ヴァイオレット奇譚2

Chapter12◆「柔らかな夢のその後に【1】」




 ずっと、夢を見ているようだった。
 悪夢は次から次へと絶えず襲いかかり、幾度も無関心を決め込み、心を閉ざした。そうすれば、 少しは楽になると知っていた。でも目を開けば、悪夢よりたちの悪い現実が待ち構えていて、それはひどく 心を斬りつける。

 明るく振る舞う自分が好きだった。そういう人になりたいと、いつも笑っていたら、 そのうちそれが板について、何が己の本質なのかが分からなくなった。それでいいと思っていた。 笑っていれば、少しは救われた。幸せな自分なのだと、たまに錯覚する事が出来たから。
 
 ひどく頭が痛む。目の奥を無数の針で刺されているようだ。チリチリと続く痛みと、それに合わせてこみ上げる 吐き気に、とうとう万莉亜は目覚めた。よほど長い間眠っていたのだろう。目を開いた途端、ぐらりと脳が揺れ、血の巡りの悪い 頭を思わず両手で包む。

──ここは……

 未だ定まらない視界へ、最初に飛び込んできたのはアイボリーの色をした高い天井だった。見覚えがあるような気がして、 重たい体を持ち上げる。清潔感のある広い寝室は、しかし生活感とは無縁の装いで、ぼんやりとホテルの 一室である事を確信する。多分、この部屋を見るのも初めてではないだろう。

 なぜ再びこの部屋に舞い戻ってきてしまったのか、万莉亜には分からなかった。
 このベッドで、彼にさよならを告げた。それから、自分を呼ぶ声に従い、濃い霧の中を歩き出した。 今思えば、随分リアリティに欠けた出来事で、残っている記憶に自信がなくなる。
 
 全て夢だったのだろうか。

 さよならを決めた事も。あの霧の中、歩いた事も。見知らぬ異国のあのヴィジョンも。そこで見た青い瞳の少年も。その彼に愛されていたあの人も。
 そうだったらいいなと思う。とても辛い夢だったから。

 締め切られたカーテンの向こうに目をやり、時間を探ろうとした万莉亜の視界の隅に、ふいに鮮やかな色が ちらついて、彼女はそこでやっと隣で眠るクレアに気付いた。
 寝息すら殆ど立てず、死んだように眠る彼を見て、万莉亜は呆けた。

 やはり夢だったのだろうか。
 万莉亜が泣いて行かないでと縋り付き、その一方で決別を決めたあの夜と変わらない距離感で横たわる彼を見て、そんな錯覚にとらわれる。しかし 着ていたシャツが記憶に残る色とは違っていた事で、混乱は深まる。
 ゆっくりと紐解いた一番真新しい記憶は、勝ち誇ったような薄気味の悪い笑みを浮かべている春川の姿だった。 彼はどうしたのだろう。瑛士は。ハンリエットやシリルは。ルイスはまだ戻っていないのだろうか。どうしてクレアが、 ここにいるのだろうか。

 相変わらず呆けたまま、それでも頭の中は忙しくあらゆる出来事を整理しようと働いていた。それでも、 たった一つの事実さえ掴めずに、未だ寝ぼけている思考回路は、ある程度考えがまとまったところでぶつりと遮断されてしまう。 そのうち考える事を諦めて、ただじっとクレアの顔を見つめてた。固く閉ざされたまぶたは、わずかな反応も見せずに沈黙を保っている。 夢も見ないで、眠っているのだろうか。それとも、夢の中でも、目を閉ざしているのだろうか。

 火傷を負ったように、喉が熱を持ち、堪えきれなくなった万莉亜は、あふれ出そうな涙を飲み込んだ。そして、 音を立てないようにそっとベッドを抜け出し、まだふらついている両の足で静かに部屋を出て行く。本当は、 いつまでも見つめていたかったけれど、泣き声で彼の眠りを妨げるような事はしたくなかった。

「……っ……うっ、」

 しゃくり上げる声を、両手で堪えて、勝手知らぬホテルの中を歩く。ふらふらと、何度も道を間違えてしまうけれど、 誰にすれ違う事もなかったので、時間をかけて静かな廊下を抜け、やっとのことでエントランスまで辿り着いた。淡いオレンジの 照明が温かく包み込む広い空間は、どこか新校舎最上階のあの場所を思い出させて、人っ子一人見当たらない不自然さにもそれほど 疑問を抱かずにそのまま外へ出た。
 朝の光が、目に痛いほど白く突き刺さる。

「っ、ひっ、……っ……」

 傍の植木の前でしゃがみ込み、堪えていた声を上げて万莉亜は泣く。
 そうさせる理由は、掴みきれないほどに。それこそ抱えきれないほどにある。けれどその内の一つだって、言葉には出来ない。

「……万莉亜」

 熱くなるばかりの胸を掴んでしゃがみ込んでいた万莉亜は、突然の声に驚いて身を固くする。声の主は、こちらを振り向こうとも しない万莉亜に少し戸惑った後、思い切ったようにして一歩を踏み出した。それを合図に、素早く立ち上がった彼女は、振り返って 複雑そうな表情を向ける。顔は血の気を失っているのに、目元だけが真っ赤に腫れ上がっていた。頬に流れる幾筋もの涙を見て、 クレアは開きかけた唇を結ぶ。

「……あ」

 最初に言葉を発したのは万莉亜だった。その声が絶望的にしゃがれていたせいか、彼女は一度咳払いをしてから「あの」 と小さく切り出した。
 さらに次に続く言葉を必死に巡らす。けれど、何も浮かんでこない。相手に向ける言葉を、見失ってしまったのはクレアだけではなく、 万莉亜もまた同様に、俯いて開きかけた唇を閉ざす。

 話す事は、たくさんあるように思えるけれど、それが今の二人に必要なのかは疑問だった。



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