終局からのはじまり
第壱部
第弐話 苦痛、その先にあるもの
体が重い。
限度を超えて体を動かしたときのようだ。
鉛のように重い足を上げ、立ち上がる。
汗で肌に張り付いたシャツを脱ぎ捨てシャワーへ向かう。
シャー
べとついた汗を流すお湯が心地好い。
体の隅々まで洗い流すとタオルで体を拭きはじめる。
服を着替えようと思い、ふと気づいた。
「着替えの服……ないよね」
本部の施設内を駆け回り、どうにか服を確保することができた。
あったのは整備員用のつなぎと職員服。
さすがにつなぎを着る気にはならなかったので職員服を選ぶ。
体格の小さいシンジに合うサイズがなかったので、袖と裾をまくりあげサイズをあわせる。
体と服との間にゆとりがありすぎたが気にしないことにした。
「これじゃ動きにくなぁ…街へ出て探しにいかないと」
今更ながら自分が意外と抜けていることに気づいたシンジだった。
リニアを使い街へ出たのはいいが目に映るのは瓦礫の山。
戦闘ブロックは量産型エヴァの戦いにより見る影がなくなり、街にいたっても戦時との戦いで何もない。
N2地雷の威力はすさまじくジオフロントから空が見えてしまっている。
当然それだけの威力があるものを使用すれば、近辺にあるものまで巻き込まれる。
街ではなくここはもはやクレーターでしかない。
そう考えるとリニアが動いていたことは奇跡に近いだろう。
目の前に広がる瓦礫の山を見る限り必要なものは手に入れることができないと判断し、一旦リニアに戻り車運搬用のカーゴトレイへと向かう。
アルピーヌ ルノーA310
セカンドインパクトが起こる前の時代において最強のラリーカーといわれた存在。
鮮やかなフレンチブルーのボディが特徴だ。
そして、ミサトの愛車。
最初に迎えに来たときは右ハンドルの電気自動車だったが、N2の爆発に巻き込まれたことにより左ハンドルのガソリンエンジン車へとなっている。
どっちにしてもミサトが自分用に改造してあり、常識では考えられないようなスピードが出せる。
扱いが難しいアルピーヌルノーをさらにカスタマイズしている。
ミサト以外にこれを扱いきれるものはそうはいない。
それはシンジにも言える。
隣で運転を見てきたとはいえ、運転をした経験は皆無。
だが、ミサトの記憶により細かい動作や癖は分かっていた。
あとはそれを体に覚えさせるだけだ。
カーゴトレイを操作して地上へと向かう。
地上に出るとすぐに車を発進させる。
運転自体は難しくはないが操作したことがないものへの違和感を感じた。
それに加えて、普通の車にはありえない馬力が運転を妨げている。
「扱い…ずらい…ミサト…さんはよく…やっていたなぁ」
しゃべるのもままならない。
運転というより振り回されている。
ただでさえ瓦礫を避けていかなければならないのにこれでは埒があかない。
集中力を極限まで上げ、運転を体に叩き込む。
危なげない動きながら徐々にルノーは進んでいった。
ようやく街の形が見えるところにつくと、道端に車を停める。
ドアをあけて外に出ると周りを見渡しはじめた。
「何も…変わっていない」
別段変わった様子はなかった。
いつもと違うのは人がいないこと。
静けさだけが漂い、人がいない街はまるでゴーストタウン。
ガラス越しに見るファミリーレストランには食べられていない食事がそのまま残っていた。
それはまぎれもなく人がいたという証。
心が痛み出す。
流れ込んでくる記憶はは二人のカップル。
楽しそうに談笑し、食事に手をつけようとしたとき……二人は溶けた。
あの紅い海へと。
痛む心を押さえつけ、シンジは歩みだす。
慣れなければいけないのだ、この感じに。
目的は日常最低限のものを手に入れること。
ショッピングモールを歩き回りめぼしいものはすべて手に入れた。
生活において必要なものを手に入れた今、あとは生きるための目的をもつことが必要だ。
今自分がしなければいけないことをする。
さしあたってすることは決めていた。
自分にある知識を昇華すること。
肉体と精神を鍛えること。
自分にはすべての知識がある。
サードインパクトの影響でありとあらゆる知識が内包されていた。
すべてを知るもの…そうとも呼べるだろう。
だがそれは『ある』だけで『理解』しているものではないのだ。
聞かれれば答えられるが分かっているわけではない。
使えることと使いこなせることは言葉は似ているがまったく別。
だからこそやらなければいけないのだ。
そして、精神と肉体を鍛える。
精神的に未熟な自分はまだ物事に対処しきれない。
事実、他人の記憶に翻弄され続けていた。
肉体においても鍛えておいて損はない。
これから先は一人でやっていく必要があるのだから。
精神と肉体は密接なつながりを持っている。
精神が未熟なものが大きな力を持てば、力に溺れて翻弄されてしまう。
力を正しく扱うためには不可欠な要素だ。
やらなければいけない……たとえ何も得られないとしても。
ネルフに戻りMAGIのもとへ向かいながらシンジは考えていた。
使徒とはいったいなんだったのか?
人類の兄弟であったもの…群体で生きる人間とは別に単体で生きれるようになった存在。
彼らはただ還りたかった。
―――――自分たちが本来いる場所へと。
そのためにアダムの分身たる使徒たちはリリスを目指した。
MAGIへとたどり着き、椅子に座る。
キーボードを操作してシステムを立ち上げだす。
『使徒それにおける特徴と推測』
タイトルをつけて静かにまとめだした。
第一使徒アダム
最初の人類であり使徒。
40億年ほど前に起こった地球と小惑星の衝突で起こったジャイアントインパクト。
これこそが第一の使徒の襲来だと推測する。
だが、彼は長い眠りへとつく。
何のためかそれは分からない。
第二使徒リリス
2000年、アダムと共に発見される。
その存在自体は危険なものではない。
発見した人物たちはそのなかにS2機関があることに気づく。
化石燃料やエネルギーとなるものがなくなりはじめた人類にとって、無限のエネルギーをもたらすこの機関はまさに宝だった。
実験は極秘に進められた。
科学者たちはそれを起動させるためアダムとリリスを相互干渉させた。
結果は暴走。
セカンドインパクトが起こってしまう。
扱いきれないものを扱おうとした愚かな者たちのせいで起こってしまったのだ。
最後にアダムは還元され、リリスはジオフロントへと封印された。
ただし南極にあったアダムとリリスは抜け殻に過ぎない。
本質たる部分は依然行方が分からない。
第三使徒サキエル
自己学習、自己再生、自己進化という能力を備えている。
これは後の使徒にもある能力だ。
つまりは人間のもつ属性と変わりない。
人類の兄弟といえる存在なのだから当然とも言える。
攻撃パターンは手の平からの光の槍、仮面(顔)の部分からの光線。
近距離、中距離どちらかといえば近距離戦において優れている。
最初は優勢を保っていたが初号機の暴走により倒され、最後に自爆をする。
第四使徒シャムシエル
攻撃パターンは両脇にある光の触手のみ。
これは鞭のような武器である。
前回の戦いにおいてエヴァがプログレッシブナイフの攻撃による近距離しかないないことを学習し、中距離である鞭を用いた。
光の触手はすべてを切り裂き、エヴァを苦しめた。
この戦闘においてパレットガンという中距離武器が用意されたが効果を出すことはできなかった。
初号機の腹部に光の触手を突き刺すという無謀な行動でそれを封じ、その隙にコアへとナイフを突き立て殲滅。
初めて完全な状態で回収され解析された結果、遺伝子の形態が99.89人類と一致することが判明した。
第五使徒ラミエル
近距離、中距離の戦闘から遠距離の武器がないことを推測し、加粒子砲という遠距離攻撃を用いた。
本体の下部からシールドを突き出し、ジオフロントへの進入を図る。
一度は初号機を敗北させるが、零号機との連携によるポジトロンライフルによる長距離狙撃によって核を貫かれ殲滅される。
第六使徒ガギエル
エヴァ弐号機を移送中の国連太平洋艦隊に攻撃を仕掛けてくる。
今までの地上の戦いから水中へと移行。
水中戦でなら勝てると判断したらしい。
が、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーによる初のデュアルシンクロとミサトの作戦「艦隊における零距離射撃」により殲滅。
第七使徒イスラフェル
紀伊半島沖から襲来。
特徴は自分自身を分離合体できること。
一対一の戦いから複数人数への戦闘となる。
分離した状態では互いを補完しあうため、コアへの寸分たがわぬ同時攻撃でなければ殲滅できない。
加持リョウジ提案による初号機と弐号機のユニゾン攻撃により問題を解消し、殲滅。
第八使徒サンダルフォン
浅間山のマグマの中でサナギ状で発見される。
ガギエル戦から水中においての戦闘が困難ということを学習し、同じようにマグマの中へと現れた。
人類によって初の使徒への先制攻撃が行われる。
二号機による回収を行ったが途中で羽化し捕獲の失敗。
マグマの中でも高速で動き回れ、硬い外殻を持っていてが熱膨張の応用による作戦で殲滅。
マグマの中にいたのはエヴァたちを呼び寄せる罠だったと思われる。
欲をもたずに攻撃すれば楽に勝てたのかもしれない。
第九使徒マトリエル
巨大なクモのような形をしている。
装甲シャッターを溶解液で融解させて進入を図るが、パレットガンによる攻撃で殲滅。
使徒自体として特徴はあまりないが、停電という本部の非常時を狙って侵攻してきた。
隙を突いたというところか。
第十使徒サハクィエル
インド洋上空の成層圏に出現。
自分の体の一部をATフィールドで包み、落下させるという新たな力の使い方を見せる。
たった数度の落下で誤差を修正し、本部めがけて全身で落下。
エヴァ三機のATフィールドによりその巨大な質量を受け止める。
受け止める、中和、攻撃という連係プレーで殲滅される。
エヴァでは受けきれないと判断し、巨大な質量で攻撃したが予想以上のエヴァの力で失敗に終わった。
第十一使徒イロウル
細菌サイズの使徒でウイルスのように分裂、繁殖する。
エヴァとの戦闘ではなく、MAGIシステムへの侵入という形をとってきた。
一度はオゾンによって侵攻を止めるがすぐに適応され、最侵攻。
自爆プログラムを作動させ、あと一歩で本部消滅というところで進化促進プログラムが投入され、自滅してしまう。
力だけではなく、知恵においての戦闘が強いられた。
第十二使徒イロウル
空中に浮かぶ球体が影で、地上にある影が本体という特殊な特徴を持つ。
本体はディラックの海といわれる虚数空間にあり、物理的な攻撃を当てるには広すぎて攻撃方法がなかった。
相手の攻撃に対して瞬時に反応、反撃という行動を見せた。
それにより初号機が虚数空間へと引きずりこまれてしまう。
ネルフはN2による攻撃をしようとしたところ、初号機の暴走によりイロウルを殲滅。
内部から本体を引き裂くという未知の力を発揮した。
第十三使徒バルディエル
エヴァ参号機をのっとるという新たな方法を用いてきた。
強大な力を持つエヴァに目をつけての行動だろう。
エヴァの力に使徒の特殊能力が加わり、苦戦を強いられる。
不規則な体の動きに翻弄され、零号機、弐号機ともに倒されるが初号機のダミーシステムにより殲滅される。
人類との同一化を図ってきたのだろうか?
第十四使徒ゼルエル
近距離、中距離、遠距離のどれをとっても最強の攻撃力を持つ使徒。
エヴァの力に対して真っ向から力で勝負を挑んできた。
まわりくどいことをせず、純粋な力で圧倒してくる。
光線は22ある特殊装甲の18を一瞬で貫く。
ATフィールドを中和したにもかかわらずその硬い装甲は攻撃を受け付けない。
カッター状になる両腕は軽々と二号機の腕と首を切断した。
だが、初号機の覚醒による暴走によって喰われて殲滅された。
その際に初号機はATフィールドを投げつけるという新たな力を見せつけた。
第十五使徒アラエル
衛星軌道中に出現。
ポジトロンスナイパーライフルによる殲滅を試みたが、距離が離れすぎて威力が拡散してしまう。
物理的な攻撃ではなく、精神的な攻撃を仕掛けてきた。
それは、人の心に接触しようとしての行動だと思われる。
零号機によるロンギヌスの槍の攻撃でたやすく殲滅されるが、槍の回収はできなくなってしまった。
第十六使徒アルミサエル
2重螺旋の形をしており、人間の遺伝子構造を想像させる。
零号機に対し物理的な接触及び融合を図ってきた。
物理的な攻撃が一切効果を示さず、ATフィールド反転によって使徒を押さえ込み、自爆するという手段で殲滅を行った。
この戦闘でネルフは零号機を失った。
第十七使徒タブリス
5thチルドレンとしてネルフに送り込まれる。
人の形をしており、碇シンジに対して接触を図る。
二号機を操り、ヘブンズドアまで侵入するが初号機によって握りつぶされ殲滅。
碇シンジの心を崩壊へと導くきっかけとなってしまう。
第十八使徒リリン
人類を示す。
単体ではなく群体として生きることを望んだものたち。
使徒であり、使徒ではない存在。
使徒を元に構成された最後の使徒と言えるだろうか。
使徒、天使の名を冠するものたち。
しかし、天使は必ずしも天使ではなった。
彼らは兄弟である人類を理解しようとしたのかもしれない。
最後の形として渚カヲルという人の形となった。
それは、あこがれなのかもしれない。
一人ではないことへの。
碇シンジ
キーボードから手を離し、一息つく。
使徒がどういった存在かは分からない。
誰もそれを知るものはいないのだから。
唯一いるとすれば、アダム、リリスだろう。
アダムは行方がわからず、リリスは無へと回帰している。
もしかしたらリリスは呼びかければ答えてくれるかもしれない。
だが、人類すべての知識を知ることはできたが彼女を知ることはできなかった。
彼女は別の高等な存在だからだ。
しかし、今の自分ならできるかもしれない。
完全なる十八使徒になった自分なら。
だけどそれはできない。
リリスたる存在の情報は人類すべてのものより膨大なはずだ。
今のままではその情報を得るには器が足りない。
まだ、先のことだ。
射撃場。
訓練の一環としてここに訪れたことはなかった。
格闘訓練は受けた。
だが、射撃の訓練はエヴァによるシミュレーションだけで十分だったので必要とされなかった。
もしかしたら大人たちの気遣いだったのかもしれない。
エヴァに乗せることに加え、人を殺す術まで覚えさせる必要はないという。
ネルフの大人たちは子供たちを危険な目に合わせているという後ろめたさがある。
いくら仕方がないこととはいえ、全員が割り切れていない。
軍隊としてなら失格だろう。
シビリアンコントロールができていない軍隊に価値はない。
命令に対して忠実に動けばいい。
そう言った意味ではネルフは中途半端な組織だ。
技術に関しては最高峰だが、警備や保安では2流3流のお粗末なものでしかない。
武器を多少扱える、多少経験があるといったものばかり。
本職のプロに比べれば適わない。
金にモノを言わせて集めた人物たちの集まりとはそういうものなのだ。
弾装に弾が入っているのを確認すると両手でしっかりと握りこみ、引き金を引く。
バァン
想像していたよりもずっと大きな音と共に反動が手に伝わる。
「つ……」
手がしびれ腕のあたりが痛い。
ファクトリーガン(カスタムしていない量産の銃)でこれなのだから口径が大きくなれば扱うことはできないだろう。
今度はサイレンサーつきの銃で撃ってみる。
バァン
音は小さくなったが大して変わらない。
一般にはサイレンサーをつけた銃は音がほとんど消えると思われがちだが、そうではない。
扱ったことがある人にはわかるだろうが、あくまでも音を「抑える」程度だ。
22口径の半自動拳銃ならば限りなく消音ができる。
それでも、良作の22口径のならばの話。
ほとんどの拳銃はサイレンサーをつけても、隣の部屋に聞こえてしまうくらいの音は出てしまう。
映画で見た情報が鵜呑みで伝わっているといえる。
シンジもその一人だ。
音がほとんどでないと思っていたらしい。
ため息をついて銃を置くとその場から立ち去っていった。
射撃場で分かったことは拳銃を扱う前に筋力をつけるということ。
運動している人間から見れば細い腕。
これではだめだ。
細いうえに筋力が伴っていない。
トレーニングルームへと足を運び、上着を脱ぐ。
すぐさまトレーニングを開始した。
スクワット、腕立てなどを速い速度でこなす。
シンジがやっていることは単に回数を多くやる筋肉トレーニングではない。
効率のいい運動では求めようとする筋肉を得ることは難しい。
普段運動をしない人間がウエイトを使って腕を鍛えようとしても腕が太くなるだけだ。
確かに筋力が上がることは上がるがボディビルダーのような筋肉になってしまう。
必要なのは粘りのある筋肉。
見掛け倒しの筋肉など必要としていない。
「ふっ、ふっ」
体を痛めつけるように酷使する。
すぐに息があがり始め、足元がふらつく。
「くぁっ……」
それでもなお続けようとするが足がいうことをきかず、倒れこんでしまった。
限界からの回復。
これがもっとも自分の理想に近づける筋力を得る方法だ。
年齢が若い今だからこそできる最良の訓練。
僅かなインタバールをとると今度は自分の体を自らの拳で痛めつける。
その痛みさえも自分にとって超えなければいけないものだ。
こうして自らの体を痛めつけて、無理やり回復を早める。
それによって肉体が強化できるのだ。
どれくらいそうしていただろう?
もはや立ち上がる気力もなくなっていた。
だが、無理やりでも体を起こす。
次は必要なエネルギーを摂取しなければならない。
持続させてこそトレーニングは意味がある。
そのためにもエネルギーは必要不可欠だ。
鉛のように重くなった足を引きずりシンジは部屋を後にした。
宿舎に戻ると冷蔵庫を開けて、野菜を取り出す。
街に出たときに調達したものだ。
軽く油を引き、炒め始める。
食事は固形食糧でもいいのだが、育ち盛りのシンジにとっては足りない。
野菜や肉の摂取はなくてはならない。
だが、肉はいずれなくなる。
野菜もおなじだ。
結局自給自足という形をとらなくてはいけない。
肉は無理だが野菜なら何とかなるし、畑を耕すことはトレーニングの一環にもなる。
これからの予定を頭で考えながら、シンジは皿に夕食をのせていった。
口に運び、味を確認する。
「うん、大丈夫だ」
鮮度が落ちていたが腕でカバー。
葛城家の料理の鉄人は伊達じゃない。
すべてを食べ終えると、眠気が一気にくる。
疲れた体の上に食欲を満たしたのだからあとは睡眠をとるだけ。
性欲は今のシンジにとって関係ない。
ふらつく足取りでベットに垂れ込むと眠気はすぐにやってきた。
(食器…片付けないとなぁ……)
意識が沈み込む瞬間までそんなことを考える。
つくづく主夫が染み込んでしまっているシンジだった。
この日は他人の記憶に翻弄されることはなかった。
幸せに満ちた記憶…それだけが流れ込んでいたから。
翌日からシンジは行動を開始した。
運動、畑仕事、知識の整理、街への散策、一定の間隔で毎日繰り返す。
すべてにおいてシンジは才能を発揮した。
もともと悪くない運動神経、両親譲りの明晰な頭脳。
それを生かしきれなかったのは環境の悪さと内向的な性格。
受身で物事に取り組むのと自らやり始めるのでは意欲に差が出る。
シンジは順調に予定をこなしていった。
他人の記憶の侵入さえも少しずつ同調させることによって苦痛を和らげていた。
すべての記憶に最初から同調するのは無理な話だ。
ならだんだんと慣らしていけばいい。
その甲斐があってか最初のころのようにはならなくなった。
シンジの精神が成長したということも一端を担っている。
順調にすべてが上手くいく…そう思っていた。
6ヵ月後。
頼りなかった顔つきに精悍さが加わり、肉体は見た目はほっそりしているが強靭なものへと変化を遂げていた。
しかし、シンジに影が差し込み始めていた。
人はまったくの光も音もない密室で正気を保てるのは8時間が限界だといわれる。
この世界は光もあり、密室でもない。
だが生物が存在せず、機械の作動音しかない世界は巨大な部屋に変わりない。
あれほど鳴いていたセミの声さえない。
街に出ても何も音がない。
空を見上げても鳥の羽ばたきさえない。
一人の世界がこれほどまでに苦痛だとは思っても見なかった。
もしかしたら誰か一人でも戻ってくるかもしれない。
それは甘い考えだった。
一つに溶け合った世界において苦痛は存在しない。
幸福と快楽が入り乱れ、望むものを与えてくれる。
そう考えると苦痛さえも望めてしまう。
そんなところを抜け出そうと思うものがいるだろうか?
答えはNO、だ。
自ら苦痛があるこの世界に戻ってこない。
それは未来永劫一人であることを宣告されたことを意味する。
「カヲル君…綾波…僕はこの世界でいつまで生きていればいいの……?」
精神が徐々に……蝕まれていく。
心に余裕がなくなりはじめると、また悪夢がよみがえりだした。
もっとも残酷な悪夢が。
寒さを防ぐための毛布を掻き毟り、シンジはうなされる。
表情からは苦痛が消えず、うめき声がやけに大きく聞こえた。
「シンジィ……」
「トウジ!?」
目の前に存在するは片足を無くした少年。
片足を引きずりながら這うように迫ってくる。
「なんでわいを助けてくれなかたんやぁ……」
「トウジ……?」
「おまえに潰された足が毎日うずいてなぁ……」
「ト……」
「おまえがうばったんや! わしの足を返せ〜!」
自分を親友と言った少年が殺さんばかりの目つきで睨んでくる。
そこにはかつての面影はない。
這いながら来た体を起こし、手を伸ばしてくる。
もう少しで自分に触れるかと思った瞬間、かき消すようにその姿は消えた。
「うあ…あああぁぁ」
体が硬直して動かない。
苦痛が、トウジの思いが心を傷つける。
「碇君」
声に振り向くとそこにはおさげの少女。
よく見知ったアスカの親友。
「洞木…さん」
「鈴原ね、片足がなくなったんだって…どうしてかな?」
「っ……!」
先ほどのトウジを思い出す。
「あなたが…あなたがうばったのよ! 返しなさいよ!」
迫ってくる手。
一度も人を殴ったことがないだろうと思われるその少女の拳は自分に向けられている。
当たる瞬間、その姿は消えた。
「……僕は…」
心が痛い。
「バカシンジ!」
「ア、アスカ……」
目の前にいる輝かしい存在。
太陽のような光を放つ少女。
「アスカ…僕を助けてよ!」
「なんで……? 嫌よ」
鼻で笑い、蔑んだ視線を送る。
まるで汚物を見るようだ。
「助けて…? あんた私が量産機に喰われたときに助けに来た?」
「そ、それは…」
「エヴァのエースの座から引きずり落としておいて……」
言葉は止まらない。
「わたしのことおかずにして病室で何をしたの?」
「…………」
「あんたが、あんたさえいなければ! 私は一番でいられたのよ! おまえなんか死んでしまえ!」
シンジの首に手がかかり…少女は消えた。
悪夢は止まらない。
「シンちゃ〜ん」
「ミサ…ト…さん」
「私ねぇ死んじゃったの〜あなたをかばったせいで撃たれた傷でねぇ〜」
向けられる拳銃。
この距離で彼女がはずすはずはない。
「さっさと……エヴァに乗ってくれれば私は死なずに死んだのよ!」
笑顔を浮かべていた表情が一転して怒りへと変わる。
ドンドン!
飛び出す弾丸。
やけにゆっくりと迫るそれをシンジはよけようともしない。
弾丸が眉間に向かって当たる瞬間、彼女の姿と共にそれは消えた。
止まらない。
次々と見知った顔が現れては呪いの言葉を浴びせ消えていく。
もはや反応する気力はなくなっていた。
「……シンジ君」
うつろな視線を持ち上げる。
銀髪の少年が視界に入った。
自分に銀髪を持つ少年の知り合いは一人しかいない。
「カヲル…君…」
「ああ、よかった…大丈夫みたいだね。心配したんだよ」
「……カヲル君!」
心配してくれる言葉たまらなくうれしい。
今の自分にはもう耐えられそうもなかったから。
「本当によかったよ。…そう簡単に壊れてしまったらつまらないからねぇ」
優しさは偽り。
目を大きく見開き、カヲルを見つめる。
「ふふふふふ…そうだよ、僕は君のそういう顔を見たかったんだ。なぜって感じの表情だね?」
笑みを浮かべた顔しか知らない少年の顔が歪む。
「簡単なことさ。君は僕のことを親友だと思っていたのに握りつぶしたよねぇ?」
胴体から首が転がり落ち、胴体から流れる血が真っ赤な絨毯を作り出す。
「痛かったんだよ? 肉と骨が潰れるのが分かるんだ。…首がちぎれる瞬間も……」
目の前で胴体が潰れ、肉塊へと姿を変える。
時々痙攣のように動く肉がリアルさを引き立てる。
「君は…残酷だね」
近づく首が顔を覗き込み、一言言うと消えた。
まるで何事もなかったかのようにその場には何も残らない。
「うわぁぁぁぁぁぁあ!」
何も信じられなくなる。
夢も罪が侵食し始める。
「碇君」
胸に飛び込んでくる人。
女性特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「あや…なみぃ」
涙が止まらない。
もう自分には助けてくれる存在はいないのだから。
「大丈夫…大丈夫だから……」
優しく背中をなでる……まるで母親のように。
胸にすがりつき、シンジは泣きはじめる。
「みんな…僕を責めるんだ…死んで、しまえばいい…って……」
しゃくりあげ、上手く離せない。
レイは背中を撫でていた手を止めると、ゆっくりと離れた。
「碇君……」
「あやなみ……」
「それは本当のことだもの」
「……えっ?」
うつむいていた顔を上げると、そこには…冷たいまなざしをむけたレイがいた。
「すべてあなたのせいなの。みんなが死んだのはあなたのせい」
「あやな……」
「私も…生きたかったのに……どうして助けてくれなかったの?」
綾波レイの形をしていたものが高熱にさらされたようになり、炭化した塊へと変わる。
手を伸ばすとそれは崩れ去り、風に流されていった。
呆然とそれを見続ける。
「あなたが…私たちを殺したの」
姿なき声が最後の一言を放ち、静寂がまたこの世界を支配した。
「うわぁぁぁぁぁあああああぁぁぁ!」
心が壊れ始めた。
すべてを拒絶し始める。
「あああああああぁぁぁぁああ!」
幻覚が現実を支配する。
幻想に……心が……取り殺されだした。
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