ヴァイオレット奇譚2

Chapter13◆「卒業」




 久しぶりに袖を通した制服に、心が引き締まる思いで万莉亜は鏡の前の自分と見つめ合った。

 少しだけ伸びた髪が、流れた時間を感じさせる。季節は三月。青く晴れた空を見上げて、 万莉亜は大きく深呼吸をした。卒業式に相応しい晴天に感謝して、少しだけ慣れた養父母の家を出る。
 卒業を控えるのみとなった三年生は、もうその殆どが寮を出ていて、学園に出向くのはひどく 久しぶりに感じた。もう二度と通う事もないのだと思えば、色々と考え深い道のりになってしまい、 うっかり遅刻ギリギリに到着した万莉亜を、呆れ顔の蛍が校門で出迎える。

 懐かしい面々と再会を喜び合い、粛々と始まった式に参加する。
 進路が決まっていない万莉亜は、式のあと担任に呼び出されていたので、彼女はそれをどうやり過ごそうか、 ぼんやりと考えていた。

「万莉亜、この後行くでしょ?」

 式が終わり、会場を後にしようとしていた万莉亜と蛍を、摩央がそう言って捕まえる。ポカンとしている万莉亜に、 クラスの集まりを再度説明してやると、彼女は思い出したように頷いて、もちろんと微笑んだ。

「びっくりした。呼び出しの事かと思った」
 摩央が去った後、可笑しそうに万莉亜が言う。蛍だけは、進路の決まっていない万莉亜に担任が 頭を悩ませているのを知っていたが、大抵は「恥ずかしいから」といって、彼女はそのことを内緒にしている。でも、 そんな誤魔化しが蛍に通用するはずもない。未来の事を一切語ろうとしない万莉亜が、何を思ってそうするのか、ちゃんと分かっている。
 

 クラスでの卒業パーティーは盛り上がり、予定していた時刻をはるかに過ぎても誰一人会場を後にしようとはしなかった。 午後11時を過ぎたあたりから少しずつ時計を気にしだした万莉亜は、そこからさらに30分過ぎてついに席を立った。それから 、陽気に騒ぎ続けているクラスメイトの間を縫って借り切った店の外に出る。
 もう三月だというのに、肌を刺すような寒さは一向にましにならず、思わずコートの襟を寄せる。 片手に握った携帯電話には、ひっきりなしに着信が残っていて、その全てに目を通した万莉亜が、急いでリダイアルボタンに 指を伸ばした時、背後から蛍が呼び止めた。
 
「……家の人に電話?」
 不安げな顔でそうたずねる蛍に、万莉亜は言葉を詰まらせた。蛍にだけは、 嘘をつく事が出来ない。
「ううん、……あのね」
「彼氏?」
 どこか茶化すように言った蛍に、万莉亜が瞬きする。何も言えないでいる相手に苦笑して、 蛍は白い息を吐き出した。

「もう、会えないんでしょ? 私たち。だから、何も教えてくれないんでしょ?」
 全てを見透かすように言われて、万莉亜が首を横に振る。そんなことはない。そんなことは、あってはならない。でも、 確かな約束が出来ないのも本当だった。

 卒業したら、万莉亜は日本を出ることになる。この国には、まだいくらかの末裔が残っている。 それに、ここには『彼』がいる。きっと、色んなものを呼び込んでしまう。そのリスクを冒してまで日本にとどまる理由を、 最早万莉亜は見いだせなかった。

「……蛍、私ね」
「万莉亜」
 万莉亜の言葉を遮った蛍の頬から、一筋の涙がこぼれ落ちる。もうずっと、別れの予感は蛍の胸にあって、 それは日一日と色を濃くしていく。
「万莉亜……元気でいてね。私の事、絶対忘れないで」
 どちらからともなく抱き合っていた二人は、お互いの華奢な体を強く抱きしめ会いながら泣いた。
「いつだって、私が一番、万莉亜の事心配してるから……」
 涙で震える蛍の声が悲しくて、万莉亜はただ泣いた。
 これが永遠の別れではないと、必死に心を慰めて。




******



 久しぶりに再会した万莉亜から、かつてのはつらつとした雰囲気はやはり見受けられなかったが、 それでも浮かべられた控えめな笑顔が、わずかに永江医師を安心させた。

 そうやって、少しずつ癒えていくのだ。深い傷も、喪失の痛みも。その過程で感じるやるせないほどの 切なさも、いずれは薄れていくのだろう。そしてまた笑顔を取り戻す。再会した万莉亜を見て、 それがそう遠くない未来にやってくるだろうと永江は確信した。きっと彼女は、また笑う。

「元気そうで安心したよ」
「色々とお世話になりました」

 病院へ最後の挨拶に来た万莉亜は、皺一つ無い青いワンピースに袖を通し、綺麗に梳かした髪を肩に流して微笑んでいた。 その凛とした立ち姿に、底知れぬ精神の強さを垣間見て、永江も微笑む。
 彼は万莉亜のために忙しい合間の5分だけ、どうにか時間を見繕い、彼女を中庭へといざなう。のんびりと 午後の散歩を楽しむ患者達に交じって、二人はゆっくりと緑茂る道を並んで歩いた。万莉亜は 引き取ってくれた養父母や、その家での事。未だ色濃く残る祖母への思い。その耐え難い寂しさと、わずかな未来への展望を 当たり障りのない程度に語り永江を安心させようと努め、永江はあえて口を挟む事はせずに静かに耳を傾けていた。

 5分はあっという間に過ぎ、タイムリミットに気付いた万莉亜が話を止めて永江を見上げる。 医師である彼を、これ以上独占するわけにはいかず、挨拶をして別れようとしている彼女を見て、永江は 心の内にある疑問を投げかけるべきか迷った。どうしても聞きたい事があった。けれど、口にすればまた 彼女を傷つけてしまいそうで躊躇われる。ちょうどその時、ほとんど反射的に振り返った万莉亜につられるようにして 永江はあの男の姿を見つけた。
 離れた場所から、二人を見守るようにして立っていた金髪のあの男。永江は、少しだけ腑に落ちない思いを感じながらも、 納得をした。やはりと悟った。万莉亜が落ち着いた様子で会いに来た時から、誰がそうさせたのだろうと、 そんな疑問を抱いていたから。

「お迎えかな」

 皮肉るような口調になってしまったのは失敗だった。ばつの悪そうな表情を浮かべる万莉亜を見て、永江は反省する。 あの男が何者であろうとも、万莉亜にとってかけがえのない存在には違いない。

「彼は、万莉亜ちゃんの恋人?」
「……あの……なんていうか、まぁ」

 あんまりにも歯切れの悪い万莉亜の返事を聞いて、可笑しくなった。そのうち、痺れを切らしたようにして こちらにやってきた男が、そっと万莉亜の肩に腕を置く。挑むように向けられるその目は、相変わらず透明な紫色で、 目眩を覚えるほどの美男子ぶりも健在なようだ。少しだけ、疲れたように見えるのは気のせいではないだろう。

「初めまして」
 そうではないことを十分に承知した上でそう言えば、相手はぴくりと眉を上げて、仏頂面を向ける。 愛想の悪い恋人に慌てた万莉亜は、彼を背中に追いやるようにして永江から隠し、口早に別れの言葉を告げる。それを 聞きながら、永江はムスッとした表情を崩さないクレアをじっと見つめていた。
 何度見ても、不思議な雰囲気を持つ青年だった。まるでリアルじゃない。瞬きの一瞬で、消えてしまいそうなほど儚さ。 だから、彼はこんな風に美しいのだろうか。

「悪魔が存在するのなら、きっと君のような姿をしているんだろうね」
 気がつけばそんな台詞を口にしていた。
 彼を定義する言葉が見つからない。分かっているのは、人ではないということだけ。それを、認めるか否かの段階は とうに過ぎた。

 人間の姿を装った美しい青年は、その表情をぴくりとも変えずに、ただ黙って万莉亜の手を引く。 彼女はそれに従順に従い、永江に一度だけ頭を下げると、背を向けて歩き出した。
 止めようとは、思わなかった。多分、そうしても無駄だろうから。

 複雑な表情を浮かべながら、それでもそっと彼に寄り添う万莉亜を見て、永江は心を納得させ、白衣を翻して 病院へと歩き出した。



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