ヴァイオレット奇譚2

Chapter7◆「万莉亜―【4】」




 リンが部屋を出ると、腕組みをして待ち構えていたハンリエットが、不安げに赤い瞳を揺らして 彼をじっと見上げる。
「ハンリエット? どうしたんだ?」
「……万莉亜は、大丈夫なの?」
 そうではないと分かっていて、堪えきれずに尋ねた彼女を見て、随分懐いているのだなとリンが感心半分に目を見開いた。
 
 突然香港にやってきたクレアと合流してから約四ヶ月。
 その間、同行していた枝たちが日本に置いてきたマグナについて何か語る事はなかったから、その程度の付き合いだったのだろうと 勝手に解釈していたが、どうもこちらの勘違いだったらしい。

「万莉亜が心配かい?」
「……置いてきたのは私たちよ。今更……どの面下げて心配したらいいの……」
「置いてきたのはクレアだ。君たちに責任はないよ」
「同じよ。お父様の意志は、私たちの意志だもの。私も……万莉亜を裏切ったの。……みんな同罪よ」
「……なるほど」
 枝を作った事はないが、やはりそうしてきて正解だったとリンは苦笑する。
 こんなに純粋で愚かな生き物を生んでしまう業の深さに自分は耐えられそうもない。

「彼女の様子を見る限りじゃ、もうしばらくこのホテルに滞在することになりそうだ」
「……」
「まぁいいさ。俺としちゃ南極行きがポシャってくれてありがたいくらいだ。寒いのは苦手なんだ。 日本の猛暑の方がいくらもありがたいよ」
「そう」
 努めて楽観的に語る相手に、ハンリエットはうっすらと笑みを浮かべて返す。
 本当は今すぐにでも扉を開けて万莉亜の様子を確かめたい。駆け寄って抱きしめてやりたい。でもそれは出来ない。 遅かれ早かれいずれ旅立つのだ。今対面してしまったら、もう一度彼女を捨てなくてはならなくなる。さすがに、耐えられそうもない。
 それ以上に、今更自分たちが顔を見せたところで、たった一人の身寄りを亡くした彼女の励ましになるとも思えなかった。 それを思い知らされるのが怖いのかも知れない。

「情に厚いのは親譲りか? いちいちマグナに感情移入していたら身が持たないだろう」
 嫌味ではなく、心底労るようにしてそう言ったリンに、ハンリエットが少し考えて首を横に振る。
「万莉亜はマグナじゃないもの」
「……」
「万莉亜はお父様のたった一人の恋人だったの。だから私、あの子とは生涯付き合っていくんだって思ってた。 シリルだって、……本当によく懐いていたわ」
「恋人ねぇ」
「でも……お父様はやっぱりアンジェリアを選んだのね。もちろん、それに異論なんて無いのよ。 お父様が愛した女性だもの。異論なんて……ないけど」
 言葉とは裏腹に不満たらたらの彼女を見下ろして、苦笑する。
 アンジェリアは彼らを枝にする以前のクレアの過去だ。彼女について何も知らない枝たちには、おそらく 他人も同然だろう。理解するのはきっと容易ではない。

「ハンリエット。君たちは大きな誤解をしている」
「……え」
「アンジェリアはクレアの母親だ」
「…………」
「あいつがアンジェリアに出会ったとき、アレがいくつだったのか知っているか? たったの十二歳だった。 世の中の事を何も知らない無垢な子供だった。それから六年、社会から隔離されたままあの女と二人きり。クレアの世界の全ては、アンジェリアが構築したも同然だ」
「……」
「まともに育ったとは思えないよ。あいつは、根底の所で歪んでいる。その歪みから、抜け出せないでいる。 だけど俺は、もうそれしかないのなら、それも致し方ないと思うんだよ」
 きっと、根深いに違いない。
 それを、愛と呼ぶにはいささかの抵抗もある。けれど、少なくとも、アンジェリアにとっては純愛だったに違いない。 そして少年の心に植え付けられたのは、純愛という名の狂信。

「恋を知ってしまったのは、あいつにとっては悲劇だったのかも知れないな。……それはきっと、 神様への反逆行為なんだろう。……つまり、選択肢なんて最初から無かったんだ」
「……」
「あいつはこのままアンジェリアを探すべきだ。これ以上、あの子のような被害者を増やしたくないのなら、そうすべきだよ。 あの子なら大丈夫。いずれ時が解決してくれるだろう」
「……分からないわ」
 黙りこくっていたハンリエットが、突然厳しい表情を相手に向けて反論する。

「あなたが思うほど人間って強くないのよ。しゃがみ込んだまま、二度と立ち上がれなくなってしまう人は たくさんいるわ。いずれ時がだなんて、簡単に言わないでよ。誰しもが、立ち直れるとは限らないんだから、 そんな風に簡単に言わないでちょうだい!」

 目をぱちくりさせているリンを睨み付けてから、ハンリエットが足音も荒く去っていく。
 その後ろ姿を眺めながら、本当によく懐いているのだなと再び感心させられた。

――……万莉亜

 数いたであろうマグナの内の一人だと思い、必要以上の興味は抱かなかったが、今更になってその少女について 考えてみる。泣き顔しか浮かばない。それでも、笑えば愛らしい少女に違いない。
 
 クレアは、彼女のどこに、希望を見いだしてしまったのだろうか。



******



 一行が短い滞在のつもりで宿泊していたホテルの一室で、万莉亜は浅い眠りを 繰り返していた。
 たまに起きても、焦点の定まらない瞳で呆然と部屋の壁紙やそこに飾られた絵画を眺めるだけで、彼女が 何か言葉を発すると言う事は殆ど無い。
 少し離れた窓辺のソファからそんな少女を監視するように眺めているクレアの存在も、気にしているようには見えなかった。

「万莉亜。何か食べよう」

 寝たり起きたりを繰り返す彼女が、再び体を起こしてぼんやり壁を眺めだしたとき、ずっと堪えていた台詞を告げて クレアが立ち上がる。
 万莉亜を保護してから丸一日経った。
 諦めたのか不審な動きこそしなくなった彼女だが、ここへ来てから一切の食べ物を受け付けていないのを、静観しているのも限界だった。
 実際、別れた四ヶ月前に比べると、彼女はだいぶ痩せ細り、一回りほど小さくなっている。 その原因の殆どを担っているのが他でもない自分だったとしても、遠慮して口を噤むわけには行かない。

 しかし予想通り、万莉亜はその言葉に何の反応も示さず、やがて全てを遮断するように再び横になって シーツを引き上げる。
 クレアはツカツカとベットに近寄り、そのシーツを思い切り剥いだ。
 自分に腹を立てているのならそれでいい。けれど黙って様子を眺めている内に、彼女の無意識の中にある強い決意に 気付かされた。
 あれだけ泣いても、たった一滴の水分すら欲しがらないその無意識の決意。

 遠慮をしている場合ではないのかも知れない。
 どの面下げてなどと悩んでいる間にも、万莉亜は静かに、けれど確実に、一歩一歩死を求めて歩き始めている。

「何か食べたいもの、ある?」
 驚きに目を見開いてこちらを見上げる少女にたずねてみる。
 返事の代わりに、飛んできたのは彼を払いのけようとする万莉亜の力の抜けた平手だった。 結局それはクレアまで届かず、そのまま彼女の胸の上に落ちる。
「……どっか、……行って」
「何か食べてくれるまではどこにも行かない。ずっとここで君を監視してるよ」
「…………」
 無力な少女が、苛立ちと悲しみでまたしくしくと泣き始める。
 引いてはいけないと分かっているのに、そうされると万策尽きてしまうクレアが、またため息をついて乱暴に引き剥がした シーツをそっと肩までかけ直した。

 どうしたらいいのだろう。
 クレアは俯いたまま、再び聞こえてきた万莉亜の寝息に耳を澄ませる。
 彼女の祖母は、かつて絶望の淵に経たされた万莉亜に、再び笑顔を与えた。

 それは本当に途方もない偉業だったのだと、今になって思い知らされる。



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