終局からのはじまり
第壱部
第参話 心、解き放たれし時
光がない薄暗い部屋で僅かに衣擦れの音がする。
膝を抱え込むようにして片隅にシンジはいた。
口からは言葉がぶつぶつ漏れている。
視線は虚ろにさまよい、何も映してはいない。
身近なものからの弾劾は深刻なダメージとなってあらわれる。
他人の記憶の侵入は所詮他人の物事。
自分が行ってきたことではない。
同調して受け入れることで対処することはできた。
だが、今回はそうはいかない。
自分の罪を明確に突きつけられた。
自分が行ってきた数々の罪…胸の奥にしまっていた記憶。
その罪はみんな許してくれた。
ならばなぜまた罪をつきつけられたのか?
理由は悪夢での出来事だったからだ。
現実において許されても、本当に許してくれたのかという猜疑心が残っている。
それが夢という形であらわれた。
この問題は自分自身の力で超えなければならない。
しかし、それにはシンジの心は繊細すぎたのだった。
幻想は終わらないかもしれない。
紅い海の世界とは別に二つの『現象』が漂っていた。
銀髪に赤い瞳の少年。
もう一人は蒼銀に赤い瞳の少女。
かつて渚カヲル、綾波レイとして存在していた。
どちらにも共通するのは表情に悲愴感があることだ。
「碇君…」
胸の上においた手をぎゅっと握り締める。
隣で同じものを見ていたカヲルは視線をレイへと向けると先に口火をきった。
「シンジ君は罪の意識にさいなまれている。自分の犯した罪に……」
「それは…碇君が悪いわけじゃない」
「そうだね、シンジ君は悪くない。だけどシンジ君はそうは思っていないのさ。当事者が罪を許しても自分自身が許せない限り変わらないよ」
視線をシンジへと戻す。
「シンジ君が乗り越えなければ、悪夢は終わらない」
事実だけを淡々と語るカヲルの様子にレイは憤りを感じる。
好きだと言ったのにその程度の感情しか表せないのかと。
「あなたは! 碇君が苦しんでいるのになんとも思わないの!?」
「そんなわけないだろ!」
普段の笑みを絶やさないカヲルからは想像できないような口調で切り返す。
精神がダイレクトに伝わり感情が流れてくる。
「僕にとってシンジ君は一番大切な存在なんだ! たとえどのような存在であっても傷つけるものは許さない!」
これほど感情的になったカヲルは初めて見た。
レイが驚いた表情をしていると、その視線に気がつきまた元の笑みを浮かべた。
「僕としたことがみっともない所を見せたね。…理屈では分かっているのさ、シンジ君が努力しなければいけないということが。だけど……」
「だけど……?」
「納得した訳じゃない」
瞳に宿る強い意志。
そこに一切の曇りはなかった。
「僕は初めてくやしいということを知ったよ。シンジ君が苦しんでいるのにただ見ることしかできない。僕たちは何のために『現象』として存在しているのか分からないよ」
「そうね。私たちは碇君を見ることができるのに碇君からは見る事ができない。どんなに触れようとしても、声をかけても届かない……」
触れたい、声をかけたい、そして共にいたい。
どんなに望んでもそれが叶うことはないのだ。
希望となってしまった自分たちには。
「笑わせるよ…自由天使タブリスが自由ではないなんて…僕たちは無力だ」
「私たちは自分の形を保つ事しかできない……」
「でも、例えシンジ君の元へ行けたとしても助けることはできないのかもしれない」
「え……?」
なぜ?
レイにはカヲルの言った意味が分からない。
彼のもとへ行けるならせめて悪夢くらいはどうにかできるかもしれないと思っているから。
「忘れたのかい? シンジ君を苦しめている対象に僕たちも入っているということを」
「そ、それは……」
レイから視線を外し、昔を振り返るようにして語りだす。
「僕は自由を求めていた。絶対の自由を。」
すなわち、死。
なにものにもとらわれない絶対の自由。
「だから僕はシンジ君の手にかかることを望んだ。最後くらいは好きな人の手にかかりたかったしね。
それに僕が生きていてはインパクトを起こしてしまう。僕が死ねば僕は自由を手に入れ、シンジ君には未来が残る。合理的で互いにいいことだと思っていたよ、あの時は」
瞳が揺らぎ、表情が曇りだす。
「結果、シンジ君の未来は考えられてもシンジ君の気持ちを分ってやれなかった。僕の過ちだよ」
「それは私も同じだわ」
今度はレイが話し出す。
「十六使徒アルミサエルに融合されたときに碇君と一つになろうとしてしまった。
アルミサエルを殲滅するために私は自爆して消えた。それで良かったと思っていたわ……私には代わりがいたから」
「でも、シンジ君は知らなかった」
「ええ。3人目には記憶が伝わらず、碇君を傷つけることになったわ」
互いに人の心を理解できなかった。
効率のよさばかりを求めた結果が生み出してしまった結果。
後悔しても手遅れになっている。
「だから、碇君のために望む世界を再生したのに……」
そこまで口に出して疑問が出てくる。
碇君の望んだ世界…? これが?
望んだのは傷つけられることになっても他人がいる世界。
この世界ではない。
「なぜ…?」
カヲルの方を振り向く。
彼なら知っているような気がした。
「なぜ…か。アスカ君の影響だろうね」
「二号機パイロットの?」
「彼女は自分を認めない他人を拒絶していたし、常に自分はトップである事を望んだ。
インパクトで形を保てたもう一人の人物の願いが歪み、シンジ君の願いと混ざった結果がこの世界。
イレギュラーだね、これは」
だからと言って、アスカを責めるわけにはいかない。
彼女もネルフの犠牲者であるのだから。
悔やんでもしかたない。
今は目の前の問題を解決しなければならなかった。
「このままではシンジ君の心が壊れるのは時間の問題。どうすれば……」
「…………」
焦りが募る。
こうしている間にもシンジへと悪夢は侵攻しているのだ。
かといって、手段はなきに等しい。
今の自分たちにはどうすることもできなかった。
「助けたいの…? 彼を」
「……! 誰!?」
意識を集中して辺りの気配を探る。
だが、どこからも感じる事はできない。
この世界には自分たち二人以外の『現象』は存在しないはず。
いるはずがないのだ。
「誰かなんてどうでもいいこと……彼を助けたくはないの?」
存在は分からない。
だが、自分が望むことを提供してくれるらしい。
誰だか知らないがその存在の言うとおりだ。
「碇君を助けられるの?」
「あなたたちが望むならね…ただし条件があるわ」
「条件……」
「彼を助ける代わりにあなたたち二人の『現象』としての存在をもらうわ」
『現象』としてもいられなくなるということは、すなわち消滅を意味する。
存在しなくなるではなく、消滅なのだ。
「それでも彼を助けるの?」
「ふっ…愚問だね」
鼻で笑い、いつものアルカイックスマイルを浮かべる。
「シンジ君を助けるのに僕の存在ですむなら軽いものさ。」
「あなただけではないわ。私も同じ気持ちなのよ?」
レイがむっとしながら睨み付ける。
すべてをかけられる―――シンジのためなら。
「そう……ならあなたたちを彼の精神世界へと送り込むわ。
だけど、あなたたちが思っているほど簡単には助けることはできない。
あなたたちが戦うのはあなたたち自身であり、最後は彼自身が立ち直らなければいけないだから」
その言葉を最後に存在が拡散していく。
消え行く意識で自分たちがシンジの心に侵入していくのを感じた。
暗く深い深淵。
何者も拒み、侵入を許さないこの空間は虚無が支配をはじめていた。
「これが…シンジ君の精神の世界……」
「何も…ない、空っぽだわ」
ぞっとするほどに何もない。
あれほど希望に満ち、現実の世界で生きていくことを望んだはずなのに心の中には何もなかった。
「寒い…」
レイは自らの体を抱きしめる。
虚無というものを初めて実感した。
自分が、リリスが望んだ無への回帰はこれほどまでに暗く、冷たいものだったのか?
「…いや……」
精神がゆっくりと失われていくような感覚。
存在が不安定になってしまう。
「しっかりするんだ、綾波レイ」
体の感覚が戻り始める。
カヲルの体が強い輝きを放っていた。
「この世界では精神の強さがすべて。こんなところで立ち止まるようならシンジ君を救うことはできないよ?」
不敵な笑みを浮かべながら先へ進みだす。
彼の揺ぎ無い精神がレイには羨ましかった。
だけど、シンジを助けたい―――その気持ちは自分も負けていないはず。
決意を新たにレイはカヲルの後を追った。
目指すはシンジのいる場所。
この世界の中心。
「シンジ君、僕と共に行こう……そうすれば苦しまずにすむんだよ」
「碇君……私たちと一つになりましょう? それはとても気持ちいいことなのよ」
差し伸べられる手。
綾波レイと渚カヲルだ。
ただし、この二人は悪夢の存在であるほうのだ。
甘い誘惑にシンジは引きずられていく。
楽に…それは甘美な言葉。
震える手が二人のほうへ伸ばされる。
「もう、いいんだね……」
苦しみから解放される安堵感に期待を寄せてしまう。
もうすぐ手が触れる…その時、
「ダメ!」
遮るようにして間に蒼銀の髪をした少女が入りこんできた。
目の前に突然現れた人物にシンジは動揺を隠せない。
「あ、綾波が二人……!?」
「僕もいるよ? シンジ君」
ぽんっと肩に手を置き、笑いかける。
「なんで…」
「騙されてはいけないよ、あれは僕たちじゃない」
「そう、私たちの姿をしたまったくの別物」
紅い瞳がさらに深紅へと染まる。
目の前にいる自分たちと同じ姿をしているものにたいして怒りが込み上げる。
紅い海の世界へと誘うその存在に。
「なぜ…あなたちは碇君をあの世界へと引き込むの!」
「なぜ? そんなこと分りきっているわ」
おおげさに腕を広げ話しだす。
「それが私の望み。碇君と一つになりたいの…あなたもそうでしょう?」
「それは…」
「誤魔化してもダメ…私はあなた、あなたは私。同じだもの」
確かにその通りなのかもしれない。
でも、それはこんな形で叶えるものではないのだ。
「そう、私は碇君と一つになりたい…それはとても甘美なもの。でも、これは違うと思う」
「どこが?」
「あなたの望みはあの一つになった世界で碇君と永遠に過ごすこと。私は…違う。
私の望みは碇君と共に生きること!あなたは私の弱い心が生み出したもの…消えなさい!」
体から強い光が放たれる。
思いは力へと姿を変え、悪夢のレイを消し去っていった。
「私は碇君と共にいたい…かなわない願いでも」
初めて聞く彼女の本音だった。
「どうやらあっちは片付いたみたいだね」
対峙する同じ姿をした二人の少年。
緊張感が辺りを包み込む。
「なぜ、シンジ君を傷つけたのか聞かせてもらう。答えによってはただじゃすまないよ?」
笑顔を浮かべてはいるが目が笑っていない。
きっかけさえあればいつ暴走してもおかしくない状態だ。
「シンジ君が苦しめば、生への執着が薄くなる。赤い海へと連れて行くには効率がいいのさ。だから、追い込んだんだよ?」
「僕の望みが具現化したものならばそんなことはしないはず……」
「本当にそうなのかい? 君は心のどこかで願っていたはずだよ。シンジ君とずっと一緒にいたいってね」
「だからと言って……!」
「『傷つけるつもりはない』かな。僕や消えたレイは君たちの望みを忠実にかなえようとしただけ……
それだけの存在さ。だからもう消えるよ」
だんだんとその姿が薄れていく。
「分らないねぇ……どうしてそんな簡単に消えようとしてしまう?」
「君たちが僕たちの存在を否定してしまえばいつでも消せたんだよ、ただの望みが具現化した存在だからね。
君たちは心のどこかでシンジ君とずっと一緒にいること望んでいたんだ。……どんな形であろうとも。
だけど、君たちは僕たちと向かい合い、それを否定した。もう、迷う必要はないのさ。
今の君たちの望みを大切にすればいい。……そろそろ終わりだね、最後のゲストが来るよ」
そして、彼は消えた。
本当に先ほどまで存在したのかと思われるほど何もない。
姿も…思いも。
カヲルは軽く握った手をあごにやり、思考へと沈む。
「他の人物は一度しかシンジ君の悪夢に出てきていない。ならばなぜ、僕と綾波レイだけがいつまでも居続けたんだ……?」
『僕たちは望みが具現化したもの』
その言葉に欠けたパズルが埋まりだした。
「そうか…僕たちという『現象』がいたから悪夢の中でいつまでも僕たちだけが居続けたのか。他の人物は『現象』としていないから一度だけしかでてこない」
つまり、他の人物はシンジの罪の意識から生まれた悪夢にしか過ぎないが、カヲルとレイは今もなお『現象』として存在している。
そのために自分たちの後悔の念がシンジの悪夢と混ざり合い、いつまでも存在してしまったというわけだ。
自分の後悔という感情が結果としてシンジを苦しめていたことを知る。
「皮肉だね…人の感情を知ってしまったことがシンジ君を傷つけることになるなんて……」
自嘲的に笑う。
「それにしても気になることを言っていたね…『最後のゲスト』いったい誰のことかな?」
突然、不思議な感覚が辺りを覆う。
懐かしい、どこかで感じたことがある雰囲気。
「最後のゲストは僕だよ、カヲル君」
背後を振り向くと、座り込んでいるシンジとは別に立っているシンジがいた。
黒髪に黒い瞳。
サードインパクトを超える前のシンジだ。
「もう一人の…僕……」
「僕も消えたカヲル君や綾波と同じ様な存在だよ。違うのは、過去にとらわれていないという所かな」
軽い口調で話しながら、シンジの顔を覗き込む。
「君は罪にとらわれすぎているよ。彼らはその罪を許してくれたのにどうして信じることができないの?」
「あんなに…あんなにひどいことしたのにそう簡単に許してくれるはずがないじゃないか!」
「それは君がそう思っているだけだよ。せっかく許してくれたのにみんなが浮かばれないよ?
あ、でもアスカは許してくれないかもしれないなぁ…あははは」
今のシンジとはまるで違う。
底抜けに明るい様子は何かを超えた人物のように思える。
「僕は君でもあるからね、すべて分っているんだよ。今の僕は『君が望むシンジ』とでも言うべき存在かな。だから、ちょっとお説教に来たんだ」
「何を…?」
「よく言うじゃないか。過去は忘れることはできない、だからと言って忘れる必要はない。だめなのは過去にとらわれ続けることだって。いい言葉だよね」
「そんなこと分っているよ…」
黒髪のシンジの雰囲気が変わる。
いままで飄々としていた感じが吹き飛び、体から強烈な意思が放たれる。
「分っていないよ。君はなんて言った? 生きていくって決めたんだろ?
みんなの思いを受けて今の君という存在があるんだ。カヲルくんと綾波にした約束はそんな簡単に破れるもの?」
「だって、辛いんだよ! 誰もいない、誰の声も聞こえないこの世界は……」
悲痛な叫びにカヲル達は声をかけられない。
分ってやれないから…体験したことのない自分たちには。
だが、もう一人のシンジは分っていた。
その辛さも、苦痛も、思いも。
「確かにこの世界は辛いかもしれない。助けてくれる存在もいないかもしれない。でも、本当に助けてほしいときに君を助けに来た人たちがいただろ?」
背後にいる二人へと視線を向ける。
「カヲル君と綾波はこの後消えることが分っていても来てくれたんだよ?」
「消えるって…!?」
「交換条件さ。君の元へ行くためには存在をもらうという約束をある存在とした。
どういう結果になっても二人は消えてしまうんだよ。そこまでして来てくれた二人の思いを無駄にする?」
「…………」
「僕たちが見ている例えその存在がなくなってしまっても、声が聞こえなくても。
ずっとずっと僕たちは君のことを見ているから。だから頑張ってほしいんだ『僕には』」
真摯な思い。
嘘偽りなく心に届いてくる三人の思いが心を解き放つ。
「僕は…僕は…頑張れるよ、その思いがあるのなら……」
黒髪のシンジが消え、銀髪のシンジへと溶け込む。
その存在は思いとなりシンジの隅々まで伝ってきた。
瞳に強い光が戻り、ゆっくりと立ち上がる。
「碇君!」
感極まったレイがシンジの胸へと飛びつく。
やっと触れられる、感じられる思い人の体へ。
頭を昔より厚くなった胸板へと沈め、力の限り抱きしめる。
「ごめんね、綾波。心配かけて……」
「いい…碇君が無事なら」
涙を流しながら体に抱きついてくる少女に愛しさがこみ上げる。
折れてしまいそうな細いウエストを優しく腕で包む。
離れてその様子をみているカヲルは、ちょっとその雰囲気に気に食わないような感じを受けていたが傍観することにしたようだ。
さすがにこの場で邪魔をするのは無粋だと感じ取ったからだ。
長いときを経て出会えた二人はお互いを話さない。
だが、それは『あの声』によって破られる。
「彼を助けることはできたようね」
「誰!?」
シンジは辺りを見渡すが誰もいない。
不気味に声だけが響き渡る。
「なら、約束は守ってもらうわ」
「仕方ないねぇ……シンジ君が助かったからよしとするよ」
カヲルは潔く受け入れる。
約束は破ってならない。
名残惜しそうにレイもシンジの体から離れ、覚悟を決める。
「分りました…さよなら、碇君」
辺りが光に包まれ、空間を埋め尽くす。
あまりの光量にシンジは目が開けられなかった。
静寂が辺りを覆い、目を再び開けたとき……
ジオフロントへと移動していた。
「ここは…」
目の前に広がるジオフロント。
なぜ? と思いつつ辺りを確認すると二人の人物が倒れこんでいた。
「綾波! カヲル君!」
二人に近づき、すぐさまに脈を確認する。
確かな脈動が二人が生きていることを証明した。
そこまでの確認をしながら、シンジはいまさらあることに気づく。
「なんで二人がいるの……?」
ここは現実の世界。
精神世界ではないのに存在しているはずがない。
「なぜ…」
シンジは自分でも気づかないで声を出していた。
「それはね…二人の願いを叶えたからよ」
精神世界で聞いたあの声がまた響いてくる。
「あなたは誰なんですか?」
息を呑み、返答をじっと待つ。
握りこんだ手がじっとりと汗ばむ。
少しの間待つと、その答えはすぐに来た。
「私の名は……」
「リリス」
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