ヴァイオレット奇譚2

Chapter6◆「永遠の傷痕―【1】」




 誰かを失って、空虚な思いに押しつぶされそうになってしまうのは、そこにあったはずの 温度を性懲りもなく手繰ってしまうから。手を伸ばすたびに、それは空振り、思い知らされる。
 昨日受けた痛みに、今日も押しつぶされそうになる。

「もっとしっかりしないとね」
 控えめな声でそう諭す女性教師は、優しげな笑顔の裏でどうしたものかと頭を抱えた。
 受験や就職を控えた三年生の生徒が、一ヶ月も授業をボイコットし引き籠もっていたとなれば、 担任としては黙ってはいられない。ガツンと強めに指導すべきなのも分かっている。
 それでも、久しぶりに登校してきた少女がたったの一ヶ月でひどく痩せ細り、こちらが不安になるほど覇気のない表情をしているものだから、 ついつい言葉を選んでしまった。
 が、素直に頷く少女の耳に、教師の言葉は届かない。彼女はただ機械的に頷いて見せただけだ。
 本来なら、生徒がこのような状態に陥った場合、教師が起こすべきリアクションは一にも二にも両親との 面会に尽きるが、残念な事に少女に両親はいない。
 彼女の保護者は現在病床に伏せている入院中の祖母一人。 いずれアポを取って会いに行こうとは考えているが、正直なところそれで解決の糸口が見つかるとも思えなかった。
「何か悩みがあるなら、何でも先生に言ってね?」
 迷った末にお決まりの台詞をもう一度繰り返す。少女が機械的に頷く。そこで予鈴が鳴り、教師はしぶしぶ彼女を解放した。
 今の今まで問題のある生徒ではなかったはずなのに、どうしてよりにもよってこんな大事な時期に。
 そう思わずにはいられなかったが、それでも彼女の悲惨な過去を鑑みれば、逆に今まで優等生だった事の方が 不自然だったのかも知れない。
 少女が何を思い一ヶ月もの間部屋に閉じこもっていたのかは知らないが、やはり即座に頭に浮かんだのは 彼女の過去だった。あれから年月は過ぎたが、彼女がその傷に未だ苦しみ藻掻いていたとしても、なんら不思議ではない。
 どうか違いますように、と半ば祈りながら担任の教師はすごすごと職員室へ歩き出す。
 もしこの勘ぐりが当たっていたとしたのなら、単なる一教師の自分に何が出来るというのだろう。 心の闇に踏み込むのに、あの少女の過去はあまりにもシリアスで、救いがなさ過ぎる。

 万莉亜が教室へ戻ると、心配そうに出迎えた蛍が彼女の手を握って気遣ってきた。
「休んでた事言われたの? ちゃんと具合悪かったって言った?」
「え?」
「ずる休みじゃないんだから、何言われても気にする事無いよ」
 ああそうか、と合点がいったように万莉亜が瞬きをする。
 ずっと休んでいた事を、注意されていたのか。ぼうっとしていて、先生が何を話しているのか 全く理解出来ないまま話は終わってしまった。
 ただそれほどきつい事を言われた気もしなかったので万莉亜は微かに微笑んで首を横に振った。 それだけで蛍は安堵したように表情を緩める。
 毎日毎日、抜け殻のように生気のない表情で日がな一日横になって時間をやり過ごすだけだった親友が、やっと授業に出てくる気になったのに、 教師の無神経な態度でまた逆戻りになってしまわないか、ハラハラしながら廊下に呼び出された万莉亜を待っていた。
 杞憂に終わって良かったと胸をなで下ろし、蛍は万莉亜と共に移動教室のための準備に取りかかる。
「今日さ、学校終わったら遊びに行かない? ほら、前みんなで話してたでしょ。摩央と、逢坂さんと、みんなで どっか遊びに行こうって」
 廊下を移動しながら、さりげなく蛍が万莉亜に提案する。
 半日で終わる土曜の午後に、連れたって遊びに行く事は以前の蛍と万莉亜には中々あり得ない事だったが、 今は万莉亜もアルバイトをしていないし、塞ぎ込んでいる親友を気遣って蛍もなるべくバイトを入れないようにしている。
「いいよ。あっ、でも……」
 一度了承した後、何かを言いかけた万莉亜に、蛍が首を傾げる。 言いにくそうにしている相手を見て、「無理なら良いんだよ」と付け足すと、万莉亜は 廊下の窓から下に広がる中庭を見下ろして、何かを考え込むようにして黙ってしまった。 不思議に思った蛍が、彼女の目線を追う。ちょうど赤煉瓦のこぢんまりとした花壇が見える。
「……どうかしたの?」
 たずねると、万莉亜は頷いて、消え入りそうな声で呟いた。
「今日、芽が出たの」
「……め?」
「あそこに、種を植えたの。花の種。校務員のおじさんに分けて貰ったやつを植えたの。 そしたら、今日芽が出たから」
 それで、学校に行こうと決めんだ。と小さく続ける。
 何と答えて良いものか分からず、蛍は曖昧に頷いた。
 理由が、あったらしい。てっきり気まぐれかと思っていたが、万莉亜なりの理由があったんだ。 そう思うと、あの花壇の芽は蛍にとっても易々と見過ごせるものではなくなる。少なくとも、 今のところは万莉亜の原動力になっているらしいあの花壇の小さな新芽。大事にすべきだと 考えて、蛍が頷いた。
「それじゃ、今日はやめよう。せっかく芽が出たんだから、そばで見守って応援しなきゃね」
 自分にしては少々ロマンチックすぎる台詞だ。言いながら恥ずかしくなってきたが、 万莉亜がほっとしたような表情で頷いたので、まぁいいやと開き直る。
 元気づけたかったのだ。きっかけや手段は何だって良かった。



******



 とある寮の一室を訪ね、蛍が昼間のやり取りの結果を報告すると、部屋主の二人は がっくりと肩を落として意気消沈した。
 その内の一人である摩央は、すでに気合いを入れた格好に着替え終えたところだったから、尚更だろう。
「やっぱりいきなりすぎたかな。今日やっと学校に出てきたばっかりだもんね」
 もう一人の部屋主である千歳が、そんな摩央に気遣うような視線を送りながら、蛍にもそう言ってフォローする。
 それでも、摩央は気が収まらなかったらしく、ブツブツと一人文句を言い続けては、蛍にじろりと 睨まれる始末。
「あんまり私たちがあれやこれやと気を遣うのも、かえってプレッシャーになるんじゃないかな。 万莉亜は応えようとする人だから、余計に良くないよ。今はそっとしておいてあげるのが良いと思う」
 そんな二人の険悪なムードを察して、千歳が早口に言い切る。
「せめて、何でこんな風になっちゃったのか、原因が分かればいいのにね……」
 ボソリと続けられた千歳の言葉に、睨み合っていた蛍と摩央も俯いた。
 
 万莉亜は、あまりにも突然、唐突に人が変わってしまった。
 塞ぎ込み、登校を拒否し、そのうち食料などの買い出しにも中々出かけなくなってしまった。
 一ヶ月前のあの日、泣きながら帰ってきた万莉亜のその涙のわけを、聞き出そうと努力しなかったわけじゃない。 蛍など、万莉亜が泣いて「やめてくれ」と拒絶するまで何も言わない彼女をしつこく責めたこともある。 それでも、彼女は頑として理由を言わなかった。
 その態度に腹が立った。
 無二の親友だと自負していた。二人の間で隠し事なんてあり得なかった。
 しかしその内、ある考えが蛍だけでなく、摩央と千歳にもよぎり始める。それが、 彼女の過去だった。タイミングとしては唐突だが、一生引き摺っても不思議ではない事件だった。 万莉亜が普段明るく快活な少女だったためついつい忘れがちになってしまうが、彼女はあの悲惨な事件の被害者で、遺族だ。 その考えに行きついたとき、周りはもう迂闊に理由を尋ねられなくなっていた。
 無二の親友の蛍でさえ、万莉亜の過去には踏み込む勇気がない。
 他人が、土足で踏み込んで良いような場所ではない気がして、気後れしてしまうのだ。

 そのせいか先ほどの千歳の言葉は、遠回しな願いとして蛍と摩央の耳に響く。
 原因が分かればいい。原因があればいい。「過去」以外の原因があれば、慰める術を 考える事が出来る。言葉を探す事が出来る。おせっかいが、許される。
「……まぁ、ちーの言うとおりほっといた方が良いのかもね。授業にも自主的に出るくらい回復したみたいだし」
 渋々千歳に賛同して、摩央が羽織っていた外出用のジャケットを脱いだ。
 万莉亜が出席を決めたのは、中庭にある花壇の芽が出たからだとは、なぜか言えず蛍は黙って頷く。 何だか余計に心配されそうな気がしてしまった。自分には、あまり理解が出来なかったからだ。 万莉亜らしいと言えば、そうなのかも知れないが。
「全く人騒がせよね」
 ため息をついた摩央に千歳は苦笑して、「でも友達だからね」と呟けば、ほんの少しの違和感が、 その場の全員の心に浮かんでは消える。
 今こうしてこの場に三人集まり、万莉亜について全員が頭を悩ませているこの状況に感じる違和感。
――私たちって、いつからこんな風だったっけ?
 全員が全員、一瞬そんな違和感を感じる。千歳に至っては、万莉亜と仲良くなったきっかけすら思い出せない。 気付いたら彼女を大切な友人として心配する自分がいた。
 しかしそれもすぐに消えてしまう。仲良くなったきっかけを忘れてしまっても、それは然したる問題ではない。 思い出せなかったところで、万莉亜が友人である事に変わりはない。
 だから皆、深くは考えない。

 けれどそれが、その優しさこそが、探り続けている『理由』からどんどんと彼女たちを遠ざけている事に、 本人らは未だ気付けていない。そしてこれからも、誰も一人として真実へは近づけない。



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