなくてもいいのに、内心がっかりして万莉亜が笑顔を引きつらせた。 それでも、気を取り直して咳払いをする。最初が肝心だ。
「えーと、二人とも居ますよね?」
 そう尋ねて玄関から室内をのぞき見る。
「いやぁー、今一人外出中で」
「が、外出!? ど、どこに?」
「さぁ。彼氏んちじゃないですかぁ」
「そ、そんなぁ……」
「ま、そのうち帰ってきますよ」
「それじゃ困ります……どうしよう……携帯とか、連絡出来ないですか?」
「電源切ってるんじゃないかなぁ」
「……そんな」
 泣きそうな表情の万莉亜の肩を叩いて下級生が微笑む。
「大丈夫ですよ先輩。朝になれば帰ってくるって」
「そんなぁ……」
 結局携帯にかけてもらうことも叶わずにすごすごと部屋を後にする。
 その後も、やはり私用で部屋を空けているものや、何なら二人して不在の部屋や、 あまつさえ彼氏を引き込んでいる部屋や、とにかく問題が続出し、 万莉亜は意気消沈して一年生の最後の部屋をノックする。最早「一人でも居たらラッキー」だと 感じるほどに疲れきっていた。

「はい。あ……」
 ノックの後、一人の少女が部屋から顔を出し、万莉亜の姿を見ると少し困惑したように 目を泳がせる。
「寮長の名塚です。点呼なんですけど、二人とも居ますか?」
「あ、あの……」
 その歯切れの悪い返事に、ここもか、と万莉亜が内心ため息を零すと、 少女が思い切ったようにして顔を上げる。
「実は、帰ってこないんです……」
「……え?」
 告げられた言葉に、万莉亜が首を傾げる。
「友達、何か変なこと言ったまま、帰ってこないんです」
「…………」
「携帯も置いて行っちゃったし、すぐ帰るって言ってたのに……」
「あ、あの……変な言葉って?」
 そう尋ねると、彼女はまるでとんでもない秘密を暴露するかのように、 声を潜め万莉亜にそっと耳打ちをする。
「新校舎で、へんな仕掛けを見つけたって」
「……」
「怪しいから探るって言ったまま、帰ってこないんです」

 結局万莉亜は、初日から新入生に舐められたまますごすごとそのフロアを立ち去り、 前寮長によく躾けられた二年生と三年生の点呼をスムーズに終えて、懐中電灯片手にそっと寮を抜け出した。
――大丈夫かなぁ……
 最後に訪ねた新入生の部屋がどうしても気になる。
 こんな暗闇の中学園内をうろついて、一体何をしているのか。 それに友達のあの意味深な発言。
「守屋さん、守屋さーん」
 少し張った声で呼びかけながら中庭を歩いていると、ふと背後に気配を感じて万莉亜が振り返る。
「……なんだ」
 それから、安堵のため息を零した。
「万莉亜、何してるの?」
 きょとんと首を傾げたシリルが、懐中電灯に照らされて浮かび上がる。
「人探ししてるの。シリルこそ、何してるの?」
「遊んでるの」
 そう言って持っていた棒切れをかかげてみせる。
 よく見ると地面には、シリルが描いたと思われる奇怪な模様があちこちに見えた。
「……これ何?」
「これがシカ。あれがカラス。それがトカゲ」
 どう見てもおかしな魔法陣にしか見えない。シリルが母国語でわざわざ説明を書き足しているのか、 それがまた不気味な絵柄をより不気味に演出している。
「……上手に描けたね」
「うん!」
 夜な夜な浮かび上がる不気味な魔方陣として学園の七不思議にならないことを祈りつつ、 万莉亜はシリルを連れて新校舎へ向かう。
「万莉亜、あっち」
 玄関に向かおうとしていた万莉亜の手を引き、シリルが校舎の裏手を指差して告げる。
「誰かいるよ」
「え……」
 薄暗い校舎の裏を見て、万莉亜が怖気づく。
 何せ女子高の全寮制、女の園だ。実際に被害にあったことは無いが、教師たちは口を揃えて 不審者、主に痴漢の類を目の敵にしている。そんな意識は生徒にも伝染し、 施設内で見慣れぬ男を見たら痴漢か盗撮魔と思え、というおかしな風習が根付いていた。
 もちろん万莉亜も例に漏れず、真っ先に頭に浮かんだのは荒い息の怪しい男であり、そんな想像が 彼女に二の足を踏ませる。
「見てきてあげようか?」
「だ、だめよ、危ないから、一緒に行こう」
 勇敢に申し出る少女に慌てて首を振る。
 枝という特殊な生き物のシリルの姿は、普通の人間には映らないにも関わらず、 すっかり動揺している万莉亜は飛び出そうとする幼い少女を背中に押し込んで自ら一歩を踏み出す。
 それから恐る恐ると歩を進めると、ちょうど裏手にある理事長室直通の螺旋階段の前で 人影を見つけた。思い切ってそこに懐中電灯を向ける。
「……きゃあっ!」
 一気に光に照らされ、驚いたその人物が声を上げた。
「……だ、誰? ここの生徒ですか?」
 万莉亜が咄嗟にそう訪ねると、懐中電灯を向けられた少女がコクコクと頷いて見せた。
 ふわふわとした髪を耳の後ろで二つにくくり、どこぞのアイドルのように大きな瞳を 見開いている少女。とにかく「可愛い」というのが第一印象だ。万莉亜もぽかんと口を開けて 可憐な少女に見入る。
「……あ、あの……」
 恐る恐る発せられた声に我に返って、万莉亜は彼女に近寄った。
「もしかして……も、もりや……守屋詩織さん?」
「……はい」
 蚊の鳴くような声で返事をされて、なぜか胸が痛む。 万莉亜の突然の登場は、よほど彼女を驚かせ、そして怯えさせてしまったに違いない。 こんな薄暗い校舎裏で、突然ライトを向けられたら、誰だって心臓が飛び跳ねる。
「あの、私三年の名塚といいます。その……はじめまして」
 その場で挨拶をし、頭を下げると、詩織もつられるようにして頭を下げる。
「い、一年の、守屋詩織です。は、はじめまして」
「あ、こちらこそ」
「い、いえ、こちらこそ」
「…………」
「…………」
 散々二人で頭を下げあった後、奇妙な沈黙が訪れる。
――何か言わなきゃ……
 先輩として、まず最初に口火を切らなければならないが、怯えている彼女に どうアプローチしていいのかが分からない。出来るだけ優しい言葉を万莉亜は必死に模索する。
「えーと、えー……さ、散歩してたの?」
「え……」
 ヘラヘラと微笑んで素っ頓狂な質問を飛ばしてきた先輩に、詩織が少しだけ体の力を抜いて 困ったような表情を見せる。
「き、奇遇だね! 私も散歩してたの」
 月が綺麗だし、と付け加えた万莉亜に、詩織がますます怪訝な表情になる。どっぷりと 雲に浸かっている月を見上げて、それを指摘するのは失礼だろうかと彼女もヘラヘラと微笑んで内心の 困惑をカバーした。まるで腹の探り合いだが、当人同士はそれに気付いていない。
「いやほんと、ごめんね……突然現れて」
 そのうち、万莉亜が再度謝罪すると、詩織は微笑んで首を振った。
――優しい人だ……
 先輩というだけで随分と身構えていた詩織も、やがて万莉亜の気遣いに気付き、 それならばと事情を説明し始める。
 ルームメイトいわく、この学園は上下関係が厳しいらしい。が、万莉亜を見る限りでは あまりギスギスしたものを感じない。お互い私服のせいだろうか。
「……綺麗だなぁと思って、ずっと見てたんです。そしたらこんな時間に。ごめんなさい」
「へ? 月が?」
 なおも月にこだわる万莉亜に「違いますよ」と否定して、目の前のものを指差す。
「この階段です。入学式のときに見つけて、校舎とミスマッチな所が気に入ってたんです 。非常階段かなと思ったけど、そのわりには頼りない作りだし」
「……あ」
「この階段、五階まで伸びているんです。 一、二、三、……ほらね。やっぱり五階まである」
「……」
「私気付いたんです。今日始めて新校舎で授業があったんですけど、 この校舎に五階なんてないんですよ。四階で終わりなんです。何回も確認したけど どこにも五階なんてないんですよ。おかしいと思いませんか?」
「…………」
「だから、この階段を上ろうと思ったんですけど、でもさすがに怒られるかなと思って迷ってたんです」
 そう言って微笑む詩織に、半分混乱したまま万莉亜が頷く。
 今彼女が指差した螺旋階段。
 彼女には、この階段が見えている?
 ということは。まさか。そんな馬鹿な。
「……先輩の、妹さんですか?」
 絶句している万莉亜に詩織が訪ねると、隣に立っていた シリルが目を丸くして硬直した。
「……そう」
 自然に零れた言葉に、「へぇ」と相手が意外そうな声を漏らす。
「じゃあ先輩のご両親は、外国の方?」
 赤い髪と褐色の肌をしたシリルと、黒目黒髪の純日本人である万莉亜を見比べて、 首をかしげながら訪ねた後、言いよどんでいる相手の様子を見て詩織は質問を撤回した。
「ご、ごめんなさい。ずうずうしいこと聞きました。 ほんとにごめんなさい。私、失礼します」
 立ち入ったことを聞いてしまったと後悔したのか、彼女は慌てた様子で 万莉亜とシリルの前から走り去る。
 それを横目で追う余裕も無く、万莉亜とシリルはその場に呆然と立ち尽くし、 やがてどちらともなく目を合わせると、二人は大慌てで目の前にある 螺旋階段を駆け上がった。



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