ヴァイオレット奇譚2

Chapter6◆「永遠の傷痕―【3】」




 三ヶ月が経っていた。
 『何から』とは、あえて考えないようにしていた。

 六月。
 すっかり梅雨入りをした近頃は、毎朝シトシトと控えめな雨音で目が覚める。
 うんざりとしながらまぶたを持ち上げたのは、風情のある静かな雨音が、なぜか大音量の雑音となって鼓膜に響いてしまうせいだ。最近どうも、物音に敏感になっている気がしてならない。 反対側の壁に備え付けられたベッドで眠る蛍が寝返りをしただけで、その衣擦れの音だけで、心臓が飛び上がりそうになるのだ。
 時刻は朝の六時を少しまわったところ。
 支度を始めるにはまだ少し余裕があったが、雨音に悩まされ寝付けそうもないので、万莉亜はパジャマの上に薄手のカーディガンを一枚 引っかけて部屋を抜け出した。
 傘を差して、小雨の中を足早に進む。
 寮を出て隣にある学園に向かい、そこにある中庭の花壇の前にしゃがみ込んだ。
「……今日もダメか」
 二ヶ月前、芽吹いたそれは、不思議な事に相変わらずそのままの姿でそこにある。
 伸びる気配も、もちろん花が咲く気配も全くない。枯れてしまったのかと何度も悩んだが、 驚くほど艶やかな緑色を見る限り、とてもそうは思えない。芽は生命力に満ちあふれているように見えた。それなのに、 一向に成長しない。
 植物に疎い万莉亜は、そんなものなのだろうかと、悩みながらも悠長に構えていた。
 でもここ最近は、さすがにおかしいと疑問に思い始めている。せめて花の名前を聞いておけば良かった。 そうすれば、調べる事も出来たのに。

 結局がっくりと肩を落として部屋に戻り、濡れた衣服を着替えて朝の支度を始める。
 そうこうしているうちに蛍も目を覚まし、二人で黙々と支度を続けた。

 いつもの朝が、始まる。



******



 異変が起きたのは、それからさらに一ヶ月後。
 夏休みを間近にした、七月の上旬だった。
 万莉亜の携帯に、あの苦手としていた医師からの電話が入った。取るのに、 躊躇ったのは言うまでもない。しかし万が一、祖母の容態に関わる事柄であったら、と不安になればそれを無視する事は出来なかった。

 そして、その万が一は起こった。

「とても悪い知らせだから、心して聞いて欲しい」
 普段ニコニコしている彼が、厳しい顔つきと硬い声でもってそう告げる。
 しかし、すでにその時点で万莉亜は意識を半分手放していた。指先が冷えて、痛みすら感じる。 耳から入ってくる医師の声が、頭の中で大きく反響しては消えていく。
 祖母が血栓症を併発した。
 これは、彼女の体にとって、致命的な出来事だった。
「とっても危うい状態だ。万が一も十分にあり得る」
 そう言って医師が万莉亜にとどめを刺す。

 医師との話を終えた万莉亜は個室に移された祖母の元へフラフラとした足取りで戻り、 ベッド脇のパイプ椅子にどうにか腰を下ろす。
 祖母は眠っていた。
 最近彼女は、こうやって眠っている事が多かった。疲れているのだろうと、勝手に考えていた。 自分がいない間は、元気に笑っていると聞いていたし、たまたまタイミングが悪いときが重なったのだろうと、 そう思っていた。
 どこかで、安心もしていた。
 祖母は、彼らの存在を、忘れてはいなかったから。
 彼女の口から、彼の名前を聞く事が、耐えられなくなっていた。誤魔化して笑うのも、限界だった。だから、 眠ってくれていて、ほっとしたのだ。いつもそうやって、ほっとしていた。
 そんな万莉亜の心中を察したようにして、祖母は近頃よく眠っていた。
「……おばあちゃん」
 小さく呼んでみる。
 胸が、悲しみに震えるのが分かった。
 認めたくはないのに、彼女が自分を残していってしまった場合の未来がよぎる。 頭の中の自分は、一人ぼっちだった。辺りを見回して、祖母の名前を呼んでいる。父の、母の名前を呼んでいる。 けれど、それはむなしくこだまするだけ。
「万莉亜ちゃん」
 後から病室に入ってきた医師に呼ばれ、はたと我に返る。
 いつの間にかギリギリと歯を立てていた親指の先から、血が溢れ出していた。
 それを、医師は悲しそうな瞳で眺めている。
「おいで。手当をして貰おう」
 自分の親指を驚愕の瞳で見下ろしていた少女の肩にそっと手を置いて、医師が優しく呟く。
「私……」
 おそるおそると言った感じで言葉を漏らした少女の瞳から、大粒の涙が零れた。それが 彼女のスカートに、ぽつぽつと小さな染みを作る。
「私……変ですか?」
 涙で顔をゆがめながら、こちらを見上げた少女は、 これからやってくるであろう大きな恐怖に身を強ばらせ、震える声で医師に問いかける。
「変なんかじゃないよ。変なんかじゃない」
 細い肩に腕を回しながら、医師は繰り返した。
 ほんの少し力を込めただけで、粉々に砕け散ってしまいそうな薄い肩だった。 この肩に背負わせるには、荷物は、あまりにも重すぎる。



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