ヴァイオレット奇譚2

Chapter5◆「彷徨う恋の代償―【4】」




 学園の地下に、ぽつんと置かれた金庫。それを見下ろして、感慨深げに瑛士が息を吐いた。
「ついに年貢の納め時だな、ヒューゴ」
 馬鹿にするでもなく、ただただ噛みしめるようにそう言った少年の言葉に、 ヒューゴは答えなかった。たとえこのような姿であっても、格下の相手に口をきくつもりなど毛頭無いという、 彼なりのプライドなのかもしれない。
 クレアとの戦いに敗れ、解体された肉体を頑丈な金庫に詰め込まれても、彼は一度たりとも命乞いなどは しなかった。
「話しかけたらだめよ、瑛士。クレアに言われてるでしょ」
「ああ」
 ハンリエットに注意され、瑛士はその場から少し離れたベンチに座り缶ジュースのプルタブをあける。
 今夜の見張り番は自分とハンリエット。長い夜になりそうだなと、先ほどコンビニで調達してきた 菓子パンをビニール袋から取り出し封を開ける。
「あんたも食うか?」
 そうたずねても、ハンリエットは首を振るだけだ。
「そっか。ま、食う必要ねーもんな」
 彼らはいわゆる三大欲求がまるまる欠落した生き物だ。食べ物が無くても生きていけるし、 厳密には眠らなくても延々と活動をしていられる。もちろん、性欲だってからっぽ。生きていて何が楽しいのだろうと、 彼らが食べ物を遠慮するたびについつい考えさせられてしまう。

「……どうして、食べなかったのかしら」
 ふいにハンリエットが零す。
 パンを頬張っていた瑛士は、何のことかと一瞬戸惑い、食品の詰まったビニール袋と相手を交互に見やるが、 ハンリエットが瞳を細めて金庫を睨んでいることに気付き、合点がいく。
「今はあいつだってボロボロだし、あとでゆっくり頂くつもりなんだろ」
 うげ、っと舌を出しながら答えるが、ハンリエットは腑に落ちないような表情でじっと金庫を見下ろしたままだ。
「そうかしら。食べようと思えば、食べられるはずよ。……相手が相手なだけに、 余計な間を開けない方がいいと思うの。危険だわ」
「そんならそのまま海にでも沈めちまえよ。その方が手っ取り早くていいじゃねぇか」
「そうよ。きっとそのつもりなんだわ」
 すでに確信していたような声色で、ハンリエットが顔を上げる。
「……腹が立ってきたわ」
「え?」
「金庫を見張っていろなんて言うから、おかしいと思ったのよ。てっきり、すぐ始末してしまうものだと 思っていたのに。お父様はヒューゴを海に沈めるつもりなんだわ。許せない」
「……はぁ?」
「私ちょっと用が出来たから、しばらくの間お願いね」
 そう言い捨てて、ハンリエットが地下の階段を駆け上っていく。
 結局瑛士は、何が何だか分からないまま一人取り残され、金庫に詰められたヒューゴの前で 黙々とパンをかじる羽目になってしまう。



 二十分ほど過ぎただろうか。
 瑛士は近づく足音に気付かない。襲ってきた睡魔に打ち勝てず、 うつらうつらとしていた彼は、とうとう本格的に寝入ってしまった様子だ。
 細心の注意を払って詩織は瑛士から少し離れた場所にある金庫の前に屈んだ。
 これがヒューゴであるとは知っていても、無機質な金庫を前に表情や言葉を選んでいる自分が 馬鹿みたいに思えてしまう。
「……マグナだな」
 突然、正面の箱から低い声が聞こえた。
 詩織は驚きのあまりひっくり返りそうになりながら、それでも瑛士が居ることを思い出しかろうじて 音を立てないよう堪え、体勢を整える。
「馬鹿な女だな。物理的な隔たりがあったとしても、お前を操ることなど造作もないぞ」
「…………」
 それは、ここに向かう際に散々詩織が不安に思ったことだ。
 けれど、結局来てしまった。もう後には引けない。
「……聞きたいことが、あるんです。マグナのことです」
「マグナ?」
「"無駄死に"って、何ですか? クレアさんは、マグナを守ってはくれないんですか?」
 思い切ってたずねると、しばらくの沈黙の後、金庫の男が愉快そうに静かな笑い声を上げる。
「どうした女。クレアに不信感でも抱いたか。少しは利口になったじゃないか」
「…………」
 不信感。そうなのだろうか。
 彼が万莉亜と詩織の立場の違いをはっきりと区別することで、自分は彼に不信感を抱いたのだろうか。
 彼女がいると、クレアは全身全霊で自分を守ってくれないのかも知れない。 彼の中に存在するかもしれない優先順位が、こわい。
「どんなマグナも、マグナを全うしようと思えば、必ず死に行き着く。マグナとは、そういうものだ」
「……死……?」
「クレアはマグナを必要としている。なぜだか分かるか? 子供が必要だからだ。 自分の血を分けた赤ん坊があいつには必要なんだ。それを産むのがマグナの役割。ただし、己の命と引き替えにな」
「……っ」
「どうせ都合の良い説明しか聞かされていないのだろう。マグナを最終的に死に追いやるのは、他でもない あの男だ。大いなる母だと崇めたところで、所詮はただの生け贄にすぎん」

 指先から、温度が引いていく。
 何か考えなくてはいけないのに、停止してしまった思考は動き出す気配すら感じさせない。
――……私は、生け贄……?
 マグナが、クレアの子供を産むための女性なのは以前ハンリエットから説明を受けて知っていたが、 命を落とすことになるだなんて聞いていない。
 クレアが詩織に無理矢理迫るようなことも一切無かったのですっかり安心しきっていたが、 馬鹿な自分はすっかり彼の術中に嵌っていたのだろうか。事実、詩織はクレアに惹かれてしまった。これも、 彼らのシナリオ通りだとしたら……。
「……前のマグナもクレアさんの子供を産んで死ん……な、亡くなったんですか?」
 だとしたら、生まれたはずの彼の子供はどこに?
「いや、アレはアンジェリアが殺した」
「……威勢の良い女だった。名をマリアと言ったな」
「マリア?」
「黒髪の平凡な少女だったが、どういうわけかクレアのお気に入りだった。結局それが元でアンジェリアの怒りを買い、 火炙りとなって死んでいった悲劇のマグナさ」
 絶望が、ひた走る。
 心臓は早鐘を打ち、呼吸が上手に出来なくなる。
――……違う……
 そのマグナは生きている。クレアの横で笑っている。それを、ヒューゴは知らないのだ。
 なぜマグナにならないのか、と自分が尋ねたときにあの少女が見せた戸惑いの表情が脳裏に浮かぶ。 「マグナは危険だ」と必死になって訴えかけてきた彼女の顔が。
 優先順位どころの話ではない。守られていたのは、最初から万莉亜一人だったのだ。



******



 万莉亜を理事長室から追い出し、ベッドに横たわる相手を睨み付ける。
 推測で腹を立てているが、多分正しいのは自分だと、ハンリエットは確信していた。 その証拠に、先ほどからクレアは目も合わせようとしない。
「いい加減白状しなさいよお父様。正直になるのなら早いほうが良いわ。私たちまで 欺くような真似はやめてちょうだい、気分が悪いわ」
「何を言えっていうんだよ」
「その胸に隠している全てよ!」
「無いよそんなもの」
 うんざりしたように答えるクレアに、ハンリエットのもどかしさが募る。
 クレアの真意に意義があるわけではない。ただ、全てを打ち明けてもらえないのが悲しい。
「嘘つきね。私分かったの。お父様は本当は……」
 言いかけたとき、激しい音を立てて理事長室の扉が開かれる。
 顔面蒼白の瑛士が、肩で息をしながら叫ぶように告げた。
「ヒュ、ヒューゴが消えちまった……っ!!」
 横たわっていたクレアも、その横に仁王立ちしていたハンリエットも目を見開いて絶句する。
 金庫が独りでに歩き出すはずもないから、第三者の仕業であることは間違いないが、 この校舎内にクレアを裏切るような人物は一人たりとも存在しないはずだ。
「見間違いじゃないんだな」
 ベッドから起き上がり、万莉亜が用意していった着替えのシャツを羽織りながらクレアが尋ねる。 瑛士はこくこくと首を振りながら、うっかり寝てしまったことの弁明を始めたが、それを聞き流しながら クレアは足早に部屋を飛び出す。
 体はある程度回復したが、再び襲いかかってきた問題に、心はグッタリとため息を零した。

「……詩織?」
 螺旋階段を下り、新校舎の一階まで差し掛かったところで、そう呟いたクレアが唐突に立ち止まる。 うっかり背中に衝突しそうになったハンリエットが、慌てて急ブレーキをかけた。
「お父様?」
「中庭だ」
 地下へ続く階段を目指していた面々は、急遽正面玄関に向かって駆け出し、僅かな外灯に照らされた 中庭に出る。寮の方向へと向かっていた詩織の後ろ姿を素早く見つけたクレアが彼女の名を呼ぶと、 人一人が詰められた金庫を地面に引き摺って四苦八苦していた彼女が、驚愕の表情で振り返った。
「詩織! ヒューゴをどうするつもりなの!?」
 ハンリエットの怒鳴り声に、寝間着姿の少女がびくりと跳ねる。
 戸惑いと後ろめたさで消え入りそうな詩織の表情。それを見る限り、操られているようには見えない。 だとしたらなぜ。
 クレアが言葉を選んでいるうちに、ハンリエットが詩織を責める。
「その男が、どれほど危険か分かっているの!? 私たちの天敵なのよ!」
「……で、でも」
「あなたに牙を剥く男よ! 今すぐそこから離れなさい! 瑛士、詩織を捕まえて!!」

「この娘に牙を剥くのは俺ではない」
 ハンリエットの言葉に、金庫から低い声が響く。駆け出そうとしていた瑛士も、 思わずぴたりと足を止めた。
「こいつを地獄に叩き落とすのはお前だクレア。俺はお前の魔の手から、こいつを守ってやろうと思ってな。 お前は、お気に入りのあの女だけ囲っていればいい」
「……」
「随分と手の込んだ芝居だったな。替え玉はどいつだ? そこの坊主かな?」
 勝ち誇ったようにヒューゴが笑う。
 固まっていた瑛士の額に、冷や汗が吹き出した。
「まじかよ……っ、あの女、喋っちまったのか?」
 堪えきれずに呟く。火炙りになってまで偽装したというのに、 ついに万莉亜が生きていることが知られてしまった。
「こうなったら、是が非でも始末しなきゃ。……そうでしょ、お父様!」
 先ほど散々無視された怒りもあって、ハンリエットがきつい口調で問えば、 クレアは観念したのかあっさりと頷いて歩き出す。
「来ないでっ!」
 その瞬間、悲鳴のような叫びが詩織の口から飛び出した。
「わ、私、ヒューゴについて行くって決めたんです!」
「……ヒューゴに?」
「そうです。だから、邪魔しないでっ!!」
「…………」
 いつのまにか詩織の瞳からは滝のような涙が溢れだしていたが、 彼女はそれを拭おうともせずにただクレアを見据える。
「すぐに殺されるのがオチだよ。そいつは君を利用したいだけだ」
「……そんなの、クレアさんだって同じじゃないですか。私を……裏切るじゃないですか!」
「程度が違う。僕の方がいくらもマシだ。少なくとも君を殺したりはしないからね」
 どこか開き直ったような彼の口調に、打ちのめされる。
 優しい人だと思っていた。でもそれは、幻想だった。
「君は無い物ねだりをしている。でも、僕ならそれに近いものを提供出来る。 その代わり君はマグナになる。そういう契約だったよね?」
「……」
「僕が、いつ君を裏切ったんだ」
 静かな怒りを含んだ彼の声色に、詩織は萎縮し、答えに詰まる。
 まだ裏切られてはいない。でもいずれ裏切られるかもしれない。 なぜなら、彼は万莉亜を愛しているから。
「口八丁はそいつの得意技だ。騙されるなよ」
 ヒューゴが囁く。ハッと我に返った詩織が慌てて金庫の取っ手に手をかける。 それを、間髪入れずに力一杯引くと、中からヒューゴの肉塊や砕かれた骨が一気に雪崩落ちた。 そのうちの一部はすでに再生されており、狭い空間に圧迫され続けていたせいでどれもおかしな形に 捻れているが、解放されたそれらはすかさず鈍い音を立てながら正しい形へと形成されていく。
「……なんてことしてくれるんだ」
 うんざりしながらそれを眺め、もう一度刻まなければならない億劫さにため息をつく。
 背後で、道具を取りに駆け出したのであろうハンリエットの荒い足音を聞いた。 彼女が帰ってくるまでに、少しでも仕事を減らしておこうと、クレアが一歩踏み出す。
「来ないで!」
 叫んだ詩織が、握った拳をクレアに掲げて見せた。
 思わず目を凝らす。闇に紛れてよく分からないが、手の平は何かを握っているようにも見える。
「見えますか?……これは、ヒューゴの指先です」
 しまった、と咄嗟にクレアが舌打ちした瞬間、詩織はしゃがみ込み、ちょうど足下にあった 排水溝にその手を伸ばす。
「一歩でも近づいたら、私これを落とします」
「……」
 ある程度の細胞が別の場所に残されてしまうと、ここにある肉体を食べきっても無意味だ。 残された欠片が、時間をかけてまたヒューゴを生み出してしまう。以前クレアがヒューゴに対して 使ったやり方だ。苦肉の策が、相手を一つ賢くしてしまった。

「それを落としたら、僕は君を許さないよ」
「……名塚先輩が、危険だからですか?」
 詩織の質問にクレアは答えなかったが、沈黙は痛切なまでに真実を物語っていた。
「……やっぱり、私は生け贄なんですね……先輩を、守るための」
「単なる学生をやっている方がいくらもマシに思えてきた?」
「…………」
「今からでも戻れるよ。でもそれを流したら、地の果てまで追い詰めて後悔させてやる」
 目の前ですごむバイオレットの瞳が、冷たく詩織を射抜く。
 縋り付く余地など、どこにもないように思えた。
「わ、私は……」
 声が震える。握った拳を、もうどうしていいのかすら分からない。



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