電子音や機械音の絶えない発令室に、新たな呼び出し音がくわわった。日本に派遣中のマッケンロー捜査官から連絡だ。
がキーボードを弾くと、すぐに緊迫した声が飛び込んできた。
「マッケンローだ。ニアに繋いでくれ」
「了解しました」
椅子から立ち上がり、相変わらず床に転がっているニアに呼びかける。先日のことを根に持っているのか、そばに玩具を置いていない。
「ニア、マッケンロー捜査官から連絡です」
「わかりました。まわしてください」
ニアはレスターから電話を受け取ると、マッケンローの回線に切り替える。しばらく声をひそめた会話が続いたあと、通信が終わった。
ニアはレスターとなにやら密談したあと、あらためて指示を与えた。
それきり、ほかの捜査員には何も説明されない。情報の広がりを最小限にとどめるのは当然のことだ。だからだれも詮索したり、不思議に思うこともない。
しかし数日後、事態は一変する。日本の警察庁長官殺害のニュースが舞い込んだのだ。レスターの直属の上司であるCIA長官を招いて、緊急会議が開かれた。
ニアは発令室すべての捜査員をみまわしながら、説明しだした。ここまでくれば隠す必要はない。
「ここまでの経緯はこうです。日本警察は死のノートを保管していた。それを狙う何者かが警察庁長官を誘拐、人質に取り、ノートとの交換を図った。しかし長官はなんらかの原因で死亡。可能性は低いですが、無論犯人に殺害された可能性もないわけではありません。今後犯人はおそらく……」
そこで話は途切れた。CIA長官の携帯電話が呼び出し音をたてたためだ。
長官は携帯の液晶画面を一見するなり、ニアを見やって「非通知だ」と告げた。
ニアは軽くうなずき返したあと、
を振り返った。
「
、可能なら逆探知を」
「はい」
長官の携帯電話に器具を繋ぎ合わせ、逆探知を開始する。
長官が通話ボタンを押すと同時に、
の淡々とした声が響いた。
「発信元は偽装されているようですが、おそくら日本からの着信です。引き続き現在地の割り出しを試みます」
「……Lだ、いまの」
長官のニアへの耳打ちは、
の耳にも届いた。
途端、彼女は目に見えて狼狽しはじめる。キーボードを叩く手は徐々に遅くなり、ついには完全に停止してしまった。
「
?」
ニアは
の様子を不審に思ったが、彼女にばかり構ってもいられない。
長官から電話を受け取り、全捜査官の耳に入るよう通話をオープンにした。
「はじめまして、二代目L」
真実を知っているからこそ放てる発言だ。
そしてそれは
の胸中にも波紋を引き起こした。顔を覆って泣きはじめる。
心配したリドナーが、背中をさすりながら声をかけてきた。
「大丈夫?」
ニアは電話越しの相手に聞こえても構わないと判断し、声を抑えずに言葉を添えた。
「構いません、腐ってもLです。逆探知などできるわけがありません。せいぜい国名どまりです」
「腐っても、とはずいぶんな言いようですね」
「米国は現にあなたではなく、私を優先して動きます。……しかし、長官殺害はそちらにとって不名誉でしょうし、何より司法の権威に関わる重大な犯罪です。全面的に協力しましょう。現状は?」
機械を介したLの声がわずかに低くなる。不快なのを隠そうとはしないものの、話しぶりは淡々としていた。
『長官死亡確認後、夜神次長の娘が誘拐されました。犯人一味は彼女を新たな人質に取り、ノートとの交換を要求してきています』
「長官が標的になったというのに、警察関係者に被害が及ぶ可能性を考えなかったんですか?」
「……対策をと思ったときには、すでに夜神次長の娘が誘拐されていました」
「そうですか。私ならもっと早く指示を出しましたが、それはともかく」
そこで一度言葉を切り、残りをひと息に続ける。
「今後の捜査指揮はあなたにお任せいたします、L」
語末の一字、たった一文字のアルファベットが、
の心を掻き乱す。
通話が切れ、相手に聞こえる心配がなくなるのを待って、声をあげて泣きはじめる。椅子から落ち、みじめに床にくずれこんだ。それでもなお、悲しみから這い出すことができない。
室内のだれもが事態を把握できず混乱する中、彼女のつぶやきは静寂の重圧に押しつぶされそうだった。
「何が、二代目……。Lは、たった一人よ」
真っ先に動いたのはニアだった。
すばやく
を立ち上がらせると、捜査員たちの視線を振り切って歩いていく。
「レスター指揮官、何かあったらすぐ連絡を」
レスターの返事を待たず、ニアは発令室をあとにする。
途中、同行しようとしたリドナーに、ここで待つよう目で合図をおくった。
ニアは
を仮眠室に連れてきた。ここにはベッドのほか、医薬品を常備している。栄養剤のたぐいも充実していた。
ベッドに腰掛けて数分、
は平静を取り戻した。涙で化粧のくずれた顔を伏せ、礼を言う。
「申し訳ありません。今日という今日は、心底自分が嫌いになりました。勤務中に泣くなんて。……覚悟はできてたつもりなのに」
「何か、事情があるんでしょう? 気にしないで下さい」
「……はい。ありがとうございます。そう言っていただけると、少し楽になります」
は重ねて礼を言った。
奇妙な間が生じる。ニアはベッドの横に備えつけの椅子に座り、頃合を見計らってさりげなく事情をたずねた。
「Lの名を聞いた途端、ああなりましたが、ひょっとしてLとお知り合いなんですか?」
「……はい」
うなだれ、ときおり身をすくませる
をかわいそうに思わないわけではなかったが、ニアとしてはさらに細かく問い質さざるを得ない。しかし聞き方には神経を使う必要があると判断し、質問を練っているうちに、彼女のほうから口を開いた。
「……お話した婚約者。あれがLです」
「婚約、Lと?」
ニアは信じられない思いで聞き返した。
が答えないうちから、次の疑問をぶつける。
「どこでLと出会ったんですか?」
「帝東ホテルのロビーです。私は訪日していた他国の外交官への挨拶の帰りでした」
「どういう経緯で知り合ったんですか? Lのほうから気安く声をかけるとは思えません」
「声をかけたのは私からです。その……」
は言葉を濁らせたが、そうしていても切りがない。話を続けた。
「外交官と私のほうをじっとながめているので、スパイかと疑い、任意で尋問したのがきっかけです」
「Lを、尋問……」
「はい。後日、上司に呼び出されまして、権限もないのに、なんてことをしたんだと叱り飛ばされました。当然上司はLだとしらされていませんし、私も知る由はありませんでした。とにかく、海外の要人なんだと聞かされ、菓子折りを持って謝罪に行ったんです」
嫌な予感がする。ニアは眉間に皺を寄せながら、髪をしきりに触っていた。
「そうしましたら、Lのほうから、別に怒ってはいない、ただ会いたかっただけだと言われまして」
ニアの中で絶対視していたLの偶像にヒビが入る。
さすがに崩れ去りはしなかったが、自分の生活のすべてを放棄して、ただひたすら世のため、人のために頭脳を酷使し続けた英雄だと盲信していたせいで、ショックも大きい。
「それで?」
「数日後、今度は自宅に電話がきたんです」
「ストーカーじゃないですか」
「いえ、電話番号は教えましたので、かかってくることは考えられなくはなかったんです。休日に一度付き合って欲しいと頼まれまして、前回権限もないのに尋問した負い目がありますから、承諾したんです。会って会話すると、見た目も第一印象よりは素敵に思えましたし、何より知的で、私を好きでいてくれることがわかりましたので、また会う約束を」
ニアは手元に玩具がないため、しかたなく枕を抱え込み、それで遊びはじめた。
「何度目だったか……。ロンドンで会ったとき、仕事を続けてくれていい、私もこんな生業だから会いたいときに会えるわけでもない、それでも私とこうして会いたいと思ってくれるなら、結婚を前提に交際して欲しいと……」
床に枕が落ちた拍子に、ドスっと重い音をたてた。
もはや事実をそのまま受け入れるほかない。ニアは一応、物憂い声で確認した。
「その……交際を申し込んだときの文句は……」
「一字一句間違いありません。私も女ですから、こういうことは覚えてます」
「そうですか……」
女を口説くL。
ニアは半分欝になりかけながら、それでも頭の片隅では、ワイミーズハウスをおとずれたLの様子を思い出していた。
自分の頭を撫でてくれたあと、ロジャーにいつか会わせたい人がいると話していた。
あのころニアは子どもだったし、何よりそういった方面の発育は飛びぬけて遅かったので、気にも留めなかった。
「Lに婚約者がいても不思議はありませんね」
その言葉を自分に言い聞かせながら、
に話の先を促がした。
しかし彼女は気恥ずかしそうに視線を外し、膝元に移ろわせた。
「あの、この先は、ひどく個人的なことですし、できれば……」
「できれば、Lに関することですから、聞かせてください。私はLの後継者です」
はすばやい動作で顔を上げた。驚きのあまり瞠目している。
ニアは腰を下ろし、床に転がった枕を拾い上げると、もとの位置に戻した。
「正確には後継者候補、ですが。L本人による教育を受けたこともあります。しかしLが予想より早く他界したため、選定がままならないまま、いまは私が継承権を事実上持っています。というより、私のほかにいません。私がLの名を継ぎます」
はもう正気を失わなかった。小さく、けれどなんどもうなずきながら、ひどく満足げに微笑する。
「ええ。私もLから、Lを目指している大勢の子どもがいて、その中でも特に秀でた子どもがふたりいるという話を聞いたことがあります」
もうひとりはいまどこで何をしているのか。おそらくキラを追っているはずだ。バカな真似をしなければいいが。そうニアは思案をめぐらせた。
「きっとそのうちのひとりがニア、あなたなんですね。あなたなら、あんな偽者のLなんかよりずっと……。いえ、あなたにしか、Lの称号は継げない」
はベッドを降り、ニアと向かい合った。彼女の慈愛のこもった瞳に、ニアが映り込む。おずおずと手を伸ばし、ニアの両手を包み込んだ。そのまま徐々に力をこめ、揺るぎのない光を眼底から溢れさせると、断固たる口調で言った。
「どうぞ、Lを継いでください。新婦にも、未亡人にもなり損ねた女の願いです」
ニアは深々とうなずく振りをして、目を伏せた。胸元に痛みが走る。玩具を買ってやると彼女から言われたときに感じた悔しさに似た感覚だった。正体不明の感情に戸惑いながら、それでも努めて冷静を装う。
「任せてください。私はキラを捕まえ、Lを継承し、そして……」
そして。そう言ったものの、続きが浮かんでこない。確かにその先に述べることが、それも何より伝えなければならない話が待っているはずだ。
けれど、どれだけ思案をめぐらせても、言うべき言葉は見つからなかった。
やむなく、もっともらしい台詞にすり替える。
「そして、世界を一刻も早く目覚めさせます」
「はい。Lを愛した私と、Lを目指したあなた。私たちが出会ったのは、運命だったような気もします」
「運命……」
運命など存在しない。そんなものがあってたまるものか。それがニアの運命論に対する考えだった。
すべてがあらかじめ決められているというのは、敗者の、悪人の、そして自分の力で立ち上がろうとしない弱者の妄言に過ぎない。己の考え、判断、一挙一動が流れをつくり、未来を切り開いてゆく。それこそ人が人であるということだ。
一切が予定表に組み込まれているなら、人は自分の意志を持つ必要などなかった。この世はルーチンでも、プログラムでもない。
けれど、偶然とは思えない出来事に遭遇したとき、それを運命と呼んで、特別な意味があると信じたい気持ちが、いまならわかる気がした。
「そう……ですね。きっと、運命でしょう。私は、私やあなたの運命が明るいものであることを信じます」
ニアの同意に、
は嬉しそうに目を細めた。満足げにうなずいて、手を離す。
消えた温もりが惜しくて、ニアは無意識のうちに手を伸ばした。しかし、そこまでだった。
に触れはしない。それはなぜだか、禁忌か冒涜であるかのように思えた。
そんな考えがにわかに閃いただけで、ニア自身も理由はわからない。ただはっきりしているのは、いま
に触れてはならない点だけだった。
「……戻りましょう」
から目を外し、戸口へ進みだす。彼女の笑顔が視界から消えた、ただそれだけのことが、ニアに喪失感を抱かせる。
玩具への反発といい、
への恋しさといい、自分が何を考えているのかさっぱりつかめず、彼は小さな頭を二、三回軽く振った。
癖のある髪が、わずかに揺れる。額にたちこめる霧は、しばらく晴れそうになかった。