ヴァイオレット奇譚2

Chapter8◆「花葬―【1】」




 ギフトであり、カース。

 そのどちらでも構わない。私には、名前がない。
 あまたの英霊をこの身に宿し、万物を凌駕する力を持って生まれた。私には全てが揃っていたけれど、私には何もなかった。

 私について話そう。
 あの村で産まれ落ちた私が最初に見たものは、餓えと欲望と、剥き出しの悪意だった。
 四肢を砕かれ、肉を千切られながら、私は学んだ。顔が醜く歪む。彼らを真似てみたからだ。
 私は笑う。彼らが笑っていたからだ。
 
 君にだけ教えよう。
 誰かが私を始まりの赤ん坊と呼ぶ。けれどそれは間違いだ。
 始まってはいけなかった。
 誰も私に教えてはいけなかった。人の形を成したその肉が、食えることも。


 密やかに懺悔しよう。
 
 他でもない。始めたのは、この私だ。



******



 七尾学園の中庭に、真夏だというのに黒いコートを羽織った長身の男性が一人立っている。
 行き交う女生徒は彼に目もくれず、友達との会話に夢中になって通り過ぎていく。

 相変わらず異様な光景だなぁと苦笑しながら、遠目で見ていたリンが彼に近寄った。
 素早く振り返ったルイスは、相手の姿を認めるとほっと安堵したように表情を緩める。

「おう。ハンリエットにお前はここだって聞いてな」
「リン、姿を隠してください」
 眉をひそめてルイスが言う。行き交う女生徒が、たった一人で異国の言葉をしゃべり出した大柄の 男性を、変質者でも見るような目つきでジロジロと睨んでいる。
「そう思ってたんだけどな。別にいらねぇだろ。危ない奴だと思って近寄っちゃこねーよ。よく訓練されたお嬢さんたちだ」
「……」
 むやみやたらに力を使いたがらない彼に、しばらく不服そうなまなざしを向けた後、諦めて視線を足下の花壇に戻す。 つられるようにして視線を落としたリンが、色とりどりに咲き誇る花を見て首を傾げた。
 何の変哲もない小さな花壇には、平凡な花が咲き揃っていたが、どういうわけかリンはその内のたった一つでさえ 見極める事が出来なかった。何の変哲もない花だ。なのに、特徴の一つも挙げられない。見えているのに、 見えている気がしない。

「……なんだこりゃ」

 言いながら目をこすってもう一度見つめる。それを何度繰り返しても、その花びらの色すら言葉に出来なかった。

「これがあなた方の言う、始まりの赤ん坊ですよ」

 サラリと告げたルイスに、一瞬遅れてリンが息を呑む。瞬きもせずに黙りこくってしまったリンを 横目で盗み見て、ルイスが苦笑した。

「……これが、……セロなのか?」
 神妙に呟かれた彼の言葉に、ルイスは首を振って否定する。
「いえ、違います。……いえ、そうなのかも。私には、よく分かりません。彼はあらゆるものを 媒体に生きている。この花が彼であるとすれば、この学園も彼自身だ」
「…………」
「セロに、会いに来たんですね」
「……ああ。万莉亜を、返して貰わないとな」
 そうですかと頷いて、ルイスが小さなため息を零す。花壇に釘付けになっていたリンの視線が、 そこで再びルイスに向けられた。

「……私には、どうしてクレアがそう思ったのか、分かりません。セロは、今までにたったの一度でも、 自ら我々に干渉してくる事はなかった。彼は、傍観者であり続けていた」
「お前は、俺なんかよりよっぽど詳しそうだな。……いつからセロの存在を?」

 リンの質問に、ルイスはゆっくりと顔を上げる。相手が驚くほどに穏やかに微笑んだ彼は、 古い思い出を反芻するかのように目を伏せながら「ずっと昔から」と小さく笑った。

「私は、クレアの最初の枝でした。彼が初めてここ日本に流れた着いたとき、その側にはすでに私が」
「…………」
「そして、私たちは一組の夫婦に出会いました。妻の名前は、七尾タエ。男性には、名がありませんでした。 彼女はそんな彼を、セロと。今思い出してもおかしいのですが、まるで犬のように呼んでいました。 よくそのことでクレアは彼をからかいましたが、……ムキになって怒る彼は、とても人間らしかった」
「ちょ、ちょっと待てよ……話が、見えないんだが……」
 混乱し始めた相手に、「そうですか?」とルイスが首を傾げる。
「セロは、食われたはずだ! でなけりゃ俺たち末裔が生まれるわけ無いだろう」
「……」
「そ、そうだろう?」
「始まりのカニバルで、最後に喰らったのは、セロです」
「……」
「自我のない赤ん坊は、まるで鏡のように目の前の悪意を真似ました。そして同時に喰らう事を覚えた。 彼は三十人の男に体を喰われながら、同時に男たちを喰っていた。肉を喰われる事で、体内から彼らを侵食し始めた。 そして、第一世代の体をまんまと乗っ取った」
「……っ」
「彼が乗っ取った体は、三十人いた兄弟の、末の弟だそうですよ」
「……セロが、自分で言ったのか?」
「昔の彼は、よく喋りよく笑う男でした。まるで、言葉を覚えたばかりの子供のようで、微笑ましく思ったのを覚えています」

 唐突なルイスの話に、いくらかは心の準備をしてきたリンも、動揺を隠しきれずに俯いた。
 始まりの赤ん坊の存在はいつか聞かされたクレアの話で知っていた。それが、 生きているかもしれないということも、百歩譲って認めてもいい。

 しかし、"それ"がここ日本で女性と共に平穏な生活を営んでいたとなると、にわかには信じがたい。

「あの頃のセロは、血を分けた末裔のクレアをよく気にかけていました。私たちは、 ひとときを共に過ごし、七尾タエの死をきっかけにして別れました。クレアはタエによく懐いていましたから、 彼女のいないこの場所に耐えられなくなったのでしょう。それから四十年、新たに作り出したハンリエットとシリルを 連れて私たちは再び日本、いえ、この場所に帰ってきたのです」
「……それで、この学園を……?」
「そうです。子供たちに学ぶ場を与えてやりたいと、そう願っていたタエのために。クレアは認めませんが、 おそらくはそうなのでしょう」
「……」
「この学園を建てて、数日もしないうちです。フラリと現れたセロが、この場所に花壇を作り、花を植えました。 タエが死んで、セロは無口になりましたが、たまにクレアとだけは会話をしているみたいですね」
 ほんの少しだけ不服そうに眉をひそめたルイスに気付かないまま、やっとのことで瞬きをした リンがへなへなとその場に腰を下ろす。
「……どうりで、狙われるはずだ。万能の神を、独り占めってことか」
「まさか。セロは私たちに干渉してきたりはしません。クレアと彼はたまたま同じ場所に執着しているだけなんです。 だから万莉亜さんのことも、私にはどうしても彼が関わっているとは考えられないのです。 ……セロはタエが死んで、本当に変わってしまった。全ての事柄に、無関心になってしまいました。クレアとセロは、 敵同士ではありませんが、支え合う仲間とも違います。そうでは、ないんです」
「…………」

 ルイスはそう言うが、端から見ればやはりクレアの存在は同胞の嫉妬を買うだろう。
 セロは魅力的だ。どの世代にも到底及ばない、不可能をも可能に変えてしまう力がある。
 それを分かっていて、それでもこの地にいる事を選んだクレアと、彼の側に舞い戻ってきたセロ。
 思い出に縋っていたいのは、不死の化け物も同じなのだろうか。

――人間くさい奴なんだな……

 得体の知れない化け物が、妙にそのシルエットを明確にして行く。
 リンの脳裏に、覚え立ての感情にはしゃぐ一人の男の笑みが浮かんでは消えた。
 おもむろに顎に手を当て考える。

 なぜだろうか。
 もし自分が彼だったとして、果たして何のために万莉亜に手を出す必要があるのだろうか――?



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