ヴァイオレット奇譚2

Chapter7◆「万莉亜―【10】」




 ひどく霧の濃い道が続く。
 誘われるように足を進め続けた万莉亜の眼前に広がったのは、見慣れた 学園の中庭だった。

 もう深夜だというのに、辺りはただただ白い。 太陽もなければ、月も見えない。分かっているのは、この中庭一帯が、白すぎる霧に包まれているということだけ。
 しかし、その風景に別段驚きもせず、万莉亜は真っ直ぐに中庭にある花壇に向かう。
 これは、今夜だけでもう二回も見た、あの夢の続きなのだろうか。

――違う。夢じゃない……
 花壇の前に腰を下ろして、万莉亜が目を丸くした。
 夢の中では咲いていたはずの花。でもここにあるのは、未来を放棄したあの緑色の芽。 何度踏みつけても天を仰ぐくせに、一向に成長する兆しを見せない、不可解な芽。
 呆然としながらそれを見下ろしていると、遠くからカラカラとバケツの中のシャベルを鳴らして、 少しだけ親しくなった校務員のおじさんがやってきた。彼は万莉亜の姿を見つけると、穏やかに微笑んで 片手を上げる。

「名塚さん。また、芽の観察かな」
 どっこいしょ、と呟いて、彼が万莉亜の隣にしゃがみ込み、シャベルを取り出す。 土を掘り返し、ポケットから無造作に取り出したいくつかの種を蒔いた。
 それを黙って眺めつつ、浮かんだ疑問を口に出して尋ねてみる。

「ねぇおじさん。私にくれたこの種は、何の花の種なんですか?」
「これかい?」
 万莉亜の前にポツンと佇む緑の芽を見て、相手が寂しそうに呟いた。
「名塚さんの芽は、なかなか伸びないね」
「……うん」
「名前は、重要ではないけどね」
「……え?」
「この花は君の花だから、万莉亜で、良いんじゃないかな」
「……」
「万莉亜」

 微笑む相手に、万莉亜が目を細める。

――ああ……そうだったんだ……
 どうして気付かなかったのだろうか。
 穏やかに曲線を描く彼の瞳の、美しいその色に。

「名前は、重要ではないんだよ」
「……おじさんの、名前は?」
 スコップの裏で土の表面をなじませながら、笑った彼の姿がよく見えない。 見えているのに、その特徴のたった一つもあげられない。

「名前は、重要ではないんだ。あれは、――が私を呼ぶただの音なんだ」
「……そうなんだ」
 大事な部分が、聞き取れなかった。
 遮る雑音などどこにもないのに、何も聞こえなかった。それでも、構わなかった。
「ねぇ、おじさんは、どうして私を呼んだの?」
「万莉亜が、還りたがっているから」
 緑の芽をさして言う相手に、万莉亜が首を傾げる。
 芽が、かえりたがっている?
「……還りたがっている。万莉亜は、ずっと還りたがっている」
「…………」
「皆還りたがっている」

――うん。私も……還りたいよ
 口には出さなかったのに、隣の人物がゆっくりと頷くのを見た。

「私ね、生まれ変わったら、またクレアさんの恋人になりたい。今度は、普通に出会うの。 家族みんなで幸せに暮らしている私と、人間のクレアさん。普通に出会うの」
「……」
「でも、だめかな。やっぱりマグナじゃないと、気にも留めてもらえなかったのかな」
「……」
「それでもいいの。人間のクレアさんが、私に見向きもしなくても、私、きっとまた好きになる気がする」
「……」
「だから、もういいの。おじさん、ありがとう」
「万莉亜」
「ありがとう」
「万莉亜」
「次に出会えたときは、あなたの名前を教えて」
「万莉亜」
「さよなら」


 万莉亜。



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