終局からのはじまり



第壱部


第伍話 別れ








 はっきりしない頭に流れ込んでくるイメージ。
 毎日等しく感じているものだった。
 記憶の侵入にはもう慣れている。
 だけど…今回はなにか違う。
 明らかに普通の人たちよりも多い、膨大な数の情報が流れ込んでくる。
 内容はまったく変わらない、他の人たちと同じ様に。
 喜怒哀楽がつまった誰にでもありふれた人生…それなのに悲しみだけが強い。
 何がそんなに悲しいのだろうか?
『あなたは…なにがそんなに悲しいんですか?』
 自らがリリスに向かってつぶやいた言葉。
 そうだ、この悲しみの波動は彼女のものに似ている。
 ―――いや、きっと彼女のものなんだろう。
 悲しみの奔流に身をまかせ、白濁した意識のなかでそれを感じる。
 知りたい。
 他人の記憶を初めてそう思った。






 体内時計が正確に働き、シンジの意識を覚醒させる。
 体が起きる時間を記憶しているので自然と目が覚めてしまう。
 無機質な目覚ましに起こされるのは気分がよくない。
 起きるのではなく、起こされるという感じがするからだ。
 そのためにシンジは自然とそういったものは避け、自らの時間間隔によって起きるようにしていた。
 隣のベットで寝ているカヲルを起こさないようにして、静かにベットから抜ける。
 クローゼットへと向かい、運動をしやすい格好へと着替えると静かにドアを閉めて部屋を出た。
 もう日課になっている早朝ランニング。
 目覚めの運動であり、スタミナをつけるために毎日欠かさず走っていた。
 はじめの頃は10Kmも走らないうちに疲れてしまい無残な結果だったが、今では30,40Km走っても余裕を持っていた。
 慣れた運動から抜け、今はその距離をできる限り全速力で毎日走る。
 より高い肉体へと目指すために。
「はっ…はっ……」
 流れ出る汗を片手でぬぐいながら呼吸を落ち着けていく。
 汗を流すことは気持ちいいが放って置くと体が冷えてしまう。
 運動が終わった後は熱いシャワーへと身を投じ気持ちを切り替えていた。
 運動が終わり次第すぐに朝食に準備へと移る。
 今までのように一人分の食事ならまだしも、三人分の食事を作らなくてはいけないからだ。
 家事は趣味の一環なのでシンジには苦痛にならないことが幸いだろう。
 片手でフライパンを扱いながら食器に料理を盛り付ける。
 だが、料理を食べる肝心の人物は起きてこなかった。
 一通りの作業を終えてもそれは変わらない。
 仕方なくため息をついて、シンジは二人の部屋へと向かうことにした。






 枕を抱きながら幸せな顔で眠っているカヲル。
 時折、寝言で何かを言っているが聞き取ることはできない。
「カヲル君、朝だよ」
 体を包む毛布を剥ぎ取る。
 ミサトの寝起きが悪いせいか、似たように寝起きが悪い人物には容赦がない。
 優しく起こしていてはいつまでも起きないからだ。
 カヲルの手が毛布を求めて空中をさまよう。
 手にその感触が伝わらないことを理解すると、緩慢ながら体を起こし始めた。
「さぁ、シンジ君僕と心も体も体も体も体も体も体も体も体も体も一つになろう? それはとても気持ちのいいことなのさ」
 体のほうが多いのは気のせいだろうか。
 寝ぼけているだろうと思われるカヲルが、そんな状態からは考えられない力でシンジを押し倒す。
 顔は笑っているが目がマジだ。
 この世界で鍛えた反射神経と第六感がシンジに警鐘を鳴らす。
(き、危険だ…)
 即座に全身のばねを使い体を力任せに起こす。
 当然、その勢いはカヲルへと向かい体勢が逆転する。
「ふふふ…僕が受けに回るんだね。攻めるほうが僕にはあっているけど君とならそれもいいさ……」
 うっすらと顔を赤らめ、目を閉じる。
 …なにも状況は好転していなかった。
 むしろ、悪くなっていた。
(君が何を言っているのか分らないよ〜)
 危険な雰囲気を漂わせるこの状況に気圧される。
 場の雰囲気を変えるために深呼吸をし、吸い込んだ空気を一気に吐き出す。
「カヲル君、朝だってば!」
 びくんとカヲルの体が反応し、不確かな意識から呼びさまれる。
 即座にカヲルから離れるのも忘れない。
「もうそんな時間なのかい?」
 先ほどの様子が嘘のようにさわやかな笑みを浮かべてくる。
 むしろ、夢うつつの状態だからこそ本音が出たのかもしれない。
 夢は願望を表すというくらいだ。
「う、うん、朝食ができたからダイニングにきてよ」
「分ったよ」
 ギャップに悩みながらもなんとか用件は伝える。
「綾波も起こさないといけないか先に行ってて」
 身の危険を脱しきれないシンジはすぐに廊下へと飛び出し、レイの部屋へと向かう。
 逃げ出すように出て行ったシンジを見送るカヲル。
 訳を分っていない彼はただ首を傾げるだけだった。






 シンジはレイの部屋へ向かいつつ、カヲルとの相部屋に身の危険を感じていた。
 まさかとは思ったがそういう種類の人物だっとは……
 正確に言えば、カヲルは好きになったら性別なんか関係ないというやつだ。
 結局は両刀使い。
 余計たちが悪いのかもしれない。

 コンコン

 ドアをノックして起きているのか確認をする。
「…………」
 返事が返ってこないことを確認して静かにドアを開ける。
 中ではレイが規則正しい呼吸で、枕に顔をうずめるようにして眠っていた。
(かわいいよなぁ)
 ずっと見ていたい気にはなるが、女性の寝顔をいつまでも見ているわけにはいかない。
 尤もレイはそんなことは気にしないだろうが。
 枕もとへと近づき、優しい声で囁くように起こしてあげる。
「綾波、朝だから起きて…」
 カヲルとは扱いが違うが男と女だからということだろう。
 ミサトの場合は対象外だ。
「う…ん……」
 艶やかな声が唇からもれ、僅かに身じろぎをする。
 まどろんだ意識をゆっくりと覚醒させていると、思い人の顔が視界へと入ってきた。
(碇君が…いる…)
 伸ばした手をシンジの首の後ろへと回し、体を寄せる。
 胸に顔をうずめながら、猫のように頬を摺り寄せていた。
「あ、綾波?」
 この手のことに免疫がないシンジは顔を真っ赤にして慌てる。
 精神世界において一度はあったが肉体を伴っては初めてなのだ。
 理性が落ち着きを無くし、どうにか収めるために体を離す。
「あ…」
 レイが大切なものを奪われたような、捨てられた子猫のような目をする。
 その表情になぜか罪悪感を覚えるが、このままではいけないので静かに話し掛ける。
「起きた?」
「…うん」
 名残惜しそうだが、はっきりと答えを返してくれた。
「朝食ができているから行こう」
「うん」
 ベットから足を出して立ち上がる。
 連れ添うにして二人は部屋から出て行った。






 朝食の席、シンジは一つの提案を出した。
「二人ともこれから街へ行かない?」
 食べ物をほおばりながらシンジを見る二人。
 なぜといった疑問が伺えた。
 その姿に苦笑をしながら話し出す。
「二人とも服はそれしかないよね?」
 指先が自分たちの服へと向けられる。
 制服。
 共通した学校の制服だ。
 そういえばそうだとカヲルは頷く。
「何か問題があるの?」
 まったく分っていない少女もいた。
 ほんとに常識が欠けているなぁと改めて認識する。
「着替えの服がないってことだね。」
 しっかりとカヲルが説明してくれる。
 それに頷き、シンジは話を続けだした。
「うん、だから街へ行って調達してこようと思うんだ。僕一人で行ってもいいんだけど、好みとか分らないから一緒に来て欲しいんだけど」
「碇君がそう言うなら、私も行く」
「当然僕もね」
 即座に答えを見せる。
 あまり聞く意味なかったのかもといまさら思うシンジだった。






 ルノーを駆り、街へと向かった三人。
 当然目指すものは服なのだが選ぶ人物に問題があった。
「これはどう?」
「…よく分らない」
 これである。
 シンジがいろいろと持ってはくるがレイは分らないの一点張り。
 カヲルは自分で選んでいるので問題はなかった。
 こうなると大変なのが少女のほうだ。
 感受性が強くなったとはいえ、まだまだ精神的には幼い。
 命令を聞いて生きてきた人生から自らの判断に任されての人生へ変わるのは難しいものだ。
 すべての責任が自分へと返ってくるから。
 そういったことからレイにはまだ物事の判断は難しかった。
 仕方なく片っ端からレイに似合いそうなものを選んでいく。
 もともとこういったことに疎いシンジとって至難のものになっていた。
(これは派手すぎるしなぁ…これも…色がねぇ…)
 悩みは絶えない。
「やっぱり…よく分からない…」
 少女は小首を傾げて見ているだけだった。






 半ばやけくそになりはじめたシンジはほとんどの服を持って帰ることにした。
 車に詰め込み、二人を伴って帰宅する。
(選ぶなら家でもできるし)
 そういうことらしい。
 尤もそれはレイに任せるとして、帰ったらやることがある。
 より強く。
 そのためには訓練を欠かすわけにはいかない。
 悪夢の件で自らの精神の弱さは露呈された。
 だからといって、こればかりはどうしようもない。
 精神は経験によって培われていくものだが、この世界では他人との関わりがないのだ。
 カヲルもレイも人の心においては未熟なので助けることは無理だろう。
 せめて年長者がいたならば話は変わっていたかもしれない。
 だからこそ肉体だけでも強くしなくては、何かあったときに対処できなくなってしまう。
 隣へ座っているカヲルへと視線を移し、静かに決意を固める。
「カヲル君、僕の訓練に付き合ってくれない?」






 使い慣れた訓練場。
 何もないただ広い空間だ。
 ここに来ると、アスカに叩きのめされたことを思い出す。



 ドン!

 懐に入り込んだアスカが見本のような背負い投げをシンジ食らわす。
 たまらず受身を取るが、衝撃は完璧に消すことはできない。
「あんた、これで何回目?」
 倒れたシンジを見ながら呆れている。
「仕方ないじゃないか、何年も訓練しているアスカにかなうわけないだろ」
「あんたねぇ、そういう風に思っているからダメなのよ!」
 足を持ち上げ、かかとを下ろしてシンジの頭を狙う。
 踏み抜かれたら陥没なんていったものじゃすまない。
 慌てて体を横に転がしながら体勢を立て直して立ち上がる。
「危ないじゃないか!」
「やればできるじゃないの。それくらいの勢いで訓練にも取り組みなさいよ」



 頭をよぎる思い出。
 今となってはそれさえも懐かしい。
(僕は強くなれたかな? アスカ…)
 それを確かめるためにここにきた。
「僕のほうは準備OKだよ」
 目の前にいるのはカヲル。
『訓練に付き合う』とは格闘の相手をしてもらうということだ。
 肉体を鍛え、格闘における技も覚えた。
 ただしそれを実行する相手がいない。
 いくら技を磨いても相手がいなければ効果的なのかが判断できない。
 記憶にある格闘の達人たちの知識があったとしてもそれは自分のものではないのだ。
 思わぬ返しにあえば、致命傷を受けて終わる可能性もある。
 経験を得なければならない。
 誰にも話していない『ある目的』のために。
「……いくよ」
 深く息を吸い込み、吐き出す。
 それが合図となった。
(先手必勝!)
 構えを取らずに間合いを詰めてのハイキック。
「…ふっ!」
 右足を軸足にして左のハイキックを左右に振る。

 パァン

 慌てた様子を見せずに両腕を上げてカヲルはガードをした。
 肉体に見合わない重さの蹴りが腕をしびれさせる。
 シンジの左足が一瞬戻るのを見計らい、右手のガードを下げて間合いをつめてフックを放つが、体を僅かにそらしてかわされた。
 軸足を入れ替えてのミドルキックがカヲルを襲い、ガードをしなくてはならなくなる。

 ゴッ

 左手でガードした蹴りの威力を利用して一旦距離をおく。
 息がつまるような戦い。
 互いに一瞬の隙を逃さずに的確に攻撃を仕掛けていた。
 いつものような優しさは影を潜め、そこにはたしかな戦いがあった。

(強い…)

 短い攻防だったがカヲルには余裕が感じられる。
 それこそ、経験によるものだと思われるものが。
 だからこそ必要な相手なのだ。
 左右のコンビネーションを放ち、動きを止めるがガードは崩せない。
 右が終わる瞬間、体を半回転ひねって左のバックブロー。
 狙うは鎖骨。
 左腕のガードで防ぐが、遠心力を利用しての鎖骨打ちは体をのけぞらせる。
 そのまま左足を軸に体重を乗せたローキックを放つ。
 当たれば間違いなく折れる。
 いや、今のシンジなら砕くことも不可能ではない。
(…もらった!)
 左のガードは間に合わず、体勢も崩されていた。
 体重の乗った右足へのローキックはカヲルの足を折るはず…だった。

 ゴッ!

 鈍い音と共に倒れたのはシンジだった。
 当たると思った瞬間右足への振り下ろし。
 右拳が足首にり込み、威力を打ち消す。
 同時に左手で足を押さえ込んだ。
「ぐ……あ!」
 激痛が右足を襲うが止まる訳にはいかない。
 ここで動きを止めてしまえばすぐにでもカヲルの攻撃が入ってしまう。
 倒れこんだ体を左手一本のばねでおこし、右足を犠牲にして体をひねっての浴びせ蹴りを放つ。
 間合いのないこの状況では入るだろう。
 が、左手を離して前へと飛び込むと右半身をずらしただけで避けきってしまう。
 そのまま左手で服をつかんで自らに引き寄せつ。
 遠心力のついた体は容易に引き込まれ……

 ドン!

「がはっ…」
 右手による掌底がきれいに入る。
 爆発したような衝撃がシンジの体を突き抜けていった。
 衝撃で後ろへと下がるシンジをカヲルは一歩踏み込んでさらに掌底を放とうとする。
 さすがにシンジは同じ技は二度は食らわない。
 体を両腕でしっかりとガードする。
 掌底はガードさえできれば怖いものではない。
 腕越しにダメージを与えることは容易ではないからだ。
「甘いよ、シンジ君」
 それがシンジが意識を失う前に聞こえた言葉だった。
 左手による掌底…それだけだと思ったが、カヲルはさらにその上に右手の掌底を重ねる。
『鎧大筒』
 ただの掌底の重ね打ちではなく、体内へと直接ダメージを与える当て身技。
 タイミングを僅かでも外せばただの掌底で終わってしまうが、それをカヲルは決めたのだ。
 当然ガードなどは意味をなさず、衝撃が体を突き抜け意識はそこで途切れた。






 頭に感じるやわらかい感触が心地いい。
(なんか気持ちいいなぁ…)
 目覚める時に思ったのはそれだった。
 重い瞼をゆっくりと持ち上げると少女の顔が視界に入る。
 今にも泣きそうな、心配そうな顔。
(泣かないで……もう誰も悲しませたくないから)
 シンジの心の中で決めた決意。
『ある目的』の中に含まれている大切な思い。
 ぼやけた意識がはっきりと覚醒する。
「…碇君!」
「綾波?」
 自分の名を呼ぶその声に状況がつかめる。
(カヲル君に倒されて…気絶したんだ)
(あれ? 今のこの状態って)
 柔らかいものに乗せられている→綾波の顔が真上…ということは
(膝枕されてる?)
 慌てて体を起こす。
 嬉しくはあったが、それ以上に気恥ずかしかった。
 レイは乗せるものがなかったから自分のひざを乗せたに過ぎないのだが。
 シンジのぬくもりが自分から離れていってちょっと不満はあるもようだ。
「も、もう、だいじょうぶだから」
 両手を振ってあたふたしながら安否を伝える。
 そして、カヲルが会話に加わってないのを疑問に思い周りを見渡すと、床に転がっていた。
「な、なんでカヲル君が……」
 唯一傍観していたであろうレイへと目を向ける。
 意味ありげな笑みを浮かべ、答えるレイ。
「タブリスは私が『殲滅』しておいたわ……」
 その言葉にあとずさる。
 脳裏にうかんだのは名言だった。
(いつの時代も女性が一番強い…本当なんだね)






 倒れこんだままのカヲルを引っ張って部屋へと戻った。
 あのままでは続けようがなくなってしまったからだ。
 なんとなく手持ちぶたさなので夕食の準備にとりかかることにする。
 椅子から立ち上がり、キッチンへと向かおうとすると袖を引っ張られた。
「私も手伝う…」
 じっと見つめる紅い瞳。
 この瞳に見つめられるとどうも断れない。
 それに、彼女にもいろいろ経験をしてもらいたかった。
 自分から物事に興味を抱いたのはいい傾向だ。
「じゃあ、一緒にしようか」
 まっていたとばかりにレイの目が輝く。
 腕を引っ張りながらキッチンへと向かう様子は、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように思えた。



「カヲル君、いいかげん起きなよ」
 レイの手伝いもあり夕食の準備は終わっていたが、カヲルは未だに倒れたままだった。
 怪しいうわごとをいいながら時々笑う様子は近寄るのを躊躇わずにいられない。
 だからと言って、自分のせいでこうなった訳でもあるのだから放っては置くには気が引けた。
 体を揺すってはみるが反応はない。
 こうなったらやることはただ一つ、古来から伝わる方法『ショック療法』
 ようは強い衝撃を与えることだ。
 とは思ったが、これ以上衝撃を与えたら余計おかしくなりそうだったのでやめた。
 カヲルの体を起こして背後へと回ると膝を背中に当てる。
 両肩をつかんで固定すると、膝を少し強めに入れた。
 活をいれるというやつだ。
 体ががくんと揺れ、うわ言が止まる。
「大胆だなぁ、シンジ君こんなところで…って」
 ようやく意識を取り戻し、自分の状態を思い出す。
「そうか…僕はレイ君に叩きのめされて……」
 光景を思い出し身震いを起こす。
 いったいどんな目にあったのだろうか。






 シンジにとって気になることが一つあった。
 それは、レイがカヲルをタブリスと呼ぶことだ。
 確かにそれでも合ってはいるが、今は人として生きようとしている。
 その名前は違うような気がした。
 ご飯を口に運びながら二人の様子をみる。
 相変わらずなのだが、やっぱり名前の呼び方が気になった。
「綾波、どうしてカヲル君のことをタブリスっていうの?」
 口に溜めていた食べ物を飲み込み、レイがこちらを見る。
「タブリスは、タブリスだもの」
 彼女らしい意見だ。
 リリスの半身たる彼女はその思考も似通っていた。
 タブリスというほうが親しみがあり、カヲルというほうが馴染んでいないのだろう。
「でもさ、カヲル君は渚カヲルとしてこの世界にいるんだよ。自由天使タブリスとしてじゃない。だから綾波にもそう呼んで欲しいんだ」
 カヲルは親友が自分のことを気にかけてくれる事が嬉しくて感無量だった。
 レイも納得したのかそれに従う。
「そう…カヲルと呼べばいいのね」
 いきなり呼び捨てにするが、下手に君づけしないほうが彼女らしい。
 なにより、似合っていない。
 このまま穏便に事は終わるかと思われたがそうはいかなかった。
「私も碇君に聞きたいことがあったの。」
「何?」
「どうして私のことを名前で呼んでくれないの?」
 そう言われてシンジは考え込む。
 なぜと聞かれても、特に理由はなかった。
 日本では異性に対してあまりファーストネームで呼ばない。
 それはシンジにもいえることだ。
「どうしてって言われてもなぁ…ずっとそうしてきたわけだし」
「なら、私のことも名前で呼んで欲しいの」
 むぅと唸る。
 名前で呼ぶのには恥ずかしさがあった。
 とはいえ、カヲルのことを名前で呼んでほしいといった以上、自分もレイのことを名前で呼ばなければ不公平だ。
 承諾するしか道はなかった。
「レイ、でいいんだよね。なんか…照れるね」
 レイとシンジがそろって顔を赤らめる。
 シンジはともかく、自分で言わせておいて顔を赤らめるレイには困ったものだ。
 名前という話題でシンジはもう一つ気づく。
「綾波…レイも僕のこと名前で呼ばないよね。僕のことも名前で呼ぶの?」
 レイがはっとする。
 確かにそういうことになる。
 この状況では自分もシンジのことを名前で呼ばなくてはいけないだろう。
シ、シンジ君…
「え?」
 俯きながら呟くように言われては聞き取ることができない。
シ、シンジ君…
 ようやく聞き取れた。
 やはり、思い人の名前を言うのは恥ずかしいのだろう。
 今までに名前で呼んだ人物は一人もいないということも理由の一つだが。
 顔を赤らめながら名前を呼ぶ様子はかわいいのだが、やはり恥ずかしさがある。
「な、なんなんだい、この目に見えない熱い雰囲気は?」
 ずっと静観していたが限界がきたようだ。
 目に見えない何かがカヲルに疎外感を与えている。
「よく分らないけど、僕だけが蚊帳の外にいるような感じだよ。これもリリンの力かい?」
 力というほどのものかは分らないが、確かにそうなのかもしれない。
 カヲルでなかったらこの場の雰囲気には絶えられないだろう。
「この湧き上がる感覚は…そうか、これが嫉妬なんだね! 僕は生まれて初めて嫉妬を感じたよ!」
 一人で騒ぐカヲルを無視して二人は顔を赤らめたままだ。
「レイ……」
「シンジ君……」
 甘い雰囲気が包み込み、よりいっそうカヲルを刺激する。
 転げまわりたい衝動を抑え、必死に呼びかけては見た。
 結果はみるも無残にだめだった。
「シンジく〜〜〜ん」
 空しく声だけが響きわたり、とても疎外感を感じたのだった。






 ――――――♪―――――――――――♪♪―――――――

 カヲルが廊下を歩いていると、不思議な音楽が耳に入った。
(何の音楽かな?)
 耳を澄まして音源へと向かう。
 音楽を追いながら、音を奏でているものを推測していく。
 単調な音…だけど不思議と落ち着いてしまう。
(そうか、オルゴールだね)
 少ない音数で奏でられているもの。
 それはオルゴールの音楽だった。
 引き寄せられるように足が進む。

 ――――――♪―――――♪――――――♪♪――――♪―――

 音源へと近づいていくと新しい音が重なる。
 今までの音も綺麗なものだったがさらに質を高めていた。
 それがまたカヲルの好奇心を刺激していく。
 音はより高みへと進んでいるかのように聞こえた。

 ――――――♪―――――♪♪―――――♪――――――♪♪――――♪♪―――

 新たなる音。
 それが加わった時にカヲルの心は高揚した。
 3つの音による完全なる調和。
 高みを目指していた音は完成された音楽として体現された。
(見てみたい)
 この音を奏でるその存在を、オルゴールを見たくなってしまう。
 自然と歩く足が早まり、音を目指す。
 近づいてくる音。
 それは目の前の部屋から聞こえてきた。
 シンジたちと住んでいる宿舎―――その場所から。
 音に不協和音を混ぜないために静かにドアから入っていく。
 見慣れた部屋がこの時ばかりは違うもののように思えた。
 音楽が奏でられている場所には二人の先客を見つける。
 シンジとレイ、二人は静かに音楽へと身を任せていた。
「シンジ君…この音楽は?」
 テーブルの前に置かれている3つの小さなオルゴール。
 それを指してカヲルは尋ねた。
 閉じていた目をゆっくりと開き、シンジはオルゴールへと目を向ける。
「音楽っていってもね、名前なんかないんだ」
「ない…? どうしてだい」
「僕が作った曲だから」
 カヲルは感嘆の息を漏らす。
 こんなところにまで才能があるということに。
 チェロを習っていたということは知っていたがここまでとは思ってもみなかった。
 その様子をよそにシンジは続ける。
「この曲は3つのオルゴールがそろってはじめて完成するように作ったんだ」
「なぜだい? 一つにまとめたほうがいいじゃないか」
 その意見は最もだ。
 わざわざ分ける必要はない。
 だが、次の言葉で納得させられる。
「このオルゴールはね、僕たちなんだ。3人のうちの誰か一人でも欠けてしまわないように…そう思って作った。だから、二人に受け取って欲しい」
 小さなケースに入っているオルゴールのふたを閉じて手渡す。
 自分たちのために作ってくれた―――それが二人には嬉しくてたまらなかった。
「ありがとう、シンジ君」
「はじめてのプレゼント…大切にするから」
 レイは小さなオルゴールをそっと胸に抱える。
 このオルゴールは三人の絆。
 どれか一つでも欠けては未完成になってしまう。
 シンジの言うとおりこれは自分たちの象徴なのだ。
 この日からこのオルゴールは三人にとって宝物となった。






 充実した日々はあっという間に過ぎる。
 三人にとって望むべきこの生活は楽しくもあり、新しい発見の毎日だった。
 それゆえに時の流れが速く感じる。
 時が止まってしまえばいい、そう思わない日はなかった。
 時の流れは残酷に二人の時間を減らしていくのだから。



 半年後。

 カヲルとの訓練により、シンジはめきめきと実力をつけていた。
 彼に足りないのは実戦経験のみ。
 それさえ補えればもはや敵う存在はいなかった。
 事実、カヲルは今のシンジに勝てることはほとんどない。
 新たに気の概念を取り入れたシンジの戦法は、今までにできなかったことを実現する。
 半年前とは別人のような強さだった。
 あと欠けているものは、不特定多数の人物との戦闘のみ。
 シミュレーターにより仮想世界では大丈夫だが、現実においてそれが反映されるとは限らない。
 この点を除けば、シンジは間違いなく最強だろう。
 だが、カヲルは気になっていた。
 なぜそこまで強さを求めるのか。


 カヲルも変わった。
 いろいろなことに興味を示しだしはじめてきたのだ。
 最初は『釣りは面白そうだね』と出かけていき、魚がこの世界にいないことを思い出して落ち込んでいた。
 次はバードウオッチングだといいまたいないことに気づき落ち込む。
 何かと抜けた行動ばかりを繰り返していた。
 次に目をつけたのがシンジの乗っていたルノー。
 車の運転に興味を締め出した。
 どこから持ってきたのか車をジオフロントに運び込み、改造しまくっていた。
 ネルフの誇る技術は並大抵ではなく、より最速へと車が変わっていく。
 暇さえあればシンジたちといろんなところにいくようになっていた。


 レイは一般教養を身につけた。
 シンジとの家事から始まり、家事一般に対して興味をもちはじめる。
 何かとシンジに頼ってはいたが、疲れているシンジを見かねてサポートに回ることにした。
 髪型や服装にもこだわり始めている。
 あれほど分らないと言っていた服も毎日鏡の前で確かめるようになった。
 じっくり時間をかけて服装を選ぶ。
 乙女の神聖な時間というものを理解してきていた。
 短かった髪も腰まで伸ばして、シンジを驚かせている。
 こういった経緯にはMAGIからいろいろと情報を引き出したことがあげられるだろう。
 MAGIは必要な情報を知れる宝庫だからだ。
 レイがここまで変わったことには理由がある。
 彼女はサードインパクトを迎えた頃、シンジを通して他人の記憶を見ていた。
 その中には普通の人たち生活があり、一般の女性というものもある。
 その情報に感化されたのだろう。
 だんだんと『普通の女性』というものを理解していった。
 好きな人のためにおしゃれをして、可愛いとか綺麗とか言ってもらいたい。
 それは女性が最も美しくなれる要素であることを理解していた。
 シンジに褒められるたびに彼女はより高みを目指していた。
 今では言葉数こそはあまり多くはないがれっきとした普通の女性だろう。


 その三人が今取り組んでいるものがあった。
 それはMAGIを超えるスーパーコンピュータを生み出すこと。
 優れているとはいえMAGIにも限界もある。
 バージョンアップは繰り返してはいるが、この世界を管理するにまだ心もとなかった。
 人格移植OSを超えるもの。
 それは膨大な情報を持つ三人にとっても困難なものだった。
 だが、決して不可能なことではない。
 赤木ナオコがニュートラルネットワークシステムを進化させたように、自分たちはMAGIを進化させていく。
 通常の素子から量子デバイスや分子デバイスへと進化させていった。
 膨大な数のプラグラムを神業的なスピードで打ち込み、構築する。
 それでも時間は足りなかった。
 どんなに見積もっても1年以上は最低でもかかる。
 三人でいるという条件のもとでだ。
 後半年で自分たちはこの世界から消えてしまう。
 シンジのためにも負担は減らしておきたかった。



 さらに二ヶ月。

 シンジはリリスの記憶を徐々に見はじめる。
 リリスの記憶は今までもたびたび見る事があった。
 だが、今ではほぼ毎日といっていいくらい頻繁に見る。
 脳の処理能力がリリスの記憶を見れるまでになったということでもある。
 リリスが使徒という存在になった経緯や彼女の思い出が伝わる。
 中でも目を引くのが現代を超える技術。
 それは新しいスーパーコンピュータを造るための革新的なものだった。



 さらに二ヶ月。

 新しい記憶媒体が完成する。
 ホログラフィックメモリだ。
 これは、CD−ROMやDVDーROMやフロッピーなどのように、線でデータを記憶していたものとは違い、面単位で記憶する。
 これにより桁違いの超高速データ入出力が実現された。
 ギガ単位の容量は終わり、テラへと向かう。
 さらに『定比組織ニオブ酸リチウム単結晶』という素材により、メモリ初期化時に加熱する作業がなくなりデータは劣化しない。
 新たなるステップへと移行していった。



 さらに一ヶ月。

 この頃から二人に影が差し込みだしていた。
 精彩を欠き、落ち着きがなくなる。
 それを責めることはできない。
 残された時間はあと一月しかないのだから。



 レイはいつもにもましてシンジの傍から離れず、カヲルも同じ様になっていた。
 顔では笑ってはいるが、不安が見え隠れしている。
 あと一月での別れ。
 今の形を保てず、また『現象』のような存在に戻るのか。
 それならまだいい。
 死というものへ向かってしまう…そう思うだけで体が恐ろしさで震える。
 それは記憶というもの以外から自分たちの存在が消えてしまうことを指す。
 この世界で得た生への喜びが、死というものへの恐怖をよりいっそう深めていった。



 さらに二週間。

 シンジは部屋の掃除をしていると、一冊のフォトアルバムを見つけた。
 学校でのありふれた情景。
 今は懐かしいその光景に思いをはせる。
「何を見ているの?」
 横から覗き込むレイ。
 シンジが見ているものへと視線を落とす。
「これは……?」
「ケンスケが撮った写真だよ。…ほら、綾波のもあるよ」
「ほんと……」
 いつの間に撮ったのかレイのアップ写真がたくさんある。
 どうみても隠し撮りなのだが、アングルがすばらしいものばかりしかない。
 中学生にしては上手すぎて、作品と呼べる位置にある。
「写真か……」
 ポツリと呟く。
 思い出に残すもう一つの形。
 記憶が忘れても形として残り続けるもの。
 振り返ってみると三人で撮ったことはなかった。
「写真をとろうか?」
「写真?」
「そう、僕とカヲル君とレイの三人の写真」
 大切なこの思い出を忘れないために、記録を残そう。
 別れは近いのだから。
 諜報部へと赴き、必要な機材を手に入れる。
 ただ写真をとる分には高価な機材がそろっていた。
 ケンスケあたりがいたら涙を流して喜ぶものだろう。
 手に入れた機材を片手にいろいろな場所へ行っては写真をとり続けた。
「あそこの景色でとりたいねぇ」
 というカヲルの意見を参考にいろんな場所を巡る。
 だてに暇があればドライブに出かけていたわけではなく、景色のいい場所を知っている。
 日が暮れるまで、いや、日が暮れても写真はとり続けた。
 ついでに持ってきたビデオもシンジの手によって改造され、ホログラフィックメモリを内蔵されていた。
 これから別れの時間まで撮り続けても容量が足りなくなることはない。
 ほとんど回しっぱなしだ。
 三人の思い出は写真や映像という形をとり、たくさんのものを残していった。



 さらに二週間。

 終わりの時は足音を立てて近づく。
 笑顔が減りはじめていた。
「シンジ君、僕は聞きたい事があるんだ」
 新しいスーパーコンピュータ作成をしていた手を止め、シンジのほうをむく。
 いつも何か聞きたそうな顔をしていた時があったが、言わずに終えていた。
 今回はそれをやめたようだ。
「どうして君は力を欲するんだい? この世界においてそれほど力は必要ない。ただ鍛えるといった理由では納得できないものがあるよ」
「私もそう思っていた」
 カヲルにレイも加わる。
 訓練で見せるシンジは明らかに鬼気迫っていた。
 必ず理由があるはず、そう感じずにはいられない。
 シンジは無心で打っていたキーボードから指を離し、椅子に深く腰掛けた。
 椅子を二人のほうに向き直しながら何もない空間を見上げて語りだす。
「最近よく思うようになったんだ」
「…何をだい?」
「あの頃へ戻れたら…って」
『あの頃』
 二人にはその言葉が指す時間が容易に推測できた。
 サード―インパクトを起きる前の時間だろうと。
「今の力が、知識があればきっとあの世界を無くさないで済む。何もできなかったあの頃とは違うから。…高慢だよね」
 自虐の笑みを浮かべる。
 力がある今だからこそなんて都合のいい話だ。
 簡単にやり直しができたらそれほどつまらないものはない。
「確かにシンジ君は高慢かもしれないね。だけど僕はこの世界になるよりはましだと思うよ。例え、高慢な考えだとしてもやり直せるものならもう一度やり直して欲しい」
 それはカヲルの本音だ。
 シンジに、人類にこんな未来を残すために死んだわけではないのだから。
 レイとてそれは同じだ。
『やり直せたら』 
 その願いが叶うなら自分はすべてを犠牲にできる。
 こんな未来はもうみたくない。
 シンジの言葉からカヲルはシンジの目的を理解した。
「シンジ君、君は過去へ回帰しようとしているんだね」
 それならば納得がいく。
 強さも知識も求めたその理由が。
 そして、新たなるスーパーコンピュータを創造しようとしたわけも。
 世界を監視するのならMAGIだけでも十分なのだ。
 すべてを見守る必要があるのではないから。
 さらに推測を続ける。
「そして、君はその糸口を見つけた」
 シンジは頷く。
「最初に目をつけたのは使徒の存在だった。彼らは突然第三新東京市にいつも現れた。どういった手段を用いたのかを分析すると、空間移動ということが分ったんだ」
 単純に行ってしまえばテレポートのようなものだ。
 同じ時間軸の好きな場所へと移動することができる。
「そのことが分かると、空間移動をより高い次元へと持っていくことを考えた。空間移動から時間移動へと。さらに両方の性質をあわせた時空間移動もね」
 キーボードを操作してまとめあげた理論を広げる。
 いつのまに作ったのか分からないほど緻密に練り上げられていた。
 それをみる限り、あながち空想の理論とは思えない。
 だがため息をつくと、欠点を暴露する。
「ただし、いろいろと問題はあるよ。正確な時間へと移動することが可能なのか。肉体は時間の流れに耐えられるのか、とかね」
 視線を落とす。
 時空間移動は人類が辿りつくにはあまりにも未知の領域だった。
 誰もしたことがないことにはどんな危険がつきまとうか分からない。
 運が悪ければ、宇宙空間に放り出されたり、太陽のど真ん中に出たりしておしまいだ。
 実用には程遠い。
 だが、今開発しているスーパーコンピュータが完成すれば不可能な話ではない。
 それだけの英知を詰め込んでいるのだから。
「君は本当にやる気なのかい?」
「うん。たとえ何十年かかっても成功するまでやり続けたいんだ」
 瞳に宿る決意には一切の揺らぎがない。
 だからこそ悲しかった。
 後数日で消えてしまう自分にはもう手伝えないのだから。
 会話はぴたりとやみ、それぞれ自分の仕事へと意識を投じていった。






 最終日、別れの日。

 時を刻む時計がいつもにまして気になる。
 この時計が24:00を示したときに自分たちはいなくなってしまうのだ。
 シンジはどこかに出かけようといったが二人はMAGIのもとから離れない。
 最後までシンジの手伝いをしたかったから。
 消えるその瞬間まで。



 刻々と時間は進み、デジタルの表示は23:00を示す。
 あと一時間。
 不思議と二人の心は落ち着いていた。
 それはもう覚悟を決めたからかもしれない。
 自然と口数が減り、沈黙が支配をはじめる。
 ただじっとしているだけの様子にシンジ動いた。
「二人とも、外に行こう」






 夜空に輝く星。
 夜になると人工的な光はまったくなくなり、月明かりだけが辺りを照らす。
 人工の光がない空は星が綺麗に輝き、幻想的な光景を作り出した。
「レイとはこうして空を見上げた事があったよね」
「……うん」
 第八使徒の襲来の時。
 停電した第三新東京市でアスカとレイとシンジで見上げた空。
 今はアスカはいないがカヲルがいた。
 そのまま星空を見上げる三人。
 時間は残り10分を示した。
 隣にいたレイが急に落ち着きを無くしだす。
 時間を確認した瞬間、喪失の恐怖が彼女を襲いだした。
いや…
 小さな声。
 シンジにはそれがはっきりと聞こえた。
「いや…消えたくない……」
 溜め込んでいた気持ちが溢れ出した。
 シンジの体へと手を腕を回し、胸に顔をうずめて本心を叫びだす。
「死にたくなんかない…まだシンジ君の傍にいたいの! やっと、やっと傍にいられるようになったのに…!」
 激情に任せて叫ぶ言葉の一つ一つがシンジの胸に突き刺さる。
 本心ゆえに本音の言葉が飛び交う。
「これから…なのに…! どうして、死ななくてはならないの…私は…ただ傍に…傍にいたいだけなのぉ…!
 絶対に泣かないと決めていた。
 シンジが覚えている最後の顔が泣き顔だなんて絶対に嫌だから。
 それなのに…私は…自分の心に負けてしまった。
 泣き叫ぶ私の体を優しく、強く抱きしめてくれる彼の腕がまた涙を誘う。
 このぬくもりを永遠に感じ取れなくなってしまうから。
「ひっく、ぅ……やだよぉ……」
 泣き続ける彼女を抱きしめながら僕は無力感にさいなまれる。
 こんな肝心な時に役に立たない力に何の意味がある……!
 この力は大切な人守るために…悲しみから守るために望んだはずなのに…!
 ただ抱きしめることしかできない。
 二人を見ていたカヲルの顔からも雫はこぼれ出した。
 目元を指ですくい、水滴を見つめる。
「これが…涙なんだね。悲しみの象徴…」
 堰を切った涙は止まることを知らない。
 カヲルもまた今を必死に生き、これからを望んだ存在だ。
 死を望んだあの頃とは違う。
「苦しいねぇ…別れというものがこんなに苦しいものだなんて……」
 残酷な運命を呪う。
 こんなにもつらい別れを経験させるこの運命に。
 うちひしがれるカヲルはシンジの手によって抱きしめられた。
「僕は、生まれ変わりなんて信じていなかった…だけど、今は信じたい。例え名前が違っても……年が違くても…姿が変わっても…絶対に僕たちはまた会える! 僕たちの絆は絶対に壊れることはないから……」
 転生なんてものは死を恐れる人たちによって生み出されたものだ。
 せめてもの気休め。
 それでも、今は信じたかった。
 こんな残酷な運命で終わるなんて悲しいから。
 時間が分をきり、時が失いだす。
「絶対に過去へ戻って二人を助け出して見せる! 何があっても、絶対に!」
 手に感じる存在がどんどん希薄になる。
 それでも、放しはしない。
「すべてのものから僕は守って見せる。傷つける存在からからも…悲しみからも! だから…だから…!」
 悲しみで言葉が続かない。
 それでも言葉の一つ一つが二人の心に染み渡っていく。
 もう、それだけで十分だった。
 心が伝わってきたから。
 だから…今度は自分が伝える番。
 今まで言えなかった思いを、大切な思いをあなたに伝えます。
 最初で最後のこの思いを。
 レイはゆっくりと顔あげて言葉を放つ。
 だが、次第に消えていく体からはもう声は出ることはなかった。
 静かに動く唇を見つめるシンジ。






『あ』





『い』





『し』





『て』





『い』






『ま』





『す』

















『愛しています』

















 たった一つの言葉。

 言いたくても言えず、伝えられなかったその思いを―――

 最後にして――――

 もう一人の少年と共に―――

 少女は消えた。


 抱きしめていた感触はもうなく、その場に残る服だけが二人の存在を示す。

 コン

 ――――――♪―――――♪――――――♪♪――――♪―――

 服から落ちたオルゴールが音を奏でだす。
 その旋律はどこまでも悲しい。
 主を失った悲しみか…一つ音が欠けているせいか……
 どちらも正しいのだろう。
 いつまでもいつまでも演奏は繰り返される。
 未だに信じられなくて少年は地面にくずれながら、二人がいた場所へと向かい言葉を紡ぐ。
「忘れないから…忘れないから……! 絶対に! 例えどれだけの時が過ぎても! この魂が消えてしまっても! 僕は二人のことを絶対に忘れないから!」
 その思いはオルゴールの音と共に空へと吸い込まれ…消えていく。
 悲しみが体を支配する。
 涙が止まらなかった。
 胸が張り裂けそうだった。
 泣かなければ、この痛みに耐えられない。

 ―――子供の頃のように泣いてしまう。

 悲しみを超えるために。





「うわああああああぁぁぁぁ」





 体の水分がなくなるまで、乾いてしまうまで泣き続けよう。






 頬を流れる涙なんか気にせずに。






 僕はただ残酷な運命を嘆きながら……






 生まれて初めて本当の悲しみを知った。







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