ヴァイオレット奇譚２

　　　　ヴァイオレット奇譚２

Chapter7◆「万莉亜―【１】」

　葬儀は、しめやかに執り行われた。

　唯一の近親者である孫娘が未成年だった事もあり、喪主は生前故人と親しかった友人が代理を務め、病院関係者も多く参列した。
　皆去っていった故人を嘆いたが、一方で若くして孤立無縁になってしまった孫娘の行く末を案じた。喪主の代行を見ても分かるとおり、彼女には身寄りがおらず、数少ない遠縁の者は、それこそ他人のふりをしてそそくさと葬儀会場を後にする。
　生前、学費だ医療費だと散々金の無心をされた彼らにとってみれば、これ以上の厄介はごめんだと言うのが偽らざる本音だろう。結局当人に死なれてしまっては、借金だって返ってきやしない。良心が痛まないわけではないが、やはり、これ以上の厄介はごめんなのだ。

　そんな事情をあらかじめ熟知していた永江医師は、制服に身を包み呆然と立ち上る煙を見上げている少女の傍から片時も離れなかった。
　同じような人物はもう一人いた。
　人の良さそうなその初老の男性は、彼女のアルバイト先の主人で、この先彼女を養子として迎え入れるつもりだと言う。彼女のこれからを案じていた永江にとって、これは随分と安心させられる申し出だった。問題は山積みだが、未成年の彼女には兎にも角にも保護してくれる大人が必要だ。

――「しばらくは、一人にしないでください」
　先ほど、葬儀屋に言われた言葉を思い出す。今回のようにたった一人残された場合、思い詰めて後を追うケースが多いから、と葬儀屋は永江とマスターに念を押した。
　医者として多忙な身の永江の代わりに、マスターが力強く頷いたのを見た。
　しかし、胸には一抹の不安がよぎる。生気のない万莉亜の表情を見ていると、この子が再び笑顔を取り戻す日など、もう永久に来ないのではないかと、そんな妄想にとりつかれる。

「万莉亜ちゃん……中に入って冷たいお茶を飲もう」
　葬式の会場ではもちろんの事、火葬場に来ても未だ呆然とし、一言も発していない少女の肩を叩き、そう声をかける。しかし万莉亜は一切リアクションを見せないまま、黙って立ち上る煙を見上げ続けていた。照りつける太陽も、耐え難い夏の暑さも、氷のように凍ってしまった彼女の表情を溶かすまでには至らず、永江はその場を一旦マスターに任せ水分を取りに休憩所に向かう。
　その入り口で、腕を組みながら立っている少年とふいに目があった。
　彼は、ずっと自分を見ていたのだろうか。目があった瞬間、相手は慌てて視線を逸らす。
「……君は？」
　なぜか、気安く声をかけてしまう。
　多分、黒ずくめの堅苦しい空間で、彼だけが不作法にも色とりどりの私服に身を包んでいたせいだろう。つい気が抜けて、そんな風に声をかける。親の都合で急遽連れてこられたどこぞの息子さんだろう。病院関係者も多く来ているから、知り合いの子供の可能性もある。

　しかし、声をかけられた少年は、永江を一瞥するとすぐに視線を戻し、また難しい顔をして腕を組み直す。そんな彼の視線の先には、空に立ち上る煙を眺めている万莉亜の姿があった。
「……万莉亜ちゃんと、知り合いなのかな」
「うるせぇな、構うな」
「…………」
　つっけんどんな態度に唖然として、永江が閉口する。
　すると、少年ははたと我に返り、己の態度の悪さを詫び、ぴりぴりと張り詰めていたものを若干解して永江を見上げる。
「……あいつ、どうだった？」
「あいつ？　万莉亜ちゃんの事？」
　他に誰がいるんだよ、と少年が潜めた声でもどかしそうに答える。
「どうかな。まだ呆然としていたよ。易々とは受け入れられないだろうね」
「大丈夫そうだったか？」
「今の段階では、何とも。しばらくは誰かが付きっきりで見ている必要があるかもね」
「……そうか」
　神妙な声色で答え、少年が視線を万莉亜に向ける。
　そこには、不安と、慈しみとが併存していて、永江は首を傾げた。
――……知り合い、なのかな……
　ふいに思い浮かんだのは、以前彼女にそれとなく匂わされた恋人の存在だった。
――中学生くらいにしか見えないけどなぁ
　考えを巡らせながらジロジロと眺めていると、再び相手に睨まれて、永江が苦笑する。
「……ただの友人だ。気にすんな」
　永江の勘ぐりを見透かすようにして、少年が呟く。子供だと油断していたが、なかなかに鋭いらしい。
「少し、尋ねたい事があるんだけど」
「忙しいから、手短にな」
　子供らしからぬ口調に、苦笑いで頷く。
「君、万莉亜ちゃんの恋人って知ってるかな」
　弾かれたようにして、少年が顔を上げる。素直なリアクションは、実に子供らしい。
「知ってるんだね。良かった。その彼と、連絡って取れるのかな」
「……どうして？」
「こうなった以上、彼女を支えてくれる人は一人でも多く必要だ。……万莉亜ちゃん、別れた彼氏をだいぶ引きずっている様子だったから。……きっとまだ、彼を必要としているんだと思う」
　縋り付く腕が、あれば良いというわけじゃない。必要なのは、縋り付きたい腕だろう。
　しかし少年は、苦悩の表情で小さく首を振る。それが、一体何の否定なのか、永江にはいまいち理解出来なかった。

「いずれはこうなること、あいつだって分かってたはずなんだ」
「……え？」
「それでも離れたんだから、それなりの覚悟があったんだろ」
「……」
「でも理解出来ねぇのは、こうして俺を日本に残した事だ」
「……はあ」
「それって、未練じゃなかったら何なんだ」

　自問するような少年の言葉に、永江も一緒になって目を伏せる。
　それは未練だよ、と口走りそうになったが、事情を知らない自分が脳天気に答えるのも気が引けて、一緒になって黙りこくり、離れた場所に呆然と立ち尽くしている少女を眺める。
　彼女が縋りたい腕を、自分が持っていたらいいのに。
　なぜかそんな風に思った。多分、隣にいる少年の願いに、その溢れ出している痛切な願いに、自然と同調してしまったのだろう。

＊＊＊＊＊＊

　卒業後、万莉亜はアルバイト先の老夫婦に引き取られる。
　それまでは、自分が彼女の側について離れないのだと、蛍が固く決意した、そのたった二日後の出来事だった。
　トイレのためにとその場を離れたほんの数分で、万莉亜の姿は部屋から消えていた。

「万莉亜っ！　万莉亜ーっ！」
　寮に残っていた教師に告げた後、蛍は学園を飛び出し、彼女の行きそうな場所を求め駆け出す。しかしその直後、強い力で肩を引かれ足を止めた。
　振り返ると、肩越しに見知らぬ少年が、蒼白の表情でこちらを見つめていた。
「……何かっ？」
「万莉亜、どうしたんだ？」
　彼の名前から万莉亜の名前が出た事に若干戸惑いつつ、蛍は怪訝そうに目を細める。相手の少年は慌てて友達だと弁明し、マスターから万莉亜の監視を頼まれている、とも言った。
「……いなくなっちゃったのよ」
　ほんの少しの警戒心は残しつつ、蛍が答えると、少年は大きく口を開いたまま息を止めて凍り付いてしまう。それからすぐに蛍をなじり始めた。
「あんた親友だろ！　なんでちゃんと見てないんだよ!!」
「なっ……なんであんたにそんなこと……！　トイレに行ってたんだからしょうがないでしょう！」
「トイレって……頼むよ！　寮の中はあんたがいるから安心だと思ってたのに！」
「悪かったわね！」
　思い切り少年の体を突き飛ばし、蛍は夜の町に駆け出していく。
　その後ろ姿を呆然と眺めた後、瑛士は蛍とは逆の方向へ走り出した。

　あの日、「愛したいんだ」と彼は言った。
　とても苦しそうに、偽らざる本音を、打ち明けた。
　愛したいのに、愛せないと。
　だからどうしても、万莉亜の決意を受け止められなかったと。

　ふざけた男だと、さんざんなじってやった。
　なじって、なじって、でもやっぱり、最後は従うしかなかった。
　感情は、どうにもならない。心に、嘘はつけない。
　あいつは最低の男だ。その気にさせておいて、女を置いていく、史上最低の悪魔だ。

　それでも、悔しいけれど、万莉亜が好きなのは、クレアだ。
「……恩が、あるだろっ」
　息を切らしながら、呟いて、走る。
　愛情でなくてもいい。この際、恩返しだっていい。自分が救われたように、彼にだって万莉亜に借りがあるはずだ。あの笑顔に、一時の苦痛を忘れさせて貰ったはずだ。
「恩があるだろ！　クレア……ッ！」
　叫んで、ひた走る。

　万莉亜の監視を任されていた瑛士からの一報で、祖母の状態を知った彼らは、一時日本に帰国していた。
　予定では、今夜再び発つはずだ。
　間に合うかもしれない。間に合わないかもしれない。
　分からなくても、無駄足でも、それでも走る。

　そんな無茶をしてやる程度には、彼女の笑顔に借りがある。

PREV　　　　 TOP 　　　　NEXT