ヴァイオレット奇譚2

Chapter12◆「柔らかな夢のその後に【2】」




 臆病になってしまうのは、習性のようなものだとリンは言った。
 どういうわけか、唐突にそんな彼の言葉を思い出す。
 
「万莉亜」

 先の言葉の当てもなく彼女の名を呼んで、クレアは一歩踏み出した。明らかに戸惑っている様子の彼女は、 慌てて立ち上がり、掠れた声を漏らした後、黙りこくって俯いてしまう。僅かに見え隠れする拒絶の色に、クレアはあえて 目を背けた。怖がる事は、もう十分にした。十分すぎるほど考え悩んだ。それで出した結論に、異議を唱えたのが自分ならば、 もう抗う必要もないだろうと思う。

「ただいま」
「……え」

 さらに一歩近寄りそう言ったクレアに、万莉亜が俯いていた顔を上げる。思っていたよりも ずっと至近距離に立っていた彼に驚いて後退しようとするが、背中の植木のせいでそれが出来ない。

「それとも、おかえりの方が良いかな。いきなりどこかへ消えてしまったから、驚いたよ。 ……どこへ行ってたの?」
「……」
 それは私の台詞だと、言おうとしても上手く言葉が紡げず黙ったまま万莉亜は小さく首を横に振った。 困ったような笑みを浮かべるクレアは、まるでいつもの穏やかな彼で、どうしても戸惑ってしまう。万莉亜はまだ、そんな風に笑えない。 乾いたはずの瞳に、再び熱がこもる。

「万莉亜……」

 ぽろぽろと零れだした涙を見て、クレアが僅かに眉をひそめる。こんな風に泣いて、相手を困らせてもしょうがないというのに、 涙は止まらない。縋り付く事さえ出来なくて、万莉亜はただひたすらクレアが立ち去ってくれる事を願った。そんな万莉亜の 願いとは裏腹に、伸びてきた長い腕は躊躇いがちに彼女の体を引き寄せる。驚いて身じろぎも忘れた万莉亜を、 クレアは強く抱きしめてその髪に頬を埋めた。
 百の言い訳と、千の愛の言葉を並べても、この胸の内の半分も伝えられない。このもどかしさを、埋めるようにして まわす腕に力を込める。

「……どうして」
 腕の中で、万莉亜が小さな疑問の声を上げる。彼女にしてみれば、クレアの行動は疑問だらけで、 まったく不可解に違いない。振り回されて、何が真実なのか、すっかり見失っているのだろう。とうの本人でさえ、事あるごとに 見失うのだから、まったく救いようがない。
「万莉亜、僕は、……君にそばにいて欲しい」
「……え」
「だから、この先僕が何を言っても、たとえ再び別れを切り出しても、そんなものは、 相手にしないで欲しいんだ。決して耳を貸さないで欲しい」
「そん、な」

 半ば呆れて顔を上げた万莉亜の視線の先には、思っていたよりもずっと真剣な面持ちでこちらを見下ろすクレアがいた。 真っ直ぐに向けられた決意の瞳に、万莉亜は戸惑いも忘れて見入る。ずっと封印していた恋心を、ぶつければまた傷ついてしまいそうで、 それが分っているのに、この腕から逃れる事が出来ない。こちらを伺うようにして降りてきた唇は、とても冷たく乾いていた。 それがどうしようもなく切なくて、そっと目を閉じる頃には、ずっとこうして欲しかったのだという本音を、 もう認めざるを得なくなっていた。



******



 空港まで送るというルイスの申し出を、リンはきっぱりと断り、宣言通りその日の朝早くにホテルを発つことにした。

「本当に、送らなくてよろしいんですか?」
 せめてもと用意した朝食をテーブルに並べながらルイスが問えば、しつこい彼に苦笑してリンが頷く。
「いいんだよ。俺はさっさと帰るから、お前らはいつも通りやってくれ」
「……しかし」
「せいぜいお前の難儀な主人に尽くしてやれよ」
「……」
「しばらくは気をつけて見ていた方が良いぞ。直系の親の死ってのは、色々と厄介なもんだ。それも 、自ら手を下したとあっちゃな。悪い事にあいつの場合それがかつての妻なもんで、精神的なダメージは計り知れない。 お前達の存在が唯一の支えになる」
「……その役目は、万莉亜さんが立派に努めてくれるでしょう」
 微笑んでお茶を入れるルイスの言葉には、そうなってくれたら良いという彼の願いが込められていたのだろうが、 どちらにせよその的外れさに呆れてリンが苦笑いを浮かべる。
「馬鹿だな。あのお嬢ちゃんに、何を言えるって言うんだ」
「……」
「あいつは、一番甘えたい相手に、一番の弱みを言えないんだ。これから先も、永遠に」
 不憫な旧友の姿を思い浮かべて、リンが長いため息をつく。アンジェリアの事は、 未だ根深く、これからもクレアの心に深い傷となって付きまとうのだろう。それでも強がるのは、 不安にさせたくない相手がいるからだ。
「それでいいんだ。その方がずっと前向きだと俺は思うよ」
 過去と一緒に、心中するよりはよっぽど。

 そんな言葉を残して、妻の待つ香港へと戻っていった彼をルイスは見送った。
 全部が全部、万事解決というわけにはいかない。心は複雑で、それを縛る思い出は複雑に絡み合う。 それでも、主人が選んだ道を、先を行くリンが認めてくれたことは、心強かった。

──長かったな

 ふと、そんな風に思う。
 何が終わったわけでもないのに。これからも、苛む悪夢は存在し続けるというのに。

 不思議と、気分は晴れやかだった。



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