太子講座 トリ仏師物語


太子:みなのもの、再び会えて嬉しく思うぞ!今日の講座は「トリ仏師物語」だ。 我が法隆寺を語る上では欠かせない古代の仏師である。今日はみなのためにトリをゲストに呼んであるぞ!

(※注…トリ仏師のキャラクターは、プロ学会のバイブル「日出処の天子」のトリを参考にしております)

トリ:こんちはー。王子さまも久しぶりー。

太子:元気そうで何よりだ、トリ。今日は思う存分自分の功績をひけらかすがいいぞ!

トリ:えー、なんだか面倒だなぁ、オレッチ、からくりとか作る方が得意だし…

太子:相変わらずだなお前は…では私が代わりに説明してやろう。まずはトリの一族の話を絡めて、当時の情勢を説明しよう。


トリの祖父は鞍作村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたっと)と言い、渡来系の氏族である。 敏達天皇13年には、達等の娘で、トリには叔母にあたる嶋が出家し、善信尼と名乗った。彼女が日本で最初の出家者だ。 この時、嶋はわずか11歳だったが、既に2人の弟子がおり、この2人も同じく出家して、善蔵尼、恵善尼と名乗るのだ。

この頃の政治情勢は非常に不安定で、有力豪族が崇仏派、廃仏派に分かれて激しく争っていたのだ。
欽明天皇13年には疫病が流行り、廃仏派の物部守屋がそれを仏教のせいだと言い張り、仏像を難波の堀江に捨ててしまったのだ。
更に嶋たちが出家した翌年の敏達14年にも疫病が流行り、守屋がまたそれを仏教にせいにし、今度は寺を焼き払った。 そして焼け残った仏像達を集めて、またも難波の堀江に捨てたのだ。全く、惨いことをする奴だ。 難波の堀江はまさに仏像の墓場と言えような…。

さて、その後我が父用明天皇が即位したのだが、治世2年目にして疱瘡にかかってしまわれた。その時、達等の息子でありトリの父である多須奈が 「天皇ために出家し、丈六の仏と寺を造る」と言ったのだ。素晴らしい忠義心と仏教への情熱だと思わないか。 尚、この寺と仏像は、南淵の坂田寺と、そこにあった木像丈六仏と脇侍に当たるのだが、現在は跡地が残るばかりになっている。残念だ。

我が父が崩じると、崇仏派である蘇我と物部は遂に激突してしまったのだが、その時私は戦勝を祈って四天王像を彫り、束髪に乗せて出陣したのだぞ。 まだ若く美しい少年の頃であった…今でも十分美しいがな。

その後のすったもんだを経て即位したのが私の叔父にあたる崇峻天皇だ。彼の治世元年に、前述の善信尼が百済へ留学した。そして蘇我氏指揮のもとで 法興寺、現在の飛鳥寺の造営が始まったのだ。仏教国家への道を歩き出したということだな。
2年後、善信尼たちは無事帰国し、桜井寺、現在の向原寺に住まいした。更に多須奈も出家し、徳斉法師を名乗るようになったのだ。

わが国初の女帝・推古が即位したその年になって法興寺の塔の心柱が建てられたのだが、これを見ても法興寺建立が国家的事業だったことが窺えるな。
そして推古13年、ここでトリが登場するのだ。
…それまで何をしていたのかだって?…すくすくと成長していたのだろう、きっと。


トリ:ねぇねぇ王子さまー、ボクこんなの作ったんだけど、見て見てー。

太子:なんだ、またカラクリ箱か?…違うな。なんだこれ、「トリ仏師の造仏ブログ」??

トリ:よかったら見てみてねー!別窓が開くよ!

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