ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【1】」




 目覚めた万莉亜は、ベッドの横でボロボロと涙を零していたシリルと、複雑そうな顔をしていたハンリエットを 交互に見やり、すっかり固くなってしまった顔の筋肉を、それでも何とか持ち上げて、少しだけ彼らに微笑んで見せた。
 かける言葉も、かけられる言葉も、特になかったように思う。

 ここに彼が居ない事は分かっていたし、戻ってくる保障がない事も知っていた。
 それでも、クレアの体の一部であるはずの枝たちが、まだこうして意識を保ち、とっくに腐敗しているはずだった体を 自由に動かしていることだけが、ほんの少しの救いだった。

 短いようで長かった、万莉亜の旅もそこで終わった。



******



 季節は12月。

 トーストを焼いただけの遅い朝食を済ませた後、厚手のコートを羽織り、蛍は寮を後にした。待ち合わせは 午前10時。まだまだ余裕はあるはずなのに、予定より2本も早いバスに乗り待ち合わせ場所に急ぐ。 冬の凛とした空気が肌に痛い。マフラーを忘れた事に、今更気がついた。

 しかし、待ち合わせ場所である駅前の大きな時計塔の下で、灰色の空を見上げながら、白い息を吐く万莉亜を見つけた時、 やはり急いで正解だったなと一人安堵した。待たせている気がした。約束の時間よりも、ずっと早く。 じっと空を見上げながら、彼女が待っている気がした。

「蛍」
 蛍の姿を見つけて、万莉亜が微笑む。ゆっくりとこちらへ歩を進める彼女は、蛍にも負けないくらい厚着をしているというのに、 それでもなお華奢に見えてしまうその姿が痛々しかった。

「どうだった? 新しい家」
 近くの喫茶店に入り、温かい紅茶が運ばれたところでそう切り出せば、白いカップを両手で包んでいた万莉亜が、中身に視線を 落としたまま静かに頷く。
「すごく優しくしてくれてる。マスターも、奥さんも」
「そう。良かったね」
「うん」

 気の滅入るような暑い暑い夏の日に、たった一人の身寄りを亡くした万莉亜は、アルバイト先である喫茶店の主人の家へと 引き取られる事になった。全寮制である学園を卒業したら、彼女は老夫婦の養子として迎えられる。今回の数日間の滞在は、予行演習として マスターが言い出したもので、結局万莉亜は冬休みいっぱい彼ら老夫婦の元で過ごす事となった。

 寮生活最後の冬休みに、親友が不在なのは寂しい。しかし、その胸の内を素直に吐露した後で、蛍は万莉亜を送りだした。 すぐそこまで迫っている未来のために万莉亜は基盤を固めようとしている。笑って協力してやりたかった。

 なのに、相変わらず万莉亜の顔は晴れないもので、ほんの僅かな希望をも打ち砕かれた気分になった蛍はそっとため息を零した。
 たった一人の祖母の死は、彼女にぬぐえぬ傷痕を残してしまった。万莉亜は、こんな風に影の残る笑みを浮かべたりはしなかった。

「お正月は、どうするの? いつ寮に戻るの?」
「うん。そろそろ、戻ろうと思ってる。クリスマスが終わったら、一度戻るよ」

 そうなんだ、と頷いて蛍がまだ湯気の立つカップに口をつける。それほど長く滞在するつもりが無いらしい事を知って、 安心した反面、不安にもなる。やはり、善き隣人はあくまで隣人であり、家族にはなり得ないのだろうか。窮屈な思いを、 万莉亜がしていないと良いけれど。
 
「おい、万莉亜」

 背後からかけられたぶっきらぼうな声に、つい怪訝な面持ちで蛍が振り返る。
――また出た……
 邪険にする気持ちが顔に出てしまったのか、突然現れた少年が、つり目がちな瞳をこちらに向けてジロリと睨む。

「え、瑛士くん」
 慌てて立ち上がった万莉亜が、情けない声を出して少年の名を呼ぶ。瑛士と呼ばれた少年は、ブツブツとなにか言いながら 二人の席の前に立ちはだかった。
「出かけるなら出かけるって言えよ。探しただろ。俺が迷惑するって考えなかったのか?」
「ごめんね。だって瑛士くん、……寝てたから」
「そりゃ寝てるだろ。朝なんだからな」
「ごめんてば。でも今日は蛍と会うって、言ってあったでしょ?」
「だから俺を起こせよって、言ってあっただろ」

 すっかりやり込められてしゅんとする万莉亜を見て、むかっ腹が立つ。何なのだ。このガキは。

「ちょっとあんた」

 我ながら棘のある声で割り込む。

「たかだかアルバイトの分際で、なんなの? 何様のつもり?」
「蛍には関係ないだろ」
「あんたにはもっと関係ないでしょ。万莉亜の彼氏でもないくせに、我が物顔はやめてよね」
「……別に、やりたくてお守りしてんじゃねぇよ」

――お守りですって?

 どうみたって中学生かそこらの彼が、万莉亜のお守り。ちゃんちゃら可笑しくて、蛍は失笑してしまう。一方的に つきまとっているようにしか見えない。

「しんじられない。なんでマスターもこんなガキ雇うのかしら。何の役に立つのコレ。目つきも悪いし、 愛想もないし」
「お前に言われたくねぇっつーの」

「二人とも、喧嘩しないで」
 まぁまぁと諫める万莉亜の前で、天敵同士の二人が睨み合いを続ける。
「瑛士くんは弟みたいなものだから。心配してくれてるだけなんだよ。ね、だから……」

 祖母が亡くなったあたりからやたら神出鬼没に現れるこの少年を、蛍はまだ許容出来ずにいる。でも、 万莉亜は違うみたいだ。詳しくは話してくれないけれど、「アルバイト先の知り合い」を大きく逸脱した過保護な少年を、 万莉亜は旧友のように受け入れ、側に置く。言葉にはしないけれど、万莉亜と瑛士の間にある割り込みようがない強い絆を、 感じずにはいられない。そのたびに、遠ざかっていく親友に蛍の胸は痛むのだ。

「ハンリエットが言ってたぞ。クリスマスは帰ってこねぇのかって」
「……うん。帰りたいんだけどね、マスターが準備に張り切ってるから」

 まただ。
 聞き慣れない外国人の名前。何度聞いても、覚える事が出来ないのはなぜだろうか。

――「それでいいの。覚えちゃいけないの」

 以前、蛍の問いに寝ぼけ眼で答えくれた万莉亜の言葉。あの時は理解出来なかった。でも今、 その通りなのかもしれないと、記憶力の悪い自分を嘲る。
 何度聞いても覚えられない名前。何度も何度も聞かされて、その回数の分だけ忘れてしまう。覚えてはいけない名前。 きっと、忘れなくてはいけない名前。そんな気さえ、してくるから不思議だ。

「じゃあ私、そろそろバイトの時間だから行くね」
 時計を気にしたそぶりを見せてから、蛍は立ち上がる。咄嗟に申し訳なさそうな表情を浮かべた万莉亜に微笑んで、 財布から小銭を取り出し、それを彼女に手渡した。
「今日は新人さんが来るから、少し早めに行って色々教えてあげなきゃいけないんだ」
「あ、そうなんだ」
 僅かに安堵した様子の万莉亜が頷く。
「偶然なんだけど、第一志望が一緒でさ、今度一緒に勉強する約束してるんだ。そのうち万莉亜にも紹介するね」
「……男の子?」
 少し躊躇った後「そう」と素っ気なく言った蛍に、やっとのことで万莉亜が破顔する。妙に嬉しそうに にやにやする万莉亜に、蛍は口を尖らせた。
「違うから。そういうのじゃないから。全然」
「今度紹介してね。それと、勉強も頑張って」
「……うん。またメールするから」

 卒業を控えた3年生の7割以上が進学組という中で、未だ就職先すら見つかっていない万莉亜は、慌ただしく冬休みを過ごす 周りからは少し浮くほどにのんびりと過ごしている。蛍は、そんな彼女が疎外感を感じないようにせっせと連絡を取って 時間を見つけてはこうして会いに来てくれる。

「あいつって良いやつだよな」

 蛍が去った後、ぼんやりと呟いた瑛士の言葉に、万莉亜はゆっくりと頷いた。
 こんなにも真っ直ぐに愛してくれる友人を、長い人生の中で一体どれほどの人が手に入れられるというのだろう。 神様は万莉亜から両親を奪ったけれど、かけがえのない友人を与えてくれた。
 たくさん奪われ、たくさん与えられる。人生は、その繰り返しなのだ。

 ふと視線を感じて正面に座る瑛士を見やる。
 つり目がちな瞳を細めて不安げにこちらを眺めている少年。彼もまた、万莉亜に与えられた優しい運命の一つなのだろうか。

「ハンリエットも、シリルも元気だぞ。ルイスは、まだ日本に戻ってきてないからわかんねぇけど」
 元気だろ。
 そう言って瑛士が俯く。気遣いに、胸が温かくなるのを感じた。

「あいつら三人がピンシャンしてるのが、何よりの証拠だ」
「……うん」
「すぐ帰ってくるさ。帰ってきたら、俺が代わりにぶん殴ってやっても良いぞ」

 それは困るけれど、俯いたまま、ふてくされたように言う瑛士が可愛くて、ついつい微笑んでしまう。

 運命は。
 宿命は。

 万莉亜の人生から、かけがえのないものを奪い、かけがえのないものを与えてくれる。
 長く続く痛みを、払拭するためだけに、乗り越えるためだけに、数いる人間のそのいくらかは、膨大な力を惜しみなく 使い、命の全てをかける。
 そして過去を乗り越えるためだけに消費した、生涯を終える。

 それはとても愚かな行為だと、あの日の瞳が教えてくれた。
 そんな愚か者が、とても愛しいのだと、あの日の瞳は教えてくれた。

 真っ当にしか生きられない。
 この体に負った傷を、いつか癒すのだと、泣きながら突き進むその姿が、その真っ当さが、眩しくて、 ほんの少しの理をねじ曲げる程度に、愛しているのだと。



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