の入所からさらに二週間経ったころ、彼女は休憩コーナーで緊張を緩めていた。
 発令室を出て少し歩いた先にあるここは、手洗いやドリンクサーバー、ソファの用意された空間だった。
「それで、立ち入ったことを聞くようだけど」
 隣りのリドナーが、紅茶の入ったカップを口から離してつぶやいた。
「新しい恋をしようとは思わないの?」
「うん」
 短いが、それ以上にあっさりした答えだった。
 リドナーは間髪入れず答えがかえるとは考えなかったらしく、面食らった様子だった。しかしすぐもとの表情に戻って、話を続ける。
「それは、亡くなった彼に操をたてる意味で?」
「それもあるけど、一番の理由は別。私、もともと恋愛にそんなに興味がなかったの。こう言うと、冷淡だとか、澄ましてると思われるかも知れないけど……。どうしようもなく惹かれる人に出会えたときのみ、そういった感情は機能するものだと思うの」
「冷淡だとは思わないわ。ロマンチストなのよ。同じ女として共感できるわ。私もそんなふうに恋をしてみたい」
 はリドナーの艶のある金髪を、まぶしそうにながめた。
「リドナーは美人だし、言い寄ってくる男の中に、ひょっとしたらあなたのほうでも何かしら感じるところのある人がいるかもよ」
「下心のある男なんてごめんだわ。下心のない男なんていないけど」
「そんなこと言ってたらお互いにすぐおばさんよ」
「確かに。ところでおばさんで思い出したんだけど、子どものころ、自分が大人になること想像できた?」
 問いかけられて、は苦笑しながらベンチにもたれかかった。背中をぐっと伸ばしながら、微笑した目をリドナーに向ける。
「ぜんぜん。いまでも老いる自分を想像できない」
「でしょ。あれ、不思議よね。この前ジェバンニに話したら、変だって言われたわ。女にしかわからない感覚なのかしら」
「そうでもないんじゃない? 想像力豊かな子どもなら、あれこれ考えて思い描くでしょうから、大人になった自分を小さいときからイメージできるかもしれない」
「ああ……なるほど。ってことは、ジェバンニは空想好きな子どもだったってことね」
「あるいは、私たちがリアリスト過ぎたか。どちらかね」
 談笑の最中、ふいに視界の隅に白い影が紛れ込んだ。二人が顔を向けた先には、ロボットの玩具を手にしたニアが立っていた。彼はリドナーをちらと見やると、すぐにまた目を逸らす。癖である髪を触るしぐさをしながら、口を開いた。
「リドナー、ジェバンニが探していたようです」
「そうですか、ありがとうございます。……空想好きなお子様がお呼びだわ」
 後のほうはの顔を見ながらつぶやいた。笑い声を漏らすに「お先に」と声をかけ、発令室へ戻る。
 ニアはちょっとのあいだ所在なさげにたたずんでいたが、やがてドリンクサーバーへ向かうと、コーヒーをふたり分注いだ。うちひとつを、に差し出した。
「よろしければ、どうぞ」
「……ありがとうございます」
 は空のカップを脇へやると、礼を述べてコーヒーを受け取った。
 すぐ隣りに身体をおさめたニアは、すぐカップに口をつけながら、彼女の様子をうかがう。
「……すみません、ご迷惑でしたか?」
「え?」
「ぜんぜん飲んでいないみたいですから」
「あ……いえ、そういうわけではないんですけど……。すみません、ご馳走になっておいてなんなんですけど、砂糖入れていいですか?」
「ご心配なく。これは加糖です。私もブラックは飲めません」
「さらに砂糖入れたい気分なんです。飲めないことはないんですけど……なんだか、そういう気分で」
「どうぞ、好きな飲み方をしてください」
 ニアの返事を待って、ドリンクサーバー脇のラックから、スティックシュガーを四本持ってきた。まず一本封を切り、二本目、三本目という要領で、四本ともすっかり流し込んでしまう。
 奇妙な嗜好に、ニアは目を見張る。まさかここまでの甘党にまたもや遭遇することになるとは、つゆほどにも考えていなかった。
「……世界は広いですね」
「はい?」
 凝固する黒い水面をマドラーでかき回しながら、は不思議そうに聞き返した。
 ニアは玩具を膝へ置き、両手でカップを持つと、コーヒーをすすった。
「昔の知り合いと同じ飲み方をしているものですから」
「驚きますよね、普通は。……私もはじめて見たときは驚きました」
「だれかからの影響なんですか?」
「ええ。……死んだ婚約者の。年取ってから糖尿病になるからよしなさいって何度も注意したんですけど、彼、こう言うんですよ」
 そこでいったん言葉を切り、懐かしげにうなじを反らした。
 睫毛の先がきらめくさまを幻想的だと感じてから、自分らしくないとニアは自嘲した。世界はいつだってリアルであるべきだ。それが彼の信条だった。
「私が動けなくなったら、さん、介護してくれますよねって。そのときは冗談じゃないって言い返したんですけど、動けなくなっても、たとえ指先一本思い通りにならなくても、私は彼に生きていて欲しかった」
 ニアは片膝を抱えて、適切な言葉を探した。
 慰めるべきか否か迷っているうちに、のほうから話題を切り上げた。
「どうもニア相手だと湿っぽくなってしまいますね。このコーヒーの飲み方も、いつもこうしてるわけじゃないんです。ときどき無性にやりたくなってしまうんです」
 彼は二週間前に聞いた、自分に似た亡き婚約者の話を思い出した。そんなに瓜二つなのだろうかと疑問に感じる。相手が死人でなければ、一度会ってみたかった。
「さっきリドナーと話してたんですけど、ニアは大人になった自分を想像できますか?」
 は話を変えようとする。ニアの手が、彼自身知らないうちに玩具を掴みなおし、強く握った。
「私はもう大人ですよ」
「失礼しました。大人になった自分を想像できましたか?」
「どうでしょうね。私はそのころ一心不乱に勉強していました。そんなことを考える暇はありませんでした。それに」
 ニアは口をつぐみ、決然と顔を上げる。強い視線で宙を見据え、一語一語をはっきりと口にした。
「立派な大人になった自分をイメージするより、将来そうあれるように努力するほうがずっと建設的です」
「その年にしてSPKを率いるだけのことはありますね。私よりずっと大人です。……私なんかより、ずっと」
 の自嘲気味なつぶやきを聞きながら、ニアは何か違和感を覚えた。直感の命じるまま、考えるより早くくちびるを動かす。
「憎しみでもいいんですよ」
「え?」
 突然の断言に、は意味を把握できず困惑した。
 ニアは構わず言葉を継ぐ。
「憎しみでも、恨みでも、悲しみでもいい。生きていけるなら、なんだっていいんです。満身創痍でも。虫の息だって構いません。ただ最期の一瞬に至るまで、生きることをけしてやめてはならない」
 ニアがなぜこんな話をしだしたのか、にはわからない。しかし一方で、彼の伝えようとしていることを、心のどこかで感じ取っている。
「……生きることに、意味はあると思いますか?」
 ふと脳裏をよぎった疑問を、そのまま口にした。
「そんな論争は半世紀以上前に決着を見ています。生きる理由なんてわからないし、ないかもしれない。でもだからこそ生きていけるんです。あなたはあなたの生きる意味が用意されていたとして、それをすんなり受け入れますか?」
 は無言で首を振った。
 ニアは彼女のほうを見ていなかったが、どう答えたのかはわかる。イエスと返すわけがない。
「私の生きる意味は、今のところですが、キラを捕まえることです。あの独裁者を処刑台に押し上げることです。あなたの生きる理由は、あなたが決めてください。それが生きるということです」
 自分より年下の少年に、彼女なりに培ってきた人生観を揺さぶられる。
 恨みでもいい、憎しみでもいい。それでも生きていけたら。
――あなたはいま、生きている。それだけでいいんです。
 恋人が笑って言ったことがある。そのころはアジア大洋州局に配属され、一向に進まない交渉に胃を痛めていた。
 官邸から外交日程の組み直しを迫られるが、相手国は扇情的なスローガンを連発するばかりで、まるで取り合おうとしない。海の彼方に駐在する大使は保身に走り、ろくに意見すら寄越さなかった。
 彼女と同僚は方々へ手を尽くし、なんとか道筋をたてるものの、相手国でデモ隊が蜂起したことで潰え、やっとの思いで外交ルートを整えても、今度は価値観の隔たりが原因で論争が勃発し、何もかも泡沫と消える。
「すべては官邸の無策ぶりが原因よ」
 ソファに腰かけ、彼女を見つめる恋人に向かって、語気を荒げた。
「毅然とした態度を貫けば経済協力に支障をきたし、財界からの反発は必至。かといってご機嫌取りに終始すれば、相手につけこまれ、国内保守派から指弾される。二者択一よ、それをだれだって知ってるのに、支持率ばかり気にして舵取りできない。その皺寄せは全部私たちにくる」
、落ち着いてください。あなたはよくやってます」
「がんばっても上が無能なせいで報われない。私はこんな惨めな思いをするために官界に飛び込んだんじゃない。……私、なんのために外務省に入ったんだろう。父親がそうだったから? 自分が国を動かしてる実感を得たかったから? ……もういやだ、こんな、なんの具体的な理想もないまま働いてるからだめになるんだ。だから私は自分で自分を認められない」
「そんなに悲観してはいけません。日本の外交は成功しています」
「成功? どこが?」
 自嘲もあらわに、はゆがんだ笑いを浮かべた。
 そんなすさんだ姿を視界から消すように、恋人は有無を言わさず彼女を抱き寄せた。
「戦争はひとつの外交手段です。日本がひとたび開戦を決すれば、周辺国と対等以上に渡り合えるでしょう。しかし、国内外の命は失われます。そして日本はいまだ、最後の外交手段を取っていない。その意味で日本の外交は成功しています。それに、そんなことより、私のはがんばってます。これは私が保証します」
「がんばったって仕方ないの、結果を出せなきゃ」
「結果が出るはずもない状況で、それでもがんばってるじゃないですか。私はあなたを尊敬しますよ。私なら一日で逃げ出します」
 冗談めいた口調に、少しだけ心が軽くなる。
 は恋人の背に手をまわし、自分から抱きついた。目の前の胸板から心音が響いてくる。
「あなたは自分を認めていいんです。でも、認めなくてもいい。無理してはいけません。自分を大事にしてください。……あなたはいま、生きている。それだけでいいんです」
「それだけで?」
「ええ。少なくとも私にとっては。いまこの瞬間に、あなたという女性が生きている。ただそれだけの事実が、こんなにも私を幸せにしてくれる。だからあなたも感じて下さい。私とあなたがいまこうして向き合うことのできる幸せを」
 は自責の連鎖を引きずり続けている。現在にいたってもなお自己否定をくりかえし、そしてそこから脱せられない自分が腹立たしくて、許せなかった。自分を否定せずにいられないなら、そうすればいい。それがつらいなら、自分を認めればいい。どちらもできないなら、そんな自分を受け入れればいいだけだ。
 かつて恋人が教えてくれたのに、そこから何も学ばず、自分より年下の上司に同じことを告げられた。
 はいま、恋人の無念を晴らそうとしている。命を賭けてでも。そう決めたのは彼女自身だった。
 は顔を上げた。正面には銀髪の少年がたたずんでいる。
 彼は白い頬をやわらげ、小さく微笑んだ。
「仕事に戻りましょう」
「……はい」
 ふたりは連れ立って発令室へ戻った。
 その途中、思いついたようにがニアを振りかえった。
「ニア。励ましてくれたお礼に、今度、何かおもちゃ買ってきますよ。何がいいですか?」
 ニアの低いが形には恵まれた鼻の根元に、たちまち皺が浮かびあがった。不機嫌そうに横を向く。
「子どもじゃありませんから、そんなものをもらっても嬉しくありません」
「……すみません、つい」
 どうやらコンプレックスを刺激したらしいと、はあわてて口をつぐんだ。
 ニアの玩具を握る手に、再び力がこもりはじめていた。

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