ヴァイオレット奇譚2

Chapter1◆「The Spring Rabbit―【2】」




 嵐のように理事長室へ飛び込んできた二人を迎えたのは、 そこにいるはずのボスではなくその従者だった。あくまでポーカーフェイスを 崩さない彼は、もつれた言葉で事情を説明する万莉亜を「まぁまぁ」となだめて テーブルに誘う。
 万莉亜には紅茶とクッキーを、シリルには駄菓子の綿飴を一袋ドンと皿の上に 差し出して、それから自らも席に着き、ルイスは自分のために入れた日本茶をすする。
 食を必要としない枝ではあるが、嗜好品としてなら受け入れる余地は十分にあるようで、 シリルはマイブームである綿飴の触感を楽しみ、ルイスは日本茶をすする英国育ちの自分に酔う。
「……やはり、お茶は静岡産に限る。この茶葉は万莉亜さんに教えていただいた ホームページで通販したのですが、あそこは当たりですよ。質がいいし、何より送料が安い。 さらには千円以上で番茶がサービスされるのです。実に良心的でしたので、この間も新茶の予約を」
 世間話をはじめだしたマイペースの彼を遮って万莉亜が身を乗り出す。
「ルイスさん! 私の話聞いてましたっ?」
「ああ、そうでしたそうでした」
「一体どういうことなんですか? どうして守屋さんは階段を、それにシリルまで 見えるなんて」
 困惑しながら訪ねる少女に、ルイスは湯飲みを置いて組んだ手のひらをテーブルに乗せる。
「守屋詩織の存在については、すでに気付いていました」
 静かに語りだした彼の言葉に、万莉亜が絶句する。
「彼女は入学式の日から裏の螺旋階段を見つけ、そしてここの存在を怪しんでいた」
「……と、ということは」
「マグナでしょうね。いやぁ、笑ってしまいました。大海の一針のはずが、 けっこうな打率ですよ。やはり女子高で正解だったとクレアも笑って、いや、あれは苦笑いかな」
「…………」
「ですが、何がどうなるわけでもありません。万莉亜さん、私たちはもう、 マグナを探しているわけではないのですから」
 声にならない不安が顔に出ている万莉亜をフォローするように優しい声色でルイスは諭す。
 実際、クレアが望まないのなら、マグナには何の価値も無い。むしろ、 惑わしが効かないやっかいな生徒といえる。

「楽しそうだね」
 いつの間にか音もなく部屋の入り口に現れたブロンドの青年が、テーブルを囲む 面々に向かってコートを脱ぎながら声をかける。
「クレア、お帰りなさい」
 立ち上がり、彼からコートを預かると、ルイスは いつものように手際よくコーヒーを入れはじめる。その脇を抜けて クレアは万莉亜に近寄り、腰を屈めて座っている彼女の頬にキスをする。
「ただいま」
「……お、おかえりなさい」
 彼が戸口に立っているのに気付いたときから、こうなる事は分かっていたので、 万莉亜はすでに血管が浮き出るほど強く拳を握り締め、しっかりと挨拶できるように 心の中で二回復唱していた。
 おかげで、今日は声が裏返ることなく、まともに言葉を返すことが出来き、 ほっと胸を撫で下ろす。クレアも、珍しく淡々と返してきた万莉亜に少しだけ 意外そうな表情を見せた。
「今日は裏返らないんだね」
「……も、もう慣れましたよ」
「残念。あれを聞くのが好きだったのに」
 そう言ってニッと笑う彼に、真っ赤な顔をした万莉亜が悔しそうな視線を向ける。
 少し捻くれ者で、恐ろしく顔の整ったこの男を、昨年運命の悪戯で手に入れてしまった。
 その攻撃的な美しさは出来るなら籠に閉じ込め遠目で鑑賞していたい類のものだが、 手に入れてしまった彼女にはそれが叶わない。
 遠目どころか、隙あらばスキンシップを重ねてくる相手に、 今はもう平然とやりすごすフリをするくらいしか手段が無い。
 しかし長いこと続けていたせいで、それもだいぶ上手になってきた。
 心構えさえ事前に出来れば、今日のようにキス一つ受け流すことなど容易いとさえ言える。 なにせ以前は、いちいち体ごと飛び跳ねて後ずさっていたのだから、これは快挙だ。
 人はそれを慣れと呼ぶが、万莉亜は演技力の向上だと信じて疑わない。

「ま、喜ばしいことだよね」
 緊張で若干強張っている万莉亜の肩から置いていた手のひらを離すと、 クレアはその隣に腰掛けて差し出されたコーヒーのカップに口をつける。
 その動作を横目で追いながら、じっと心の中でルイスが先ほどの話題を 出してくれることを期待していたのだが、そのうち彼らが世間話を 始めたことにがっくりと肩を落とす。
――やっぱり、どうでもいいことなのかなぁ……
 新しいマグナの素質を持った少女が現れたというのに、 彼らのこの気楽さはどうだろう。
 万莉亜にとっては、天地がひっくり返るほどに重大な新事実だったわけだが。
「この件に関しては、この国の隠蔽体質がいい結果をもたらしましたね」
「どうだろう。やぶ蛇って気がするよ」
「キャッチコピーを読みました? 良識ある大人が見たら鼻で笑いそうな代物でしたよ」
「ああ……あれはひどかったな。誰が考えたんだろう」
 テーブルの上に置かれっぱなしになっていた本日の朝刊。何とはなしにそれを眺めながら 実につまらなそうな口調で会話をする二人を万莉亜が物言いたげな視線で見つめる。
――何? 政治の話? そんなことより、……もっと話すことあるでしょ……ほら……
 クッキーを咥えながら、ジリジリと二人を睨みつける少女の強い視線に気付いたクレアが 会話を止めて隣の彼女に顔を向けた。
「……どうしたの」
「え」
 不思議そうに首を傾げる彼に、万莉亜はしばらくためらった後、思い切って訊ねてみようと口を開く。 いくら待っていても、自分が切り出さないことにはどうにもならないらしい。
「あの、も、守屋さんのことなんですけど……」
「モリヤ?」
「はい」
 クレアは眉根を寄せて記憶を巡らせた後、正面に立っているルイスを見上げる。
「誰だっけ」
「守屋詩織さんです」
「……?」
 どうやら本気で見当もつかないらしい彼に業を煮やして万莉亜が「マグナの」と口を挟めば、 それでやっと思い至ったらしく「あー」と間抜けな声を上げた。
「そうか。そういえば名前を知らなかった」
 気の抜けるコメントに万莉亜がゆるゆると脱力をはじめる。
――……本当に、どうでもいいの……? 信じられない……
 ほんの少し前までは、その存在を何よりも重宝がっていた彼らなのに、 この変わり身の早さは何なのだろう。僅かでも、動揺したりしないのだろうか。
「何か問題でもあった?」
 なおも不思議そうな表情でルイスに訊ねるクレアを見て、疑問が確信に変わる。
「特にはありません。相変わらず階段を不思議がっているくらいですかね」
「上がってこないといいけどなぁ」
「その時はその時で、どうにでも説明は立ちますよ」
 あくまで楽観的な態度を貫くルイスに、万莉亜はどうにも腑に落ちないものを抱えたまま、 中途半端に開いていた口へかじりかけのクッキーを押し込んだ。
 動じない彼らを見ていると、慌てている自分が馬鹿らしくなってくる。
――……まぁ、いいか
 本人たちがそう言っているのだから、外野がぎゃあぎゃあと騒ぎ立ててもしょうがない。
「あ、電話」
 ほっと一安心してお茶を楽しんでいると、カーディガンのポケットで携帯電話が 振動し始める。万莉亜が慌てて通話ボタンを押せば、呆れ返ったような蛍の声が聞こえていた。
『パスタ腐るよ』
「あ! ご、ごめん。すぐ帰るっ」
 言いながら音を立ててその場から立ち上がり、手に持っていたクッキーを頬張ると、残りの紅茶で 胃に流し込んだ。
「送っていくよ」
 彼女が豪快に紅茶を飲み干し終えたのと丁度同じタイミングでクレアが立ち上がる。
 毎度のことだったので、万莉亜も特に断ることはせず、その場にいたルイスとシリルに挨拶をして 新校舎五階を後にした。

「だから今日はずっと蛍と大掃除してたんですよ」
「あれ。部屋は変わったのにルームメイトは変わらないの?」
「部屋割りもルームメイトも基本的には希望制なんです。 希望した部屋を選んで、たまたま一緒になった人たちがルームメイトになることもあるし、 仲良い人同士が空いてる部屋を選ぶのもありなんです。変わってますよね。ただ毎年これと言った揉め事もないし、結構あっさり 決まるんですよ」
「へー。一番揉めそうな方法なのに」
「そうなんですよね。でも本当にパパっと決まっちゃうんですよ」
「さすがうちの生徒だ」
「……クレアさんがそういうこと言うと、すごい違和感がありますね」
「そう?」
「そうですよ」
 万莉亜の言葉をクレアは笑って流すと、再び彼女の手を引いて階段を下る。 万莉亜はそれを恥じらいながら受け入れて、それからまだまだ喋り足りない取り戻した学園生活の興奮を 伝えようと世話しなく口を動かした。
「摩央とちーちゃんもまた同じ部屋なんです。それに今年は 蛍とちーちゃんとクラスが一緒なんですよ。摩央だけ離れちゃったから、 それさえなければ完璧だったんですけど」
「言ってくれれば同じクラスにしてあげたのに」
「でもこういうのって、ちょっとした運試しみたいなものだから」
「なるほど」
「それに今度四人で買い物にいくんですよ。四人で出かけるのって初めてだから 楽しみだな。摩央がこういうのに参加するのって、すごく珍しいんですよ」
 はしゃぐ万莉亜をクレアは目を細めて眺める。

 冬の間、慣れ親しんだこの地を離れ、他県のマンションに身を潜め続けていた 彼女は今、咲き誇る満開の桜にも負けない活気を取り戻していた。
 もちろん、ルイスやハンリエット、そしてシリル。仲の良い枝たちと 第四世代の瑛士に囲まれ、それなりに楽しく過ごしていたのだとは思うが、 時折ふと窓の外を眺めては、寂しそうな表情をする万莉亜を見て、早く冬が終わればいいのにと 願った。「春までは」と言い出した自分が、そんなことを願うのもおかしな話だが、 そのくらい彼女はこの学園を恋しがっていた。
 ここへ戻るということは、それなりのリスクを背負わなければならない。
 だけど今、そんなリスクでは覆らないほどの強い確信がある。 やはり、自分は正しい選択をしたのだ。彼女が笑えば笑うほど、はしゃげばはしゃぐほどに、 その思いは強さを増し、最早正否など、彼女に笑顔をもたらさない正しさなどに何の意味も価値も感じられない。
 我ながら、珍しく感情に任せた決断だったと思う。
――「学園に戻る」
 そう告げたときのルイスの表情が忘れられない。
 愚かな選択をするボスに、彼は一瞬だけぴくりと頬を引きつらせ、それからおかしな笑顔を ひねり出した。その表情にクレアも苦笑した。当然のリアクションだ。死に急ぐような決断だ。 文句があるなら、口に出してくれたらよかったのに。血迷ったのかと罵ってくれたのなら良かったのに、 従順な彼は一切の文句を飲み込んだ。きっと、気でも狂ったと思われたに違いない。英断をしたと、悦に入っているのは、 おそらく自分だけだ。それでもいい。

「クレアさん?」
 きょとんとした大きな黒い瞳がクレアを覗き込む。
 ぼんやりとしていた彼が「ごめん」と微笑んで話の続きを促したその時、 ふと気配を感じて階下に視線を向ける。
「お土産ですよ。何がい、ぐっ……!?」
 突然口を手で覆われて万莉亜が舌を噛んだ。
 新校舎二階に階段の踊り場で二人は立ち止まり、クレアが声を潜めて告げる。
「誰かいる。誰だろう」
「……っ?」
 噛んだ舌の痛みに涙を浮かべながら万莉亜も耳を澄ませた。確かに、かすかな 足音が聞こえる。それは徐々に音を増して、こちらに近づく。
 こういうことは、実は以前にもあった。二人でこんな風に寮に向かう途中で 誰かと遭遇する。それでも、なんと言っても万莉亜の横にいる彼はおかしな術で意のままに人間を操るモンスターだ。
 だからこういう場面で万莉亜が焦るとすれば、男子禁制の花園で男と手を繋ぐ自分を生徒や教師に 目撃されることへの危惧ではなく、彼がまたその力で誰かの目を操ってしまうのではないかということ。
 あまり褒められたことではないから、出来るだけ使わないで欲しいという自分の願いを、彼は 時々あっさりと無視する。うっとりするような笑顔で「分かったよ」と頷きながら無視するのだ。
「に、逃げましょう」
 こちらへ近づく罪の無い存在におかしな術をかけさせまいと万莉亜がクレアの手を強く引く。
 しかし、おそらくは心の何処かに、「どうせ無理なのだろう」という諦めがあったに違いない。 今回も彼は近寄る相手に術を施して、自分と万莉亜の姿を相手の視界から消し去りやりすごすに違いない。 はたまた記憶を改ざんするのかもしれない。そんな風に諦めていた。
 だから手を引いたとき、ある程度の反発があることを無意識のうちに想定していたのだ。 しかし今回は無かった。抵抗無く、クレアは引かれるがままにくるりと身を翻す。
 予想だにしない相手のアクションに、抵抗を予想していた万莉亜の体が勢いあまってつんのめる。 倒れながら彼女は奇声を上げて、驚いたクレアが間一髪の所でその体を掴んだ。
「……大丈夫?」
 危うく階段の角に顔面を打ち付けそうになった彼女は、どうにか膝を打つだけに留まった事態に 安堵しながら頷き、体ごと抱き起こされる。
「そそっかしいなぁ」
「だ、だってクレアさんがついてくるからっ……」
 的外れな文句に相手が首を傾げる。
「……何でもないです。ごめんなさい。ありがとうございました」
「あれ? 口から血が……舌を切った?」
「こ、こっちは絶対クレアさんのせいですからねっ!」
「え?」
 先ほど彼女の口を強引に手のひらで塞いだことも忘れ、彼が再び首を傾げた時、 二人の背後から弱々しい声が上がった。万莉亜の肩がびくりと震える。
「……名塚先輩?」
 潤んだ瞳をかすかに揺らしながら少女が万莉亜の名前を呼ぶ。
 呼ばれた万莉亜も、鸚鵡返しのようにつられて相手の名を呼んだ。
「……も、守屋さん」
 二人の少女は呆然としながら互いを見つめあい、それからはっと我に返ったように 視線をクレアに向ける。詩織は一瞬驚いたように目を見開き、それから恐る恐る口を開く。
「……は、ハロー」
 その第一声にずっこけそうになった万莉亜だが、よくよく考えてみれば当然の反応だ。 どこからどう見ても、彼が遠い海から渡って来た存在なのは一目瞭然。疑いの余地も無い。
「こ、こんばんは守屋さん! また会っちゃったね」
 呆けている場合ではないと焦った万莉亜は、彼の姿を隠すようにして身を乗り出し、「あはは」とわざとらしい笑い声を上げる。
 しかしもちろんそんな笑いで有耶無耶に出来るはずも無く、詩織の視線が事態の説明を求めている。 万莉亜はため息を零して、その間に稼いだ時間でこれからでっちあげる話をまとめ上げた。
「実は、彼は……」
「ご家族の方ですか?」
 すかさず投げられた言葉に目をぱちくりさせて相手を見る。一体どこからそんな考えが 出てくるのだろうと驚いた後で、先ほどの出来事を思い出した。
――……あ、そっか
 シリルが妹だと咄嗟についてしまった嘘が、おそらく尾を引いているのだ。
「そ、そうなの……実は……と、遠い親戚」
 罪悪感を感じながら嘘に嘘を重ねる。こうなったらどこまでも突き通すしかない。
「グローバルなご家庭なんですね」
 感心したように詩織が頷く。その純粋さが針となって、万莉亜の胸にちくちくと刺さった。
「……あ、あの……私たち、急ぐから、また」
 歯切れも悪くそう告げると、万莉亜はクレアの手を引いて歩き出す。
 これ以上嘘を重ねたくなくての行動だったが、随分と素っ気無い態度になってしまったのは否めない。 こんな夜中に、お互い出会うはずも無い新校舎で鉢合って、先輩として、そうでなくても同じ寮生として 他にもっとかけるべき言葉や疑問があったはずなのに、それら全部を無視してさっさと 立ち去ってしまう。冷たい先輩だと思われても仕方が無い。
 彼女が「親戚」という苦しい言い訳を信じてくれたのなら、なにも 逃げるようにして去らなくても良かったのに、妙な焦燥感がそれを許さなかった。
 答えは分かっていたけれど、分かりたくない部類のものだ。
「あれが守屋詩織かぁ」
 背後からのんきな声が聞こえる。焦りが募る。
「聞いた話とイメージ違ったな」
「……ど、どういうことですか」
「いや、ルイスの説明だと……」
 そこまで言いかけて、不安を表情に浮かばせた彼女に気付き、 わざとらしい咳払いをして言葉を散らす。 どうにも無神経でいけない。
「そんなことより万莉亜、口はもう大丈夫?」
「え……あ、はい。だいぶ良くな」
 言い終わらぬうちに唇を塞がれて回復しつつあった舌を絡め取られる。
 途端に、悲鳴を上げたくなるような熱が舌先に伝わり、やっとのことで 何をされたのか理解する。これは、万莉亜が最も苦手とする彼の力の一つだ。
「ッ熱……いっ!!」
 叫びながらクレアの体を突き飛ばす。
「何するんですかっ!」
「治ってよかった」
「これほんとに痛いんですからねっ! もうっ!!」
 たとえ一瞬で傷が癒えるとしても、この耐え難い熱とそれによる激痛を味わうくらいなら、二、三時間ぴりぴりとした軽い痛みに 耐える方がましだ。
「ごめんね万莉亜。そんなに怒らないで」
 ニコニコしながら謝る彼は、こちらが怒ってなどいないことを知り尽くしているからまた性質が悪い。
「……怒ってはいないんですけど……いきなりは止めてくださいね」
「分かった。もうしないよ」
 言いながらクレアが万莉亜の顎を掠め取る。
 驚いた彼女は、一瞬先ほどの熱を思い出し身を固くしたが、「もうしないよ」と 繰り返した彼の言葉を信じて目を閉じる。
 さきほどとは打って変わって、冷たい唇が降りてきた。



******



 新校舎から、もとい点呼から戻ってきた万莉亜を、 仏頂面の蛍と冷たいパスタが迎える。
「またあの男?」
 刺々しい口調で問われて万莉亜が苦笑いを浮かべる。
 蛍は、クレアを良く思っていない。
 彼らの存在と冬以外の昨年の出来事は一通りぼんやりと知っているはずだが、普段は知らぬ存ぜぬの態度を 当人の万莉亜にすら貫くのだから、随分徹底している。
 それでも、以前に比べたら大分マシになったほうで、しぶしぶではあるが 彼の存在を口にして万莉亜に不満をぶつけるときがある。
 これに対して万莉亜は、嫌がられるからダンマリを決め込むのではなく、 嫌がられると分かっていて洗いざらい喋るというスタンスを取っている。 黙っていると、蛍は余計に不満を募らせてしまう。頑固で、心配性の友人なのだ。
「実は、あの階段見える子がいたの」
「え」
 脱いだカーディガンをハンガーにかけながらそう言うと、 冷め切ったパスタを再びレンジにかけていた蛍が振り返る。
「じゃ、あんた以外にも子供を産める生徒がまだいたってこと? な、なんだっけ。パスタだっけ」
「……マグナだよ。蛍」
 彼女が言い間違えたのは決して今温めているパスタに影響されたわけではない。 ましてやボケているわけでもいない。本格的に去年から間違えて覚え続けているのだ。 「まぁそれはいいや」と続けて万莉亜がカーペットの上に座る。 温め終えたパスタを持って蛍もその対面に座った。
「で、誰なの? その……何だっけ?」
「マグナ。それはいいんだけど、一年生の子だったよ。すごい可愛い子だった」
「分かった。守屋詩織でしょ」
 一発で当てられて、万莉亜が受け取ったパスタの容器を引っくり返しそうになる。 蛍が、誇らしげにふふん、と笑った。
「な、なんで分かるの?」
「分かるよ。今年の一年で、あの子話題じゃん。色々と」
 予想外な話の展開に、話し手から聞き手に転じた万莉亜が首を傾げる。
「飛びぬけて可愛いってのもあるし、変な噂も後輩からいっぱい聞いたし、 あと入学式の事件」
「うん?」
「あの子目当てに他校の男子生徒がカメラもって正門に湧いたんだよ。 それで先生がすごい怒って、あの辺騒がしかったじゃん。まぁ私も後で聞いたんだけど」
「……」
 騒がしかったじゃん、と言われても、万莉亜が学園に戻ったのは 翌日の始業式からなので、そんな騒動は初耳だ。
「その後、あの子教室で総すかん食らったらしいよ。クラスメイトから」
「えー……」
 なんだか理不尽な話ではないだろうか。そんなの、守屋詩織本人だって 迷惑に違いなかろうに、彼女に一連の責任を押し付けるのはずいぶんなお門違いだ。
「出る杭は打たれるって摩央は言ってたけど……そういえばさ、摩央も 入学当時は目立ってたよね」
「え? ああ、そういえば……摩央ちゃん美人だし、大人っぽかったもんね。背も高いし」
「そうそう。入学式からものすごい茶髪で現れて。馬鹿がいるなぁと思ったけど」
「でも蛍は一番最初に仲良くなったんじゃなかった?」
「クラス一緒だったからね。あ、そういえばさぁ、三組のあれ知ってる?」
「え、なになに」

 次第に話題が逸れていく中、万莉亜の脳裏の片隅で詩織の姿がぼんやりと浮かんでは消える。
 色素の薄い大きな瞳と、ふんわりとカールした羽のような髪の毛。それを二つに括って、 はにかむように微笑む少女。
 アイドルのように可憐で、話した感じもとてもやわらかい印象だ。
 その彼女が、クラスメイトから謂れの無い冷たい視線を浴びていたのかと思うと胸が痛む。
――いじめとかに、ならないといいけど……
 そう願ってから、ふとさきほどのやり取りを思い出した。
 随分素っ気無く立ち去ってしまった自分を、彼女はどう感じただろう。 傷つきはしなかっただろうか。怖い先輩だと思われなかっただろうか。
 こんな風に後悔してしまうのは、きっとあの時、 くだらない嫉妬から湧き出た焦燥感で彼女を思いやってやることが出来なかったせいだ。
 彼女にあの螺旋階段が見えることを知って、嫌だなと思ってしまった。
 それが、偽らざる正直な気持ちだった。
――……守屋さん……
 治ったはずの舌が、ちくりと痛んだ気がした。



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