ヴァイオレット奇譚２

　　　　ヴァイオレット奇譚２

Chapter7◆「万莉亜―【３】」

「救いようのない馬鹿だな」
　泣き疲れて眠ってしまった少女を抱きかかえて部屋から出てきたクレアの姿を見て、思わずリンが本音を零す。クレアはそんな彼に言い返す事もなく、黙って車に乗り込んで、小さくため息をつく。
「……どうしたらいいのか、全然分からない」
「予定通り俺を使って彼女の記憶を消すか？　家族を失った痛みとともに、お前の存在もそれで綺麗さっぱりだ」
「……」
「あんまり非人道的な事をさせないでくれよ」
　車のキーを回しながら呆れたように呟いたリンとバックミラー越しに目が合う。途端に、運転席のリンが小さく吹き出した。
「ひどい顔だ。自慢の美貌が台無しだぞ」
「……だから嫌だったんだ。会ったところで、どうしろって言うんだ」
「知らんよ。……手に余るなら、その辺の道ばたに捨ててくか」
　少女の体を強く抱きながら物凄い形相でこちらを睨み付ける男の顔がミラーに映る。「冗談だ」と慌てて付け加え、しかし少しの間を置いてリンは振り返り、いまだ表情を強張らせているクレアを覗き込んだ。
「……それが、お前が彼女にした仕打ちだ。ちゃんと分かっているのか？」
「…………」
「アンジェリアと運命を共にすると決めたお前に、俺は力を貸すと決めた。でも、今のお前を見ていると不安になるよ。……ちゃんと、心は決まっているのか？　その子を、道ばたに捨て去る覚悟を、決めたんだろう？」
「……祖母は、彼女の心の支えだった」
「だから何だ。人はいずれ死ぬ。その子だって、今は落ち込んでいても、いずれ乗り越える。お前がいなくとも、立派に乗り越えるさ」
「……」
「情に絆されるなよクレア。お前はいつもそれで失敗をする。俺はいい加減気付かされたよ。お前はアンジェリアに始まり、あの女に終わる宿命だ。昔っからちっとも変わっちゃいねぇ」
　責めるわけでもなく、ただ淡々と放ち、リンはゆっくりと車を走らせた。
　それでも、視界の隅でミラーの端に映る俯いたままのクレアをちらりちらりと捉える。

　彼が本当は何を求めているのか、ずっと知っていたのに、あまりにも後ろ向きに思えたその悲願を認めるのは悔しくて、自分勝手な希望の押し売りを続けてきた。
　皆、誰かの生き様に希望を託している。
　そうでもしないと、手探りの永遠はあまりにも恐ろしくて、たまらない。
　変われるのかも知れないと、幸せになれるのかも知れないと、錯覚させてくれる誰かの生き様。きっとクレアに押しつけていた。そしてクレアも、同種である誰かの姿に希望を見いだそうとしていたに違いない。でもそれは時に諸刃の剣となって、共倒れを引き起こす。いともたやすく、心を手折る。

――「……どうしたらいいのか、全然分からない」
　あれは、彼の偽らざる本音だろう。
　三百年以上もの時を超えた後ろの化け物は、本質的には、十八歳の子供だ。いつだって、途方に暮れたまま、行き先を探している。自分に手を差し伸べた、あの女の後ろ姿を探している。
　その一方で、大切そうに抱えている少女への、その責任を、放棄するわけにはいかないと、なけなしの誠実な心が己を責める。

「……クレア。お前の決断に嘘がないのなら、お前の長い人生に近々終止符が打たれる事になる」
「…………」
「我を通せ。今すぐ日本を発つならそれでもいい。俺は黙ってどこまでもついて行く。一時的であれ彼女に誠実でありたいのならそうしろ。あまり悲観するな。心配ならお前亡き後、俺が彼女の行く末を見守ってやったって良い」
「……」
「もう最後だ。お前の欲ってやつを、全部吐き出してから死ね。史上稀に見る自分勝手な化け物だったと、後世に語ってやる」

　返事はなかったが、それでも構わないと、リン・タイエイが一人頷いた。
　心のままに生きろと、もっと早く言ってやれば良かった。付け焼き刃の希望を押しつけずに、あの女と二人、手に手を取って墜ちていくのならそれもいいんじゃないのかと、もっと早く言ってやれば、何かが違っていたのかも知れない。抱えきれない絶望に涙でまぶたを腫らした少女が、彼のために小さな胸を痛めるような事もなかったのかも知れない。
――……ったく……
　いい加減嫌気がさしてきた。
　永遠の未来が待っている化け物のくせに、揃いも揃って過ぎ去った過去ばかりを悔やむ。
　いつだって、誕生のその瞬間から、過去をばかりを悔やんでいる。

＊＊＊＊＊＊

　持って行き場のない怒りを、祖母に向けた。
　今でも鮮明に覚えている。
　家族を失った痛みは彼女も同じだったというのに、幼い万莉亜にそれを思いやる余裕などあるはずもなく、全ての怒りを祖母に向けた。

　心の舵を手放す事が、あの時の万莉亜にとって、たった一つの逃げ道だった。
　いずれ後悔すると分かっていて、凶悪な心の声に耳を傾けた。

　誰かを傷つけてやりたかった。
　全てが憎かった。

　そんな自分が、大嫌いだった。

　まぶたを閉じていても分かる強烈な日差しに、抵抗するのをやめて目を開ける。
　よほどの熱帯夜だったのだろう。全身にかいた汗で衣服が肌にまとわりつき、気持ちが悪い。
「……っ」
　頬や首筋にはりついた髪を指ではらい身を起こす。
　今日も現実がやってきた。分かったのは、それだけだった。

「……ここ、は……？」

　見慣れないベッドの上から、室内を見渡す。
　ふと窓際に目をやれば、分厚い遮光カーテンが日差しを完璧に遮断していて、たったそれだけの共通点ではあるが、ほんの少し、それがかつての理事長室を思わせた。
　学校の事、蛍の事、色々と考えなくてはならない事があるはずなのに、萎えた心は全てを放棄し、万莉亜はおぼつかないままの足取りでカーテンを引き、窓を開け放つ。
　忌々しいほどの快晴。
　祖母が死んでも、それがどれだけ辛くとも、世界は素知らぬ顔で回り続ける。
　両親が死んだ時も、同じような事を思い知らされた。
「……おばあちゃん」
　もういない。
「お父さん……お母さん……」
　誰もいない。
　とても疲れた。

　何も考えられないまま、窓の手すりから身を乗り出して下界を見下ろす。胃が縮み上がるような高さにも、恐怖感じられない。この世に、怖いものなど何もなくなってしまった。
　年を取ると、怖いものが減っていくと、かつて祖母が言っていた。
　今なら分かる。あらゆる痛みに遭遇し、心が鈍感になってしまうせいだ。

「万莉亜」

　呼ばれると同時に体が宙に浮き、背後から音もなく伸びてきた腕が、そのまま彼女を手すりの内側に引き戻す。優しい声色とは裏腹に、まわされた腕は痛いほどに力強く、万莉亜が思わず小さなうめき声を上げた。
「……何してるの」
　振り返れば、万莉亜に負けず劣らずと悲愴な面持ちのクレアが、彼女の腕をがっちりと捕らえながら言う。そんな彼をぼんやりと見上げながら、答えるのも煩わしそうに万莉亜がもう片方の手で彼の腕に爪を立てた。
　剥き出しの敵意と、わずかな痛みにクレアが眉をひそめる。
　それでも腕を放さないでいると、その内彼女は涙を浮かべた瞳で相手を睨み付けた。

「……触らないでください」
「部屋の中に戻ったら放すよ。戻らないなら放さない」

　しばらく睨み合って、やがて諦めたように万莉亜が頷くと、一瞬彼の腕から力が抜ける。その一瞬の隙に、万莉亜はクレアから逃れ、手すりの向こうへと体を反転させた。
「えっ……」
　しかし、どういうわけか途端に下半身から力が抜けて、その場にへたり込む。
　全く力が入らない。

「マリアさん」

　低い声が、彼女の名を呼ぶ。
　初めから部屋の中で二人のやり取りを傍観していた男が、見かねて窓際から少女の体の自由を奪った。触れもせず、声も出さず、彼はただその意志だけで、男の存在すら気付いていなかった少女の体をコントロールしてしまった。
　驚き、全く事態の把握出来ない万莉亜に、男が自分の瞳を指さして教える。まぶたの奥で、バイオレットの瞳が彼女を映した。
「ワタシ、リン・タイエイ、といいます」
　彼を昨夜も見た気がする。
　アジア系だろうか。日本人にも見まごう彼の容姿からは少し意外なほどにぎこちない言葉。これも、昨晩、確かに聞いた。
「マリアさん……ごめんなさい」
　申し訳なさそうな彼の表情にポカンと見入っていると、再び体を持ち上げられ、万莉亜はクレアの腕によって室内へと運ばれる。

　昨晩の記憶は、途切れ途切れにしか残っていなかった。
　どうして彼らがここにいるのか、何をしに来たのか、あんまりよく思い出せない。
　しかしそれも、今の万莉亜にはどうだって良い事だ。
　ただ、好き勝手に彼らにコントロールされている事実だけが、腹立たしい。

「やめて」

　ベッドの上に体を寝かされながらも、万莉亜が涙を浮かべて訴える。
　憐れむような二人の視線が、余計に苛立ちを募らせる。

「どっか行って……一人にして……」
「……マリアさん、ツライの、は、わかります」

　おずおずと切り出した男に、反射的に手元の枕を掴み、自由になる上半身でそのまま彼に投げつける。仰天した男が、目をぱちくりさせながら飛んできたそれを抱きしめた。

「何が分かるのっ！　何も知らないくせに、そんなこと言わないでっ……!!」
「マリアさ」
「私の足を返してよっ!!」

　鬼の形相で睨まれて、困り果てたリンがクレアを見やる。
　静かに青年が頷いたのを見て、リンが瞬きと同時に彼女の体を解放した。
　しかし自由になったのも束の間、すぐさまベッドから飛び降りようとした万莉亜の体を、間髪入れずにクレアが両手で押さえつける。
　負けじと万莉亜も力を込めるが、悔しい事に体はビクとも動かない。
　鼻先がぶつかりそうなほどの至近距離で睨み合いながら、このまま縋り付きたい衝動に駆られてしまいそうな自分を叱咤して、万莉亜が歯を食いしばった。
「……放してっ」
「お祖母さんは、こんなこと望んでない。あの人は最後の最後まで、君の未来に想いを馳せていたんだ。万莉亜……頼むから……」
「…………」
　溢れ出した涙が、万莉亜の頬を伝う。
　その内少女が顔を覆いしくしくと泣き出したのを見て、静観していたリンが胸をなで下ろした。
　別段頼まれもしなかったので部屋には細工をしていなかったが、今の彼女には十分な凶器となりうるあのベランダをどうにかしないといけない。
　目くらましは得意分野だ。
　そう思って窓際へ一歩踏み出すと、クレアが彼の名を呼んで制止する。
「僕が、ついてるから」
「しかし……」
「大丈夫」
――そんな頼りない声で言われてもな……
　言葉にしかけて、飲み込む。
　クレアなりの誠意だろうか。相変わらずまどろっこしい。
「……しっかりな」
　不安をたっぷりと残しながら、そう言ってリンが部屋を後にする。

「万莉亜……」
　静寂の中、クレアがそっと名前を呟いたとき、万莉亜はすでに眠っていた。

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