ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【8】」




 ルイスが迷うことなく目指したのは、主人のかつての故郷、スウェーデンだった。

 当ては全くなく、直感は沈黙を続けていたが、それでもルイスは迷わなかった。というよりも、そこしか思いつかなかった。ずっと、 クレアがその地を避けていたのも知っていた。
 本当は、アンジェリアがどこで泣いているのか、とっくに気付いていたのかも知れない。初めから、探す気など、 さらさら無かったのかも知れない。ただ、万莉亜の傍にいる事も出来ず、愛した妻と向き合う勇気も持てず、 クレアはずっと立ち止まっていた。
 長い人生の中で、終わらないモラトリアム。それは今に始まった事ではないから、あえて言及せずには居たけれど。

 けれどあの朝、リンと共に、ろくな言付けも無しに旅立った彼に、迷いはないように見えた。

「とにかく、お疲れ様」

 一人帰宅したルイスに、ハンリエットが労るように微笑んだ。
 日本に帰国して息つく間もなく、再び学園へと向かってしまったクレアとリンの後を追って、一足遅れで 到着したルイスの前に積まれたのは意識混濁状態の第四世代十数名。それらを、一人学園に居残りせっせと 新校舎の地下で処理した後、今一度車を走らせ、岸壁から海へ葬り、やっとのことで帰宅した時にはうっすらと空が白み始めていた。
 眠りを必要としない体でつくづく良かったと息を付くが、今頃そのツケを支払わされるクレアは気絶寸前だろう。
 ハンリエットもシリルも興奮状態にあるし、ルイスに至っては疲労困憊。肝心の本人でさえ疲れ切っているはずだ。 ふと不安になってクレアの様子を伺おうとした時、後ろから近寄る足音に気付いて振り返った。

「よう」

 外出着からすっかりリラックスした部屋着へと着替えていたリンが、片手を上げて挨拶する。彼の表情にも、 いくらかの疲れが見て取れた。

「俺は明日、香港に帰るぞ。これ以上家を空けていらんないからな」
 ソファに腰掛けているシリルの横に、あくびをしながら体を投げてリンが言う。
「……色々、お世話になりました」
「おう。貸しだからな。たっぷり利子を付けて返せよ」
「伝えておきます」
 思わず苦笑すると、リンも唇だけを引き上げて微笑んだ。もう、冗談にする元気もないのかも知れない。 彼らが、スウェーデンの奥地で一体どのような死闘を繰り広げていたのか、ルイスは知らない。
 ただ、ルイスが二人を見つけた時、彼らは黙ってその場に咲き誇る白い花を見下ろしていた。満身創痍だった二人は、 体中のあちこちが欠けていたけれど、「帰ろう」と告げたクレアは、こちらが拍子抜けするほどに冷静だったように思う。終わったのだと、 それで察した。

 それから日本へ向かう道中、二人は、一切ものを語らなかった。
 クレアは、二度吐いた。一切の食事を受け付けなかった彼の口からは最早胃液しか出てこなかったが、それでも 嗚咽を繰り返し、地面に膝をつく事も多々あった。リンはそれを、ただ黙って見ていた。ルイスも、二人に余計な口を利く事はしなかった。 だからルイスは、本当にアンジェリアが死んだのかどうかすら、聞かされていない。おそらくは、そうなのだろうけれど。

「アンジェリアは死んだ」
 ハンリエットのいれた熱いミルクを口にしながら、ふいにリンが言う。
 驚いて、ルイスはコートを脱ぐ手を止めた。まるで心を見透かされたようなタイミングに、どんな表情を 取り繕って良いのかも分からず、ただ「そうですか」と返した。ハンリエットとシリルが息を呑んで視線をリンへ向ける。
「色々、考えていたようにはいかなかった。ただ、あの女は確実に死んだ」
「……確実、ということは、喰らったのですか?」
「いや」
 リンの言葉に、ルイスが眉をひそめる。肉を喰らう事以外に、確実に相手を仕留める方法はない。

「結論から言うと、俺たちは負けた。全く歯が立たなくてな」
 はは、とリンが笑う。
「あの女にしてみれば、赤子の手を捻るようなもんだろう。そもそも策を立てなかったからな。 それが一番悪かった。粘っても粘っても、勝機を見いだせず、 多分俺たちは、あの女に負けたんだ」
「……では、一体」
「何が起こったのか、よく分からなかった。俺たちの体はその時すでに粉々に砕け散っていた。 わずかばかりの意識を持った、ただの肉のゴミだった。なのに突然、白い花が降ってきたんだ」
「花……ですか」
 大真面目にリンは頷いた。
「ただの花だ。突然、大量に降って来やがって、それが、アンジェリアを喰い始めた。そういう表現で 正しいのか分からないけどな。とにかく、花に包まれて、少しずつ、あの女の体が欠けていったのを見た。クレアも、見ていた」
「……」
「そのうち、俺が再生を終え、クレアが再生を終え、二人で、喰われていくアンジェリアを呆然と見てたんだ。 俺は混乱してたけど、どこかで分かっていた。こんなふざけた真似が出来るのは、この世でたった一人だからな」

 まさかと、ルイスは声を失った。
 セロが、手を貸したのだろうか。

「クレアは途中から気付いたみたいだった。……でもあいつは」
 そこまで言って、リンは一人首を振った。
「とにかく、終わったんだ」
 カップの底に残ったミルクを飲み干して、リンが立ち上がる。空のマグカップをハンリエットに押しつけて その場を去るリンを、引き留めたい衝動に駆られたが、結局一歩も動けずに、ルイスは黙って窓の外の白い光を見つめていた。

──とにかく、……終わった。本当に、今度こそ

 セロが手を貸したのは予想外だった。
 セロが、万莉亜を攫ったのもそうだ。

 なぜそんなに、干渉をするのだろう。なぜ彼は、クレアにこだわるのだろう。
 何度も己に投げかけた問いを、今一度、繰り返す。もちろん、答えなど知る由もない。



******



 鏡に映る自分の姿があまりにも悲惨で、クレアは二度瞬きをし、身を乗り出してもう一度鏡と睨み合った。 果たして自分は、このような面構えだっただろうか。もう少し、マシだったように思うが。

 百歳も、二百歳も年を取ったような、血色の悪い目元をこすって、痛む胃と気持ちの悪さを鎮めるため、 今一度ゆっくり息を吐いた。
 
 ある時から、内蔵があちこち痛み始めたり、突如目眩に襲われたりと、体が不調を訴えるようになった。 風邪一つ引く事のないこの体で、なんの冗談だと気にもしていなかったが、そのうち気付いた。
 鏡の中の男が、恨みがましい視線を向ける。彼はずっと怒っている。アンジェリアを裏切ろうとする自分を。 裏切った自分を。決して許さないと、訴えている。
 相反する心は、おそらくこの先も交わることなく、どちらかが妥協することもないのだろう。

 気分は最悪だったし、体は今にも倒れてしまいそうなほどに疲労していた。永遠どころか、明日にでも 死んでしまいそうなほどに疲れている。眠る必要がある。それが怖くて、何度もバスルームに来ては、冷えた水で 顔を洗う。一度眠ってしまえば、待ち受けている夢などわかりきっている。
 それが恐ろしくて、とても耐えられそうにない。

 外に出て眠気を飛ばそうかと考えていると、奥の寝室から物音が聞こえた。
 部屋には、リンに命じられるがままに気を失い、眠り続けている万莉亜がいるだけだ。 まさか目覚めたのだろうかと、急いでベッドへ向かう。
 締め切られたカーテンを通る目に痛いほどの白い光が、ベッドからシーツごとずり落ちている万莉亜の体を照らしていた。 それでも眠り続けている彼女を見る限り、リンの命令はまだ有効に続いているらしい。

 眠り続ける彼女にはもううんざりしていたはずなのに、いざとなると目を閉じていてくれて良かったなどとこの期に及んで 意気地のない自分を情けなく思いながら、そっと肩に手を回し上半身を起こす。頼りなげな薄い肩に、ひどく胸が痛んだ。

 未だ色濃く残る胸の内の葛藤を、もう二度と、彼女に告げる事はない。悟らせはしない。 アンジェリアの死を受け入れられず苦しみ続けているもう一人の自分を知れば、万莉亜はまた悲しむだろう。 ひどい裏切りだと、苛立ちは募るだろう。けれど彼女は、決してそれを口には出さず、微笑んで手を放そうとするだろう。 それが一番、相手を効果的に打ちのめすとも知らずに。
 
 永遠に万莉亜を失う。そんな焦燥感に駆られた時、それは抗いきれない衝動となって、三百年躊躇い続けていた クレアの背を、いとも容易く押し出した。
 
──「どうして」

 あの時アンジェリアは泣いていた。瀕死の妻に、片手すら差しだそうとしないクレアに、絶望していた。

──「どうして、……許してくれないの」

 彼女が言った。そして思い知ったのは、もはや許す事も許される事も、どうだって良い。 こだわっていたのはそんなことじゃない。
 ただ激しい怒りは、したためていた激情は、長い長い年月の中、色と匂いを変え、形を変えて、すでに 原型を留めていない。ただ強い執着だけが残っていて、その種が何だったのかは、もう忘れてしまっていた。そんなことにも 気付けずにいた。

 だから必要だったのは、アンジェリアを断罪する勇気でもなく、許す事でもなく、新しく見つけてしまった、 明日への希望。そのために、過去は障害でしかなかった。そして踏み出す一歩は、泣けてくるほどに軽やかだった。

──「希望が必要だよクレア。遠い先の未来じゃない。 今日一日を生き抜く希望を与えてくれる存在が、お前にだって必要なはずだ」

 リンが言っていた。

──「その狂信的な愛を抱いている限り、お前の苦悩は続く。 必要なのは、断罪する強さではない」

 かつて、セロも言っていた。
 耳を塞いでいた。彼らはこの心の本質を理解していないと、はなから聞き流していた。 盲目だったのは、他でもない自分自身だというのに、そんなことにも気付けなかった。

「万莉亜」

 静かに名前を呼んで、眠り続ける彼女の顔を覗き込む。
 この目が開かれた時、向けられる視線がどんなものでも、耐えようと決めている。

 もう二度と目を逸らさないと、そう決めている。



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