ヴァイオレット奇譚2

Chapter6◆「永遠の傷痕―【2】」




 清潔感のある、けれど無機質な白い病棟とは対照的に、若干雑然とした診察室で、 医師としてはまだ若い、といっても三十前後の男性がいつものように朗らかな笑みを浮かべていた。
 彼は笑うと子供のようにあどけない表情になる。
 さらにはまだうら若い女子高生を相手に、くだけた言葉遣いをあえて選んだりするものだから、 万莉亜はこの医師と対面するとき、相手とどう接したらいいのか、いつも戸惑う羽目になった。
 今までの祖母の担当医が、老齢で威厳のある、口数の少ない医師だったせいもあって、大きな口で えくぼを作りながらペラペラとよく喋る相手に、まだ面喰らっている状態だ。
 彼は、今までの担当医だったら絶対に聞いてこないような、万莉亜のプライベートについても よく尋ねてきた。ひどい時は、祖母の話が三割、万莉亜の話が七割、なんてこともある。
 それを煩わしいと思った事はないけれど、どうしてだろう、という疑問は常にあった。
 けれど今日、彼が努めてさりげなく切り出した言葉で、万莉亜はやっと相手の真意に気づき、 それから俯いてしまう。
 彼は万莉亜に、知り合いに面白い友人がいるのだと切り出した。
 是非万莉亜にも会ってもらいと。首を傾げる万莉亜に、彼は友人が精神科医である事を告げる。
「お見舞いのついでに、会ってみたらどうかな。この病院にもよく来ているんだよ」
「どうしてですか?」
「うん。それはね、君には話し相手が必要なんじゃないかなと思って」
「…………」
「もちろん、万莉亜ちゃんには心の寄る辺がある。おばあちゃんがそうだろ? でも、ハナさんは知っての通り 特定疾患の難病患者だ。君には、彼女に言うに言えないストレスが、きっとあるはずだよ。それは、ここに入院されている患者さんの ご家族なら例外なく抱えているものだ」
「……でも私、大丈夫ですよ」
「そうは見えないけどな」
 万莉亜に出会ったのは二ヶ月ほど前。
 そうそう頻繁に会う間柄ではなかったけれど、その数少ない機会の度に、 痩せ細っていく彼女に驚かされた。まずはそれで「おや」と首をひねった。 それから表情を観察する事にした。話し方。立ち居振る舞い。
 専門医ではないからもちろん断言は出来ないが、チラリチラリと見えるのは、 鬱の典型的な初期症状だ。特に向かい合って話しているときは、それが顕著に表れている。
 ぼうっとしたまま、焦点の合わない瞳でこちらを見る。もちろん、言葉は 彼女の耳を素通りだ。そうかと思えば、突然神経過敏になって警戒する。会話のレスポンスも非常に悪い。
これが、若い医師である自分に不満を持ってあえてそうしている態度ならば良いのだが、無意識だからよろしくない。
 初めて出会ったときは、とても明るい少女という印象だった。
 ハキハキと喋り、遠慮がちではあるが物怖じしない、天真爛漫な少女だった。
 人が変わったように陰鬱な空気を纏い始めたのは、二回目か、三回目だろうか。ちょうどその頃から、 彼女は急激に痩せ始めていた。ある日不思議に思って看護婦に尋ねてみると、彼女はしばらく考えた末「もしかして」 と語り始める。
 そこで知ったのは、彼女の一家に起こった痛ましい事件の存在だった。
 鬱、という症状が浮かんだのも、それを知った事がとても大きかった。深く尋ねると、 名塚家族に詳しい古株の看護婦が渋々重たい口を開いてくれた。
 彼女、名塚万莉亜は、十一歳から十三歳の冬まで、精神科医にかかり、 その内の三ヶ月は、精神病棟に入れられた過去がある。彼女が一時的ではあるにせよ病棟に入れられた直接的な原因は、 摂食障害と、暴力行為。
 若い医師は、耳を疑った。あの小柄で儚げな少女が、唯一の肉親である祖母に対し、 暴力を振るっていた。それは日々エスカレートし、構わないからと泣いてすがる祖母を説得して、 当時担当していた精神科医が一時的な入院を決断させたらしい。
 そうでもしなければ、いずれ彼女は祖母を殺してしまうかも知れない。事態は、そこまで切羽詰まったものだった。

 なんとまぁ、と唖然としたまま額に手を当て、祖母を担当する若い医師は天井を仰いだ。
 その時、ふと頭に浮かんだのが、精神科医の友人だった。相談してみようか。出過ぎた真似だろうか。 散々迷った挙げ句、今日万莉亜本人にずばり聞いてみる事にしたが、案の定、少女は警戒を瞳に滲ませ、完全に逃げ腰の体勢だ。
 もう帰ります、と席を立ち素早く出て行こうとする彼女の鞄に、無理矢理友人の名刺をねじ込む。振り返った万莉亜は 驚きと戸惑いと、そして自覚があるのかは分からないが、ほんの少しの敵意を込めた瞳で、医師を見上げた。
「気が向いたら、電話すると良いよ。僕からも言っておくから」
「……ありがとうございます」
 早くその場を立ち去りたい一心からだろう。彼女は素直に頭を下げて礼を告げ、 パタパタと診察室を飛び出していった。
 その後ろ姿を見送りながら、失敗だったかなと医師は顎に手をやり考え込む。
 人に言わせると、自分の長所は世話好きなところで、短所はお節介なところだと言う。 まさに紙一重。そんなものは受け取る側の解釈でどっちにでも転んでしまう。
 名塚万莉亜は、きっと後者に受け取っただろう。
 だがその無遠慮さが、その配慮のない図々しいお節介が、心を閉ざした人間には、しばしば必要なのだと、彼は落ち込む自分の心に 言い聞かせた。



******



 祖母が寝てしまったので、予定よりも早く病院を出た万莉亜は、ちょうど茜色に染まった空を見上げて目を細めた。 長袖のシャツが肌に妙にまとわりつく。空気が湿っているのかもしれない。
 気付けば五月も中旬。もうすぐ梅雨入りだ。春は、いつの間に終わってしまったのだろう。
 寮に戻るため一人バス停に並んでいると、鞄の中で携帯電話が振動しはじめ、慌てて取り出し通話ボタンを押す。 すぐに優しげな蛍の声が聞こえてきた。
『お見舞いはもう終わった?』
「うん。今バス停だよ」
『おばあちゃんどうだったの』
「疲れてたみたい。すぐに寝ちゃったから。今から帰るよ」
『そっか。私もバイト終わったからさ、帰りがてら何かご飯買っていくよ』
「本当? ありがとう」
 はーい、という明るい声を残して蛍が通話を切る。
 外出する度に、こんな風にして蛍はちょくちょく電話を寄越してくる。
 元々優しくて、よく気のつく子だったけれど、最近は頓に優しい。それはほとんど束縛と言っていいほどに、 逐一連絡が入って、蛍は万莉亜の様子を伺う。それほど、自分は気遣われているのだ。 だから、そんな親友のためにも、精一杯明るく振る舞わなければならない。
 表面をなぞるような第三者の気遣いは、いつもそうすることで万事が上手くいく。
 問題なのは、中まで抉るように救いの手をさしのべられたときだ。どうしたらいいのか分からない。 痛むばかりだ。やめて欲しいと思う。だから、あの先生は苦手だ。
 いずれ時が解決するのだ。そっとしておいて欲しい。
 傷口を、抉らないで欲しい。また、膿み出してしまう。

 万莉亜はおもむろに鞄に突っ込まれた名刺を取り出し、それに目を通すことなく、小さく小さく 折りたたむと、近くにあった灰皿の網の隙間にねじ込んだ。
 これでいい。
 好意はありがたいが、医者は必要ない。必要なのは時間だ。
 指先を突っ込んで傷口を引っかき回す必要はどこにもない。
 ガーゼの上から優しくなで続けたらそれでいいのだ。

 触れなければ、傷はいずれ癒える。



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