ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【2】」




 万莉亜のためにと開催された夫妻のクリスマスパーティーは、始終和やかに過ぎていった。
 マスターの奥さんが作ってくれた手作りのチョコレートケーキは美味しかったし、 貰った腕時計のプレゼントは、「卒業祝いもかねて」という事で、社会人でも中々手が出せない高級なブランドの物だった。 予想だにしないことで、万莉亜はつい萎縮してしまったが、結局はそれを受け取って何度も何度も礼を言った。
 夫妻は、そんな彼女を ずっと穏やかな笑顔で包んでくれた。それが、とても嬉しかった。

「俺にはねぇの。プレゼント」

 夜10時。迎えに来た瑛士に開口一番にそう催促されて、万莉亜は用意しておいた包みを 鞄から取り出す。それを手渡すと、面食らった様子の瑛士が目をぱちくりさせてプレゼントと万莉亜を交互に見比べた。

「どうしたの?」
「いや……ほんとにあると思わなくて」
「あるよ。ちゃんと用意してました」

 ふふ、と笑って万莉亜が開けるように催促する。中から出てきたのは落ち着いた緑のマフラーだった。
――まさか手編みじゃねぇだろうな……

 既製品にしては、編み目が粗い。おそらく、手編みなのだろう。大きな包みを鞄に無理矢理突っ込んでいるその 様子を見る限り、枝達の分も用意してありそうだが、まさか全員分のマフラーを編んだのだろうか。

 瑛士は、マスターの家に世話になっている間、万莉亜がどうやって一日を過ごしているのかを知らない。 彼は、万莉亜が外出するときにだけ護衛としてついて歩くだけで、後は大抵バイト先である喫茶店の休憩室で、仕事をしたり 暇を潰したりしている。アルバイトをする必要のない万莉亜は、きっともっと暇を持てあましていたのかも知れない。

 彼女は、この先について語らない。リミットは刻々と迫ってきているというのに、 万莉亜は明日の事でさえ語ろうとはしない。
 きっと、本人だってどうしたらいいのか分からないのだろう。瑛士にだって分からない。それは枝も、きっと同じ。ただ皆、 灰色の空を日がな見上げながら、不在の主人を待ち続けている。



******



 枝たちに会うために、万莉亜が向かったのは学園ではなく、そこから僅かに離れた場所にあるホテルだった。
 彼らはもうずっとそこに滞在して、未だ身動きが取れない状況にある。この国にはもう二度と戻らないと決めた矢先のあの夏、万莉亜の祖母の急死に、 慌て舞い戻ってきただけの借宿だったはずが、主人不在の今となっては、勝手に住居を変えるわけにも行かず、ハンリエットとシリルの二人は、変わらずそこで 終わりの見えない日々を過ごしていた。

「いらっしゃい」

 やってきた万莉亜を、ハンリエットが笑顔で迎える。どこか気だるげに 万莉亜を招き入れる彼女は、寸前まで横になっていたのだろうか。きっとそうに違いない。

 枝は眠らない。けれど、せめて無駄な体力を消費しないようにと、ハンリエットもシリルも長い一日を横になって過ごす。 この空の続く先にいるはずの主人の、負担にならぬようにと、二人は極力体を動かさないよう気を張っていた。

「メリークリスマス、シリル」
「万莉亜!」
 万莉亜の姿を見つけると、ソファで絵本を読んでいたシリルが、それをテーブルに投げ捨てて彼女の腕の中に飛び込む。 小さな体を抱きしめて、万莉亜は少しだけ硬質な赤毛に頬ずりをした。彼女がはつらつとした笑顔を向けてくれる事が、今は何よりの救いだった。

「プレゼントがあるの。ケーキも買ってきたから、一緒に食べよう」
 万莉亜の言葉に、シリルが両手を打ち鳴らして喜びを露わにする。今夜だけ、少しだけこの幼い子を興奮させてしまう事を、 許してねと心の中で誰に言うでもなく語りかけた。



 たっぷり2時間ほどかけてシリルを喜ばせた万莉亜は、その相手を瑛士に代わってもらい、少し離れた窓辺で シャンパングラス片手に暗い空を見上げているハンリエットの側へと向かう。シリルがはしゃいでしまったからだろうか。 今日の彼女は、いつもにまして大人しくあろうと心がけている様子だった。

「これ、ありがとう。すごく気に入ったわ」

 近寄る万莉亜に気付いた彼女が、腹の上に乗せていた赤いマフラーを持ち上げて微笑む。

「……あんまり上手に編めなかったの。編み物なんて、初めてだったから」
「私も、手作りの物を貰ったのは初めてよ。案外嬉しいものなのね」
「…………」
「これを編んでいる間は、私の事だけを考えていてくれた? もしそうなら、それって、すごく嬉しい事だわ。だから、 大事にするわね」
「……ハンリエット?」

 笑っているのに、今にも泣き出してしまいそうな彼女の顔を、不安げに万莉亜が覗き込む。ソファに 座る彼女の前に膝をついて、白い手の平に自分の手を重ねた。その冷たさに、万莉亜の心が痛む。 彼女が死体であることは、とっくに分かっているはずなのに。

「万莉亜……私の事を、忘れないで」
「やめてよ」
「怖いわ、すごく」
 目を伏せて呟くハンリエットの声は、消え入りそうなほどに小さかった。幼いシリルには、絶対に聞かせられない 本音なのだろう。万莉亜もちらりと瑛士と遊んでいるシリルに目をやって、それから震えている彼女を見上げた。

「いつ自分の体が灰になるのかも分からない。毎日毎日、そればかり考えるの。一時間後かもしれない。一秒後かもしれない。 次の瞬間、私は消えるのかも知れない。ずっとそんなことばかり考えてる。だってお父様が死んだら私たちは……」
「やめてっ……」
 相手にかぶせた自分の手に、ぐっと力が入る。はたと気付いたハンリエットは、謝罪した後にため息をついた。

「おかしいわね……悔いなんて無いのに……」
「誰だって、怖いよ」
「私が怖いのは、こんな形で全てが終わってしまう事よ。私は、なんのためにこんな姿になってまで この世に未練がましくしがみついているの……なんのために……」
「……ハンリエット」
「お父様に会いたい。大丈夫だって、そんなくだらないことで悩むなって、あの人に言って貰いたいの。 そうじゃないと、私……」

 堪えきれずに決壊したハンリエットの涙を、拭うべきか考えて、結局万莉亜はそのかわりに震えるハンリエットの肩を 抱きしめた。こんな風に取り乱すハンリエットを、初めて見た。その不安は、計り知れない。
 それでも、こぼれ落ちたハンリエットの涙を見て、確信した事が一つ。彼女はきっと、万莉亜に残酷な嘘をついている。 涙は、雄弁に真実を語ってくれた。

「ハンリエット」
 抱きしめたまま、そっと耳元で囁く。
「本当の事を教えて」
 ぴくりと、ハンリエットの肩が震えた。

「あの日、目覚めた私に、ハンリエットが言った事。あれは、嘘だった?」

 ゆっくりと、顔を上げた彼女の瞳が、己の失態を悔いている。万莉亜は、奥歯を噛みしめた。体に、 電流がひた走る。でも、泣いて崩れ落ちることはいつだって出来る。

「教えてハンリエット。クレアさんが、ここへ体の一部を、置いていったというのは、嘘だったの?」
「…………」
 物言わぬハンリエットの、しかしその瞳は、真実を語っている。彼女は、やはり嘘をついたのだ。
 長い眠りから目覚めた万莉亜を、今度こそ現実へつなぎ止めようと、彼が、保険としてこの場所へ切り落とした 指先を置いていったと。いざとなれば、たとえいざという事態に陥っても、彼がその気にさえなれば、いつだって無事に帰ってこられるように。 どんな結末を迎えようとも、その身だけは、この場へ戻ってこられるように。
 だから大丈夫なのよと言ったあの日のハンリエットの言葉は。

「嘘なのね?」

 確信したように問いかける万莉亜に、ハンリエットはふるふると首を振る。しかし、瞳はみるみる涙に濡れ始めた。 足下から、熱が引いていくのを感じる。肩に置いた手の甲に落ちるハンリエットの涙を、熱いと感じるほどに、指先は冷えていた。

「……指の先を切り落としていったのは」
「うん」
「リンだけなの」

 ああ。

 絶望が、ひた走る。



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